「タイ、さばきます!」
自分を鼓舞するかのように大声で宣言し、再び包丁を持つスギナ。
心を落ち着かせるために、数回深呼吸した後、タッパーに置かれたタイを手に取る。
朱で染めたかのような体色をした、大きなタイ。
頭の部分が青々としているのは、天然の証拠だ。
タイの頭を左手で持ち、アジと同じように包丁を斜めに当ててうろこを取ろうとする。
「うろこ引きは使わないの?その方が簡単だしうろこが飛び散りにくいし、それに安全よ」
スギナの右後ろで、風待が心配そうに言う。
調理台の隅に置いてある、穴の開いた鏝のようなうろこ引き。アジに比べうろこが固く大きいタイは、たしかにこの道具を使った方が楽だろう、しかし…
「今回は、全部包丁でやらせてください。うろこ取りの時だけ道具を換えるより、その方がプロっぽいですし」
「使うべき道具を、使うべき時にあわせてきちんと選択できている方がプロっぽいわよ。でもまあいいわ、今回はスギナが考えるようにやってみなさい」
けど、これだけは気を付けて、と風待は説明を加える。
「固いうろこ取りは力が入りすぎるから、怪我に注意すること。あとは包丁の刃欠けにも注意してね。大きな魚のうろこ取りで包丁が欠けることって、意外とあるのよ」
風待の注意に、気持ちを引き締めるスギナ。
このよく切れる包丁で自分の手や指を切ってしまったら、大変なことになるし、伝統のスイカ刃を痛めてしまったら、モブリコ寿司の先代達に申し訳ない。
素直にうろこ引きを使えばよかったかなと後悔したが、もう後には引けない。
鯛の尻尾の部分に出刃包丁をあて、うろこと皮の間に刃を滑り込ませ、力を入れる。
包丁を動かすたび、靴底で固い砂地を擦るような音とともに赤いタイの皮から透明なうろこがはがれ、勢いよく周囲に飛び散る。
アジのうろこ取りとは違うこの硬い感触。力を入れて包丁を握っていなければ、刃先が狂いそうだ。
注意しないと刃が欠けると注意した風待の言葉は、誇張ではなかったとスギナは思った。
うろこがはがれるときの振動が、包丁の柄から手のひらに伝わる。
包丁が頭側に近づくにつれ、飛び散るうろこの量も多くなる。
しかし、今のスギナに周囲に飛散したうろこの行く先を気にしている暇はない。
刃筋を乱さないよう、怪我をしないよう、そしてタイの身にも怪我をさせないよう、それだけに集中する。
片面が終われば、残り半分。
集中力を切らさないよう、スギナは片面が終わるとすぐにタイの身を半転させ、裏面のうろこ取りにとりかかる。
再び飛散する大量のうろこ。
自分が初心者だからなのかわからないが、タイのうろこがこんなに飛び散るものだとは思わなかった。
自分の手の甲や、制服の袖口に、透明なうろこが初雪のように降り積もる。
おそらく自分の体や顔にも、この薄い氷片のようなうろこはこびり付いているだろう。
それでもスギナは手を休めない。
今のように集中できている状態は長く続かない。
集中力の勝負は時間との勝負だ。
手元の動きだけに全神経を集中させ、タイのうろこを取る。
その甲斐があったのか、タイの身をあまり傷つけることなく、うろこを全て取り終えることができた。
「できた…」
満足げにスギナはつぶやく。
「できましたよ先ぱ…」
失敗ばかりの今日の調理の中で、今回初めて得た成功の感触。自慢げに風待の方を向いたスギナが固まる。
スギナの右後ろにいた風待は、後方に飛び散ったタイのうろこを全身に浴び、白く輝いていた。
風待の長く艶やかに伸びた黒髪、大人びた美貌の中に年相応の愛らしさを宿すその顔、均整の取れた体を包み込む濃紺色の制服、そのすべてにタイのうろこが降りかかっていたのだ。
薄いガラス片のようなうろこは、寿司屋の明かりを反射して、風待の美しさを飾り立てるかのように光っている。
しかし、その飾り立てられた風待は、無表情のまま、死んだ目をしてスギナを見つめている。
「えーと…先輩…」
「スギナ」
「はい…」
「次からは、うろこ引きを使いましょうね」
「はい…」
上手にうろこが取れた喜びから一転、再び落ち込むスギナ。
また失敗してしまった。
しかも今度は、先輩まで巻き込んでしまった。
どんよりした表情で、スギナは風待からおしぼりを受け取り、うろこが張り付いた顔を拭く。
それから髪や服に着いたうろこをふき取る。
