後日、風待先輩に尋ねてみたところ、ヨーヨーを武器として使っている支部もあるわよと教えてくれた。
神奈川南部から静岡東部にある支部のうちのいくつかには、金属製のヨーヨーが代々受け継がれ、今でも実戦で使用されているらしい。
昭和のDAが作ってくれた特注品。側面の蓋を開けると、中には
しかし実際の使用方法は、ヨーヨーを投擲して敵を倒すのではなく、ヨーヨーの紐を使って背後から敵を絞殺するのがメインらしい。
なんか残念だ。この世の中には、ロマンはないのか。
「動くんじゃねえぞガキィ!」
人質を取り目の前に立つ、肥え太った老人ヤクザ。還城楽グループ総組長、
年に似合わない大きな声が響くたびに、上階に続く階段から引き波のような音が響く。一階の様子を見に来た観光客が、慌てて上に逃げていく足音だ。
諸咲観光ビルは、鮮魚売り場や郷土資料室、喫茶店に食堂、そして休憩所を兼ねた展望室などが各階に配置された、5階建ての総合観光施設だ。今日は台風前のため、それほど客は入っていないが、それでも多くの人たちが逃げ遅れたまま上階に取り残されている。
ヤクザたちが乗って来た黒い車が裏口に停められているため、裏の非常階段から脱出するのをためらっているのだろう。上階のお客さんたちは、車内が無人とは知らないまま、その場に留まり続けることを選択している。いずれヤクザたちは立ち去るだろう、誰かがヤクザを追い出すだろう。一階から立ち昇る不安と恐怖の影に怯えながら、そう信じてとどまっている。
いま私が守らなくてはならないのは、上階のお客さん、一階の係員さん。そして―
「そのカバン、捨てんかいコラァ!」
「スギナちゃん!」
組長ヤクザに羽交い絞めにされ、喉元に短刀を突きつけられた、係員のおばさん。いつも私に話しかけてくれる、地元のおばさん。
私はこのおばさんを、守らなくてはいけない。傷ひとつ付けることなく、組長ヤクザの手から救わねばならない。
しかし、どうやって。
「カバン捨てろぉ! 聞こえんのかぁ!」
老ヤクザの声が、次第に高くなる。興奮のため体が震えているのが、紋付き袴の上からでもわかる。
「ガキが! 早くカバン捨てんかい! そこから一歩も動くな、動くんじゃねえぞ!」
重みと威厳のあった怒声が、次第に甲高くなっていく。感情を露わにした、悲鳴めいた絶叫、どうやらこの老ザルも、私と同じで今の状況に内心焦っているようだ。
もともとこの老人は、護衛役の黒服ヤクザが倒された時点で、一人逃走しようとしていたらしい。もう一人の部下である若猿ヤクザに私を殺すよう命令し、二人が戦いあっている隙にこのビルをそっと出て、裏口に停めた車で逃げようと考えていたのだろう。
若猿ヤクザは、この老人の息子だ、将来の跡継ぎ候補だ。その愛息を囮にして、自分だけ無事に逃げようとしたのは、さすがヤクザだ、人間のクズだ。
この姑息極まりない策の唯一のミスは、自分の息子があまりにも弱かったことだ。
脅し言葉で鉄砲玉に仕立て上げたのはいいが、敵目がけて突進したこの若猿ヤクザは、私が軽く避けただけで自分から壁にぶつかり、戦闘不能になってしまったのだ。
時間稼ぎもできなかったご自慢の息子、その情けなさを見た時の老人ヤクザの心情は、どのような感じだっただろうか。おそらくは足を止めて、ご自慢の一喝で叱り飛ばしたかったに違いない。
しかしこの老人は、息子を叱る時間もビルから逃げる時間も得ることができなかった。仕方なく彼は、近くに倒れている売り場係員の一人を人質にとったのだ。
