「本革の靴は、丁寧にお手入れをすると上品な艶がでます」
「はい?」
思わず真顔で聞き返す岡碕リコリス。
突拍子のないスギナの台詞に、体の震えも止まったようだ。
「私たちはみんな同じ装備を身にまとっています。同じ靴を履いています。だから、丁寧にお手入れされた靴かどうかは、見ればわかります」
その時のスギナは知らなかったが、正確には本部卒リコリスと、分校卒リコリスの装備は同じではない。
外見で判別されないよう、見た目は全く同じなのだが、制服の裏に織り込まれている防弾防刃繊維や、学生靴の底に仕込まれている防爆板、サッシェルバッグ内の防御用エアバッグなどは、分校リコリスの装備からは取り除かれている。
これは、正面戦闘訓練を受けている本部卒リコリスと、警戒巡回と暗殺を主任務とする分校卒リコリスの、任務の違いからくる措置である。
分校リコリスも一通りの射撃訓練は受けており、サイレンサーを使用した通常の暗殺任務なら問題なく遂行できるが、武装した敵と正面から闘う能力はない。
戦闘能力のない分校リコリスには、対戦闘用の防御装備は不要である。むしろ重い装備はある程度取り除いた方が、主任務である警戒巡回の妨げにならない。
DAの任務は暗殺が主体であり、正面戦闘が必要となる案件は少ない。国の最新技術と資金を惜しみなく投入して作製した防御装備をリコリス全員に行きわたらせた場合、敵に捕獲された場合の技術流出の危険、そしてDA内ですら無視できないほどの予算の圧迫が発生する。
そのためDAは正面戦闘に必要な防御装備や、火力増強用のサブマシンガンなどは、戦闘訓練を受けた本部卒リコリスのみに与え、まれに発生する戦闘任務にはその本部卒リコリスを投入するという形で、人数は多いが技能の少ない分校リコリスの業務の隙間を効率よく補完している。
しかし、スギナは分校リコリスと本部リコリスの差など知らない。
もし、それを理解していたとしても、スギナはそれを無視していただろう。
装備の差など関係ない。あなたと私は同じDAのリコリスだ。
技能の差など関係ない。あなたと私は同じサードリコリスだ。
卒歴の差など関係ない。あなたと私は同じモブのリコリスだ。
スギナは本部卒だろうが分校卒だろうが、もはや気にはしていなかった。今のスギナの心に映っているのは、ロビーで見た彼女の不安げな顔、そして艶が出るほどに磨かれた彼女の靴だった。
「あなたの靴、しっかりと丁寧にお手入れしてますね。今日の朝、がんばって磨いたんですよね」
「…はい」
小さくうなずく岡碕リコリス。
スギナはその目を見続けたまま、静かに語りかける。
「私も、ここに来る前、がんばって靴を磨きました。初めての出張任務だから、なんだか不安で、なんだか緊張して、けどなんだか心が高ぶって、先輩が休んでいなさいって言うんだけど、そんな気になれなくて、落ち着かないまま気がついたら靴を磨いていました」
話を聞いている岡碕リコリスの強張った表情が、スギナの言葉に反応して柔らかなものへと変化する。
スギナは話を続ける。
「だから、きちんと靴を磨いてきたあなたの気持ち、私にはわかります。任務がんばろうって思ってここに一番に着いたあなたの気持ち、私にはわかります。同じ艶をした靴を履いている者同士だから、その靴に込めた気持ちは、私にはわかるんです」
あまり上手には言えないものだなと、スギナは心の片隅で思う。
落ち込んでいる人を慰める会話。されることは多かったが、自分がするのは初めてだ。
しかし、その拙い会話でも、スギナの心は伝わっているようだ。蒼白だった岡碕リコリスの顔に、安堵の朱が混じり、生気を取り戻してきたのが、スギナにも見て取れた。
スギナは彼女の手を取ると、一緒に立ちあがる。
「私、筑詩スギナって言います。諸咲支部から来ました」
「…岡碕支部の、
立ちあがった後も、差し伸べた手を放そうとせず、岡碕リコリスのコナギが名前を名乗る。
スギナの手を握りしめたコナギの手は、まだ少し緊張に震えている。
「与えられた任務が自分にできるか、不安なんですねコナギさん」
「はい…」
私も、スギナさんと同じで、出張任務は初めてなんです、と小さな声で訴えるコナギ。
スギナはそのまだ不安そうなコナギの顔を見つめる。
同じ身長、同じ制服、同じ靴、同じ年齢、同じサード、同じ初の任務。そして同じ不安を抱えている目の前の少女。
緊張の度合いも似ている。髪型も似ている。モブっぽい顔も似ている。コナギとスギナ、名前もちょっとだけ似ている、紛らわしい。
少し前に出会ったばかり、それも話しかけたのは今先なのにもかかわらず、共通点が多いため、スギナにとってその少女は既知の旧友のような感じがした。
「同じですね、コナギさん」
「えっ?」
「私も不安なんです、任務」
だから、その気持ちもわかりますと、微笑を浮かべて語るスギナ。
