風待先輩、いつの間にかビール飲んでる!
しかも500ml缶!
スギナの日ごろの忠告が効いたのか、ここ数日風待は酒に手を出さなかったので、すっかり油断していた。
思い返せば、タイのバター焼きを半分だけ最初に焼いてほしいというお願いを聞いた時に気が付くべきだった。
塩コショウのきいたタイの切り身のバター焼きは、ご飯のおかずとしてだけではなく、ビールのおつまみとしても優秀だ。
しかも仕事終わりの風呂上がり、この時点で充分警戒するべきだった。
それにしても、サードとはいえ一人前のリコリスであるスギナの目前で、その目的を悟らせず気配を押さえ、何気ないそぶりでそっと冷蔵庫からビールを持ち出す風待の欺瞞能力は、さすがはセカンドリコリスといわざるを得ない。
セカンドの能力を無駄遣いしちゃだめですよ!とスギナは軽く風待をにらむ。
「この程度のこと、冠典先輩やセノカならとっくに見抜いていたはずよ。スギナはまだまだね」
風待はスギナの視線を軽く受け流しながら、美味しそうにビールを飲み、熱々のバター焼きを一切れ食べる。
もともとお刺身用に切り分けていたタイの身は、バター焼きにするとナゲットのような感覚で口に入れることができる。
多量のバターを吸い込みながらカリカリに焼きあがった小麦粉の皮と、火を通してもまだ弾力のある新鮮なタイの切り身。口中に広がる熱く濃厚な味を堪能した後、間髪入れず冷たいビールを勢いよく喉に流し込む風待。
幸せそうな顔だ。
本当に幸せそうな顔だ。
…まあ今日はいろいろあったし、一本程度なら許してあげようかな。
自分でも甘いなと思うスギナだったが、今日は先輩の顔にうろこをぶちまけたり、調理中の先輩の太腿を撫でまくったりしてしまった負い目もある。
それになにより、あれほど楽しそうに飲んでいる今の風待から、酒を取り上げるなどということは、スギナにはできそうもなかった。
お酒って、それほど美味しいのかな。とスギナは風待の晩酌姿を見ながら考える。
以前、スギナはお酒の味について風待に質問したことがある。
そのとき風待は、口移しでビールを飲ませてくれた。
美しい先輩の口内で温められたぬるいビールの味は、ただ苦いだけで、とてもではないが美味しいとは思えなかった。
大人になればまた嗜好は変わるかもしれないけど、少なくとも今の私には合わないなと、その日以来、スギナは風待がどれだけ勧めてもお酒は飲んでいない。
「先輩がお酒飲むようになったのも、そのゼリー先輩から教えられたんですか?」
スギナは鍋に湯を沸かし、大さじ一杯の塩と、スジを取ったスナップエンドウを投入する。
新鮮な野菜特有の、青臭い湯気が鍋から立ち上り、換気扇へと抜けていく。
「私のお酒は独学、去年の夏にセノカがいなくなってからよ。冠典先輩はお酒飲めなかったけどタバコが好きでね。食後の時間はそこのベランダでよく吸っていたわ」
「お酒の次はタバコですか。R-18になってもしりませんよ」
スナップエンドウが茹で上がる間に、タイのバター焼きに添えるキャベツの千切りを作るスギナ。
台所からリズミカルに響く包丁の音を聞きながら、風待はコップに残ったビールを飲み干すと、掃き出し窓の外に広がる夜の海を眺めながらつぶやく。
「懐かしいわね。冠典先輩はここから見える夜の海が好きでね、ベランダでタバコを吸いながら、いつも同じ歌、マッチ擦るつかの間海に……って歌をよく詠んでいたわ」
「リコリスが一番詠んではいけない短歌ですねそれ」
フライパンにバターを足したあと、新たなタイの切り身に小麦粉をまぶし、残りのバター焼きを作りながらスギナが答える。
