私は、電波塔で、孤児になった。
11年前の、電波塔事件。私はあの日、電波塔真下の、お土産屋さんにいた。
後日の資料によると、あの日の爆発は三回あったらしい。一回目は電波塔周辺、二回目は電波塔内部、三回目は電波塔本体及び基部。それぞれの場所に前日から設置されていた爆薬が、時間を置いて爆発したという。
一回目は、多くの人を殺すため。人通りの多い商業区画を中心に、施設の破壊よりも人体の破壊を狙った、広範囲の爆発。
二回目は、電波塔に突入したテロリストたちを排除するために駆けつけた、対テロ戦闘組織の兵士たちを返り討ちにするための、トラップ用の爆発。
三回目は、電波塔の倒壊を狙った爆発。爆発の規模はこの三回目が一番大きかったという。
効率よく人間を殺し、効率よく塔を破壊する、効率の良い爆破。これを考えた人は、よほど頭が良かったのだろうなと思う。どんな人物だったのだろう、もし生きているなら、聞いてみたい。このテロを考えた時の気分を、聞いてみたい。このテロが成功した時の気分を、聞いてみたい。罪のない多くの人を効率よく殺せた時の気分を、聞いてみたい。聞き終わったら、私の手で殺したい。今から死ぬのはどんな気分かを聞きながら、殺したい。
三回の爆発によって死んだ一般市民は、九百人以上。その数字の中に、私の家族がいる。
おとうさん、おかあさん、おにいちゃん。みんな死んだ。最初の爆発の標的となった商業施設内、多くのお土産が売っていた場所で、死んだ。
あの日、お土産が、散乱していた。
チラシや包装紙が、散乱していた。棚や展示物、お店の飾りが、散乱していた。
いまも、お土産が、散乱している。
チラシや包装紙が、散乱している。棚や展示物、お店の飾りが、散乱している。
まったく同じだ、同じ光景だ。ということは、私はいま電波塔にいるのか、いまは11年前なのか。
違う! 私は叫ぶ。目の前の幻覚を追い払うかのように。背後から迫る過去を追い払うかのように。
それでも私の目には、幻覚が見え始める。目の前の光景、潰れて散ったお土産たちが、あの日のことを想起させるトリガーとなり、過去へといざなう。
私は、散らばっている土産物たちから、目を逸らす。これ以上は見つめることができない。湧き上がる恐怖心から逃げるかのように床から目を逸らし、館内の奥を見る。
逃がした視線の先には、床以上の惨劇が待ち構えていた。
店内の奥にあるカウンター、その近辺には、三人のヤクザが居座っている。
一番目立つのは、レジ前の待機コーナーでふんぞり返って立っている若いヤクザ。
体格はあまりよくない、というより貧相だ。低い背に鍛えていない身体、ヤクザ者らしい派手なシャツとパンツが見事に似合わない、貧弱な小男。
体格が貧相なら顔つきも貧相だ。知性のない間延びした顔は、人というよりサルを思わせる。野生の凶暴性をむき出しにした目も、サルっぽさを際立たせている。頬や首筋、むき出しになった腕全体に彫られている刺青が、ますます彼を人間から遠ざけた見た目にしている。格好をつけて彫ったはずの刺青が、まるで動物の毛並みの模様のように見えるのが、ますます彼のサルっぽさを際立たせている。
そのサルは今、レジの前で長いナイフを片手に持って立っている。ナイフ片手に、私を見ている。暴力に酔ったサルが、汚い歯をむき出しにして私を見ている。ここは動物園なのだろうか。心が過去に捕らわれそうになっている切羽詰まった状況下であるにも関わらず、わたしはその滑稽な姿を見て、思わず苦笑してしまう。
