近城埠頭は、昭和30年代に自治省認可の起債事業で整備された、総面積200万平方メートルの巨大な島式埠頭である。
名古屋港中央部に位置するこの埠頭への車両の乗り入れには、名港トライトネスと呼ばれる名古屋港を東西に横断する長大な橋梁を使うルートと、市内から埠頭につながる2本の短い橋を使う2種類のルートがある。
今回の作戦では、ターゲットである組織構成員たちは、名港トライトネスではなく、市内から伸びる2本の橋、近城橋か近城西橋を通り埠頭に潜入、そして撤収すると予測されている。
埠頭内に設置された、名港トライトネスの入り口である名港中央インターチェンジの料金所にも、一応名古屋支部のリコリスが2名待機はするが、長い橋を通るこのルートは尾行されやすく、また逃走に不利なため、少なくとも撤収する時に使うことは考えにくい。
名古屋市内に潜伏拠点を持つ組織である以上、湾岸自動車道は使わずに、身近な近城橋、あるいは近城西橋を使うはずである。
名古屋支部は、ターゲットの移動ルートの選択肢をさらに減らし、なおかつ金城埠頭の閉鎖を完璧にするため、この2本の橋のひとつ、近城西橋を二日前から閉鎖している。
閉鎖理由は類似構造物点検時に確認された箱桁下フランジの腐食部分の補修と、それに伴う橋梁下ガス管の臨時点検。突然の閉鎖の理由としては多少苦しいが、DAが中部地区のメディアを操作し、地域のニュースや臨時CMで大々的かつ繰り返し宣伝したため、今のところ急な工事に疑いの目を持つ市民はいない。
今作戦でターゲットとなる撈家集団の構成員たちも、これが自分たちを罠にかけるための偽装工作だとは誰一人気が付いていないだろう。自分たちを監視し敵対している組織が、まさか国内すべてのマスメディアを統制し制御しているとは、常識では思いもつかないからだ。
DAの一番の恐ろしさは、この国に住む人間ならば、犯罪者ですら持っている一般常識が通用しないところにある。
今回のターゲットたちも、大規模かつ巧妙に仕組まれたDAの欺瞞情報に導かれ、近城西橋は使用せず、東側の近城橋を通って埠頭に潜入している。
行きのルートに1本しかない橋を通ったという事は、帰りもそこを通るということ、そこだけはルートを変更できないという事である。
それは、名古屋支部の完全包囲作戦が失敗し、埠頭内でリコリスの襲撃を逃れたターゲットが発生した場合、彼らに脱出経路選択の余地は無いという事でもある。
取り逃がしたターゲットがどれだけ埠頭内を逃げ回ろうと、市内に逃走するためには、近城橋は必ず通らなくてはならない。車輛だろうが徒歩だろうが、広大な島型埠頭から脱出するには、この一本の橋を通るしか道はないのだ。
メディアを使った偽の情報を信じ、殲滅の網から逃れたターゲットは近城橋めがけて突進する。
無論、名港トライトネスと同様に、名古屋支部のリコリス2名が近城橋の埠頭側でそれを待ち受けるべく待機はしている。
しかし、逃走者が多い場合、あるいは逃走に車両が使われた場合、携帯火力の少ないリコリスでは突破を許してしまう危険がある。
名古屋支部が作成した今回の作戦計画は、近城埠頭内での準備はほぼ完璧ではあるが、近城橋を越えて逃げてしまったターゲットが出た場合についての策は立てていない。
これは、密輸コンテナが名古屋港に来るという情報をDAが得たのが3日前だったため、名古屋支部が作戦案を立てるのに十分な時間がなかったという理由が、表向きには挙げられている。
しかし、理由はそれだけではない。
今回の作戦において、DAは本部附の精鋭リコリスの派遣も可能だと打診していたのだが、名古屋支部はその申し出を断っているのだ。
複数の戦闘集団を有する関西の大支部や、教導役の精鋭リコリスたちが在籍しているDA本部に派遣を申請すれば、埠頭の外で問題が発生しても即座に鎮圧できる兵力を揃えることはできたのだが、本部や他の大支部に頭を下げるのは、名古屋支部のプライドが許さなかった。
自分たちの地域での作戦である。自分たちの兵力だけで成功させたい。名古屋支部上層部は会議前からその結論で動いていた。
名古屋支部は本部卒のリコリスを多く抱えている。戦闘集団である王須鉛撃隊もある。作戦区域を絞り、包囲戦術を徹底すれば、彼女たちだけで十分だ。
手薄になった市内には、日頃から自分たちが手駒にしている県内や隣県の分校リコリスを招集すればよい。大量に集めれば、分校卒といえ警備くらいは任せられるだろう。
