夕方の海って本当にオレンジ色なんだなと、スギナは疲れ果てた頭の片隅で思った。
眼下に伊勢湾を一望する、丘の中腹にある小さな公園。
あいさつ回りを終えたスギナは、貝殻のオブジェに彩られたベンチに腰掛け、ぼんやりと海を見ていた。
「おつかれさまでした、スギナ。町の偉い人たちにあった感想はどう?」
隣に座っている風待先輩が、スギナにミネラルウォーターを入ったペットボトルを渡す。
「意外と…敵意ありませんでしたね」
地方とはいえ行政を担当している大人たちだ。治安維持組織の噂は、大なり小なり知っているはずなのに、今日あいさつした人たちは特に気にしている素振りはないように見えた。
「私たちが銃を向ける相手は、テロリストや凶悪犯罪者だけだって分かっているのよ。普通に生きている人間、悪くても軽犯罪程度のことしかしでかさない一般市民にとっては無縁の組織だ、ってね」
「そういうものですか」
ぬるいミネラルウォーターを数口飲むと、スギナは空を見上げた。
薄暮の空はその暗闇を増し、いつの間にか点灯していた公園灯が二人を照らす。
「大規模な凶悪犯罪を仕出かさない限りは、逆に自分たちの町を犯罪から護ってくれる。毎日防犯のために街中を巡回してくれるし、地域によっては熊とか害獣駆除もしてくれる。少し怖いけど便利な存在。これくらいの距離感を常に保つのが、田舎支部では大事ね」
「害獣駆除?そんなことまでやっているんですか?」
DAの訓練課程では、対人戦闘以外は習っていないはずだ。
「北海道とか東北の各支部ではよくやっているんだってさ、熊撃ち。煩雑な書類仕事無しでこっそり殺処分してくれているから、お役所の人も喜んでいるって北海道支部から来たお客さんが言っていたわよ。人間撃つのとは違うスリルがあって、結構楽しいんだって」
それって本当に楽しいのだろうか。というかお客さんってなんだろう…。
疲れているせいで上手くツッコミの言葉が出てこないスギナに軽く笑いかけると、風待がベンチから立ち上がる。
「さて、今日の仕事終わったし、下宿帰る前に、これから歓迎会やろっか。スギナ、お寿司は好き?」
「あまり食べたことないんでよくわかりませんが、嫌いじゃないと思います」
本部の食事に寿司が出ることはほとんどなかったので、どうしても曖昧な答えになってしまう。
「そう…たぶんだけど、明日から好きになると思うよ。たぶんね」
公園を出て、夜の住宅街を歩く二人。細い道の両側に身を寄せ合うように建つ民家から、家族の喧騒と夕食の匂いが漂う。
―やっぱり港町の夕食って、お魚が多いんだな―
頻繁に漂ってくる焼き魚や煮魚の匂いが、スギナの空腹感をさらに刺激する。
しかし、なぜお寿司なのだろうか。と、歩きながらスギナは考える。
本部では、任務中の外食は基本禁じられていた。
巡回中の飲食店での食事は、どうしても隙が多くなる。せいぜいコンビニでの買い食いが、偽装の一環として許可されている程度である。
もっとも、ファーストリコリスレベルになると、どのような状況でも隙ができないとかで、外食は許可されているらしいが、スギナのようなサードには関係ない話である。
そのため、外出すなわち任務、の本部附リコリスたちの外食は、基本的に携帯食に限られてしまう。
スギナも、路上訓練中は色々な飲食店を目にしてきたが、先輩である本部附リコリスたちの教えを守り、入店したことは一度もなかった。
今でも、外食という言葉には、規則を破ることへの抵抗感と、隙をつくることになるという恐怖感がある。
しかし、これも田舎なりのやりかたなのだろうか。
スギナが問おうとしたとき、先輩の足が止まる。
先輩の目の前には、一軒のお店があった。
左右を木造住宅に挟まれた、小さな二階建ての店。古い建物だが、入り口は丁寧に掃き清められている。
横開きの扉の上に古びた暖簾がかかっているところを見ると、個人経営のお寿司屋らしい。
中に明かりは灯っておらず、扉の前には本日閉店の立て看板が置かれている。
電気がついていないためよく見えなかったが、目を凝らすと、紫色の暖簾には白字で、司寿こりぶも、と大きく書かれている。
司寿こりぶも?ああ、反対から読むのね、ええと…、…っ!
