下宿に帰ると、玄関のドアノブに白いビニール袋がぶら下げてあった。
中を見ると、おそらく朝に摘まれたのであろう、旬のスナップエンドウが大量に入っていた。
同じ下宿に住んでいる大家さんの親族が、この近辺に畑を持っているため、たまに収穫した野菜をおすそ分けしてくれるのだ。
今日スーパー寄らなくて正解だったわとか、野菜は冷蔵庫にキャベツしか残っていなかったからちょうどよかったですねとか、大家さんのちょっとした気遣いに、思い思いの感想を述べながら笑い合う二人。
一か月前、DA本部にいた頃のスギナなら、食材が一つ手に入ったくらいでこれほどまでに喜ばなかっただろう。
料理を作る喜び、作った料理を食べる楽しさ、そして食材を分けてくれる大家さんへの感謝。
まだこの支部に来て間もないスギナであったが、DAでは学ぶことのできなかった田舎での様々な経験が、これまで淡々と生きてきた彼女の感情を多彩なものへと変えていた。
少し浮かれた気分で玄関を開け、部屋に入るとき、スギナはふと一番離れた奥の部屋、謎の少年二人が住む角部屋に目をやる。
そこの玄関にも、おそらく同じ野菜が入っているであろう、白いビニールの袋がぶら下がっているのが見えた。
「…男の子って、お料理するんですかね」
夕方の風に揺られる白い袋を見ながら、スギナは風待に話しかける。
「んー、多分しないと思うわ。これくらいの野菜なら、そのまま味噌でもつけて齧るんじゃないかな。男って野菜だけじゃなくて、魚も生のまま味噌でもつけて頭からバリバリ齧っていそうだし」
風待は男性の食生活には興味がないらしい。適当なイメージで適当なことを言っている。
「そんなことより、はやく着替えましょう。お夕飯の準備は後でいいから、今日は一緒にお風呂入ろうね」
調理練習の時に付いた魚のうろこを早く落としたい風待が、玄関前に立つスギナの手を引いて部屋の中へと誘う。
下宿の浴室は狭いため、巡回中大雨に降られたり、冷たい海風に体温を奪われた時など以外では、あまり一緒に入浴はしない。
今の風待は、よほど付着したうろこを洗い流したいのだろう。
同じ階に住む男の子たちの生活に、もう少しだけ思いを馳せたかったスギナだったが、その未練を扉の外に残したまま、風待と手をつなぎ部屋に入った。
バターはたくさん使ってね、という風待の要望に従い、スギナはいつもより多めのバターをフライパンに投入する。
今日の夕飯のメインは、モブリコ寿司の練習で作ったタイの刺身を使った料理だ。
夕方の巡回前に一度下宿に戻り、冷蔵庫に入れて保管していたタイの身は、まだ生でも食べられるほど新鮮だが、包丁の使い方が慣れていなかったため、切り口が荒れていて、刺身として出すのはスギナにとって恥ずかしかった。
そのため、今回は刺身以外の食べ方をしたいと風待にお願いしてみたところ、本当はお刺身が食べたかったなあとは最初は渋っていたが、バター焼きにすることと、料理の最初に半身だけ先に焼いてほしいという条件付きで承諾してくれた。
料理前に先に焼くと冷めてしまうのではないかと、スギナは謎に思ったが、こちらが先にお願いしたことだから素直に従い、冷蔵庫からタイの身を取り出す。
塩胡椒と乾燥バジルの粉で味付けしたタイの刺身を、タッパーに入れた小麦粉にまぶし、バターが溶けたフライパンの上に一枚ずつ敷く。
弱火でゆっくりと焼いていき、バターをたっぷりと吸った表面の小麦粉が、軽くきつね色になる程度に火が通ったら、皿に上げる。
焼き続けるごとにバターの焦げた香りが台所に広がる。今日は昼食以降何も食べていないので、この匂いは胃袋を直接刺激する。
風待は、スギナの背後に下着姿でしゃがみながら、ドライヤーで髪を乾かしている。
肩甲骨の下まで伸びた長い黒髪を乾かすのは、本当に大変そうだなと毎回思う。
「先輩って、なんで髪伸ばそうと思ったんですか」
そういえば風待先輩が髪を伸ばし始めたのは、去年頃からだったと以前聞いたことがある。
一口サイズのタイのバター焼きを量産しながら、スギナは尋ねた。
「名前泥棒の話、覚えてる?」
髪を乾かす手を止めずに、風待が答える。
「北海道の支部にいるそいつが、セカンドリコリスになったとき、伸ばしていた髪を切ったって噂をモブリコ寿司にきたお客さんから聞いてね。当時私はショートヘアだったけど、あいつと髪型が被るのは死んでもイヤだったから伸ばし始めたのよ」
風待先輩は、本当は風待サクラという名前になるはずだったらしい。
しかし、孤児としてDAに連れてこられた初日、新しい名前を付けられた時に同席していた子が駄々をこね、無理やり名前を交換させられたという。
名前を奪われた恨み。それから十数年もの時がたち、お互い辺境の地に赴任した後も、未だ風待は怒りが収まらないようだ。
最近は今の自分の名前を受け入れることができたらしいので、そろそろ和解してもいいころ合いなのではとスギナは思うのだが、どうやらそれとこれとは別問題らしい。
私は良い名前だと思いますよ、ウメ先輩。と、背後にいる風待にスギナは心の中で呼びかける。
そんなスギナの気持ちにも気づかず、風待は延々とサクラという同輩への恨み節を一人語り続ける。