そのサルの隣には、黒服の大男。いかにもヤクザといった黒いスーツに黒いネクタイ、そして黒いサングラス。笑ってしまうほどの、テンプレスタイル。鍛えた体に羽織るダークスーツ姿は一見様になっているが、よく見るとスーツの生地はかなりくたびれている。東京在住の某ブランドデザインプロデューサーは、かつて寝る時用のスーツがあるのではと噂されていたが、この男は実際に、この黒スーツを着て毎日就寝しているのかもしれない、そう思えるほどのくたびれようだ。
スーツはさておき、この男の身体はくたびれてはいない。隣で威嚇する貧相なサルに比べ、腕の太さから姿勢、背丈に体格、隙の無さ、すべて異なっている。日々鍛えているのだろう、隣のサルと近いのは年齢だけで、そのシルエットは全く対照的だ。
おそらくこの黒服は、他の二人の護衛役。若手ながらも、ヤクザ組織の中ではかなりの猛者なのだろう。三人のヤクザの中では一番の脅威。しかも不味いことに、この男、懐に拳銃を忍ばせている。
その二人の若いヤクザ、サルと黒服の後ろで、一人の老人ヤクザが座っている。高級そうな生地でしつらえた紋付き袴を身に纏い、レジ横にある宅配業務用の机の上に腰を下ろし、周囲を見下している。
老人と言っても、顔の皺以外は年齢を感じさせないほど、精気みなぎる肥えきった姿。暗く濁った眼の奥で光る鈍色の刃のような輝きが、まだまだ彼の寿命は長いと告げているかのようだ。
怠惰と暴食、そして一般市民の不幸を脂肪に変えたその体は、動くのも億劫そうだ。おそらくこの老人は、観光ビルに乗り込んでから、すぐ今の場所に腰を下ろしたのだろう。そして若い部下二人が暴れる様を、汚らしい笑顔で眺めていたのだろう。
何歳ごろから失ったのだろうか、品性と品格が全く見当たらない濁った顔、この老いた男もまた、人というよりサルに見える。大型の類人猿に見える。
よく見れば、この老人が若いヤクザと同じ種類のサルに見えたのは、どうやら偶然ではないようだ。貧相な若いヤクザの、間延びした痩顔。太った老人ヤクザの、肥えた丸顔。顔の輪郭が違うので一見しただけでは気がつかなかったが、この二人は、同じ系統のサル顔だ。どうやら若い方のヤクザは、紋付き袴の老人ヤクザの孫のようだ。
老人ヤクザの顔を見た瞬間から、私の脳内にある犯罪者データベースが検索を始めている。DAが収集した反社会的組織の構成員、海外の諜報組織の関係者、そして単独犯罪者たちの顔写真は合計21万6千人。私たちリコリスは、本部分校の区別なく、これらの顔写真を全て暗記している。週ごとに各支部に送られる追加情報によって常に更新しながら、いつでも記憶の海から探し出せるよう訓練されている。
脳が該当する顔写真を取り出すまでにかかった時間は、5秒。下っ端サードリコリスなら、まずこの程度だろう。
この太った老人は、ヤクザ集団、
この世界のこの国のヤクザ組織は、数名程度の小さな組が寄り集まって、一つの大きな組織を作っている。還城楽組と呼ばず、還城楽グループと呼ばれるのはそれゆえだ。小さな組が納める、小さなアガリを集めて成り立っているこの国のヤクザ組織。集団で暴利を貪るのを好むヤクザたちが、このような細かく面倒な体制で我慢しているのは、ひとえにDAを恐れるが故だ。
あまりに組織が大規模化すると、謎の暗殺者組織と敵対することになる。その暗殺者組織の構成員の手にかかれば、どのような大きな組でも一晩で壊滅する。ヤクザたちの間で以前から口伝えで広まっていたその噂は、4年前に北関東と南関東の広域暴力団が消滅した事件によって現実のものとなった。この日以来、謎の暗殺者組織を恐れたヤクザたちは、自分たちの組織を進んで解体し、小さく生きることを選択する。国家の平和を乱すような大きなシノギはせず、社会の安全を脅かすような大きな抗争はせず、世の中の裏に隠れて密かに生きることを選択する。
真島が裏社会に大量の武器を供給し、裏社会全体を扇動するまでは、分散して社会の片隅で身を縮めていたヤクザ集団。還城楽グループも、その一つだ。
