モブリコ辺境暦   作:杖雪

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5月の晴れた日に ⑧

「よしっ!」

 

 スギナは思わず声を上げる。

 

 これまで失敗続きだった今日の練習で、最後に初めて満足のいく調理ができた。

 タイの頭を割るだけという簡単な作業ではあるが、成功した充実感はかなり大きい。

 

「切断面もきれいだし、力の入れ加減もちょうどよかったわ。見ていて危なっかしいところがなかったのも評価できるわね」

 

 風待先輩の評価も上々だ。

 

「タイの身をラップして、これで終わりにしましょうね。アジは今から私がつみれを作っちゃうから、スギナは少し休んでいていいわよ」

「すいません先輩」

 

 本当ならば、アジのつみれを作るのもスギナの仕事だが、今は精も根も尽き果てている。ここは風待先輩の言葉に甘えよう。

 

 タイの身とアラ、そして真っ二つにされた頭をラップで包み、冷蔵庫に入れる。この後下宿に持ち帰り、今日の夕食と明日の朝食のおかずにする予定だ。

 台所を風待と交代し、カウンター席に座るスギナ。

 慣れない作業の連続で、全身は疲れ切っている。頭をカウンターに落とし、大きく長いため息をつく。

 

「お茶どうぞ」

「お茶どうも…」

 

 頭を起こし、やつれた顔で茶をすするスギナの前で、風待がアジのたたきを作る。

 

 今まで調理場に立っていたスギナとは比べ物にならない速さで包丁をふるい、三枚におろしてあるアジの身を細かく切っていく。

 無駄のない姿勢と手際の良さ、リズミカルに響く包丁の音の軽快さに、スギナの口から感嘆の声が漏れる。

 

「先輩、やっぱりすごいですね」

「……」

 

 風待からの返事はない。

 

 そういえば、調理中は無言になるタイプだったなとスギナは思い出す。

 今はそのほうがいいかと思いながら、熱い粉茶を一口飲む。気力が戻るまでは、喋るのも億劫だ。

 

 風待は無言でアジを切り終えると、一抱えもある大きな鉄製のすり鉢をカウンターの下から出す。

 

 10匹分のアジのみじん切りをすり鉢に入れると、テーブル席の机の上に置く。

 テーブル席の椅子に座る風待。靴を脱ぎ、椅子の上で器用に胡坐をかくと、すり鉢を抱え込むようにして持ち、両腿ですり鉢を固定して擂り粉木でアジの身を擦りはじめる。

 

 擂り粉木の規則的な音が店内に響く。

 足と股ですり鉢を固定しているため、捲れたスカートから露出している風待の健康的な太腿を、カウンター席からぼんやりと見つめるスギナ。

 頭も疲れているのか、良い眺めですねという感想しか出てこない。

 

 静かな午後の店内。

 壁に掛けられた時計の音と、すり鉢でアジを擦る音。この二つの音が重なり合う。

 耳に意識を集中すると、風に揺れるドアの音と、そしてたまに聞こえる自動車の音の奥から、微かに波の音が聞こえる。

 

 波の音。

 自分は今、港町にいるんだなという事を意識させる音。

 

 スギナはその音を聞きながら、同期のリコリスたちは今頃どのような音を聞いているのかなと、ふと考える。

 

 4月にDA本部を出た同期のリコリスたち。

 本部卒の優秀な彼女たちは、そのほとんどが都市の支部に配属されたはずだ。

 ということは、彼女たちが今聞いている音は都市の喧騒、自動車や交通機関の音、多くの人間が発する声や足音などだろう。

 

 自分だけが、騒音に囲まれず、静かに暮らしているのかもしれない。

 自分だけが、田舎でぼんやりとしたまま、こうしてお茶を飲んでいるのかもしれない。

 そう考えると、なんとなく罪悪感さえ覚えてしまう。

 

 しかし、田舎に配属されたことは自分の責任ではないので、そこまで思い込む必要はないだろう。

 そう思い直し、スギナは手に持った湯呑から、もう一口粉茶を飲む。

 