店名を見て固まっていたスギナの横とするりと抜け、風待先輩が扉を開ける。
「おやじさーん。今帰ったよ!」
風待は大きな声で暗い店内に呼びかけると、戸惑うスギナの手を引いて店内に入る。
店の中は無人。だれもいない。
にもかかわらず、風待は勝手に店内の明かりをつけ、勝手に調理場に上がる。
そして畳んであった前掛けを手に取ると、慣れた手つきで紺色の制服の上から腰に巻く。
着物帯のように緩みなく、丁寧に、そして一直線に巻かれた帯で結ばれた前掛けは、リコリスの制服に違和感を与えることもなく、料理人としての清潔感を与えている。
もともと姿勢もよく、所作にも気品がある風待先輩だから、何を着ても似合うのかもしれないが。
いや料理人って、というか店名…。
言い出したいことが多すぎて、逆に何も言えなくなっているスギナをカウンター席に座らせると、風待がつけ場に立つ。
食器棚から湯呑を取ると、粉茶とお湯を入れ、茶匙でかき回す。
「お茶どうぞ」
「お茶どうも」
両手でうやうやしく差し出された湯呑から、粉茶の若々しい香りが漂う。寿司店独特の、厚手に作られた湯呑をスギナは手に取り、一口飲む。
「あの…」
「じゃあ今から作るね。ちょっと待っていて」
質問しようと話しかけたスギナを遮り、台下からお櫃を取り出す風待。
冷蔵庫から手酢とワサビを取り出し、お櫃と共に右手側に並べる。同じく冷蔵庫に保管されていた、寿司ネタの入ったバットを左手側に置くと、酢水を中指につけ、手を軽く握る。
右手でお櫃からシャリを掴むと、そのまま左手で取ったマグロの赤身の裏側に右手人差し指でワサビを塗り、左手のネタの上にシャリをそっと乗せる。
右手人差し指全体で優しく押さえると、左手の指の上で転がすように寿司を上下半回転。右手で軽く形を整えると右回りでくるりと回し、もう一度左の手のひらで柔らかく包み込む。
再び開いた手のひらの上に、形よく握られたマグロの寿司が顔を出す。
刺身と御飯を合わせただけで、全く別な一つの作品に変身させる技法。
数秒の動作の中に込められた技巧。
長い時間をかけて修練したであろう技術。
それはスギナが初めて目の前で見た「料理」という名前の魔法だった。
「…すごいですね先輩!私、お寿司作るとこ初めてみました!」
「……」
心の底からあふれ出た、スギナの賞賛の言葉。しかし風待は、なぜかスギナの言葉には反応せず、黙々と寿司を握り続ける。
「手慣れていますけど、この支部に来る前から学んでいたんですか?」
「……」
「町の人にもお寿司作ってあげたことあるんですか?」
「……」
「外の暖簾について質問したいんですけど…」
「……」
「…先輩って、キレイですよね」
「……」
「先輩の下の名前って、なんていうんですか」
「…!」
最後の問いにだけはピクリと肩を震わしたが、それでも風待は頑なに寿司を握り続ける。
虚無に向かって一人延々と投げ続ける会話のキャッチボールに飽きたスギナは、まだ熱いお茶を一口飲むと店内を見渡す。
外観と同じく、小さく古びてはいるが、掃除の行き届いた清楚な店内には、四人用テーブル席が2台と、椅子が5脚並んだカウンター席がある。
カウンターに面している調理場の後ろにはコンロやグリル、冷蔵庫もあり、寿司以外の調理もできそうだ。
謎なのは冷蔵庫の横にある大きな金庫だ。大金でも入っているのだろうか、古めかしいが頑丈そうな金庫は、調理場にはあまりに不釣り合いだった。
カウンターの一番奥には扉がある。おそらく店主とその家族が生活している居間につながっているのだろう。
今でも扉の奥から、微かに人の気配がしている。風待が店内に入るとき呼びかけた、この寿司屋の本当の主人が在宅しているようだ。
しかし、リコリスが勝手に上がり込んで勝手に寿司を握っているのに、なぜ顔を出さないのだろうか。
まあ後で聞けばいいかと思い直し、スギナはもう一口茶を飲む。
風待は、まだ寿司を握っている、無言で握り続けている。
