「おやじさーん。今帰ったよ!」
風待が扉を開け、大声で呼びかけた後に無人の店内に入る。
「おじゃま…します…」
続いてスギナも、小さな声で呼びかけ店内に入る。
寿司屋の店長やその家族は奥の部屋にいるので、大きな声で呼びかけるよう風待から言われているのだが、小心者のスギナにはまだその度胸はない。
ランチタイムが終わった午後の寿司屋。
少し前までは、本物の寿司屋の店長と客で賑わっていたはずの店内は、今は元々誰もいなかったかのように静まりかえっている。
二人は調理場に上がると、棚に畳んでおいてある前掛けを取り、制服の上から腰に巻く。
スギナの前掛け姿は、始めは少し違和感があったが、最近はなじんできたのか、それなりの風格が出てきたような気もする。
前掛けを付け、調理場に立つと身が引き締まる。
調理の準備を終えると、スギナは少し緊張した顔で俎板の前に立つ。
包丁を使った魚の調理は、今日が初めてだ。
練習台になるのは、十与浜漁港の直売所で買った、アジ10匹とタイ1匹。
スギナは身の引き締まった新鮮な魚たちをタッパーに並べ、調理場の隅にあるモブリコ寿司専用棚から、一本の和包丁を取り出す。
いかにもよく切れそうな、切っ先鋭い出刃包丁。
モブリコ寿司で代々使われてきたこの包丁は、スイカ刃という愛称があるらしい。
鋼の色が冷たく光る出刃包丁の、どこが西瓜なのだろうとスギナも風待も不思議に思っているのだが、もう数十年も前につけられたあだ名なので、その由来がわかることはおそらくないだろう。
長年使用されてきたその包丁は、柄こそ年季の入った色に染まっているが、歴代の諸咲リコリスが丁寧に砥ぎ保管してきた本身と刃は、今日購入したばかりかのような鉄の輝きを帯びている。
ナイフの砥ぎ方と保管の技術は、すべてのリコリスが幼少のころから学んでいる。
包丁とナイフの違いはあったが、モブリコ寿司に数本ある和包丁の砥ぎ方は、スギナも初日でマスターしていた。
包丁の使い方も、握り方からはじめて野菜果物を相手に練習を重ね、今では大根のかつら剥きや千切り、飾り切り等も全て習得している。
しかし、魚をさばくのは今日が初めてだ。
モブリコ寿司の再開店まであと一か月と半分。それなのにスギナは未だ魚に触れたことすらない。
これには理由があった。
赴任してからしばらくは、自分の守る地区について知るために、色々な場所を歩き回っていたため、先月は料理の練習をする時間がまったく取れなかったのだ。
早く料理の技術を身につけたかったスギナだったが、順番としてはリコリスの使命の方が優先だ。
支部付のリコリスは、自分が暮らしている土地に精通していなければならない。
赴任してきた新人リコリスは、自分たちが管轄する土地のすべての道と風景を覚えるため、支部内の道を最低でも二回歩く。
歩くのは普通の道路だけではない。
農道に林道に私道、住宅街の裏路地、家々の間、森の獣道。それらすべてを先輩リコリスに教えられ、ひたすら歩く。
昼間の道を覚えることができたら、次は夜間にまた同じ道を歩く。
昼とは違う闇の濃さ、視界の悪さを歩きながら学んでいく。
大雨などの天候が良くない日も歩く。
地面のぬかるみ、川の増水具合など、風雨による環境変化を知る良い機会だ。
そして避難に使えそうな山中の防空壕跡、不審者が集まりそうな岬の廃墟跡、湾内を監視できる丘の台場跡など、支部内で代々伝えられている場所へも足を運ぶ。
このようにして地図だけではわからない土地の状況を、二本の足で覚えていくのだ。
田舎支部は無駄に広い。
そのため、土地鑑を得るのに時間がかかってしまった。