この話が出るたびに聞かされる愚痴を半分聞き流しながら、スギナは以前DA本部で指導を受けたサクラという名前の教官役リコリスの事を思い出す。
そういえば、本部のサクラ先輩、ショートカットだったなあ…
スギナは以前、サクラというセカンドの指導教官が本部附リコリスとして在籍していると風待に話したことがある。
しかし風待は、桜って名前のリコリスは多いし、あいつは性格も口も悪いから教官役なんて絶対できるはずがないから、多分別人よと否定された。
確かにそのセカンドの教官は口調に難はあったが、スギナたち後輩に対しては、面倒見がよく姉御肌の頼れる先輩だった。
訓練成績が悪く、担当教官のファーストリコリスに叱られていたスギナを横からとりなしてくれたことも何度かあった。
話に聞くサクラのイメージとは少し違うので、風待先輩の言う通り同名の別人なのかもしれない。
上の名前とか、どこの支部から本部に来たのかとか、訓練生時代にもっと聞いておけばよかったなと、スギナは交友関係の構築度が希薄だった当時を反省する。
そんなことを考えているうちに、風待の悪口のネタも尽きたようだ。背後が静かになり、ドライヤーの音だけが愚痴の代わりに騒がしく響く。
スギナの近くでドライヤーを当てているため、温風がスギナの背中にもかかる。
風に乗って漂う風待の髪の匂いが、バター焼きの匂いと重なる。
食欲と同時に、別の欲も刺激されそうな匂いだなとぼんやり考えるスギナの脳内の片隅で、ふと新たな疑問が芽生える。
「まさかとは思いますけど、先輩がセカンドリコリスになった理由も、その人がセカンドに昇格したからですか?」
「そうよ」
もしかしてと思い尋ねた疑問だったが、あっさりと即答される。
「モブリコ寿司の噂であいつの昇格を聞いたその日のうちに、DA本部に昇格審査の申請メールを送ったわ。当時ここにいた私の先輩はすごい嫌がっていたけど、あいつにだけは負けたくからね」
諸咲リコリスは芋かもしれんが、旅の風下に立ったことは一遍もないんで!と、当時のことを思い出したのか、ドライヤーを止め叫ぶ風待。
なんかつまらない意地の張り合いをしているな、とも思うが、それ以上に、たったそれだけの理由でセカンドに昇進できた風待先輩の才能と根性に、スギナは驚愕する。
それと同時に、別の疑問もわきあがる。
当時諸咲支部にいた風待先輩の先輩。その人はなぜ風待先輩がセカンドリコリスになるのを嫌がったのだろうか。
「ああ、それね。私の先輩って分校出身だったから基本的な戦闘能力が低くてね。その分知力はすごかったんだけど、それだけじゃ昇格はできないから、これ以上後輩が格上になるのはもう耐えられなかったんだって」
スギナの問いに、部屋着を着た風待が、出来立てのバター焼きが乗った大皿を、居間の座卓に運びながら答える。
「先輩の先輩って、サードリコリスでしたっけ?」
「そ、ここに赴任してから7年間、ずっと万年サード。その間一緒に暮らしてきた後輩のリコリスたちがなぜか全員優秀でどんどん昇進していったから、肩身が狭かったらしいわね。せめて最後の年の後輩くらいは同じ階級のままでここを去りたい!セカンドやファーストの後輩を引き連れて巡回するのはもう嫌だ!ご近所の笑いものになるのはもうたくさんだ!そんなようなこと、毎日言っていたわね」
制服の色で階級が分かれていることは、近所の人たちにはわからないのにね、と冷蔵庫を開けながら風待は屈託のない感じで笑う。
「その先輩の先輩って、たしかお名前は
冠典ゼリィ。
以前風待先輩がその先輩の名前を教えてくれた時、スギナは最初冗談を言っているのかと思ったその名。
名前を考えた生活担当官が、その時食べていた駄菓子からとったというそのネーミングは、スギナには、自分の名前で悩んでいたことが馬鹿らしくなるようなインパクトがあった。
「どんな人だったんですか、ゼリー先輩って」
「そうね…すごいちっちゃな先輩だったわよ」
「器量がですか?身長がですか?」
「両方、ってのは半分冗談だけど、まあ小柄な先輩だったわね。背丈だけでなく顔も幼くてね、私が初めて赴任してきたときはもう17か18歳くらいだったけど、私の方が年上に見られたくらいだったわ。顔はスギナやセノカと同じタ…なんというのか、ちょっと丸くてかわいい感じで、見た目は全然古参のリコリスらしくなかったわね」
そういえばこの支部って私以外みんなタヌキ顔ばかりね、なんか怖い…と一瞬真顔になった風待は、冷蔵庫を閉めながらスギナに聞こえないよう小声でつぶやく。
「ゼリー先輩も、自分の名前を嫌っていたんですか?」
台所でスナップエンドウのスジを取りながら、スギナが尋ねる。
「本人は結構気に入っていたみたいよ、かんてんぜりぃって名前。弾力があって透明感があって美味しそうで、キャラ立ってる名前でいいじゃないって」
「…その先輩って、プルプル真拳とか使えたりしました?」
「私もいくつか教えてもらったけど、実戦では使えなかったわ。セカンドには不要な技ね」
座布団を出し、座卓の前に座る風待。くつろいだ体勢で一息つくと、背後に隠し持っていた缶ビールのプルタブを開け、中の泡立つ液体をコップにゆっくり注ぎ、一気にあおる。
「あっ!しまっ…!」
その姿を見たスギナの体が硬直する。
風待先輩、いつの間にかビール飲んでる!
しかも500ml缶!