風待も哀愁漂う目をして、顔を拭いている。
スギナは、無言で顔を拭く風待の顔を、おしぼりの陰からそっと見る。
先輩のきれいな顔を汚してしまった。
そのことに関しては、申し訳ない気持ちでいっぱいだ。
しかし、なぜだろう。
私は、きれいな先輩を汚してしまったことに、心のどこかでゾクゾクした喜びを感じている。
このままでは、変な性癖が芽生えてきそうだ。
倒錯した性愛を心中に発見してしまった思春期のスギナは、思わず風待から目を話してしまう。
憧れの先輩を前にして抱いてしまった恥ずかしい痴情を振り払うかのように、おしぼりで勢いよく制服のうろこをふき取る。
リコリスの制服は、汚れが付きにくいよう特殊な表面加工が施されているため、服のうろこは簡単に取れた。
しかし、髪についたうろこは、触る度に奥に潜り込みなかなか取れない。
サルのノミ取りのように、向かい合って頭髪についたうろこを一枚ずつ取っていた二人だが、意外な数の多さに苦戦する。
夕方の巡回が終わったら、早めにお風呂に入って洗い流しましょうという風待の提案に、スギナも了承し、頭のうろこ取りは途中のまま諦める。
その後は二人で店内の大掃除。意外と遠くまでうろこは飛んでいたが、幸いにも天井や壁には張り付いていなかった。
任務用のサッシェルバッグに常備されている、ボールペン大のミニマグライトで、床の隅々や隙間に光を当てて、掃除し残しがないか確認する。
まあこれも掃除の練習になっていいわね、という風待の言葉が、スギナにとっては少しだけ救いだった。
台所の清掃を済ませると、気を取り直して、俎板の上で待ちくたびれているタイの前に立つ。
掃除でかなり時間をかけてしまった、もうもたついている暇はない。
スギナは再び包丁を手にする。次の工程はタイの三枚おろしだ。
刃先でエラと顎を切り離すと、タイのワタを切らないよう顎下から切り込みを入れる。
切り口からエラとワタを取り出すと、アジと同じように流水で洗い流す。
水気を拭いた後、頭の付け根から胸びれの付け根まで、カマと呼ばれる部分に沿って切り込みを入れる。
包丁をまっすぐに持ち、五本の指でしっかりと握りしめると、背骨に包丁の刃元部分をあて、左手で峰を力強く叩く。
俎板が包丁を受け止める大きな音がして、タイの頭が切り離される。
アジで練習した甲斐があったのか、素早くはないがここまでは順調に進んでいる。
だが、油断はできない。アジで学んだことを思い出しながら、黙々と手を動かす。
腹側から包丁を入れ、中骨に刃先が当たるように切った後、背中側から再び包丁を入れる。
小さなアジとは違い、包丁の切っ先が、背骨の関節一つ一つに当たる感触が手に伝わる。
片側の身を切り離すと、反対側の身も同じように切り分ける。
そして身の部分に残っている腹骨の付け根を、包丁で押し上げるようにそっと浮かせると、刃の部分で腹骨をすくい切りにして、身からそぎ取る。
骨側に身が多く残ってしまったが、一応タイの三枚おろしはこれで完成した。
しかし、まだ調理は続く。
身とアラの部分をそれぞれタッパーに入れ、俎板をきれいにすると、一度包丁を置き軽く背伸びをする。
集中のし過ぎか、それとも緊張のし過ぎかわからないが、肩を中心に上半身が強張っている。
首や肩を回し、体をほぐすと、スギナは包丁を握る。
タイの身の部分を再び俎板の上に置き、身の中心線上にある血合い部分の骨を切り落とし、背身と腹身に切り分ける。
次はタイの皮取り。アジは皮を取っていないため、初めての工程だ。
切り分けた身を、皮の部分を俎板の下側にして置き、尾の方から身と皮の間に包丁を差し入れる。
片手で皮の端を持ち、包丁を俎板に押し付けながら皮を引っ張ると、ひも状に縮んだ皮が身の下から伸びて出てくる。
途中、引っ張った皮が何度か切れそうになりながらも、無事皮取りも終了。
腹骨と皮を取ったタイの身は、平造りと削ぎ切りの練習台となる。
苦心の末に取り出した、乳白色に透き通るタイの切り身。
これを平造りと削ぎ切りという二種類の切り方で、一口大に切り分ける。
お刺身を作る練習。やっとお寿司屋さんらしい練習になってきたと、スギナは感慨深げに切り身を見つめる。
自分が作った切り身から目を離さず、呼吸を整えてから、その身にそっと包丁を入れる。