こいつらのグループは、どれだけの組で構成されていたか、今の総員は何名だったか考える。私たちリコリスの脳内には、反社組織や海外諜報組織、そしてヤクザ組織の構成と総人数もインプットされている。それらの記憶が綴られた頁を、私は頭の中で開こうとする。
脳内に印刷されたかのように強く記載され記入され記録された記憶の頁、それをめくる心の指が、止まった。
ヤクザたちの足元近く、壊れ荒らされた室内設備が散乱する床に、何名かの売り場係員が座り込んでいるのが、視界に入ったのだ。
男性3人に女性5人。身長も体格も違う大人たちが、レジ横の片隅で固まっている。
立っている人は一人もいない。ある人は倒れ、ある人はうずくまりながら、全員が壁際で身を寄せ合うようにして小さくなっているその姿は、あまりに弱々しく、痛々しい。
この人たちは皆、一階のお土産コーナーの係員のようだ。諸咲の海の色を模した制服を着たこの方々は、ヤクザが乱入してからこれまで、一歩も逃げずに、必死に対応していたのだろう。精も根も尽き果て、床に伏しているその姿を見るだけで、ヤクザたちのこれまでの横暴が、どれだけ酷いものだったかがわかる。
誠意をもって、ヤクザたちの暴挙を諫めようとした係員たち。しかし、係員たちの誠意は、ヤクザたちの心には響かなかったようだ。ショバ代欲しさに、これまでも散々脅迫まがいのクレームをつけに来ていたような連中だ。誠意という人間的な概念は、元から理解できなかったのだろう。
何度も深く頭を下げ、退去をお願いする売り場係員たち。ヤクザにとっては、何があっても決して反撃をしてこない係員たちは、生きたサンドバックのように見えていたはずだ。言葉を荒げず、敬語で懇願する係員たちに、最初は言葉で攻めたて、次は拳で殴りかかるヤクザたち。それでも理不尽な暴力に引くことなく、係員さんたちは必死に耐え続けたのだろう。
その心の強さは、相当のものだ。しかしヤクザたちは、その強さを理解できなかったようだ。反撃してこないのは、弱いから。その程度にしか感じなかったのだろう。
ヤクザやチンピラは、弱い相手にはどこまでも強くなる。どこまでも残虐になれる。限度のない暴力に晒された係員の方たち、ひどいケガは負っていないだろうか。
私は、8人の大人たち一人一人を見る。ヤクザから目を離すのは危険だったが、それよりも係員たちの負傷程度が心配だ。
3人の男性係員は、何度も素手で殴られたようだ。二人は顔を押さえて座り込み、一人は腹を押さえて倒れている。
未だ痛みは引かないようだが、3人とも顔色はそれほど悪くない。顔を殴られた二人は、顔面こそひどく腫れているが、殴打の際に歯が折れたり頭部を床に打ちつけたりはしていなさそうだ。腹部を殴られた一人も、内臓破裂などの損傷はなさそうに見える。
5人の女性係員も、男性ほどではないが、全員が一二発程度は殴られている。男性係員ほどのダメージはなさそうだが、殴られたショックがまだ尾を引いているのだろう、全員が体を震わせて座り込んでいる。
女性係員の被害状況を、一人一人目で追う私。その視線が、ある女性の前で止まる。
その女性係員は、顔面から多量の血を流していた。
20歳くらいだろう、可愛らしい顔の人だ。パートに入りたての新人のようだ。もしかしたら、アルバイトの地元大学生かもしれない。
その若々しく可愛らしい顔が、引き攣っている。痛みに耐えながら、恐怖に耐えながら、左頬を押さえ、震えている。
頬を押さえた指の間から、血が流れている、流れた血が手の甲を濡らし、腕から滴り落ち、床のタイル地に小さな血の池を作っている。
血はまだ流れている。等間隔を置いて落ちる血の雫が、観光ビル係員の制服を赤く染める、花柄を模した床のタイルを血に染める。