荒事用に持参した若いヤクザ二人を失い、多重に蠢く黒い人影を背負う正体不明の少女に追い詰められている還城楽グループ総組長。今はまだヤクザの大親分としての意地で、内心から込み上げる怯えを必死に抑え込んでいるが、いずれ近いうちにその理性の堰は決壊するだろう。根は粗暴なヤクザなのだ、膠着する現状に耐え切れず自暴自棄になったあげく、本能に任せた暴力による取り返しのつかない愚かな終局を選択するだろう。
「さっきパクったピストル、カバンに入れただろ! 早くそのカバン、捨てんか!」
黒服ヤクザから奪った
とりあえず、あまり興奮しないように、産卵中のスナガニの真似をして相手をなだめる。
「ふざけやがってええぇ!」
ますます怒った。逆効果だった。
私は仕方なく、背負ったサッシェルバッグのショルダーストラップを肩から外す。興奮した老人を刺激しないように、バッグを前に回して両手で持ち、床に置くためにゆっくりと前方に突き出す。
何か策はないか。私は頭にある脳細胞全てに問いかける。
いま手にしているこのバッグを投げつけるか、いや、今はダメだ、警戒されている。
それ以外で、なにか投擲できる物は持参していないか。ダメだ、なにも持ってきていない。せめてフナムシの一匹でもあれば投げつけて隙を作り出せたのに、この日に限ってポケットに入っていない。
風待先輩に投げつけて遊ぶため、常にストームフラップ裏の隠しポケットに入れていたフナムシ。よりによって最も必要とする時に切らしているとは。筑詩スギナ、まさしく一生の不覚よ。
しかしいつまでも悔やんではいられない、悩んではいられない。私はカバンを床に置こうと、目線を下に向ける。
目線が合った。
私を使って。そう目線で訴えられた。
すまない、任せる。私は目線で一礼する。
サッシェルバッグをそっと床に置く。バッグから手を放す時、そっとそれを拾う。立てたバッグで手の動きを隠して拾ったので、老ヤクザには気付かれていない。
拾った右手をそれとなく背後に回しながら、私は床に置いたバッグに足をかける。力を込めて、右横に蹴り飛ばす。
カーリングの石のように床を滑るサッシェルバッグ。老人ヤクザの視線が、遠ざかるカバンに向けられる。
よし! 今だ! 私は腰を右側に大きく捻る。
右腕に力を込める。放擲の体勢を取る。
使うのは、腕だけではない。捻らせた身体を大きく動かす、野球の投手のような全身全力の投法。
投げるモノは、軽い。普通なら、どのような投げ方でも、それほど速くは飛ばないだろう。どのようなリコリスが投げても、同じような速さでしか飛ばないだろう。
しかし、私は違う。
私は、どのような軽いものでも、弾丸のように早く、そして精密に投げることができるのだ。
本部で暮らした候補生時代の、私の唯一の特技。
当時投げていたものは、昆虫。
候補生同士の間で、毎日のようにあった交友トラブル。人付き合いが苦手だった私は、些細な人間関係の拗れから発生する些末な揉め事に、日々翻弄されてきた。
取っ組み合いの大喧嘩になることは稀だったが、そのかわり徒党を組んでの一方的な罵倒や、離れた場所から聞こえる大声での陰口など、体を傷つけずに心を痛めつけてくる様々な攻撃に、仲間の少なかった私は単身耐え続けて来た。
自分が独り我慢することで終わる責め苦。しかし、どれだけ長い間耐えても終わらなかったとき、私が使った手段は、昆虫を相手に投げつけることだった。
世間の女の子は、なぜか虫が苦手らしい。触れないどころか、種類によっては見るのもイヤだという。幼いころそれを知った私は、昆虫を投げる技を、誰にも知られることなくこっそりと磨き続けた。そして、我慢が限界に来たときは、懐に忍ばせた昆虫を投げつけることで、相手に反抗した。
人と話すのが苦手で、口喧嘩をする勇気もなかった幼い私が編み出した、たった一つの微々たる抵抗。しかし、その効果は絶大だった。どれほど強い候補生でも、本部宿舎の厨房奥で捕まえた黒い害虫を投げつけるだけで、悲鳴をあげて逃げ去ったのだ。
