その時のその私のその言葉。あのとき、なぜ私の口から、親友などという言葉が出たのかは、今でもわからない。
しかしあの時は、親友という言葉が、私の背後で蠢く何かを表現する言葉として、最も適切なものに思えたのだ。
古い親友。
自分の口から出たこの言葉を、自分自身が理解するまでは、まだ長い時間が必要なのだろう。
これから私は、長い時間をかけ、この言葉の意味を考え続けるのだろう。
「何わけのわからねえこと言ってやがる!」
黒服ヤクザの怒りが、更に高まる。私が一言喋るごとに激昂するヤクザ。会話によるコミュニケーションが、全く成立していないこの状況。ヤクザというものは、本当に愚かな奴らだ。もっとも、彼が怒っている原因の何割かは、私が説明下手であることにも起因するのかもしれない。背後で蠢動する超常現象について質問したのに、お友達ですの一言で片付けられては、納得できかねるのだろう。怒り出す彼の心情も、何となく理解はできる。
このまま嚙み合わない会話を続けて行けば、このヤクザは憤りを溜めた末に、勝手に頭の血管が切れて自滅するかもしれない。それもいいかもしれない、楽でいいかもしれない。
しかし、今回の任務はターゲットを殺すことではない。一般市民がドン引きしない程度に痛めつけて、観光ビル内から追い出すことである。勝手に死んでもらっては困る。
とりあえず、あまり興奮しないように、産卵中のスナガニの真似をして相手をなだめる。
「ふざけやがってええぇ!」
ますます怒った。逆効果だった。
ヤクザの右拳が、一直線に私の顔面に飛ぶ。後ろ足に重心を込め、腰から肩へ体重を移しながらの一撃。ストレートパンチだ。
ろくろく構えもせずに放った拳撃だが、スピードも威力も十分、体重もしっかりと乗っていて、ダメージも十二分。武術経験のある人でさえ、逃げることも出来ずに食らい、昏倒するだろう見事な奇襲。
挌闘界でも裏社会でも、立派に通用するであろう一撃。しかし、私には通用しない。リコリスには通用しない。
顔面に伸びるヤクザの拳を左への体移動で避けながら、突き出た相手の手の甲を左手で包み込むように押さえ、半歩踏み込む。
片手で押さえた右拳を外側に捻り、ヤクザの体勢を崩す。手首と肘の関節を極められ、湾曲にのけ反るヤクザの身体を、地面に転がすように片手で投げる。本来ならば、もう少し高い位置から直下に崩し、頭部を地面に叩きつけて殺すのだが、今回は背中から落ちるよう、落下エネルギーを回転エネルギーに変えるよう、調整しながら優しく投げる。
死なないように、転がすように、遠慮と配慮の気持ちを込めた小手返し。与えたダメージは少なかったが、投げられた男の動きは派手だった。黒髪に黒靴に黒スーツに黒パンツ、すべて黒で揃えた大男は、黒い球となり床の上を数回転。潰れたお土産が散乱する床を、ボウリング場のボールのように転がり続ける。
ボールが目指すピンは、店内奥に突っ立っているサル顔ヤクザ。上手くストライクを取れるかと思ったが、その手前で回転エネルギーが尽きたらしい、尻を上に向け、ボールから人の姿になる黒服ヤクザ。レーン上にボールが止まってしまった場合は、ガター扱いなのだろうか。私たちリコリスは、ボウリングなどやったことが無いので、その辺りのルールはよくわからない。
打撃を受け流されたのも、姿勢を崩され投げられたのも初めてなのだろう。床に丸まったまま、不思議そうな目で私を見る黒服ヤクザ。ただの小娘が、俺に何をしたんだ? と言いたげな視線だ。今この男は、私に聞きたいことだらけだろう。お前はいったい何者なのだ、お前はどうやって俺を投げ飛ばした、そしてお前の背中で蠢く黒い影は何なんだ。そのような疑問で頭がいっぱいなのだろう。
何一つ答えるつもりはない。初手から対話ではなく殴打を選ぶような連中に、答えてやるつもりはない。今のお前にくれてやる言葉は、ただ一つ。
「失せろ」
呆然としていた黒服の顔が、再び怒りの朱墨に染まる。先ほど私に向かって吐いたセリフを、二度もマネされたのだ。粋がって吐いた決め台詞を、二度もパクられたのだ。心底馬鹿にされた、そう感じたのだろう。
そうだよ、お前が感じたとおりだよ、理解してくれて嬉しいよ。
私の言葉一つで、大の男の表情がくるくる変わるのが面白い。もう一言、なにか話しかけてみようかと考えた時、黒服ヤクザの背後から大きな声がした。
「いつまで寝ておる霞ヶ関ぃ! 男見せんかあ!」