血は止まらない。鮮やかな赤色が、噴き上がるかのように流れ続ける。これは切られた傷だ、ナイフによる創傷だ。
候補生時代、何度も見て来た刃物による刺創切創。どの場所をどのように切られれば、人はどのように流血するのかを、私たちリコリスは学んでいる。座学だけではない、訓練時の怪我、生虜相手の実験、路上訓練中の喧嘩などもまた、出血についての知見を数多く与えてくれた。
その知識と経験から、推測する。血の流れ具合からみると、頬を斜めに10センチほど切られている。口内からの出血は見られないので、深さはそれほどでもないようだ。おそらく、ヤクザが威嚇のために振り回したナイフの刃先が、運悪く顔に当たり、頬が切り裂かれてしまった、そのようなところだろう。
流れている血の量は多いが、失血死するほどではない。早めに治療を受ければ、命に別条はない。問題はない。
しかし、問題はある。その後に、問題がある。
これほどの長さの刃物傷。完治しても、傷痕が残るのだ。
まだ若い女性の顔に作られた、刃物傷。この傷は、いま流れている血の痛みよりも、その傷が未来に残す痛みのほうが、はるかに長い。生涯に残る顔面の傷、彼女がこの先の人生において背負い続ける心の痛みは、今の肉体的な痛み以上に辛いものだろう。
自分の顔に付けられた傷、その意味を理解しているのだろう。彼女の目は、今の痛みよりも、将来の絶望を見つめている。昨日までは、可愛らしい笑顔で接客をしていたであろうその顔は、今は歪み引き攣っている。もしかしたらこの人は、今後二度と笑顔になることはないのかもしれない。
力の無い手で頬を押さえながら、今にも気絶しそうになっている彼女を、一人の中年女性が後ろからしっかりと抱きしめている。絶望に倒れないように、希望を失わないようにと、しっかりと背後から支えている。
仕事仲間を気丈に支えるこの女性。私はこの人を知っている。
あのおばさんだ。たまに巡回中に話しかけてくるおばさんだ。今朝私に話しかけて来たおばさんだ。
今日は午後から、諸咲観光ビルでパートなのよと愚痴っていたおばさん。おそらくこの災禍に巻き込まれているかもと思っていたが、その予想は的中した、的中してしまった。
私とお話ししていた時は、元気で明るかったおばさん。しかし今は、その闊達さは微塵もない。
サル顔か黒服か、どちらかの若いヤクザに殴られたのだろう、顔面の左側が痛々しく腫れている。少し前までは、止まることなく話し続けていた口は、今は痛みと恐怖のため、固く閉ざされている。
延々と続いた恫喝と暴力に、気力を削がれたのだろう。震える脚は座り込んだまま動かすことすら出来ず、怯えた顔面は、今にも気を失いそうなほど血の気が無い。
それでもおばさんは、頬を切られた若い女性係員を、必死で支えている。彼女が世界に絶望しないように、彼女の心が闇にさらわれないように、その両肩をしっかりとつかんでいる。もしまたヤクザが彼女に向けて刃物を振り回すような動きがあれば、自分が身をもって盾になろうとしている。
震え竦みながらも、視線はサル顔のヤクザが持つ刃物から目を離さないおばさん。その視線が、私を見た。
正面入り口から入り込んできた私を見て、おばさんは驚いたようだ。しばらく呆然と私を見つめるおばさん。少しの後、その目線が険しくなる、ほんの少しだけ、おばさんの首が左右に振られる。
スギナちゃん、逃げなさい! おばさんは、そう言っていた。目線で、そう伝えて来た。
意外だった。
このおばさんは、私を警察学校の生徒だと勘違いしている。おばさんが子供の頃に見た、大の男たちを苦もなく倒した学生刑事の直系だと思っている。
そのおばさんが、私に逃げろと言った。まだあなたは子供だから、逃げなさいと伝えて来た。