自分の身と心を守る唯一の手段。私はリコリス候補生として生き残るため、この技をさらに磨いた。どのような昆虫でも高速で飛ばすことができる技術、脚も翅もある軽い昆虫を自在に投げることができる技術を、深夜の絶え間ない練習により、ついに至高の技へと昇華させた。そしてついでに、夜中に自分をイジメた奴のベッドに忍び寄り、口に虫を入れてそっと逃げる大技をも編み出した。
これらの技のおかげで、当時何度も突きつけられていたイジメの矛先を、私は何とか逸らすことに成功した。あからさまな嫌がらせだけではなく、陰口や口喧嘩などのトラブルに巻き込まれる回数が、目に見えて減ったのだ。そのかわり私の周りにいた数少ない仲間も、なぜか目に見えて減った気もしたが、まあ気のせいだろう。
本部を卒業し、今では諸咲で静かな生活を送っている私。当時私が磨いていた各種の投虫技は、今は使う機会はない。実戦で使用したのは初夏の双関杯が最後、あとはせいぜい逃げる風待先輩に向けてフナムシを投げつけたり、逃げる風待先輩に向けて指弾でダンゴムシを連続発射したりして遊んでいる程度だ。
軽いものを高速で投げつけることができるこの技術。身につけていて本当に良かったと思う。
老ヤクザにも、私の足元に転がっていたそれは見えていたはずだ。しかし、まさかこれを投げつけられようとは、思ってもみなかっただろう。こんな軽いもの、もし投げられても痛くはないし、簡単に避けられる、そう思って油断していたことだろう。
本当に油断だ。油断しきったその身では、私が投げたそれは避けられまい。もっとも、これはリコリス候補生相手に磨いた技だ、ヤクザ程度の反射神経では、どれほど注意していても避けることはできまい。
いま私が投げたのは、人形の首。
サル顔ヤクザに踏みつぶされ、バラバラになってしまったプラスチック製のお人形。首だけになってもなお笑みを絶やさない、強い心のお人形。
そのお人形の目が、私に語りかけたのだ。自分をこんな目に合わせたヤクザに、一矢報いたいと語りかけてきたのだ。
人形として生まれたにもかかわらず、幼子の腕に抱かれることなく、幼児を楽しませることなく、ただのゴミとなってしまった。自分は何のためにこの世に作り出されてきたのか、このまま誰の思い出になることもできず消えていくのなら、せめて誰かの役に立ちたい。誰かを助けて、消えていきたい。だからお願い、私を使って。そう目線で訴えられた。
すまない、任せる。私は感謝とともに、人形の首を投げた。
軽い昆虫を重い硬球のような速度で投げることができる私の特殊技能。その技によって投擲されたプラスチック製の首は、電波塔の灼光をも消し去る一筋の白い直線となる。光を切り裂き空気を切り裂き音を切り裂き、目指す先へと一直線。避ける間もなく気付く間もなく、老ヤクザの口へとダイレクトアタック。
かつてはデカいカマドウマをも、遠く離れた相手の口に投げ込めた私の投虫術。その精密精妙は、虫が首になっても変わらない。玉子程度の大きさの、プラスチックのその首は、叫んで喚く老ヤクザ、大きく開いた口の中、喉元奥まで入り込む。
ご自慢の一喝どころか、呼吸まで封じられた老人ヤクザ。口内にシンデレラフィットしたのだろう、吐き出すこともできず何度もえずく情けない姿、隙だらけの姿。そして彼はついに、窒息の恐怖に我を忘れ、おばさんの首に回していた腕を外してしまう。
隙はできたが、まだ相手は刃物を握っている。私は正面からではなく、左横へと大きく飛ぶ。老人ヤクザの視界から逃げるように、走り幅跳びのように大股で数歩駆けると、壁目がけて高くジャンプする。
空中で体勢を変え、左脚で壁を蹴る。左足の裏全体を壁に押し付けるような、全身のバネを使った蹴りによって、私の身体は反対方向に鋭く射出される。