関西や関東のリコリスに、力を貸してほしいなどと言いたくない。
関西や関東のリコリスに、名古屋の地は踏ませたくない。
関西や関東のリコリスに、今作戦の手柄は分け与えたくない。
名古屋支部を実質的に運営する役員や職員たちは、口にこそ出さないが皆がそう考えていた。
全ての大支部は、肥大した自尊心と狭量な縄張意識を持っている。
普段はそれを上手に隠し、他の大支部やDA本部と足並みをそろえることができるのだが、大きな事件や大きな作戦の際には、その汚れた部分が無意識のうちに転び出ることがある。
名古屋支部長臥観手ルミナは、今回の作戦案を見た時、その大支部の悪癖が如実に現れているのを見て取った。
DAの範囲外である海上警備だけは他の組織に依頼はしているが、それ以外は作戦開始から終了まで、メインイベントのすべてに他支部を招き入れない、名古屋支部の独り舞台。
ターゲットの抹殺を名古屋支部のリコリスだけで完遂させようとするこの作戦は、成功すれば手柄は独り占めだが、失敗した時のことは考えていない。
市内の敵拠点の排除に関しては、問題は少ない。直前まで分校リコリスに接敵させ、実際の射殺は経験を積んだ名古屋支部リコリスが担当するこの方式ならば、効率よく排除できるだろう。
ルミナ支部長が懸念したのは、今作戦のメインである近城埠頭での包囲作戦、特に近城橋の封鎖についてだった。
近城西橋の緊急工事に伴うガス管点検のためという名目で、埠頭内の各施設は作戦当日の夕方からガスの供給が停止する。
そのため、埠頭内のアミューズメント施設や工場は夜8時から翌朝6時まで閉鎖。埠頭内の人員は普段の2割程度まで減少する。
それでも埠頭内で夜間に働く人たち全員の撤収は不可能だったため、無人地域の新近城ターミナル以外で戦闘が発生した場合、一般人に死傷者が出る危険がある。
武器取引のため新近城ターミナルに集まるターゲットの人数は不明。戦闘に秀でる王須鉛撃隊が、ターミナル内の無人区域で完全に包囲し完全に殲滅する予定ではあるが、奇襲が失敗した時は、ターゲットは密輸商品の銃火器を手に持ち、複数の搬送用車輛で逃走する凶悪な武装兵士へと変貌する。彼らが埠頭内を逃げ回るような事態になれば、名古屋支部の精鋭といえ、鎮圧には時間がかかるだろう。
しかし、それでも埠頭の内だけで事が終わればまだ幸いである。目撃者が少ない夜間の埠頭内の出来事ならば、一般人に多少の死傷者が出ようと事件の隠蔽は可能だからだ。
問題は、近城橋を越えて、ターゲットたちが市内に逃走した時である。
名古屋市内にターゲットが逃走した場合、市内に分散配置した分校リコリスでは鎮圧や収拾は不可能なのだ。
リコリスの追撃を受けながら必死に逃走するターゲットたちには、もはや未来はない。自暴自棄になった武装集団が大都市内に侵入した場合、どのような大惨事が起こるかを考えるには、わずかな想像力があれば事足りる。
そうならないためにも、近城橋を守るリコリスの数を増員してほしい。臥観手ルミナ支部長は、今回の作戦について意見を求められたとき、このように語った。
本当ならば、埠頭内での一般人の犠牲を避けるため、他の大支部や本部に戦闘集団の派遣を要請したかったのだが、そのような権限を持っていないルミナ支部長にとって、橋の警備の増強は、彼女の立場からできる精一杯の懇願であった。
普段ならば、形だけのトップであるルミナ支部長の意見など、参考程度に記録されるだけで、後は一顧だにされないのが通常だったが、今回は、名古屋支部の役員や職員たちは、その意見を傾聴していた。
武装したターゲットが埠頭から逃走し市内に入る事態。市内での銃撃戦にでもなれば、すべてのメディアを操るDAの隠蔽能力をもってしても隠し通せない大事件となってしまう。
そしてその失態の責任は、すべて名古屋支部が被らなくてはならないからだ。
新近城作戦の会議終了後、名古屋支部上層部は、本館の一室に集まり、近城橋の増員について話し合った。
橋の埠頭側で待機するリコリスは名古屋支部の2名。その人数を倍に増やせばいいだろう、名古屋支部のリコリスを他の場所から2名移動させ、橋の近くに配置すればよいだろうという考えで始まったこの話し合いは、意外と長丁場となった。
名古屋支部から出せるリコリスが、これ以上いなかったのである。
今作戦の手柄を独り占めしようと、名古屋支部リコリス総員71名を重要拠点に配置した結果、予備人員がまったくプールされていない状況に陥っていたのである。