「何事も、始まる前が一番怖いってよく聞きます。歯医者も、待合室や診察台の上で待たされている時が一番嫌ですよね。任務だって、歯医者と同じで始まってしまえば不安なんか感じるヒマありません。だから、不安なのは今だけだと思えば、前向きになれるはずなんです」
「でも…私、なんか未だに任務の内容がよくわからくて…」
「要点を掴めば大丈夫です!あなたの任務の重要ポイント、今から私が説明します!」
「ええっ?えっ?なんで?」
握りしめた手を思わず放し、大声を出してしまうコナギ。駅構内の連絡通路を歩く帰宅者が、数名驚いて足を止める。
「スギナさん!なんであなたが私の任務を知っているんですか?」
コナギにとっては、なぜスギナが自分の任務を知っているのか、全くわからなかった。
ロビーで説明を受けていた時、自分とスギナの間にはかなりの距離があった。任務の話は、スギナには聞こえていないはずだ。
もし聞こえていたとしても、重要ポイントがすぐわかるほど、自分が説明を受けた任務は簡単ではないはずだ。
「?…いや、知っていて当然ですよ」
スギナにとっては、なぜコナギが驚いているのか、全くわからなかった。
聴音訓練を積んだ本部卒リコリスにとって、ロビー内での会話は距離に関係なく聞こえていたこと。
今回のコナギの任務のような、都市部での動哨や偵察は、訓練生時代に都内でイヤになるほど模擬演習を繰り返しており、重要ポイントは把握していること。
これらスギナにとっては当たり前のことが、コナギには理解できなかった。
コナギたち分校リコリスは、防諜上の理由から、本部リコリスが持つ技能や技量について何も知らされていない。
そのため今のコナギには、目の前のスギナは謎の存在に見えていた。
「それよりも時間がありません。コナギさんの任務の中で、ここだけ押さえておけばいいところ、いまから説明しますから、よく聞いてくださいね」
コナギの頭の上に浮かぶクエスチョンマークを片手で追い払いながら、スギナが話し始める。
自分も早く現場に向かわないといけないし、通路に風待先輩を待たせている。
「コナギさんの任務で重要なことは、夜中1時までの間、有料駐車場で待機しているターゲットの、人数の変化を見ることだけです。あとはあまり気にしないでください。市内の巡回も任務に含まれていますけど、それは適当にやって下さい」
「けど…適当でいいんでしょうか」
「逆に適当じゃないとダメなんです。巡回に力を入れると、町のもめ事や他の小さな事件につい目が向いてしまいます。今回は重要な任務があるのですから、そんなことに気がとらわれることのないように、巡回は形だけにしておいてください」
―スギナは真面目だから、全部一生懸命にやろうとするんだよなぁ。大事な任務でも、気を抜くところは抜かないと、本当にしなくてはならないことに目が届かなくなるッスよ。
練習生時代、落ちこぼれの自分を何度も指導してくれた教導役のセカンドリコリスの先輩が、かつてこう説明してくれた。
上昇志向が強く、嫌っている人も多いと聞いていたが、私たち後輩にはとっては、相談相手にもなってくれる良い先輩だった。
なぜか本部附リコリスの同僚たちにも、私たちにも、そしてバディのファーストリコリスにも、同じ口調で話していたけど、あの話し方は口癖だったんだろうな。
「巡回は形だけと言っても、道順だけは確実に覚えてください。定時に同じ道を歩いていないと、そして歩きなれている感じを出さないと、ターゲットにいぶかしがられます。土地鑑は徒歩でないとつかめません。ここで地図アプリばかり見ていないで、今すぐ現場に赴いて、任務が始まるまで何度も歩いて覚えてください」
―行くところは多いけど、夕方までに行けるところは全部歩いて回りましょう。自転車使えば早いけど、土地鑑は徒歩でないとつかめないからね。
スギナが諸咲支部に初めて来た日、風待先輩がそう言っていた。
歩いて覚えるという事。その重要さを、風待先輩は教えてくれた。
巡回路の覚え方にはコツがある。練習生時代に教導役の先輩たちが教えてくれたそのコツを、諸咲で風待先輩が教えてくれたそのコツを、スギナは要約してコナギに説明する。
「…という感じで、曲がる角の位置だけ覚えてください。人がいない場所なら、マーキングチョークで目印描いてもいいです。あとは任務開始前まで何回か往復すれば、足が覚えてくれます」
スギナの説明に、コナギが何度もうなずく。これはスギナが何度も言われ続けたことなので、すらすらと言葉が出る。
「そして、一番大事な駐車場の定期確認ですが、コナギさんが今回監視する相手は全部で6人。という事は、ターゲットは2交代制で見張りに立つはずです。車中待機が3人に見張り役が3人、そう考えてください」
新近城埠頭で取引を終えた組織構成員が乗り換えるための車両とその運転役。今回のコナギの任務は、それらの数を定期的に確認し、深夜1時に交代する暗殺役の名古屋支部リコリスに伝えることである。
