我ら本部リコリスは、火器戦闘の巧者。
我ら本部リコリスは、銃器全てを知る。
我ら本部リコリスは、防弾装備を有す。
故に本部リコリスは、銃如きを恐れず。
目の前の男が私に向けて構えている銃、Cz52は、チェコスロバキア人民軍の制式拳銃だ。Cz社のチェコ語マニュアルによると、全長211mm、重量1040g、そして銃身長は120mm。使用する弾薬は7.62mmトカレフ弾、装弾数8発。
軍がこの拳銃を採用していた期間は1952年から1982年まで、それ以降は、Cz82にその座を譲っている。冷戦期という緊迫した時代に、30年もの長きに渡り制式拳銃であり続けたのが、この拳銃の性能と信頼性を物語っている。
しかし、軍内部での好感度はいまいちだったようだ。シングルアクション撃発だったのが好まれなかったのか、サイズに起因する携帯性の悪さが好かれなかったのか、それとも横幅の薄さが気に入られなかったのか、現場では小型でダブルアクション内蔵のCz50やCz70が多く使われていたらしい。
制式武器として大量生産されながらも人気があまりなかった、少し可哀そうなこの拳銃。誰の手にも触れられないまま、長い間保管されてきたのだろう。冷戦が終わったのも知らずに、新型で高性能な後続が次々開発されていったのも知らずに、半世紀の間、寒くて暗い倉庫の片隅で、多くの仲間たちと共に眠り続けてきたのだろう。
長きに渡る惰眠、ワルシャワ条約機構統一軍の一翼であるソビエト・チェコスロバキア連合軍の一武器として、隣接する第六親衛諸兵科連合軍のマカロフたちと轡を並べ、アンベルクからニュルンベルク、そしてライン川までたどり着く壮大な夢を見続けている間に、この拳銃は軍の倉庫から横流しされ、日本にたどり着いた。そして今、田舎の港町でヤクザの手に握られ、私の胸元に銃口を突き付けている。
もしこの拳銃が目覚めているとしたら、今の状況をどのような目で見ているだろうか。製造当時には考えもしなかった場所と状況におかれた己の身に驚いているだろうか、それとも嘆いているのだろうか。
素手の戦いで、散々私に叩きのめされた黒服ヤクザ。心が折れ、立ち上がることすらできなかったこのヤクザは、目に冷たい光を灯したまま、わずかに笑っている。知性と理性の無いサルのような顔で、笑っている。
この男は、嬉しいのだ。強者弱者の力関係が、拳銃を手にしたことで逆転したことが嬉しいのだ。
愚かだな、と私は思う。
実際は、拳銃程度では、力関係は逆転しない。拳銃を突きつけた程度では、ヤクザと本部卒リコリスとの力関係は覆らない。
私たち本部卒リコリスは、拳銃程度で怯むことはない。防弾防刃繊維製の制服を着ているのだ。防御用エアバッグ内蔵のサッシェルバッグを背負っているのだ。
7.62mmトカレフ弾程度ならば、数発喰らっても戦闘に影響はない。弾丸を胴体に浴びながら前進し、投げ技や蹴り技で勝負を決めることは容易い。
とはいえ、できれば撃たれたくはない。国家最高技術の粋を集めた防弾防刃繊維とはいえ、衝撃までは吸収してくれないのだ。だから当たると痛いのだ。
着弾時の衝撃で、胸骨や肋骨が折れるかもしれない、制服に包まれていない腕や頭に当たるかもしれない。避けることができない距離のため、心配事は多い、更に心配なのは、この銃が軍の横流し品だということだ。
密輸拳銃は、たいていは弾薬とセットで売りさばかれている。拳銃が軍の倉庫から持ち出されたとすれば、弾薬も同じ倉庫から一緒についてきた確率は高い。
軍から流出した
M48弾と呼ばれる軍用弾薬は、通常のトカレフ弾より火薬が多いのだ、通常のトカレフ弾より2割程度強力なのだ。弾頭重量が重く、初速が早いため、あたるとすごく痛いのだ。
まあ実際に当たれば、たとえプリンキング用の22リムファイアでも痛いし、リコリスの制服を貫通することを目標に作ったという改5.8mm穿甲弾のような拳銃用徹甲弾でないだけましなのだが、それでもM48弾は、当たりたくない拳銃弾の上位に位置する。