周辺支部からかき集めた分校リコリスならば多くいる。しかし、今名古屋支部が必要なのは、分校リコリスのような軽い手駒ではない。本部で教練を受けた、正面戦闘能力のあるリコリスが必要なのだ。
たった2名。その程度の人員すら配置できないのかと、上層部の役員たちは色めき立った。
埠頭内で待機するリコリスの配置の変更も検討してみたが、ただでさえ最低限の人数しか配置していなかったため、増員無き配置変更は薄い守りに更なる穴を開けるだけでしかなかった。
ならば王須鉛撃隊から引き抜けばどうか、という案も、討論の結果棄却された。取引現場に、どれだけの人数のターゲットが集合するかわからない以上、主力である王須鉛撃隊の火力を減らすわけにはいかないのだ。
当初の予定より長引いた話し合いの結果、名古屋支部上層部は新たに2名の派遣依頼を追加決定する。
依頼先は県内にある諸咲支部。書類上は出張依頼という形をとってはいるが、中部地区の中核支部である名古屋支部は、県内や隣県のリコリスを自由に徴集することができる。大支部からの派遣依頼は、実際は招集命令なのである。
もともと諸咲支部は、名古屋支部が自分の手札として存在させている支部である。
DA本部からの派遣命令があったとき、名古屋支部の代理として気軽に放り出せる人材。
自分たちの支部内で銃撃戦があった時、盾役として前面に立たせる人材。
書類上だけは重要な田舎支部に、戦闘技能のある本部卒リコリスを温存させ、DA本部からの出張任務の依頼や、自分たちの管区内での危険な作戦があった時には、優先してその任につかせる。
そうすれば、本部からの突発的な出張任務による欠員を防ぎ、さらには突発的な作戦時の増員にも対応できる。
このような支部の存在は、DA本部から見れば、優秀なリコリスに無駄な田舎暮らしをさせているだけの怠慢配置でしかない。しかし常に多数の事件を抱える大都市支部にとっては、人手不足になりがちな都市部リコリスの人数バランスを安定化させるために必要な、窮余の調整策でもあった。
今回の作戦には、諸咲支部の徴用は考えていなかった。
近城橋の防衛に穴があることがわかるまでは、名古屋支部の火力だけで殲滅は事足りると考えていたためである。名古屋支部のリコリスと連携できる実力を持つ外様のリコリスを今作戦に招集した場合、手柄の独占ができなくなると考えた上層部は、分校リコリス以外の徴用を控えていたのだ。
しかし、
近城橋の防衛だけなら、自分たちの手柄独占の邪魔にはならないだろう。
橋の埠頭側ではなく、港区側に立たせておけば、名古屋支部だけで埠頭を制圧したと宣伝できるだろう。
そればかりではない。もし作戦が失敗し、ターゲットが近城橋を超えて逃げてしまった場合は、その責任を諸咲支部のリコリスたちに負わせることもできるだろう。
名古屋支部を実質的に運営する役員たちは、そのような暗い思惑を秘めつつ、作戦内容を一部追加修正、翌日の朝にDA本部を通して諸咲支部に出張任務の通知文を送信した。
それは他支部への通知から遅れること1日、今から13時間前の6月18日、朝7時のことだった。
「それってなんか地味な任務ですね」
そのような大支部の思惑など全く知らないスギナは、小雨の降る歩道を歩きながら素直な感想を語る。
名古屋駅から青凪線に乗ったスギナと風待の二人は、近城埠頭手前の能積駅で降り、約1㎞先の近城橋まで徒歩で向かう。
近城埠頭へと続く片側3車線の道路は、その道の広さにも関わらず、通る車両の数は少ない。
もともと市道近城埠頭線は、休日よりも平日の方が交通量は多いのだが、今夜はDAの工作で、埠頭内の娯楽施設や工場が夕方から停止しているため、一般車はほとんどこの道を通らず、コンテナヤードに向かうトラックが、雨を押しのけ埠頭へと走り去る姿がたまに見受けられるだけである。
名古屋支部のリコリスが埠頭を包囲しているとはいえ、埠頭内の物流がすべて停止しているわけではない。閉鎖されている近城西橋の分のコンテナトラックもこの道を通るため、車両の往来は一晩中続くはずだ。近城橋を渡り、トラックが行き交うこの道を通って市内に脱出しようとする敵を阻止するのが私たちの任務よ、と夜の歩道を歩きながら風待はスギナに説明する。
待機場所は近城橋の入り口側、それぞれが歩道と中央分離帯の陰に隠れて待機。もし脱出する敵がいたら名古屋支部から通信機で緊急連絡が入るから、該当する人物か車両を発見次第処理する、これだけのことよ。スギナ、質問ある?