パート仲間の若い女性を庇い、道端の話し相手の子供を逃がそうとするおばさん。一発殴られただけで、足が震え立てなくなるほど弱いのに、それでも自分より年下の他人を助けようとする、どうしようもないほどのお人よし。
本当にどうしようもない。どうしようもないお人よしだ。
しかし、この人はただのお人よしではない。立派なお人よしだ、強いお人よしだ。
この人は、立派だ、そして強い。暴力によって心を折られてもなお、他人を助けようとすることができる、立派な人だ、強い人だ。
このおばさんだけではない、ヤクザが乱入し暴れても、一歩も引かず必死に応対した売り場係員さんたちも、皆立派な人だ。この方たちは、ヤクザたちが乗り込んできた際、自分の身の安全よりも店内にいた観光客の避難を優先した。そして真摯な対応で、ヤクザたちに退去をお願いした。暴力を振るわれても、非暴力を貫いた。
真の強さとは、このようなことを言うのだろう。立派な大人とは、このような人たちのことを言うのだろう。事件解決に向けビルの外で動いている職員や警官の方々、ビルの中で売り場を守った係員の方々、そしておばさん。いま私の周囲にいる大人たちを、私は尊敬する。心から、尊敬する。
そのような立派な大人たちが掲げる誠実という名の
他人を好き好んで痛めつけ傷つけるような奴は、人間ではない。他人の心を無造作に踏みにじり嘲笑うような奴は、人間ではない。私はDAで、そのように教えられた。
人にとって、社会にとって、害にしかならない連中。DAが教えてくれた、排除すべき連中。そのような連中を見るのは、今だけではない。私は過去に、このような連中を何度も見ている。任務中に何度も見ている、訓練中に何回も見ている。そして、11年前、電波塔の下で見ている。
爆発により負傷した観光客に、笑いながら銃弾を撃ち込むテロリストたち。親の死体の前で泣き叫ぶ幼児の頭に、笑いながら銃弾を撃ち込むテロリストたち。一回目の爆発煙がまだ充満する商業区画で、互いに競い合うかのように死体を量産しているテロリストたちの笑顔を、私は冷たくなったお父さんの身体の下から覗いていた。
壊され荒らされた、お土産売り場。
床に散乱する、土産物や包装紙。
店内で倒れている、善良な市民たち。
その人たちに更なる暴力を振るう、悪人たち。
一緒だね。11年前と、一緒だねと、背中から声がした。
ああ、もう来ていたのか。
ヤクザや店員さんたちに意識を向けていたわずかな隙。その隙を逃さず、背後から迫っていた過去が、背中に貼りついた。冷たく笑いながら、肩に手を乗せて話しかけてきた。
ああ、もう来ていたのか。
突然、世界の輪郭が曖昧になる。
ああ、もう来ていたのか、と私は絶望する。
ああ、逃げられなかった、と私は絶叫する。
頑丈に囚われてしまった、厳重に捕らえられてしまった。
私の心が、後方に倒れ込む。過去に導かれるように、過去に誘われるかのように、後方へと沈み込む。
視界が暗くなる。
全てが朧げになる視界の中、私はもう一度目を館内の奥に向ける。ヤクザに新たな動きはないか、係員さんたちに新たな被害は出ていないかを確認する。世界と意識が消え去ろうとしているにもかかわらず、最後までターゲットから目を離さないのは、リコリスとしての本能というよりは、諸咲の皆を守ろうと誓った私の使命感からだろう。
ぼやけていく視界の中、サル顔の若いヤクザが、似合わないサングラスをかけた黒服ヤクザに向けて何か話しているのが見えた。サル顔の話を聞き終えた黒服ヤクザが、一礼して私の方に向けて歩き出す。どうやら、サル顔のヤクザは組でもかなり上の立場のようだ。そのサル顔の姿を見て、離れた場所で座り込みながら気色悪い笑みを浮かべる還城楽グループの親分ヤクザ。黒服に命令を出しているサル顔ヤクザの姿を満足そうに眺めているところを見ると、やはりこの二人は血縁関係なのだろう。