スギナはそんな風待先輩の顔を、ぼんやりと眺める。
本当に綺麗な顔をしている。
話をしている最中は、表情がころころと変わり可愛らしいが、こうして口を閉じ、作業に熱中しているときの顔は、美を彫像にしたかのような高貴な静謐さがある。
本当に綺麗な先輩。
本当に綺麗なセカンドリコリス。
スギナもセカンドリコリスは何名か知っている。
昨日まで訓練生だったスギナたちが暮らす施設と、本部直属リコリスが生活する施設は、建物が違うため普段は出会うことは少ない。
たまに図書室や情報処理教室で顔を合わせる程度だが、その場合でも訓練生たちは目線を合わせず、深々とお辞儀をして本部附リコリスが通り過ぎるのを待つだけ。話しかけるどころか顔を見ることすらできない。
しかし、教育期間の最後の一年間だけは、訓練生たちは本部直属のリコリスから直接指導を受けるため、本部棟内をすべて自由に、顔を上げて堂々と行き来できるようになる。
スギナたちサード候補生も、去年は本部内の訓練施設や路上訓練で、本部附のセカンドリコリスから教習を受けていた。
教導員として知り合った数名のセカンドリコリス。
よくしゃべるボーイッシュなセカンドリコリス。外人俳優のような顔のセカンドリコリス。自分とよく似たタヌキ顔のセカンドリコリス。
そのどれとも違う、清楚で可憐な先輩の顔。
スギナはそんな優美なセカンドリコリスを、一人だけ、一度だけ見たことがある。
あれは去年のいつ頃のことだったか、本部中央棟の噴水の前。
静かな華やかさを持った黒髪のセカンドリコリス。彼女は、その華やかさに負けないくらいの、明るさと快活さを持ったファーストリコリスと戯れていた。
姿を見たのはほんの一瞬。遠くから覗いただけなのに、その二人の姿は、スギナの心に強く刻み込まれていた。
この世界の主人公。
そんな言葉が思い浮かんだのを覚えている。
自分とは違う、なんだか輝いている。そんな気がした。
あの時見た二人は、今頃何をしているのだろうか。
少なくとも、無言で寿司を握っていないことだけは確かだな。
とりとめなく思い出された過去が現実に戻ると、スギナはあらためて風待を見る。
風待先輩はまだ寿司を握っている。
透き通った大きな目をわずかに細め、眉間に小さなしわをよせ頑張って寿司を握っている。
シャリとネタが手の平の上でくるくる回るたびに、形良い握り寿司が一つずつ誕生する。
できた握り寿司は、白木の盛り台に丁寧に並べられる。
盛り台の横には寿司桶が二つ置かれている。風待先輩は、どうやら自分の分も作っているようだ。
マグロの赤身にイカとタコ。大きな蒸エビ、アナゴにシャコ。折り込みを入れた玉子焼きにシャリを挟んだ玉子の握り。
7種類の握り寿司を2カンずつ作ると、次に風待先輩は巻き簀を広げて、その上に海苔を敷く。
海苔の上にシャリを広げ、細く切ったマグロの赤身を乗せると、両手で巻き簀を持ち上げ、一気に巻く。
軽く転がして形を整えると、巻き簀をとり6等分に切り分ける。
同じようにキュウリを巻き、かっぱ巻きも作る。鉄火巻きとカッパ巻き、二つの細巻きが盛り台に並べられた。
最後に風待は、握りと同じ手つきでシャリを4カン分握ると、短冊に切った海苔を巻き付ける。
その上に、スプーンですくったイクラとウニを2カンずつのせていく。
調理台を手際よく片付けると、盛り台に並べた寿司を、黒色の寿司桶に盛り込む。
握り寿司7カン、細巻き半本3切れが2種類と軍艦巻きが2種類。寿司の盛り込み一人前が完成した。
「さあ、食べましょうスギナ。色々聞きたいことはあると思うけど、まずは食べてみて」
寿司桶二つをテーブル席に置き、新しくお茶を注ぐ風待。テーブル席に座ったスギナの対面に座り、風待は割り箸を差し出す。
何気なく受け取った割り箸の包み紙にも、外の暖簾と同じ書体で『司寿こりぶも』と印刷されている。