もっとも、今は撃たせる気はない。男が一回でも引き金を引けば、この事件はただの騒動から発砲事件に格上げされてしまうからだ。
しかし、今回私は、あえて男に拳銃を抜かせた、拳銃を突きつけさせた。男が自分から銃を手にするよう仕向けた。
男の眼光が更に暗くなる。引き金に添えた指が動く。
もはや男に躊躇は無いようだ。自分をコケにした少女を撃ち殺す。親分の前で恥をかかせた小娘を撃ち殺す。心臓を撃ち抜き、小さな体から大量の血液を噴出させる。ヤクザに歯向かったことを後悔させながら、足元にできた血の海に沈めてやる。もはや人では無くなった男は、突如獣の如く叫び出す。自身を鼓舞するための絶叫。悲鳴のような大声とともに両腕の力を込め、グリップパネル全体を手のひらで隠すかのように構えた拳銃をさらに力強く握りしめる。
引き金が引かれる直前、私は一歩前に踏み出し、男が握る拳銃の銃身に手を伸ばす。
伸ばした左手で拳銃のスライド部分を上から握る。親指で横側面を、残り四本の指でもう片側を押さえる様な握り方。本棚に立てかけてある本を、指で軽く摘まんで取るような握り方。
力を入れ、銃を体の内側の方に少しだけ斜めに傾ける。こういう時、横幅が狭い銃は倒しやすい。厚みがないため摘まみやすいし、腰高のため傾けやすいのだ。
私が軽く銃を傾けたと同時に、引き金に力が籠められる。私の小細工を、男は完全に無視していた。銃口の向きは変わらないまま、銃自体を少し横に倒されただけなのだ、握りにくくはなったが、この程度ならば拳銃は壊れない、変に抗うよりも引き金を引くのを優先したほうがいい。射線に狂いはない、弾さえ出れば、当たりさえすればこの少女は死ぬのだ、男は咄嗟にそう考えたのだろう。
弾は、出なかった。
男の顔面に浮かぶ凶相が消え、茫然とした表情になる。威嚇する獣のように開いた口が、驚きの形に変化する。
なぜ弾が出ない。小娘が軽く斜めに倒しただけだぞ。故障か。様々な疑問が男の脳内に湧いているのが、手に取るようにわかる。
故障ではない。手品でもない。私は操作しただけだ。
操作したのは、安全装置。
Cz52の左側面についているマニュアルセフティは存外に軽いため、持ち方によっては誤操作が発生する。ストライカー式の特徴である、発射の反動による銃身の跳ね上がりを防ごうと、無意識のうちにグリップの最上部まで覆うような握り方をしてしまった場合、人差し指と親指の間の部分がセフティに触れ、弾丸が発射できなくなるのだ。
何度か拳銃を撃ったことがあれば、誰でもわかる稚拙なトリック。しかし、射撃訓練を怠っていたこの男には、その簡単なトリックがわからないようだ。理由が全く分からないままに、ついには疑問符を付けた視線を私に投げかけてくる黒服の男。
教えてやる気はない。頭に大きな疑問符を浮かべたまま、床に這いつくばれ。私は男が両手で握っている拳銃の左手側に、自分の右手のひらを叩き付ける。
自分の左手は銃身を握ったまま、右手だけで男の両手をリストロック。銃の位置を動かさないまま、身を屈め左脚を軸に半回転、男と同じ向きになると同時に、男の両腕を担ぐように左肩に乗せ、倒れるように前方に引く。
ロックされた両手に意識が向いていた男は、私の背中に密着するかのように前に倒れる。重心が浮いた男の身体を腰に乗せ、重ねた両腕を逆手に担いだまま、肩越しに投げ飛ばす。
男の両肘が折れる音が、耳元で響く。男の両手首が脱臼する音が、手元で響く。
私の腰を中心に、正円の軌跡を描き縦回転する男。本来なら頭頂部から床に落としとどめを刺すのだが、今回の任務は殺すことではない。そのため落とす際に両手首は離さずに、背中から落ちるよう高さを調節する。
両手を離さず切り下ろしたため、頭を打ちつけることなく背中から着地した大男。しかし、脱臼した手首を最後まで掴んだまま投げたため、男の腕に与えられたダメージは相当のものだった。