力強い歩き方で、私の方に向かってくる黒服ヤクザ。武道か格闘技の経験があるようだ、鍛えられた体幹、隙の無い歩き方、何気ない動作の一つ一つから、力と強さが滲み出ている。還城楽グループの親分とその孫を守る護衛役、実力もかなりのものなのだろう。
その黒服が、私の前で立ち止まる。伸ばした腕が、相手にわずかに届かない程度の距離。打撃戦の間合い。
殴られるな、と意識の片隅がつぶやいた。その言葉と同時に、私の顔面に、男の拳が跳んできた。
左足に体重を乗せ、右腕を大きく水平に振り、固めた拳で私の左頬を撃ち抜く、容赦のない殴り方。相手をなぎ倒すかのように振られた腕が生み出す、遠心力を活かした重いパンチ。ボクシングで言う、右フックだ。
単発でもKOを狙えるほどの重爆パンチ。この黒服の男は、一切の容赦もなく、私の顔面を殴った。全身の力を込めて、殴りつけた。
心が過去に捕縛されているため、私の身体は咄嗟には動かなかった。そのため、回避動作をとることもできないまま、この一発を食らってしまった。
私は男の顔を見た。男は笑っていた。パンチ一発避けることのできない素人、観光ビルの係員たちと同じ、挌闘の素人だと思ったのだろう。背の高い大男は、私を見下し、嘲笑っていた。嘲笑しながら、低い声で私に語りかけた。
「失せろ」
その声は、愉快気だった、楽し気だった。
この修羅場を止めようでもしたのか、のこのことビル内に入って来た少女。そいつに一発喰らわせた、その後に、簡潔に命令した。ただ一言、失せろと命令した。
これこそが男らしい行為だ。これこそがヤクザらしい行為だ。これこそがカッコいい行為だ。さあ泣き喚いて逃げろ弱者ども。お前たちのような弱い奴らに、躊躇なく容赦なく暴力を振るう事ができる人間こそが、この世で一番強いのだ。
暴力に心酔している男の笑み、その歪んだ口角が、そう言っていた。そのような本心が、表情に出ていた。
ああ、この大男は、今までこういう風に生きてきたのだな。今日もこういう風に、観光ビルの売り場係員たちを殴っていたのだな。
これまでも、話し合いによる解決を求める多くの善良な人たちを、初手で一発殴りつけてきたのだろうな。これが格好いいと勘違いしながら、殴り続けてきたのだろうな。
恥ずかしい奴だ。
本当に強いのは、非暴力の人たちを殴りつけることではない、暴力に震えながらも、それでも対話を求める勇気こそが真に強いのだ。
人を簡単に傷つけることができる輩など、本当は強くはない。暴力でしか物事を解決できない、ただのクズだ。ヤクザもチンピラもテロリストもリコリスも、みんな揃って、ただのクズだ。
暴力など持たずとも、それでも強い人たちを、私は幾人も見た。
ヤクザの横暴を、殴られても切られてもなお続け止めようとした、売り場係員さんたち。
顔を切られた女性店員を抱きしめ、次は身をもって盾になろうと構えているおばさん。
被害の拡大を防ごうと、ビルの外で走り回っている駐在所のお巡りさん、そして町役場、商工会、商工会議所の皆さん。
半月前、家に怒鳴り込んできたチンピラにコーヒーまで出し、最後まで説得を諦めなかった弐豊町のご主人。
11年前。危険を顧みず、未だ爆煙残る電波塔に乗り込み、私を助けてくれた救助隊の大人たち。彼らの半数は、その後の崩壊に巻き込まれ殉職したという。
そして、お父さん。
電波塔での一回目の爆発、その時お父さんは、私をかばってくれた。爆発から私を守り、死んだ。
みんな、強い大人たちだ。みんな、強い心の大人たちだ。
これほど強い大人たちが、何故傷つかねばならないのだ。何故悩まねばならないのだ。何故死なねばならないのだ。