老人ヤクザと私の視線が、空中でぶつかり合う。肥え太ったヤクザの眼が、驚きで顔の輪郭と同じように丸くなる。横に逃げたかと思ったら、空中を飛んで戻ってきた、そんな感じの驚き方だ。困難になった呼吸を忘れ、宙を舞う私を呆然と見上げるヤクザの姿は、どこもかしこも隙だらけだ。
ヤクザの身体にぶつかる寸前、私は大きく身を捻り、右脚の回し蹴りを放つ。空中で肌色の弧を描いた脚先が、老人の右手首に命中する。
乾いた音を立てて、老ヤクザの手首が折れる。振り抜いた私の靴先が、握られた短刀を上空に吹き飛ばす。
勢いよく蹴り飛ばされた短刀は、お土産売り場の天井に突き刺さる。天井を飾る小道具となった凶器。お土産屋のオブジェとしてはあまりに無粋だなと思いながら、私は老ヤクザの間近に着地する。
「おばさん、逃げて!」
人形の首で喉を詰まらせながら、折れて垂れ下がった手首を愕然とした表情で見つめる老ヤクザを両手で押しのけ、おばさんを救出する。
「スギナちゃん!」
「正面玄関から逃げてください!」
人質から突然解放された状況に、頭の回転が追いついていないおばさんと、床にうずくまっている売り場係員の方々に向けて、私は大声で話しかける。
「お土産売り場の皆さんも、一緒に脱出してください! 正面玄関先には、規制線が張られています。その奥に、救援のため待機している有志の方々がいます! 傷ついた身で大変とは思いますが、そこまで頑張って逃げてください!」
「スギナちゃんはどうするの?」
心配そうな声で尋ねてくるおばさん。未だ緊迫したこの状況、早く逃げればいいのに、私の身を案じてくれる。本当にいい人だ。
「私なら心配いりません! このヤクザ連中が二度と観光ビルに立ち寄らないよう、これから説得します! その後に、上階の方々も避難させます!」
あなたたちの務めは終わりました。あなたたちは務めを果たしました。駐在所や諸咲役場、商工会議所に商工会、応援はいっぱい来ています。だから今は、この場を離れてください。話下手な私は、たどたどしい言葉で売り場係員の皆を説得する。
「……わかったわ。無理はしないでね、スギナちゃん」
拙い説得に納得してくれたおばさんは、売り場係員さんたちが倒れている一角まで走ると、頬を切られて震えている若い女性係員さんを肩に担ぐ。それを見た他の係員さんたちも、互いに助け合い、なんとか立ちあがる。
ヤクザの恫喝と暴力に、憔悴しきった弱々しい姿。今にも倒れそうな体を互いに支え合い、ふらふらと正面玄関を出て行く売り場係員さんたち。正面の自動ドアが閉まってしばらく後、外から大波のように響く大きな声が聞こえて来た。事件解決のため外でご尽力いただいている人々の声だ、人質が救出された歓喜の声だ。
脱出できた係員さんたちの救護は、外の皆に任せよう。私は、私の仕事をしよう。そう思い直した私は、店内の奥に足を進める。
歩いた先の足元には、床に転がり七転八倒する老人ヤクザ。まだ使える左手を喉奥に差し込もうとするが、上手くいかずに悶え苦しんでいる。
還城楽グループ総組長、
私は左手で老ヤクザの胸元を掴み、引き上げて立たせる。右手で紋付き袴の上を数カ所叩きボディチェック、拳銃や刃物を所持していないことを確認する。
窒息の苦しみと窒息死の恐怖に、顔面を青ざめさせているサル面。私はその震える身体を、胸倉をつかんだ手で支えながら、しばらく考える。
諸咲観光ビルに殴り込んできたヤクザたち。予想していたとおり、制圧するのは簡単だった。過去の幻影が襲いかかってきたのは想定外だったが、幻の電波塔と黒い頭たちの出現によって、なぜか侵入症状は抑えられた。
ここまでは、上手にいっている。問題は、ここからだ。