靭帯が全て断裂した両手首は、異様なほど伸びきっている。おそらく腱も神経も血管も切れ、皮だけでつながっている状態なのだろう。右手はまだ拳銃を握った状態だが、神経が分断された手は、もはや指一本動かすことはできないようだ。
両腕の肘も、普段見ることの無い方向にねじ曲がっている。関節の緩んだ人形のような腕になった男は、もはや起き上がることも出来ず、仰向けに転がったまま呻いている。
激痛によって溢れる涙に潤んだ眼は、もはや何色をも宿していなかった。ヤクザとしてのプライドを全て奪われた末の、虚無の色となっていた。
不意打ちで殴っても効かなかった。
鍛えたボクシング技術で挑んでも敵わなかった。
拳銃を出しても勝てなかった。
どのような手段も、どのような暴力も、この小娘には通用しなかった。
オレは、強くなかった。
オレは……
男の心が、折れた。
折れた瞬間の音が聞こえたかと思うほど、完全に折れた。
かわいそうだ、とは思わない。私は、この男の心が折れるよう、あえて挑発し続けてきたのだ。挑発に挑発を重ね、自分の手で拳銃を取り出すよう仕向け、そのうえで男の心にとどめをさしたのだ。拳銃をもってしても、敵わない相手がいる。そう教え込ませたのだ。
今私の眼下で呻き悶えるこの男は、もはやヤクザとして立ち直ることはないだろう。今後二度と、善良な人々を殴りつけることはないだろう。
もっとも、手首がチューインガムのように垂れ伸びるほどの損傷を負ったのだ、もし治ったとしても、人を殴るほどの力はもはや無いだろう。私は冷静に男のダメージを見つめながら、右手に持っている拳銃を引きはがすように奪い取る。
トリガーガード上の分解ボタン近くの刻印を確認する。
もはや骨董品レベルの旧共産圏の拳銃、おそらくは真島グループの手によって密輸された銃火器のうちの一丁だろう。これをDAに渡せば、どのようにして日本に密輸され、どのようなルートで還城楽グループの手に渡ったのか判明するかもしれない。去年、本部附の最精鋭リコリスたちの強襲によって壊滅した武器密輸商が残したデータには、密輸した銃器のシリアルナンバーが全て記録されていたという。本部のコンピューターに、そのデータとこの拳銃のシリアルナンバーを照合させれば、販売履歴や移動履歴など数秒で解明されるだろう。
真島が全国にばらまいたとされる千丁の銃火器は、都内で見つかった数十丁を除き、いまだそのほとんどが行方不明らしい。もしこの拳銃がどのようにしてヤクザの手に渡ったのかが判明すれば、裏組織への散布パターン解明の手掛かりにもなる。真島の残した牙をへし折る一歩目の発見、もしかしたら大手柄かもしれない。
貴重な証拠品であるこのオールドガンを、私は背中のサッシェルバッグにしまう。とりあえずこの場で使うつもりはないが、その辺に置きっぱなしにしていると、ヤクザたちに奪われるかもしれないと警戒したのだ。もっとも、今私の足元で身をよじらせている黒服ヤクザは、手首が砕け拳銃など握れない状態なのだが。
そして店の奥にいる残り二人のヤクザ。彼らもまた、拳銃を取り戻そうという気力は失っているようだ。組で一番強かったであろう大男を、何度も何度も投げ飛ばした私を見て、戦意を失っているようだ。
「オヤジ……なんなんだよお。いったいなんなんだよおあいつらぁ」
か細い声で、背後に座る親分ヤクザに語りかけるサル顔の若ヤクザ。その両足は震えている。体も震えている。両手に持った細身のナイフの先も震えている。
私が自動ドアをくぐるその直前まで係員さんたちを恫喝し、大声を張り上げ植木鉢を投げ、店内のお土産を踏みつぶし陳列品を破壊しただけでは飽き足らず、手にしたナイフで若い女性店員の頬を切り裂いた、暴虐非道のサル。そいつは今、私を見て怯えている。私が倒した黒服ヤクザと同じ目に合うのではと、怯えている。
そうだよ、その通りだよ、同じ目に合わせるつもりだよ。私は輪郭が二重に見えるほど震えているサル顔ヤクザに向け、ゆっくりと歩を進める。
「オヤジイィ! た、助けてぇ!」
「黙れ! 長楽! てめぇそれでもワシの息子か!」