暴力に訴えるだけしか能のない、ただのクズ。
こいつらはなぜ、いつも私の前に現れるのだ。諸咲観光ビルでも弐豊町でも諸咲の海岸でも電波塔でも。
なぜお前たちはいつも荒らすのだ。11年前と同じように、同じお土産屋さんを。
お前たちはまた来たのか、また爆弾でも仕掛けに来たのか、また建物を破壊するのか、また私の大事な人たちを殺すのか。
心の中で、私は叫ぶ。世界の理不尽に、抗議する。
叫ぶたびに、過去に倒れ込み弱り切った私の心に、強い感情がこみ上げてくる。
何かはわからない。地の底から湧き上がるような激情が、全身を駆け巡るのを感じる。
私は前を見る。目の前には、ニヤついている黒服の男。人を傷つけ、楽しそうに笑っている男の顔。
ああ、あいつだ。
あいつと、同じ顔だ。
電波塔の中で、観光客を乱殺していたテロリスト。
こいつの笑みは、あの時のテロリストたちと、同じ笑みだ。
こいつは、あいつだ。あいつは、こいつだ。
黒服の男の顔と、電波塔で見たテロリストの顔が重なった。
激情が、爆発した。
その時。
店内が、明るくなった。
窓から、光が差し込んだ。
四方八方、大窓小窓、一階にあるすべての窓から、光が差し込んだ。
陽の光ではない。今日は曇り空だ、台風前の曇天だ。
輝いているのは、空ではない。
輝いているのは、電波塔。
ここ最近、侵入症状と関係なく現れていた、電波塔の幻。今回は、諸咲観光ビルの周囲に何棟か出現したようだ。光薄い曇り空とはいえ、昼間の光量をはるかにしのぐ、電波塔の激しい光。おそらくビルの外では、本物より半分程度の大きさの電波塔が、直立する白熱灯のように輝いているのだろう。放電のような閃光をまき散らしながら、ビル目がけて幻の光を照射しているのだろう。
繧繝彩色の朧な世界を直線で切り破る裂帛の光彩。その眩しさが、私の心が薄暗い過去に戻るのを食い止めた。
光だけではない。私の背中で、多くの人の気配を感じた。多くの人が、背中に貼りついた私の過去に手を伸ばすのがわかる。
あまりにも多くの人だ、あまりにも多くの手だ。気配しか感じないが、確かに背後にいる多くの人の手が、私の背中を押している。過去に戻るな、前に進めと、押している。
後方にある過去へと倒れ込もうとする私の心が、前方に押し戻される。少しずつ、少しずつ。ゆっくりと、ゆっくりと。
侵入症状を押しのけようとする黒い手。トラウマの闇を彼方に追いやろうとする電波塔の幻光。
私はそれが、その状況が何なのか、分からなかった。その力が何なのか、分からなかった。黒い手、強い光、それらが何を意味するのか、分からなかった。
何が何だかわからないまま、私は押し上げられる。強い力の奔流によって、過去から今へ、押し上げられる。
何もかもわからないが、とりあえず助かった。過去の事件現場に似た風景という、侵入症状のトリガーとしては、あまりに強烈な状況下から、何とか立ち直ることができた。
電波塔はまだ外で光っている。背後には黒い何かがまだ蠢いている。それでも正気に返った私は、すぐに現在の状況を再確認する。何秒かはわからないが、私は眼前の黒服ヤクザから目を離してしまったのだ。
私の視線が、黒服ヤクザのサングラスの奥に隠された目を射る。侵入症状に侵される前とは違う、怜悧な視線。本部卒リコリスの冷たい視線で、相手の目を射貫く。
私の視線に晒された男の顔からは、笑みが消えていた。代わりに貼りついているのは、不思議そうな顔。
何か信じられないといった顔で、私を見ている。私の頬を見た後、先ほど殴った右手に、視線を落としている。
そのおろおろとした動作で、私は男の考えていることが理解できた。