その後は、定期巡回だけの日々が続いたため、料理の練習時間は毎日とれるようにはなった。しかし、初心者のスギナに料理の基本、コメの炊き方や酢飯の作り方を教えるところから始めているため、寿司屋にとって肝心の、魚調理の練習に至るまでの時間がここまで遅れてしまったのだ。
私も5月くらいから練習始めたから、あまり気にしなくていいわよと風待は言うが、それでもスギナの心には焦りがある。
今日の練習もがんばろう。魚のおろし方、今日一日で完璧に学ぼう。
魚の切り方について説明する風待の声を聴きながら、スギナは心の中で決心する。
「スギナは、肉とか魚を切った事ある?」
一通り説明し終えた風待からの質問に、スギナは少し考えこんでから答える。
「肉を切ったと言っていいのかわからないですけど、訓練生時代に死体相手の刺突訓練はしたことがあります。背後からナイフで腎臓を刺すのと、首筋の動脈を切…」
「はいそこまで!この話はもうおしまい!」
風待が強引に話を閉じる。しかしスギナの手は、死体の腎臓を刺した時の感触、首の頸動脈を切断した時の手ごたえをまだ覚えている。
各地の病院からDAに横流しされた遺体は、DA本部地下の訓練室に吊り下げられ、刺突や射撃の的にされる。当時まだ10歳にも満たないスギナたち訓練生は、防腐剤が滴る死体目がけて震えるナイフの刃先を「ストップ!もうストップ!今は料理中!その話はもう終わりっ!」
風待の大声に、現実に戻るスギナ。
そうだ、今は料理中だ。気持ちを切り替え、スギナは食材に手を伸ばす。
最初にさばくのはアジだ。まず一匹目のアジを手に取り、頭を左側にして俎板の上に置く。
風待が見守る中、出刃包丁を手に取るスギナ。
包丁の峰に人差し指を置き、残りの指で柄を持つ。包丁を動かしやすいように、右足を一歩だけ下げて体を斜めにする。
一度深呼吸をした後、アジの頭を左手で持ち、ゆっくり右から左に包丁を滑らせ、うろこを取る。
次に、側面にある棘状の固いうろこを、皮ごとそぎ切りにして取る。そして裏側を向け、また同じようにうろこを取る。
最初の数匹は手間取ったが、刃筋を滑らせるコツがわかった後は、だんだんと身を傷つけずに処理できるようになる。
しかし、その動作は最後までリズミカルにはいかず、アジ10匹のうろこ取りが終わるまで、かなりの時間がかかってしまった。
額に浮かぶ汗を拭うと、次の工程に移る。
エラと顎の繋がっている部分を包丁の先で切り、エラの周辺に沿って包丁を入れ、刃を回すようにしてエラを引き出し、切り落とす。
アジの頭を右側にして、胸びれから切り込みを入れ、ワタを取り出す。
流し台の蛇口をひねり、アジの腹中を流水で洗い流して、水気を拭く。
その後、左手でアジの頭を持ち、胸びれと腹びれごと頭を切り落とす。
最初の一匹だけは、風待が背後からスギナの両腕を取って教えてくれるのだが、二匹目からは自分一人で包丁を動かさなければならない。
うろこ取り同様、これもぎこちない動きでなんとかやり終える。
全部のアジの処理を終えると、次は三枚おろしにとりかかる。
腹側を手前にして置いたアジの腹に包丁を入れ、軽く尾まで切り込みを入れ、その切れ込みに再び包丁を入れる。
アジの背骨にあたるまで包丁を差し込むと、そのまま尾の方に向かって刃を滑らせる。
次に、背を手前側にして、背中側を切る。
最後に尾の付け根から、中骨の上の部分に包丁を入れる。尾の部分を押さえながら、中骨に沿うように刃を動かしながら、骨から身を切り離す。
半身のとれたアジをひっくり返し、再び尾の付け根から腹側と背側に切り込みを入れた後、背骨まで包丁の刃を入れて、身を切り離す。