名古屋市内の有料駐車場で待機する車は、ライトバン3台と軽トラック3台の計6台。待機する人数は各車両の運転役、計6人。
市内の巡回をしているように見せかけ、30分に一度有料駐車場の前を通り過ぎ、その際に待機している車両や人数に変化がないかを偵察する。
本来ならば簡単な任務である。初めての出張任務とはいえ、分校で警戒巡回訓練を受けているコナギがそこまで心配するような仕事でもない。
しかし、今回の作戦では、リコリス側に不利な状況が一つあった。
今夜対峙する敵は、延空木占拠事件にも関係があるといわれる撈家集団。以前に千丁銃器密輸事件で使われた密輸方法を熟知しているこの集団は、当然ながら真島グループと何かしらの協力関係にあったはずである。
ということは、真島が配下の某天才ハッカーを通じて収集したDAの情報、リコリスの存在を、その集団も知っている危険があるのだ。
真島がどこまでの精度でその情報を伝えたのかは現時点では不明だが、少なくとも延空木から流された映像が、アトラクションの宣伝ではなく、真実であること程度は知っているはずだ。
であるとすれば、集団の構成員たちが、街で見かけるリコリスに警戒するのは当然である。延空木占拠事件があってからも、リコリスの制服デザインは変わっていないのだ。
今回、監視対象の目の前を横切るという任務内容に、コナギが必要以上に緊張していたのは、相手は自分たちのことを知っているのかもしれないという恐怖心が原因だった。
スギナは、その怯えるようなコナギの瞳から、彼女が何に恐れを抱いているのかを感じ取り、理解していた。
コナギが任務前に不安にならないよう、任務中にミスをしないよう、静かに話し出す。
「監視対象が私たちのことを知っていても、特に問題はありません。なぜならターゲットの人たちは、私たちのことは知っていても、今夜の作戦内容を知らないからです。リコリスのことを知っているのならば、夜中何度も同じ道を通るコナギさんを見たら、定期巡回中なんだなとしか考えません。パトロール中の警官と同じ邪魔な連中って程度に思われるだけで、表面上は無視してくれるはずです」
悪事を働く前に、巡回中の警察官にからみにいく犯罪者はいない。それと同じように、大事な任務で待機している最中にわざわざリコリスともめ事を起こすようなまねは、いくら暴力組織の構成員たちでもしないはずだ。
だから、監視しているという素振りさえ見せなければ、逆にターゲットの方から身を引いてくれますと、スギナは説明する。
「これから私が言う注意点を守れば、たとえターゲットの鼻先を通ったって大丈夫です。まず見張り役は3人。1人だけじゃなくて3人で見張っているという事を忘れないでください。おそらくその有料駐車場には、入口に1人だけ見張りが立っていると思います。けど、それはダミーです。本当の見張り役である残り2人は、駐車場から離れた場所で区画全体を監視しています。ダミーの見張り役の目を盗んで駐車場の中を確認する人物がいないか、それを二手に分かれた2名が、それぞれ別角度から監視しています」
だから、駐車場の前を横切るときは、けっして場内をのぞき込まないでください、歩く速度を緩めてもダメです、とスギナは警告する。
「顔を駐車場の方に向けてもダメです。視線を向けてもダメです。少しでも変わった素振りを見せたら、それだけで警戒されてしまいます。さいわい今回のコナギさんの任務は人数と台数の確認だけ。であれば、それほど難しい任務ではありません」
「でも、目を向けてもいけないなんて…」
少しくらいなら、目線向けていいですかと聞くコナギの言葉を、スギナは首を振って否定する。
「目線を向けた時、車内で休んでいるターゲットと目があったらそれだけで任務失敗です。そのターゲットが勘の鋭い人なら、すぐに埠頭で取引している仲間に連絡を入れるでしょう。そうなれば、今回の作戦、奇襲が強襲になります」
スギナが語る最悪の事態に、コナギの体が一瞬震える。
作戦前の監視任務。あまり難しくない任務だが、その中で起きた些細なミスが作戦自体を失敗に追い込んだ例は数多い。
練習生時代のスギナは、監視任務での失敗は、都内での模擬演習の時に何度もやらかしている。
本当に何度もやらかしている。ここまでひどくはないだろうというくらいやらかしている。
今でも、たまに夢に出て、うなされるくらいだ。
だからこそ、目の前のコナギにはしっかりと言わなくてはならない。
「目線は絶対向けてはいけません。たったそれだけの動作でも、気が付く相手なら気が付きます。偵察役のリコリス候補生の一人がぼんやりとターゲットを見ていたせいで、模擬作戦自体が大失敗した事例は、私は幾つも知っています」
「本部でも、ぼーっとしたリコリスっているんですね」
そのリコリスに親近感がわいたのか、くすっと可愛く笑うコナギ。
…悪かったな!私のことだよ!