今回の任務は、ヤクザたちを殺さず追い出すこと。しかし、ただ追い払っただけでは、成功ではない。
ヤクザは、執念深い。
一度たたき出した程度では、安心できない。恨みを抱いた彼らは、これから何度でも諸咲観光ビルに訪れるだろう。私が不在の時を狙い、様々な嫌がらせを仕掛けてくるだろう。
そうさせないために、どうするか。諸咲観光ビルや周辺地域が今後狙われないようにするには、どうすればよいか。
案は、ある。
陰険な嫌がらせが長きに渡り続くことが無く、最後にはきれいすっぱり終了する、良い案がある。
しかし、上手くできるかどうか、心配だ。私は本来、話下手なのだ。
まあ、いつまでも悩んでいても仕方ない。これ以上ダラダラと悩んでいたら、このお爺さん窒息して死んでしまいそうだし。
やってみるか。
ヤクザの胸元を掴んでいる手を放す。支えを失った老ヤクザの身体が、ぐらりと前に倒れそうになる。
「おりゃあ!」
私は気合を入れると、右腕を鞭のようにしならせ、老ヤクザにおもいっきり平手打ちをする。
一丁締めのような景気のいい音が、店内にこだまする。右手のひらで景気よく叩かれたヤクザの頬が、景気よくひしゃげ潰れる。ダブついた顔の肉が衝撃で波打つさまは、見ていて気持ち悪い。
「そりゃあ!」
次は左手で、反対側の頬を平手打ちする。再び響く一丁締めの音。こちらもまた景気のいい音だ。
「せりゃあ!」
そして右手で追加のビンタ。間髪入れずに左手でビンタ。ビンタ、ビンタ、ビンタの嵐。ヤクザの頬が叩かれる度に鳴り響く景気のよい一丁締めの音、まるで東証の大発会のようだ。何度も何度も鳴り続く一丁締めはもはや三三三一の一本締め。これほど威勢のいい音がめでたく響くこの国は、来年も好景気に違いない。
「どうした還城楽! 小娘に引っ叩かれて恥ずかしくないのか! 男みせんかぁ!」
下方向からすくい上げるような軌跡の平手打ちを続けているため、倒れることもできない老ヤクザ。痛みと屈辱、そして窒息の恐怖に歪んでいる顔が、さらに青くなる。
顔色が悪くなっているのは、息ができないからだけではない。今私が連打している平手打ち、実はただのビンタではないのだ。
腕をしならせて引っ叩く姿は、一見すると手のひらで柔らかく叩く平手打ちにしか見えないが、私たちリコリスのビンタは、手のひらの付け根、中国武術でいう掌根で打つのが基本だ。今回は手加減しているが、通常ならば私のようなサードリコリスでも、数発で大の大人を昏倒させることができる平手打ち、ファーストやセカンドといった上位リコリスが本気で叩いた場合、その衝撃は十両力士の張り手並ともいわれているほどの恐ろしい技なのだ。
さらに私は今、平手打ちを見舞う場所を微妙にずらしている。本来ならば頬に叩き込む掌根を、下顎骨付け根の少し手前、底経二十一門の内の、懐一と呉振という景穴に撃ち込んでいる。
懐一、別名夐錫中門、この景穴と昏経である呉振穴を同時に叩くと、三半規管が混乱し、船酔いのような症状が発生する。この状態は短期間で回復することは無く、殴打を重ねるたびに深く重く酷くなる。全身が痙攣するほどの悪寒、消失する平衡感覚、鈍痛のような不快感、人体が味わう苦悶の粋を、叩かれている最中の人間は十二分に味わうことになるのだ。
DA情報部が、予備尋問の際によく使うというこの技術。たとえヤクザとはいえ、このような陰湿な技を一般人に、しかもご老人に対して使う日が来るとは、思いもよらなかった。
あまり使いたくなかった技だが、私の考えている案のためには、やむを得ない。これまで多くの善良な人たちを痛めつけて来た報いだと思って、頑張って耐えてねと心の奥で応援しながら、私はビンタの回転数を上げる。