年老いてなお脂ぎった大声、ドスの効いた一喝。
レジ横の机に腰を下ろし、若手二人が暴れているのを眺めて楽しんでいたサル顔の老人ヤクザ。太った体に高級そうな紋付き袴を纏った、いかにもヤクザの大親分といった貫禄あるその姿。
すぐさま起き上がり、私に背を向け総組長に深々と頭を下げる黒服ヤクザ。
ヤクザ組織は完全な縦社会だ、上の命令、ましてやトップの言葉は、絶対なのだろう。
今まで対峙していた私を置き去りにしたまま、頭を下げ総組長に詫びる黒服ヤクザ。この命に代えてもこの小娘を始末するだの、組と親分にこれ以上恥をかかせないだの、空虚な誓いを延々と述べる黒服の言葉が、私の耳に入って来る。
大の男が、小娘一人始末するのに命を賭する方が組の恥だと思うよと、背後からツッコミを入れようとした時、ヤクザが振り向いた。
怒りの顔ではない。目が座った、本気の顔だ。
口は閉ざしている。私の背中のことは、もうどうでもいいようだ。
身体はやや半身、右拳は顎の前、左拳は目線の前、軽く顎を引いた姿。先ほどまでとは違う、隙の無い姿。
膝でリズムをとる軽いステップで、静かに私の前に迫る。先ほどのフックやストレートの技法から見て、ボクシングの経験者だと推測していたが、どうやら当たりのようだ。
打撃の間合いの少し手前まで来ると、リズミカルなステップインとバックステップを繰り返す。この男は足を使って、私の間合いを探っているのだ。
素早く軽やか、それでいて重心は崩さない見事な動き。背の高い大男が、今にも殴り掛かりそうな構えのまま、じりじりと間合いを詰めてくるのは、かなりの圧迫感がある。
すでに男は、自分の拳が私に届くまでの距離まで迫っている。ステップインごとに、男の身体によって押し出された風が、私の顔を撫でるほどの、近い距離。
平均的な少女の腕の長さでは、届くことの無い距離。しかし大きな男の長い腕ならば、十分に届く距離。それでも男は、慎重に間合いを測っている。かつて二回も私に手首を取られ、投げられたのを忘れていないのだ。
やがてバックステップに、左右のターンが組み合わさる。私の眼前で、前後左右に動く男の身体、速度を上げるフットワーク、来る。
ワンツーからの左フック、見事なコンビネーション。しかし距離がある。素早く繰り出されたジャブ、ストレート、フックの三連打は、私の鼻先で空を切る。
私の姿勢を崩すためのフェイントだ。拳圧に怯み、重心を崩した私を、必殺の次撃によって殴り殺すための見せ太刀だ。
しかし私は、男のパンチの間合いはすでに把握している。踏み込みの距離、腕の伸びの距離、全てを認識している私は、陽動に動揺することなく、その場に立つ。片足を軽く前に出した体勢のまま、両手を下げ、男の動きを五感で観察する。
続いてワンツー、そしてツーの二連打の後に左アッパー。これも全部フェイントだ。しかし最後のアッパーだけ、わずかに距離が近い。隙あらば喰らおうとする。攻撃的な牽制。
男の足が、半歩下がる。下がった位置から、男が左でジャブを繰り出す。
またしてもフェイント、距離が足りず、目の前で止まる左拳。しかしその拳は、握られていなかった。大きく開いた手、大男の大きな手のひらによって、私の視界が遮られた。
この男、喧嘩慣れしている。私は驚嘆した。
彼が繰り出したこれまでの連撃は、すべてこのためだったのだ。同じフェイントに見せかけ相手の視界を瞬時遮断、強制的に隙を作りだし必殺の次打を撃ち込む。さすがは総組長の護衛役だ。
どれほど強い人間でも、突然視界を遮られれば狼狽する。たとえ一秒でも視覚を奪われれば、動揺による隙が出る。相手の視界を遮るワンツー、単純だが、考え抜かれたフェイントだ。しかし、その程度ではリコリスには通用しない。私はこれまで、男の動きを、目だけではなく五感を駆使して観察していた。そのおかげで、男の意図は最初から見抜いていた。それゆえに、うろたえるようなことはない。
視界を塞ぐため、男が手のひらで繰り出したジャブ。その風を切る音が、今までのパンチの音と異なっていたのを、音感で気付いていたのだ。手を開いて打ったパンチの風圧が、握った拳の風圧と異なっていたのを、触感で気付いていたのだ。
男の掌紋しか見えない世界の中、男の鋭い呼吸音が聞こえる。右拳が風を切って唸る音が聞こえる。
全力を込めた、右ストレート。伸ばしていた左腕が勢い良く引かれ、視界が回復する。その視野をまた遮るように迫る、巨大な右拳。