風待先輩が酔うと、よくこの冠典ゼリィ先輩の話題が出る。
風待先輩がまだ風待後輩だったころのおはなし。
たいていは、ゆるい日常の他愛のない内容なので、スギナも軽くツッコミを入れながら聞き流している。
赴任半年でここから消えた芭照瓦セノカと違い、話が重くならないのは、無事に任期を終え異動していったからだろう。
あるいは、風待と年が離れているからなのか、あまりスギナの心に嫉妬心がわかないということもあるのかもしれない。
あとは、セカンドリコリス昇進を目指せるほどの実力があったセノカとは違い、あまり優秀ではない万年サードだったというところも、スギナには身近に感じられるのだろう。
「この諸咲支部って、先輩やセノカさんみたいに優秀なリコリスが意外と赴任しているのに、分校育ちのサードがいたってのは珍しいですね。なんでそんな実力不足のリコリスがここにいたんですか?」
自分の実力を完全に棚に上げ、風待に質問するスギナ。
「冠典先輩はね、見た目も性格も子供だったけど、かなりの博識で、頭の回転も並外れてすごかったのよ。指名手配犯の捜査や未解決事件の調査とかがすっごく得意でね、よく名古屋支部やDA本部に作戦参謀役やアドバイザー役として出張していたわ」
まるで自分の事のように、得意気に話す風待。
かつていた小さな先輩のことを、それだけ尊敬していたのだろう。
「数年前に中部地方のリコリスたちを震撼させた三大怪奇事件、シュトゥットガルトの憂鬱連続殺人事件、叛乱の制服連続殺人事件、ハンブルクの黒い霧連続殺人事件。この三つの大事件を解決したのも、実は冠典先輩だったのよ」
「犯人はブロッケンJrですね。私でもわかりますよそれ」
茹で上がったスナップエンドウをざるにあげ、余熱で水気を切る。
その間に、朝のお味噌汁の残りを温める。
冷蔵庫に残った酢飯のおにぎりと、漬物がわりのガリをお皿にのせ、座卓までもっていく。
「私も冠典先輩に連れられて、名古屋の捜査本部の会議に何度か同席したことがあったけど、先輩の立ち振る舞い、すごく立派だったわよ。名古屋支部長の
「後学のために会議連れて行ってくれたんですか。いい先輩だったんですね」
台所に戻り、粗熱の取れたスナップエンドウを、一つまみ分だけ明日の朝食用にとりわけ、残りを大皿に盛りながら話すスギナ。
マヨネーズと辛子、そして少量の醤油を混ぜ合わせ、スナップエンドウの上にかける。
本当はお醤油と削り節をかけて食べたかったが、この方がお酒のつまみになるだろうと考えた、スギナなりのちょっとした優しさがこもった一品を風待の前に置く。
「私も最初は後学のため、経験を積ませるために同席させたのかって思ったわ。だから会議後に先輩にお礼言ったんだけど、なんか違ったみたい。会議が紛糾して喧嘩になったとき、後輩の背後に隠れるために出席させただけなんだって」
「…黙っていればいいのに、そういうこと自分からバラしちゃう性格なんですね」
「休戚秘せず、隠し事やウソはつかない。そういう意味では立派な先輩だったわ。だから、私がセカンドになりたいって言った時も、おもいっきり本音でイヤがっていたのよね」
マヨネーズがたっぷりと乗ったスナップエンドウを口に入れながら話す風待。
どうやらビールに合う味のようだ。風待は上機嫌な顔でスナップエンドウを一本ずつ味わうように食べながら、景気よくビールを喉に流し込んでいる。
「けど、先輩が今セカンドになっているってことは、冠典先輩も最後はセカンド昇格試験の受験を認めてくれたってことですよね」