「男みせんかぁ還城楽! 男みせんかぁ還城楽!」
私が叫ぶごとに、老人ヤクザの眼が大きく見開かれる。喉に人形の首が詰まって喋れないが、この男が私の言葉に逆上しているのが、その死にかけた顔に浮かぶ怒りの色でわかる。
「男みせんかぁ! 男みせんかぁ!」
老人ヤクザの決め台詞を繰り返し、相手を煽り続ける私。ぐるぐる回された腕で叩かれ続けるヤクザの眼が、ぐるぐる回転している。なんだか楽しくなってきたところだが、そろそろ限界か。
「男っ!みっせんかああぁ!」
とどめの一発。背後にまで回した腕を大きく振り被り、横一閃の大ビンタ。見事に喰らった老ヤクザの身体が、地球ゴマのように数回転する。
すぽん、と軽い音。回転による遠心力で、男の口から人形の首が飛び出た音だ。
口から洩れる太く長い呼吸音。特殊な平手打ちによって自律神経を乱されたことによる苦痛と、久々に酸素を吸い込んだ安堵が均等に入り混じった、よく分からない表情を浮かべる老ヤクザを、壁際へと蹴り飛ばす。壁の下でうずくまっているサル顔の若いヤクザの隣へ転がっていく老人ヤクザ。
私は周囲の床を見回す。散乱したお土産の残骸の中から、包装紙を束ねていた輪ゴムを二本取ると、床で伸びている親子ヤクザへと足を進める。
眼を回して仰向けに横たわる老ヤクザと。尻を突き出してうつ伏せになって倒れている若いヤクザ。私は若い方のヤクザの近くに立ち、しばらく待つ。
突然、若ヤクザが身をひるがえして立ちあがった。手には細身のナイフ。サルのような叫び声をあげ、私目がけて飛び掛かる。
見事な奇襲だ、鮮やかな不意打ちだ。サル顔の若ヤクザは、そう思っていただろう。
全然違うよ。奇襲でも不意打ちでもない。見え見えだ。バレバレだ。
もともと私は、この若いサル顔ヤクザは、それほどダメージを負っていないことに気がついていた。壁に顔面をぶつけ、鼻血を出した程度だと知っていた。
その程度の軽傷にもかかわらず、今まで大袈裟にうずくまり、あえて動かなかったのは、隙をみて逃げ出そうとしていたのだろう。親であり親分である老ヤクザと私との戦いが長引けば、いずれ一人脱出するチャンスがある。そう考えていたのだろう。
親を犠牲にして自分だけ助かろうとする、ゲスに相応しい下種根性。もっとも、このサル顔ヤクザの親である老人ヤクザも、息子であるこの男を鉄砲玉にして、その隙に一人逃げ出そうとしていたのだ。ひどい親子だ、よく似た親子だ。
迫る若ヤクザに向け、片足で蹴りを放つ。膝を伸ばしたまま、股関節を軸に真下から真上へと振り上げる大きな蹴り。狙うは手首、ナイフを握った右手首だ。
スカートの中から飛び出た生脚が、肉の刃となって空気を切り裂く。その重い音の中に、手首が折れる軽い音が混じる。そして続く、ナイフが床に落ちる音、手首を折られた男の絶叫。
私を非難するかのように叫ぶ男の顎を、一発殴りつける。握りしめた拳から曲げた右指をわずかに突き出す酔盃手、別名月牙叉手と呼ばれる拳形で、顎にある底経二十一門の内、呉振という景穴を単独で打つと、足腰に力を込めることができなくなる。昏経九穴にも名を連ねる呉振穴、私たちリコリスが、体格や腕力に勝る男性相手に多用する、必勝の急所の一つだ。
人差し指の第二関節を突き出した拳で顎の急所を突かれた若猿ヤクザは、酒に意識を奪われた泥酔者のような動きで、その場に崩れ落ちる。私は痛みに呻く男の両腕を背中に回すと、両手の親指を輪ゴムで縛り、老ヤクザの横に蹴り転がす。
未だ三半規管の異常から来る悪寒に身を震わせている老ヤクザの両腕も、若猿ヤクザと同じように後ろ手にして、親指同士を輪ゴムで縛る。