腰と肩の捻りを十分に活かした、鋭く重いパンチ。まともに喰らえば、軽い私など簡単に吹き飛ぶだろう。折れた歯を空中にまき散らしながら、簡単に宙を舞うだろう。
電波塔が光る。壮麗壮観なる七色七彩の無上光で輝きながら、悲鳴のような幻光をもって私を照らす。
心配するな、電波塔。
私は、学んでいる。こういう時、どうすればいいのか、8月の夜のあの海岸で、先輩の実演から学んでいる。
あの夜、頭部を狙って一直線に走る7.62mmトカレフ弾を、紙一重で避けた先輩の動き。狙われている箇所は頭部だと予測していた上でとはいえ、トリガーを引かれてからの回避という人間離れした動作を可能とした、DA独自の特殊な身体操作法。
これまでにない速さで、眼前に迫る右拳。私はその凶塊から目を離さないまま、両膝そして腰の関節から力を抜く。
それは、あの夜の風待先輩と同じ動き、先輩と同じ回避方法。
身を屈めるより素早く、身を倒すより垂直に、私の上半身が真下に移動する。体の中心軸は乱れずに、上半身はそのままに、私は重力を利用して、男の身体の下に潜り込む。
部分脱力によって得た、重力や遠心力といった肉体以外の力を利用して加速する特殊な動作術。本部リコリスは皆、この身体操作法を身につけている。関節ごとに脱力と緊張を使い分けることで、私たちは常人の目には止まらないほどの速さで四肢を動かすことができるのだ。
私の頭上から、男の拳が通過する音が聞こえる。特急電車が通過したかのような風音、そして風圧。頭頂部の髪の毛が、刃のような風圧によって数本持っていかれる。拳以上の速さで身を沈めることができなければ、まともに顔面に当たり、頭蓋骨にひびが入っていたかもしれない。
しかし、どれほどの剛拳でも、あたらなければ無意味だ。虚しく空を切る右拳、男の目には、私の身体が突然消えたかのように見えただろう。
膝や尻が地面に落ちる寸前、力を抜いていた各関節に力を込める。曲げた両足が、脱力状態から緊張状態に瞬時に切り替わる。男の足元に屈みこんだ姿勢で、私の上半身が停止する。
目の前には、男の両足。左足を前に出し、右足に力を込め、大きく足を開いたストレートパンチ特有の体勢。
私は身を屈めたまま、膝行のような素早い体捌きで半歩分前に出ると、男の左前足の太腿裏に右手を差し出す。
右手のひらで太腿裏を真下から強く叩く。左手で男の左足首を掴み、大きく捻る。重心を崩す男の左足に私の右肩を乗せ、持ち上げるように投げる。
台湾心興社禽鷹拳の掴技、落嚢。本来ならば手のひらで叩く場所は太腿裏ではなく、技名の通り陰嚢なのだが、そこまでダメージを与えるとしばらく立ちあがれなくなるので、あえて急所は避けて転倒させるにとどめる。今回の任務は、ターゲットを自分の足で逃走させるのが目的なのだ。
殺意のある相手を、殺さずに手加減しながら制圧する。面倒な任務だと思う、殺した方が早いと思う。本当にそう思う。
私の背中にいる黒いなにか達も、そうだそうだと同意してくれているようだ。11年前のテロリストたちのような顔をした相手、お土産屋をあの日の現場のように荒らした相手など、殺してしまえと言うかのように蠕動している。
それもいいかな。私は立ちあがり、床に這いつくばった黒服ヤクザを見る。面倒だ、殺したい、そのような視線を、無様に横たわるヤクザに送る。
私の視線を感じたヤクザの顔が、恐怖に歪む。彼はやっとわかったのだ、私が手加減していたことを。
霞ヶ関! 早く立たんか! と店の奥から老人ヤクザの声がする。
そんなガキ、殺してしまえ! とサル顔の若いヤクザの声が続く。
しかし、黒服ヤクザは、なかなか腰を上げない。
立ちあがれないのは、痛みからではない、骨が折れているわけでもない。
折れているのは、心。もはやこのヤクザは、心が折れているのだ。
三回も投げられた。自身が持つボクシングテクニックは、この小娘に全く通用しなかった。
それだけではない。この少女は手加減をしていた。売り場係員という観客の目が無ければ、自分は即座に殺されていた。そして今、目の前の少女は、この猿芝居を早く終わらせたいがために、自分を殺そうかと思い始めている。
何者だ、この小娘。
自分よりはるかに鍛えられた技量。命の奪い合いに慣れているかのような余裕。そして、その背後に浮かぶ、漆黒の千手千目千頭のなにか達。
「抜けよ」