この大男は、信じられないのだ。全力で放った右フックを食らった私が、倒れていないのどころか、あまりダメージを負ったようにも見えないのが不思議なのだ。自分が妄信している暴力が、まだ十代前半の私に通用していないのが不思議なのだ。
なんだ、そんなことかと、私は内心ため息をつく。電波塔の光のおかげで、ため息をつく程度の余裕が生まれたようだ。
私たちリコリスは、殴られ慣れている。
リコリス候補生としてDA本部に送られたその日から、何度も何度も殴られ続けているため、体が顔面への殴打に順応しているのだ。寝起き直後に不意に殴られても、意識が飛んでいる時に殴られても、殴られ慣れているがために、本能的に身体が最適な防御態勢を取ってくれるのだ。殴られた力に逆らわず、打撃をずらし回転を利用し力を流す動きを、体が無意識にしてくれるのだ。
教官から、指導員から、同僚から、日常のあいさつ代わりかのように毎日殴られていた私たちリコリス。避けることも逃げることも出来ない日々の殴打に対して、私たちは適応することで乗り越えて来た。おかげで私たちリコリスは、顔面への殴打によって永久歯を折られるようなことはなかったし、適当に鍛えた程度の一般人が放つパンチ程度ならば、歯が欠けたり口内を切ったりするどころか、頬を腫らすようなダメージすら受け取ることはないのだ。
ありがとう、と私は黒服のヤクザに笑いかける。
お前のおかげで、侵入症状から立ち直ったよ、お前の下卑た笑い顔が、過去から這い上がるきっかけとなったよと、感謝の笑みを送る。
その私の笑顔が、挑発に見えたのだろう。男はまた、右拳を握り、大きく振り被る。
また同じ攻撃か。また同じ軌跡か。打撃技はコンビネーションで攻めないと、反撃されやすくなるぞと、私は心の中で忠告する。言葉には出さない、教えてやる義理もないし。
半歩前に出て、殴りかかる男の右手首を左手の手刀で打つ。右拳に手刀を押し付けたまま、半円を描くように下に降ろす。
急に落ちた自分の拳に引きずられるように、男の身体の重心が落ちる。思わず数歩前によろめく大男。私はその男の身体をすり抜けるようにかわすと、背後から男の膝裏を軽く蹴る。
踊るような動作で前に進む大男。姿勢を立て直す間もなく、男の身体が私の背後にあった自動ドアにぶつかる。
ぶつかった音は大きかったが、自動ドアは破損しなかったようだ。顔面をぶつけうずくまるヤクザの目の前で、自動ドアが静かに開く、出て行けと言わんばかりに、ゆっくりと開く。
自動ドアに顔を打ちつけた衝撃で、サングラスの中心のブリッジが曲がってしまったようだ。パッドが広がり鼻先までずり落ちたサングラスを投げ捨て、ヤクザが立ちあがる。
怒りに震える大男、目を血ばらせて私を睨む大男。私はその血走った眼を見つめながら、一言語りかける。
「失せろ」
男の顔が、憤怒に歪んだ。怒りによって波打つ顔の皺、殺意によって剥き出しになった歯列、その表情は、もはや人間ではなかった。
これほどの悪相だ、すぐに殴りかかって来るだろう。そう予測していたが、男はその場所から動かず、私を見つめている。
何が見えているのだろう。しばらくの間、男は立ち合い前の力士のように、今にも襲いかかるかのような気迫を見せながらも、じっと私を見ている。
あまりにじれったいので、私が先を取ってやろうと思い始めた時、男が小さな声で尋ねた。
「てめえ……なんなんだ、その後ろの連中はよぉ!」
ああ、そのことか。
以前弐豊町でも出て来た、このことか。
私の背後にいつのまにかいた、黒い影。
黒い頭、白い目。
千に足らない九百数十の、黒い影。
ああ、心配いらないよと、私は黒服ヤクザに語りかける。
囁くように、唄うように、ゆっくりと、語りかける。
親友なんだ。
この人たちは、昔からの、私の古い親友なんだ。