たった一本の小さな輪ゴムによる、両腕の緊縛。拘束用バンドや拘束ワイヤー射出器はサッシェルバッグにも入っているが、今回はこれで十分だ。二人とも片手首が折れているため、輪ゴム程度の拘束でも外すことはできない。無理やり外そうとすれば、折れた手首に激痛が走るのだ、手首が千切れるかと思うほどの痛みに耐えてまで、この緊縛から逃れようとするほどの根性を、この二人は持ち合わせていないことは、これまでの経緯から十分に把握している。
後ろ手に拘束した二人を、壁にもたれかかるような姿勢で、床に座らせる。手首の痛みや、顎に残る衝撃はまだ続いているようだが、それでも気持ちは落ち着いてきたのか、いかにもヤクザらしい脅しの効いた目つきで、私を見上げる親子ヤクザ。
準備は、できた。
これからが、本番だ。
これから私は、処置をする。
こいつら
こいつらの逆恨みは、私が背負う。
私が、こいつらの復讐対象になる。
私は呼吸を整え、若猿ヤクザの前にしゃがみ込む。同じ高さに、目線を合わせる。
ヤクザ独特の、拗ねたような目、反抗的な目が、私の視野に入る。
「ガキが、ここまでしてただで済むとは思っていねえよなぁ!」
サル顔の若ヤクザが、痛みに脂汗を浮かべた貧相な顔を歪めて凄む。
絶対に殺すだの、苦しめて殺すだの、虚勢を張りながらまくし立てるサル顔ヤクザ。隣に総組長がいるのだ、頑張って男を見せているつもりなのだろう。
使う言葉は強いが、語彙が貧弱なためいまいち怖くない。似たような単語をセンスなく並べただけの恫喝に、私は次第に飽きてくる。
私の表情から、自分の言葉が私の心に響いていないことに気がついたのだろう。脅迫の矛先を、別方向に変化させてきた。
「お前を殺す前に! お前の親を殺してやる!家族全員悲惨な目に合わせて、惨たらしく殺してやる!」
「親いません」
私の家族は、電波塔で死んだ。悲惨な死に方だった、惨たらしい死に方だった。
瓦礫の下に埋もれた遺体が、その後どうなったのかさえ、私にはわからない。かつて私にも家族がいたという証拠は、今は醜いオブジェと化した旧電波塔の傍らにあるという、雑に建てられた慰霊碑だけなのだ。
それにしても、家族を残酷に殺すという脅し文句。あまりにもテンプレ過ぎる。もう少し個性ある脅迫はできないのか。
私の内心の嘲りに気がついた若猿ヤクザの罵声が、更に高くなる。
「家族いねえなら、お前の仲間を殺してやる! 仲間たちを悲惨な目に合わせて、惨たらしく殺してやる!」
「無理です」
仲間の風待先輩、上司の臥観手ルミナ先輩。セカンドリコリスにファーストリコリス。どちらも私よりはるかに強い。絶対に無理だ。悪いことは言わないから、やめておいた方がいいよ。
あと仲間と言えば、歌島のメカブ子さんとモズク子さんか。あの二人なら何とかなるかもしれないけど、手を出したら歌島島民全員を敵に回すことになるので、お勧めできないかな。島民の結束って、ヤクザなんかよりもはるかに強いんだよ。それにあの二人、ギャグキャラっぽいからなんか死ななさそうだし。
無理だと断言された若猿ヤクザの恫喝文句。私が真剣に戦力差を考えた末の答えだと気がついたのだろう。サルめいた顔の口元から、歯ぎしりの音が聞こえてくる。
いつもの脅しが効かない。家族、仲間、それ以外に何かないか。この小娘に怯えを抱かせるような脅し文句はないか。足りない頭を必死に働かせながら、次の文句を頑張って探しているヤクザの顔は、驚くほど滑稽だ。
次は何を言い出すかなと、しゃがみ込んだまま待つ私。やがて何か良い威嚇の言葉を思いついたのか、若ヤクザのサル顔に汚らしい笑みが浮かぶ。
「それなら、お前の勤務先を潰してやる!還城楽グループが全員動けばなあ、お前が働いているところの本社や社長なんざすぐに消せるんだぞ!」
「ぜひお願いします!」
DA潰してくれるんですか! ありがとうございます!