まあツッコミ…というか質問は食事の後だ。一日中歩いていたので、正直お腹はすいている。それにこんな立派なお寿司を食べるのは初めてだ。
そう思いなおしたスギナは、無言で箸を取ると、少し悩んで風待先輩に目線を向ける。
「どうしたの?スギナ」
「あの…お寿司って食べる順番とかあるんですか?」
「んー、特に順番とかはないと思うけど…そうね、最初に食べるお寿司を決めかねているのなら、タコから食べてみて」
片手で頬杖をつきながら、初めての寿司に戸惑っているスギナの顔を楽しそうに見る風待。
まだ箸を手にしていないのは、初めて寿司を食べるスギナの初々しい反応のほうが気になるからであろう。
「タコ…ですか」
寿司桶の中では地味なネタに見えたタコ。少しだけ意外だったが、スギナは風待の言葉に従い、箸でタコの握りをつまむ。
醤油皿の上で握りを傾け、ネタの端に少しだけ醤油をつけると、そっと口に運ぶ。
柔らかい。
噛むごとに、シャリと一緒に口の中でぷつぷつと砕ける煮ダコ。
噛むほどに、甘ささえ感じるタコの身の深い味わいが広がる。
「この先にある祇能島や遑迦島で採れた生タコを使った、ここの名物よ。今朝水揚げしたタコを丁寧に塩もみして、大根と一緒に煮汁で煮込むの。煮汁は醬油と酒と味醂、あと隠し味に粉茶を入れて、煮込み時間は2時間。結構手間かかっているのよ」
「…美味しい」
驚嘆の声を上げ感激しているスギナの顔を満足げに見た後、風待も箸を手に取り同じタコの握りを食べる。
スギナは次に、玉子の握りを取る。
表面に焼き色の入ったカステラのような厚い玉子焼き。
中心に折り込みの切れ目を入れ、二つ折りにした玉子焼きでシャリを挟み込むように握られている。
口に入れると、玉子の濃厚なコクと、それを引き立てる様々な味わいを舌に感じる。
「ここの玉子焼きはね、季節ごとに微妙に味が変わるの。卵液に擦り下ろした山芋を加えて、酒とみりんと醤油砂糖で味付けをしているんだけど、その他にも季節の魚介類をすり鉢でよく擦って混ぜ合わせているわ。今日は白身魚を使ったけど、エビを使うことが多いわね」
スギナが寿司に箸を伸ばすたびに、一つ一つうんちくを語りながら同じ種類の寿司を食べる風待。スギナはそれを半分聞き流しながら、寿司桶に形よく並べられた寿司を次々と食べていく。
肉厚ながらも柔らかく味のしみた煮アナゴ。旨味と歯ごたえが酢飯とよく合うマグロ。
身がねっとりとして甘みのあるイカ。隠し包丁を入れているので食べやすい。
そして赤色の縞模様が食欲をそそる茹でエビ。過熱してなお身が大きく、一口で食べきれないのがまた嬉しい。
箸休め代わりにカッパ巻きを食べながら、握り寿司を全種類堪能したスギナは、次に軍艦巻きに手を伸ばす。
濃い橙色をしたウニと透明な紅色のイクラ。どちらもこぼれんばかりに盛り付けられている。
口に入れるとどちらも独特の海の香りと味が広がる。
巻きたてのため湿気ておらず、口中でぱりぱりと砕ける海苔が、その旨味に最高のアクセントを与えている。
最後に残った鉄火巻きは、お茶を飲みながらゆっくり味わう。
寿司のことはよく知らないながらも、ワサビが多めに入ったマグロの細巻きは、食事の締めにいいかなと考えて最後に残してみたのだが、どうやら正解だったようだ。
食後の余韻を楽しみながら、至福の表情で湯呑に入った粉茶を飲み干すスギナ。初めて食べた寿司の美味しさに、少し溶けかけた顔をしているスギナとは正反対に、気を引き締めた表情をした風待が話しかける。
「スギナ。このお寿司を食べてみてどうだった?」
「とてもおいしかったです!こんなおいしいお寿司初めて食べました!まあ、お寿司らしいお寿司を、お店で食べること自体初めてなんですけど…」
風待先輩の作ってくれたお寿司がどれだけ上手で、どれだけ美味しかったかを語ろうとするスギナ。その思いを声として出そうとしたとき、風待の独白めいた言葉がそれを遮った。
「…これではダメなのよ、スギナ」
「え?」