サル顔ヤクザの背後に座った親分ヤクザが、同じようなサル顔を怒りに歪め叱りつける。店中に響く一喝。若いヤクザの震えが止まるほどの、威厳の籠った重い声。
「長楽! てめえも若頭なら、ここで男見せんかい! 刺し違えても、命奪ったらんかい!」
「でも……オヤジ」
「命奪えんのなら、ワシがお前を殺すぞ! 男みせんかぁ長楽!」
顔つきからして血縁だと思っていたが、やはりその通りだった。孫だと思っていたら息子だったのは意外だったが。
血を分けた実の息子。この年で若頭ということは、次期総組長候補なのかもしれない。それほどかわいがっていた愛息に、命令を聞けないのなら殺すと脅すところは、さすがはヤクザグループの親分といったところか。
その言葉に、親分ヤクザの本気を知ったようだ。若猿ヤクザは表情を変えると、ナイフを腰だめにして私と対峙する。
目つきが、段々と変わっていく。ヤクザとして育てられた以上、親分の指示には逆らえない。そのような悲壮感が、彼を動かしているようだ。
捨て身になった敵の相手は、面倒だ。とりあえず私は、これ以上サル顔ヤクザが興奮しないように、産卵中のスナガニの真似をして相手をなだめる。
「ふざけやがってええぇ!」
ますます怒った。逆効果だった。
ならば次は茹でられるワタリガニのモノマネでもしようかと考えた時、サル顔ヤクザが、私目がけていきなり走り出した。感情の昂りを原動力に突撃する、捨て身の攻撃だ。
策などない、無謀の特攻。相打ち覚悟の、鉄砲玉。
ろくに鍛えていない、貧相な小男だが、人間一人分の体重を込めた突進の破壊力は侮れない。しかし私はその場から動かず、弾丸と化したサル顔ヤクザを迎え撃つ。
私が動かないのを見て、突撃刺殺の成功を確信したのか、サル顔ヤクザの脚が更に早くなる。サルのような甲高い絶叫を上げ、身を丸めて迫る小男。腰だめに持ったナイフが、幻覚世界にそびえ立つ電波塔の光りを浴びて白く輝く。
私は男との間合いを測りつつ、スカートの脇を両手でたくし上げる。室内を満たしているエアコンの風が、露出した太腿に当たる。
サル顔ヤクザが、迫る。ナイフが、光る。
刃の先端が砂色の制服を貫く寸前、私は飛び上がった。
スカートの両端を握っていた手を空中で離し、男の両肩に乗せる。
むき出しになった両脚を大きく水平に広げ、男の頭上を跨ぎ飛ぶ。自分の跳躍力に加え、男の肩を土台にして飛ぶ、跳び箱のようなジャンプ。
両腕に力を込め、男の身体を発射台代わりに、更に上へと飛び上がる。観光ビルの天井が頭を擦りそうになるほどの、高い跳躍。お土産売り場が一望できそうなほどの、大きな飛翔。
くるりと空中を一回転、両足をそろえて床に立つ。スカート履きのまま両足を大きく広げたジャンプは恥ずかしかったけど、フォームは最後まで完璧だった。候補生時代はあまり好きではなかった跳び箱運動。社会に出て役に立つことなどないと思っていたが、案外使う機会もあるものだ。
私が感慨に耽っていると、背後で男の悲鳴が聞こえた。
振り返る。目に入ったのは、背後の壁に頭を打ちつけ、昏倒しているサル。その周囲には、宙を舞う色とりどりのチラシや包装紙たち。
紙片だけではない、床に落ちていたお菓子やプラスチック製の人形の破片といった、軽い残骸も男から逃げるかのように飛び散っている。そのうちの何点かは、ホコリとともに私の足元にまで落下してきた。
そのうちの一つ、プラスチック製の人形の小さな首が、私の足元に転がって来た。
人形の目と、私の目が合う。
その目を見た途端、サル顔ヤクザがなぜ私の背後で昏倒しているのか、その理由が手に取るように理解できた。もしかしたら、頭部だけとなったお人形さんが、私に教えてくれたのかもしれない。人形と人間、立場こそ違えど、共にお土産屋さんで不幸な目にあった仲間同士、通じるものがあったのかもしれない。
このサル顔は、私が頭上を飛び越えた時に、意識が上を向いていたのだ。上を気にし過ぎていたため、足元を疎かにしていたのだ。