背骨から切り取った二枚の身を俎板の上にのせると、腹骨を持ち上げるように包丁を入れ、そのまま小骨をすくい取るように刃を動かして腹骨を取る。
これで、アジの三枚おろしのできあがり。
これも最初だけは、風待がスギナの背後から両腕を握って指導してくれる。
スギナの背後から抱き着くように体を密着させ、調理のコツを耳元で囁きながらの個人指導は、傍目には隠微な空間に見えるが、スギナにはそのようなよそ事を考えるゆとりはない。
二匹目からは、最初に教えられた動きを思い出すかのように、指先の神経にすべてを集中し、アジをおろす。
包丁のさばき方は最初の一回で覚えたつもりだったが、実際に刃を動かしてみると、思うように切ることができない。
ささくれ立った切り口、身が残りすぎている中骨、見た目があまりにもひどい。
「最初から完璧を目指してはダメよ。今は出来栄えは気にせず、動作を覚えることに集中しなさい」
背後に立つ風待の言葉に、スギナはうなずく。
五匹目、六匹目とさばいていくのだが、手際も見栄えも、上達する気配は全くない。
むしろ、強く押さえつけているのか、魚の身が崩れるようになってしまっている。
上手に作ろうとする気負いがあるためなのだろう。包丁を握るスギナの手にも、知らず知らずのうちに力がこもり、指の先が白く変色する。
まだ暑い時期ではないのに、スギナの額に大粒の汗が浮く。
八匹目、九匹目のあたりまで来ると、包丁の先が震えだす。
それでも歯を食いしばり、スギナは十匹のアジすべてをおろし終えた。
大きなため息をひとつつくスギナの肩に、風待の手が乗る。
「おつかれさま。どうだった?初めて魚をさばいてみた感想は」
「…ダメですね、こんなんじゃ、全然」
タッパーに並べたアジの身に目をやるスギナ。
不揃いな姿で切り分けられた身の切り口は土漠の様に荒れていて、包丁の使い方が悪かったことが如実に見て取れる。
新鮮だったはずの身が萎れているかのように見えるのは、握る手に力を込めすぎた証拠だ。
スギナは俯きながら、包丁の柄を握っている右指を、左手で一本一本開く。
必要以上に力を入れて包丁を握り続けていたため、知らず知らずのうちに右手指の感覚がなくなっていたのだ。
「初めての時はこんなものよ。セノカも私も、最初は全く思い通りに魚をおろすことができなかったわ。だから今は出来栄えより工程を覚えることに集中しなさい。調理工程を指で全部覚えてしまえば、余計な力が入らなくなって、魚に意識を向けることができるわ」
風待の説明は的確だった。
確かにスギナの体には力が入りすぎていた。
指の感覚がなくなり、刃先が震えるほど強く握りしめていたのだ。
肩や腕も、無理なトレーニングを続けた時のような痛みと凝りが残っている。この部分も無意識のうちに力が入っていたのだろう。
それらの無駄な力が、包丁の刃先を乱れさせ、魚の身を崩していたのだろう。
次回から少しずつ上手になっていけばいい、と風待は言うが、今日一日で魚のおろし方を完璧に学ぼうと意気込んでいたスギナにとっては、散々な結果だった。
「今回はこのアジでつみれ汁を作るつもりだったから、あまり気にしなくてもいいわよ。それよりスギナ、まだ本命のタイが残っているけど、どうする?もし疲れたなら今日は…」
「大丈夫です!私、まだやれます!」
心配する風待に、気合を入れ直すかのように大きな声で答えるスギナ。
ここで休んでいるヒマはない。
人並み以上に努力して、やっと人並み程度になった自分だ。人並みに休んでいるヒマはない。
ここで休んでは、代々のモブリコ寿司のリコリスに笑われる。セノカに笑われる。
「タイ、さばきます!」