怯えた目で私を見る情けない姿の大男に、私は語りかける。
カッコつけている場合か? このままじゃ負けるぞ。ほら、後ろのお二人も応援しているぞ、がんばれ、霞ヶ関。
「どうした? 抜けよ」
懐にあるだろ。一発逆転の必殺兵器が。
どれだけ鍛えたのか、どれだけ自信を持っていたのかは知らんが、お前のボクシングは、私には通用しない。
だから、抜け。
私は、目線で男を煽る。視線で、男に圧をかける。
屈辱に顔面を歪める黒服の大男。憤激によってできた深い皺、赤い顔。あまりに皺が多くなりすぎたため、人間らしさが消え失せたその顔は、山奥に棲み人を喰らう、伝説の化け猿のように見えた。
ああ、こいつらは全員サルだったのか、三匹のサルが人に化けて、筑波山から下りてきたのかなと私の思考が牧歌的な空想物語へと移行しようとした時、黒服の男はいきなり立ちあがった。
大猿のような吠え声をあげ、懐に手を入れる大男。
脇に吊り下げたナイロン製のショルダーホルスター。拳銃をロックするマジックテープ製ストラップを引き千切るかのように剥がし、男はホルスター内の拳銃を抜く。
電波塔の閃光、ビルを取り囲み窓から店内を照らしていた大純白の光芒が、男の手の内に握られた凶器を照らし出す。11年の時を跨ぐ光線で、男の手の内にある大罪玩具を照らし出す。
白昼をさらに白色となす極光を浴びた拳銃。しかしその灰色味をわずかに残す黒色の鉄肌は、光をほとんど反射させることなく男の手にしっかりと握られる。リン酸と第一リン酸塩による表面処理、パーカーライジングによって表面に形成された被膜が
もはや人殺しを躊躇しない、もはや武器を使うことを躊躇わない、そのような暗い決意を暗い眼光に込めた男は、暗い色をした拳銃のスライドを
私の安い挑発に、我を忘れかけていた男の顔が、横幅が異様に狭いスライドから高らかに響く金属音を聞いたと同時に、恍惚の表情へと変わる。新たな力を得た興奮、強い力を得た歓喜。先ほどまで弱々しい怯えの光が灯っていた眼は、今は凶暴なヤクザの眼に戻っている。暴力の世界で生きる人間特有の、光の無い眼。リン酸塩皮膜処理がされた拳銃の色と同じ、光を拒絶する深く暗い色の眼。
男は両手で拳銃を握り、腰だめの体勢で銃口を向ける。
あるいはこのヤクザ、射撃経験が浅いため、基本的な銃の構え方を知らない、もしくは照星と照門を使った撃ち方が苦手なのかもしれない。自分の拳に絶大の自信をおいていた男だ、腕力さえあれば武器など不要と、これまで射撃訓練を怠っていたのかもしれない。
もっとも、今ヤクザが懐から出したこの拳銃は、妙に横幅が薄く腰高なので、最初のうちはなかなか手になじまないタイプの銃なのだ。射撃訓練をサボりたくなるのもわかる気はする。
今私の眼前に銃口をのぞかせているこの拳銃は、チェコスロバキア製のオートマチックピストル、Cz52。数字の通り1952年にチェコ軍正式となった、古い古い冷戦期の拳銃。おそらくは去年から急増している、旧東側から横流しされた密輸武器の内の一丁だろう。
作動システムにローラーロッキングを採用するなど、内部に様々な特徴を持つ拳銃だが、外部から見た一番の特徴は、その横幅の狭さだ。
こうして正面から見ると、その特徴がよくわかる。なんだか平べったいのだ、なんだか薄いのだ。
側面からみると重厚そうなのに、正面から見ると上下に細長い不安定な姿。魚類に例えると、マンボウのような拳銃なのだ。
だが、形がどうあれ、正真正銘の拳銃だ。引き金を引けば弾丸の出る、本物の軍用拳銃だ。油断はできない。男を煽っていた私の表情が、緊張で固くなる。
その表情の変化を、怯えと受け取ったのだろう。男は私を更に脅すため、両手に握った拳銃を、私の胸元を刺すかのように腕を伸ばし突きつける。
私が手を前に出せば、銃身を握ることができそうなほどの近距離。互いの息遣いが聞こえるほどの距離で、私と男の動きが止まる。
一階フロアの動きも、すべて停止している。店内奥に居座る残り二人のヤクザも、床に倒れている係員さんたちも、全員動きを止め、私と黒服ヤクザを見つめている。もしかしたら、私の背後にいる黒い影たちも、動きを止めて私を見つめているかもしれない。
店内を満たす緊迫の時間。店内を照らす金箔の幻光。
緊張が最大まで高まったその時、男が雄叫びを上げた。
男が構える拳銃、その引き金に力が加わるのと同時に、私は銃身に手を伸ばした。