男の足元には、五色豪華な色彩のチラシや包装紙。天井を見上げて足を動かしていた男は、その一枚に足を滑らせた、そして崩れた姿勢を直すことも出来ず、前へ前へと突進する勢いを止めることも出来ず、そのまま壁に激突したのだ。
顔面を痛打したようだが、意識はまだあるようだ。ぶつかった壁に向けて土下座しているような格好で、痛みに震えるサル顔。鼻血でも出ているのか、床に小さな血だまりができている。顔面を押さえ這いつくばるその姿は、弱々しく痛々しいが、慰めの言葉をかけてやる気にはならない。むしろ土下座のような姿で高々と持ち上げているその尻を、思いっきり蹴り上げてやりたいくらいだ。
とりあえず、このサルが持っていたナイフを回収しておこうかと、うずくまり震える男の下に歩み寄ろうとした時、背後で悲鳴が上がった。中年女性の、甲高い悲鳴。
しまった、まだ一人いた。
何もできない老人だと思って、注意を怠っていた。
私はあわてて振り返る。
そこには、いつの間にか立ち上がっていた老人ヤクザが、床に倒れていた女性係員をひとり捕まえ、裏口に移動しようとしている姿があった。
恐怖に足が震える中年女性を無理やり立たせ、左腕で首を抱えるように絞め、右手に持った短刀をこめかみの横に突きつけている老人ヤクザ。若いころから荒事の経験を積み重ねたのだろう、老いたとはいえ、その動きには全く隙が無かった。
床に倒れている他の係員たちが、悲鳴をあげている。助けようにも体が痛みで動かない、恐怖で体が動かない。その無力な己への、絶望の悲鳴だ。
そのうちの一人が、絶叫とともに泣いている。売り場係員さんたちの中で、一番若い女性だ。ヤクザに頬を切られた女性だ。
その絶叫で、私は理解した。
今老人ヤクザに捕まっている中年女性は、この若い女性の身代わりになったのだ。老人ヤクザが若い女性を連れ去ろうとするのを、その身を挺して庇い、結果自分が人質になってしまったのだ。
絶望に沈まないよう、若い女性の近くでその身を支えていた中年女性。私はその人を知っている。その人と何度も話したことがある。その人は……
「スギナちゃん!」
羽交い絞めにされた姿で、私に向かって叫ぶその女性。やっぱりだ、やっぱりあのおばさんだ。
巡回中、よく私に話しかけてくるおばさん。話し終えると、飴玉をくれるおばさん。私たちリコリスを、どこかの学生刑事だと勘違いしているおばさん。
「スギナちゃん!」
おばさんが、叫ぶ。来ちゃダメよと、叫ぶ。
「動くんじゃねえぞガキィ!」
おばさんの顔に突きつけた短刀を、力を込めて握る老ヤクザ、還城楽グループ総組長、
その声と同時に、一歩前に出ていた私の足が止まる。老ヤクザの声に身が竦んだわけではない。このヤクザが、本気だと気がついたのだ。
私が少しでも前に出れば、このヤクザは本気でおばさんを刺す。必ず刺す。それがただの脅しでないことは、老ヤクザの暗い眼が証明している。
「散々コケにしやがって! てめえのようなガキが還城楽グループに逆らったらどうなるか、わかってんだろうな!」
肥え太った老人とは思えないほどの毅然とした立ち姿は、おばさん一人抱えた状態でも揺るぎない。紋付き袴の懐に隠し持っていたのだろう、厚みのある短刀は少しも震えることなく、鋭利な切っ先をおばさんの顔に突きつけている。
私はそっと、足を数センチ前に出す。
老人ヤクザの暗い眼が光る。人質に突きつけた刃が、数センチ顔に近づく。
だめだ、動けない。この老人、隙が無い。
敵を前にして、近づく事ができない。
人質になったおばさんを、助けることができない。
銃を抜くか。いやダメだ。リコリスは人前で銃を抜けない。
サッシェルバッグに入っているナイフを投げるか。いや、おばさんに当たる危険がある。
何かないか。一歩も前に進めないこの状況で使える、安全な飛び道具のようなものはないか。
「スギナちゃん! こういう時こそ!アレを使うのよ!」
なにか昔の思い出が閃いたのだろうか。片手で羽交い絞めにされているおばさんが、妙に高揚した声で叫ぶ。
「ヨーヨーよ! ヨーヨーを使うのよ!」
持っていません!