平造りは身の右側から刃を垂直に当て、刃の奥から根本まで全ての部分を使って一気に引き切る。
削ぎ切りは身の左側から斜めに切り落とす。切り終わる直前に包丁を立て、引き切る。
一枚一枚、静かに刃を入れ、刺身を作る。
毎日手入れをした和包丁の刃は、弾力のあるタイの身に滑り込むように入り、それほど力を込めずとも簡単に切り分けられる。
一刀ごとに鮮やかな切り口を見せるタイの刺身。半透明の身の表面が、屋内の明かりを受けて鈍色に光る。
時間を忘れ、刺身を作ることに集中するスギナ。
その後ろでは、風待がスギナの手捌きを見つめている。
平造りと削ぎ切りの違いを説明してからは、風待はスギナに話しかけてはいなかった。
初めての刺身調理。まずは言葉よりも実戦で学んでもらおうということなのだろう。
スギナとタイの向かい合いはまだ続いている。
再びスギナの右肩が凝りで重くなってくる。片足を前に出したままという体勢も慣れていないのか、両腿の筋肉もランニング後のように張ってきた。
それでもスギナは手を止めない。そして、動きに支障が出るほど肩が強張りきる前に、スギナはすべての身を切り分け終えた。
「終わったあ…」
スギナは切り終えた刺身をじっと見つめた後、天井を見上げて、大きく息をつく。
背後に立っている風待が、スギナの両肩を掴み、優しく揉む。
「よく頑張ったわね。おつかれさま、スギナ。どう、初めてお刺身作った感想は」
「…まだまだダメですね。切っている最中は上手に見えていたんですけど」
しばらく上を向いていたスギナが、俎板の上の刺身に視線を落とすと、一枚の刺身を手に取る。
今しがた切り分けられた刺身の一片。一刀で直線状に切ったはずの切り口は、一見では滑らかに切れているように見えるが、部屋の明かりに照らしてみると、その表面は無計画に耕された田の畝のように波打っていた。
タイの身を押さえる左手、包丁を握る右手、そのどちらかに力が偏っていたのだろうか。
あるいは切る方向に問題があったのか。あるいは身の性質に問題が、あるいは姿勢に、あるいは…
「こればっかりは、切り覚えるしかないわよ。いっぱい切って、切りまくって、体で自得していくしかないわ」
背後で風待が、人斬り侍が剣の極意を聞かれたときに答えそうなセリフを言いながら、スギナの凝った肩を揉み続ける。
長い指に力を籠め、じっくりとコリをほぐしていく風待の肩もみ。
その気持ちよさに、スギナの口からだらしない声が漏れる。
「あとはタイの頭を割って、それで終わりにしましょう。頑張ってね、スギナ」
これで最後よ、とタッパーに残ったタイの頭を指す風待。
はい、とスギナはうなずく。
うろこ取りからすっと付き合い続けていたタイだ。最後まで自分が調理するのが礼儀というものだ。
それに、練習前に風待先輩の説明を聞いて、一度やってみたいと思っていた。
タイの兜割り。
大きなタイの頭を叩き割る、豪快な包丁仕事。
今日の練習の締めくくりにちょうどいい、初めての魚調理の締めくくりにちょうどいい、そう思っていた。
慣れない練習で体力は残っていないが、気力と度胸はまだ十分に残っている。
やってみます、と一言つぶやき、包丁を手に取るスギナ。
顎側を奥にしてタイの頭を立て、前歯の間に刃を入れる。
鯛の前歯って意外と大きいんだな、とスギナは変なところに感心する。
切断面を俎板の上に押し付けるようにして立つタイの頭は、見た目より不安定で、刃筋が少しでも狂うとあらぬ方向に包丁が滑る危険がある。
豪快な調理はただ大胆であればよいというわけではない。刃物を使う以上、細心の注意を払わなければいけない。
頭骨を切るという初めての体験。固いものは今まで切ったことがなかったので、少し緊張する。
力を入れ、タイの前歯の間に刃をくいこませ、包丁が滑らないよう固定する。
数回深呼吸し、緊張した気持ちを落ち着かせると、左腕の力を込め、包丁の峰を叩く。
初めて感じる、硬質の衝撃。
タイの頭にしっかりと食い込んだ鉄の刃、骨を断つその反動は金属の峰から木製の柄を通過し、右手の平に伝播する。
包丁が垂直に、少しの傾きもなく頭骨に食い込んでいるのを確認すると、再び力を込めて包丁の峰を叩く。
数回叩くと、刃先は俎板に当たる軽い音とともに、タイの頭は二つに分断された。
「よしっ!」
スギナは思わず声を上げる。