「やっぱり地味な任務ですよそれ。だいたいターゲットが埠頭を越えて逃げて来る確率ってどれくらいなんですか?」
「んー、多くて1パーセントくらいかな。戦闘専用の本部卒リコリスだけで構成された、王須鉛撃隊総員20名の一斉奇襲に反撃できる集団なんてまずいないしね。しかも今回はルミナ先輩が直接指揮を執るし、名古屋支部の中央指揮室とDA本部の作戦司令室が、埠頭内すべての監視カメラと防犯カメラをすべてハッキングして、埠頭中を監視するから、万が一ターゲットが銃弾の網をくぐり抜けたとしても、新近城ターミナル内はもとより近城埠頭の中で隠れる場所はないわ」
逃げることができるとすれば、そうね…と、風待は少し考える。
「逃げることができるとすれば、敵が車両を手に入れた時かしら。密輸銃器の受取側の人たちなら自分たちが乗ってきた車があるし、埠頭内にもいろいろな乗り物があるしね。そのどれかを動かすことができれば、新近城ターミナルから近城橋までの道は一直線。走って逃げるには酷な道だけど、乗って逃げるには楽な道ね」
「車で逃げる可能性が高い、ということですか」
「徒歩で逃げる可能性を捨ててはいけないけど、敵がこの橋までたどり着けることができる確率は、徒歩より車の方が高いでしょうね。背中向けて走りながら一本道を逃げるより、車に乗って逃げたほうが速度も防御力も格段に違うってことくらい、どれだけパニックになっていても気が付くからね」
話しながら歩いているうちに、近城橋の手前に到着する。
右手側は工場の倉庫、左手側は青凪線が通る高架。
歩道は広いが、周辺の工場地帯も埠頭内と同じく臨時休業中なのか、小雨降り続く夜8時の道を歩く人はいない。
道路を走るトラックや市バス、高架上を通る電車の音は、雨の音を消すほどに騒がしいが、それでも道の街路灯と車のヘッドライトしか明かりのない近城橋周辺は、スギナの目には侘しい景色に見えた。
「あと2時間ほどで名古屋支部のリコリスを載せたバスがこの道を通るわ。彼女たちが埠頭内に入ったら、私たちも橋の前で待機開始。まだ時間は充分にあるから、今のうちに周辺の道や地形を歩いて確認しておきましょう、土地鑑は徒歩でないとつかめないからね」
周囲の環境を知っておけば、戦闘でも追跡でも一歩先んじることができる。そして周囲の環境を知るには、実際に歩いてみることが一番早い。
土地鑑は徒歩でないとつかめない。風待が常日頃繰り返すその言葉に、スギナはしっかりとうなずく。
ターゲットも知恵を持つ人間である以上、徒歩で近城橋を越えてきた時は、市内の様々な逃走ルートを使いリコリスの包囲網から逃れようとするだろう。
相手がどのような経路で逃走しようと、確実に追い詰めることができるよう、周辺の道や隠れることのできそうな場所は把握しておかなければならない。
無論、逃走する相手が車両を使う場合は、どれだけ土地鑑があっても意味はない。敵は道路を一直線に、人が走っても追いつけないほどの高速で、この場所を通り過ぎるだけだろう。
しかし、徒歩で逃げてくる可能性がわずかでもある限り、周囲の確認はしておかなくてはならない。
万が一の事態に備える、徹底した下準備。実戦では最も大切なことの一つよと、歩きながら風待はスギナに話す。
諸咲支部の支部長として、先輩リコリスとして、セカンドリコリスとして。本部を卒業して、はじめての出張任務に挑むスギナに、風待は現場での心得をスギナに教えようとしていた。
スギナも、風待のその心は理解していた。
任務に集中しつつ、自分のリコリスとしての成長も考えてくれている風待先輩の心遣いが、スギナには嬉しかった。
だからこそ、しっかり風待先輩の話を聞いておこうと思った。
今回は幸運だった。
初の出張任務に、風待先輩一緒に招集されたこと、そして配置場所まで風待先輩と一緒だったのは、本当に幸運だった。
本来は、出張任務は単身で赴くものらしい。
名古屋駅で会った、岡碕支部の
もし私も一人で名古屋支部に招集されていたら、あのコナギさんみたいに、支部本館内で心細そうにしていたに違いない。
風待先輩と一緒に行ったからこそ、あのように本館内のロビーで大きな顔ができたのだ。
私一人だったら、数の暴力で分校リコリスたちからイジメられていただろうな、とスギナは本気で考える。
今回は幸運だった。しかし幸運に二回目はない。
次回からの出張任務は一人だけになるだろう。その時のために、今日は風待先輩からいろいろ教えてもらおう。任務の注意点を確かめ、任務の心構えを聞いておこう。
スギナはそう決意し、風待先輩と共に夜の脇道を歩く。
任務開始時間は夜10時。あと残り2時間。
漆黒の空から降る雨は、少しずつその量を増していった。