 気力が尽きた時に飲む濃いお茶は、体だけでなく心にもしみわたる。

 お茶がこれほどおいしいものだったとは、訓練生時代には思いもしなかった。

 

 くつろいでお茶を飲める幸せ。

 きれいな先輩の艶めかしい太腿を見ながらお茶を飲める幸せ。

 魚相手の長い調理訓練で疲れてはいたが、スギナは今、この小さな幸せを十分に味わっていた。

 

「スギナ、冷蔵庫からショウガのチューブとお味噌お願い」

 

 しばらく黙々とアジを擦っていた風待が、スギナに呼びかける。

 風待の脚を見て少し気力が戻ってきたスギナが、二つ返事で冷蔵庫を開ける。

 赤味噌と計量スプーン、そしてチューブ入りのおろしショウガを持っていき、風待の指示通りの量をすり鉢の中に入れる。

 

「わたしも少し手伝います。すり鉢押さえますね」

 

 スギナが風待の太腿を押さえる。強靭な筋肉を柔らかな脂肪で包んだ風待の太腿の触感が、スギナの心を癒す。

 

「…なんで私の脚を掴んでいるの?」

 

 赤味噌とショウガを擦り混ぜる手を止めて、風待が当然の質問をする。

 

「先輩、今は料理中です。そんなことに気を取られている場合ではないですよ!」

 

 わたしが最後まで両腿を押さえていますから、先輩の太腿は私が守りますから、だから安心してお料理して下さい!と真面目な顔で言うスギナ。

 目の前のサードはどうやら少し疲れているようだ、と納得した風待が、諦めのため息をついて擂り粉木を動かす。

 風待は無防備な太腿を撫でまわされるくすぐったさに耐えながら、アジの身を擦り終えると、食品用のジップ付きビニール袋にすり身を入れ、手のひらで軽く叩きながら平たく伸ばす。

 

「つみれにしたすり身って、お団子にしないんですか?」

 

 風待が台所に戻ったため、太腿を撫でることができなくなったスギナが、横に立って質問する。

 

「スギナが今日使ったお魚、全部今晩のおかずにするには多いから、冷凍保存できるものは冷凍しとこうかと思ってね。つみれは団子で冷凍するより、こうして袋に伸ばして入れたほうが、しまいやすいのよ」

 

 俎板の上に置かれたつみれの入ったビニール袋に、横にした菜箸を押し当て、一口大に割れるよう切れ目を入れていく風待。

 

「こうしておいて、あとは冷凍のまま使う分だけ割ればいいの。朝のお味噌汁とか作るときに、簡単に入れることができるわよ」

「先週借りた図書館の本には、こういうやり方って載っていませんでした…」

 

 風待の知恵袋に、感心するスギナ。

 

 リコリスたちが各地域の図書館を使用するのは、特に珍しい光景ではない。

 赴任時にDAから渡される全国共通の図書館利用票を見せれば、どこの図書館であろうと普通に貸出手続きをしてもらえるだけでなく、窓口で依頼すればその図書館のシステムに合った図書館カードも発行してくれる。

 

 しかし、どのような貸出方法であろうと、リコリスたちが借りた本のデータはすべてDAに監視されている。社会や政治の本、現代小説、漫画や雑誌、その他にもDAが禁書と判断した書籍を借りた場合、一時間もしないうちに本部から警告のメールが入る。

 メールの内容は厳重注意がほとんどだが、警告が積み重なると本部での再教育が待ち構えているため、ほとんどのリコリスたちは図鑑や古典文学といった無難な本を借りている。

 

 スギナも貸出履歴が監視されていることは当然知っているが、当座に必要なのは料理の本のため、今のところは全く気にしていない。

 

 人付き合いが苦手だったスギナは、その分読書は好きだった。もっとも、読んだ本の量に対してあまり知識はつかなかったが。

 先週も諸咲の図書館で魚料理の本を数冊借り、ヒマがあれば眺めていた。ある程度知識も溜まってきたはずだった。

 しかし、目の前で見せてくれる風待の調理風景は、本以上の知識をスギナに与えてくれる。

 