「どうなんだろうね。知識は大事だ、学問を猥に聞達の餌としなければそれでいいって勉強中は邪魔しなかったけど、リコリスは昇進しても苦しみが増えるだけだとか、私を置いてセカンドになるなとか、毎晩耳元で囁いていたわ。ただ受験当日の朝はなぜか静かになって、内箕駅のホームまでお見送りしに来てくれたんだけど、それがね…」
その時のことを思い出したのだろう、少し顔が険しくなった風待は、コップに残ったビールを一気に飲み干す。
「列車が出発する直前、車輛に乗り込もうとした私の足に、冠典先輩がしがみついてきたのよ。予想外の行動だったから、ホーム上で固まってしまったわ」
「ゼリーさん、なんでそんなことしたんですか?」
よくわからない展開に、バター焼きをフライパンからお皿に移す手を止めて、スギナが尋ねる。
「私の足に絡みついたまま、こんなこと言っていたわ…この電車に乗り遅れれば、試験に遅刻するは必定!遅刻は減点対象だからこれでもうお前は昇進できない!これぞ前日寝ずに考えた、私の寒天色の脳細胞がはじき出した完璧な時刻表トリックよ!って」
「ああ、内箕駅って電車来るの1時間に2本だけですからね…というか時刻表トリックってそういうものでしたっけ?」
「犯人がホームで被害者の足にしがみついて到着予定時刻を操作するって推理小説は、私も読んだことないわね」
バター焼きの横に千切りのキャベツを添えたお皿と、赤味噌のみそ汁のお椀を座卓に置き、スギナも風待の対面に座る。
座卓の上に並んだお夕食。酢飯のおにぎり、タイの切り身のバター焼きキャベツ添え、マヨネーズ味のスナップエンドウ、大根の千切りの入ったお味噌汁、ガリのお漬物。
手を合わせ一礼し、スギナも箸を取る。
「で、ホームでしがみつかれたまま、どうなったんですか。やっぱり遅刻したんですか」
「ううん。最初は呆然としたけど、遅刻したくないから、普通に蹴り飛ばして電車乗ったわ」
その時の光景は、熱海海岸にある寛一お宮像をイメージしてください。と付け加える風待。
「普通に蹴り飛ばしたんですか」
「そう、普通に蹴り飛ばしたわ」
「よくそんなことできましたね」
「簡単よ。先輩軽かったし」
「いや、そうじゃなくて…」
後輩が先輩を、しかも支部長を足蹴にしたリコリスは、そういないだろう。
これが大支部での出来事なら、かなりの大事件になっていたはずだ。
もっとも、部下の足に絡みついて昇進を妨害する支部長がいるという事のほうが大事件なのかもしれないが。
「そのあとDA本部で昇進試験受けて、無事にセカンドリコリスになって諸咲に帰ってきたんだけど、私のセカンドの制服姿を見た先輩の第一声が、この裏切り者おおおおおおぉ!だったわね」
「修羅場の始まりですね。ゼリーさんの怒りは何時まで続いたんですか?」
箸でタイのバター焼きを一切れ摘まみ、口に運ぶスギナ。
多めに使用したバターの重厚なコクと適度な塩気、胡椒の刺激とバジルの粉の爽やかさが、タイの身の味を引き立てながら舌の上で踊る。
温かいご飯が欲しいところだが、卓上には冷えた酢飯のおにぎりしかないのが残念だ。
「その日の夜は呪詛の言葉を吐きながら部屋の柱で爪を研いだり、畳の目を数えたりして怒りを表していたけど、翌朝にはぴたりと収まっていたわね。よく考えてみたら、今までいた部下が全員昇進したのは、この私の指導が良かったという証左でもあるな、って勝手に納得しながら、笑顔でどんぶり飯を食べていたわよ」
よくわからない先輩だったんですね、というスギナの率直な感想にうなずきながら、風待はビールのプルタブを開ける。
手だけではなく体ごと傾けながら、泡が出すぎないようにゆっくりとコップに新たなビールを注ぎ、一気にあおる。
「えっ…!」
先輩!二本目!
しかも500ml缶!