「つみれの味付けに味噌を入れるのも、なんか理由あるんですか?」

「ああ、これ本当はあまり意味ないのよ。お味噌汁に入れるんだから、ほんとうはお味噌で下味付けなくていいんだけどね」

「じゃあなんで入れるんですか?」 

「これね、私のお母さんがよくやっていたのよ。私も幼いころはなんでかなって…あっ」

 

 口を滑らせた風待が、慌てて言葉を切る。

 

「…ごめんなさいねスギナ。へんな話ししちゃった」

 

 二人の間に、重い沈黙が流れる。

 

 すべての音が消え去るほどの、重い沈黙。

 部屋の明かりが暗く感じるほどの、重い沈黙。

 つみれを入れたビニール袋を俎板の上に置き、風待がうなだれる。

 

 どれほど仲の良いリコリス同士でも、どれだけ仲の悪いリコリス同士でも、絶対に触れてはいけない話題がある。絶対に話してはいけない話題がある。

 

 それは、自分の家族のこと、自分の親のこと。

 

 DAに拾われ、DAによって生かされているリコリスたちにとって、両親や家族の思い出は真っ先に捨て去るものであり、追憶に浸ることは許されていない。

 スギナも風待も、そしてほぼすべてのリコリスたちも、それを当然だと思い、受け入れている。

 しかし、どれだけ厳しい思想教育を受けようと、幼いころの思い出、かつて幸せだったころの温かい記憶は消し去ることができない。

 

 他国の少女暗殺機関の中には、薬物を使い強制的に記憶消去をしている組織もある。しかし、薬物使用の場合、精神のバランスが崩れ自殺率が高くなるのと、定期的な服薬による薬害リスクがあるため、DAでは過去に少人数のリコリスへの投薬実験が行われていただけである。

 薬物の代わりに、記憶の奥底に沈めるよう徹底的に教育してはいるが、水底で生まれた水泡が水面ではじけるように、何かのはずみに思い出すことは多い。

 

 そのほとんどは、今の風待のように、断片的な記憶をつい口に出してしまう程度なのだが、リコリスによってはその一言が脱走も辞さないほどの激しい思慕に駆られてしまうトリガーになる場合もあるので、DAでは彼女たちの会話には終始神経をとがらせている。

 

 過去を語るな。

 過去を思い出すな。

 過去を捨てろ。

 

 それが、リコリスがリコリスであるための鉄則。

 絶対に守らなければならない鉄則。

 

 スギナも、それは知っている。

 しかし…

 

「いえ、何も聞こえていませんでしたよ、先輩」

 

 スギナが、静かな声で答える。

 

 その声で、周囲の音が再び動きだす。

 その声で、周囲の光が再び輝きだす。

 

 ここは本部の目の届かない田舎支部。二人しかいない田舎支部。

 過去の話は禁句であることには違いないが、聞いていないふりだけすれば問題はない。

 

 ありがとね、と小さい声で風待は言い、調理場の片づけに入る。

 

 少しだけ間の悪い空気の中、黙々と片づけに入る二人。

 調理器具を全て洗い終え、包丁の手入れをし、流し台から床まで全部清掃する。

 

 片付けが終わるころ、スギナが後を向いたままぽつりとつぶやく。

 

「わたし、先輩が味付けしたつみれ、食べるの楽しみです」

 

 先輩の家庭の味ですから、とまでは言えない。

 リコリスだから、言えない。

 

 しかし、スギナの思いは伝わったようだ。

 

 スギナの背後で片付けの手を止めた風待。しばらくそのまま動かなかったが、やがて小さな声で返事をした。

 

 うん、楽しみにしていてね。

 

 スギナにだけ聞こえる小さな声。

 しかし、その口調だけで、スギナには風待の心や、今浮かべている表情までわかったような気がした。

 

 風待先輩、笑っている。

 

 きれいな顔に、静かな微笑みをたたえた風待先輩の顔。

 直接顔を見なくても、瞼の裏に浮かぶその笑顔。

 

 スギナは、それだけで満足だった。

 

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