市バスの最終便が通り過ぎ、青凪線の最終列車が通過する頃になると、近城橋周辺は一気に静まり返る。
夜10時前、作戦開始まであと少し。
周辺道路の確認を終えた風待とスギナは、近城橋下の歩道で雨宿りをしていた。
「かなり降ってきましたね。先輩、今夜の天気ってどうでしたっけ?」
雨の中歩き続けたため、頭から足先まで濡れたスギナが、同じく全身に水滴を纏う風待に尋ねる。
「夕方に見たDAの天気予報だと、夜間には止むだろうって予測だったけど、当たらなかったわね。この分だと、一晩中降るでしょうね」
風待がスマートフォンを取り出し、気象庁のホームページを模しているDAの気象情報サイトを見る。
「やっぱり予報が変わっているわ。最新の情報だと今夜いっぱいは止まないって。これからだんだん強くなって、ピークは夜の3時。それから少しずつ弱くなって、雨が上がるのが朝5時頃だそうよ。雨が一番強くなる時間前に作戦が終わるのが唯一の救いだけど、雨の中の任務って正直疲れるわね」
「コナギさんも、今頃雨の降る市内を歩いているんですよね…」
橋の下の歩道から見える黒色の海と、その先に見える近城埠頭を見ながらスギナがつぶやく。
夜空の闇色と雨雲の黒色で侵された世界に抵抗するかのように、煌々と輝く灯を全身に塗しながら存在を主張する近城埠頭。そしてその埠頭の明かりは、光の欠片となって黒色の水面にも漂う。
海全体に降りそそぐ針のような雨粒が、海面に浮かぶ光点を貫くたびに、その煌きは姿を変え形を崩し、生き物のように悶えている。
「荒天の中での巡回は、分校リコリスだって経験済みよ。分校と言え同じリコリス。私たち本部卒ほどではないにしても、DAが幼少時から鍛えた立派なリコリスよ。彼女の任務が無事終わることを願っているのなら、今は心配するより信頼してあげなさい」
スギナと同じ、初めての出張任務だという
「分校卒と言っても、体力と知識、そして射撃能力は一般警察官と同じレベルだから、実力は充分よ。あの子だって今夜は辛いだろうけど、それを乗り越えれば、経験を糧に成長するはずよ」
「そうですね…」
それでもまだ浮かない表情をしているスギナの顔を、風待がのぞきこむ。
「まだ他にも心配事がありそうな顔ね。スギナ、もしかしてこの作戦が不安なの?」
末端のリコリスが、大局を心配しても仕方ないわよと語りかける風待に、スギナが首を振る。
「いえ…公園に置いてきたお菓子の袋、大丈夫かなって」
「ああ、そっちの心配ね」
拍子抜けしたように肩をすくめる風待。
今からさかのぼること一時間前。周辺の環境を確認するために町中を歩いていた二人だったが、途中から雨脚が強くなってきたため、持っている手提げ袋が濡れ始めた。
警官や軍人と同じく、任務中のリコリスは傘を持たない。
雨中の任務で自分が濡れるのは慣れているのだが、手提げ袋の中のお菓子が濡れるのは避けたかった。
名古屋支部を出る時に大量に奪取した戦利品。あわよくばお土産として持ち帰り、諸咲の下宿でゆっくりと食べたかったお菓子たちである。個包装されているとはいえ、水浸しにはしたくない。
作戦が終わるまで、どこか雨の当たらない場所に隠しておきましょうという案が即決でまとまり、二人は歩く足を止め、周辺を見渡した。
そのとき二人がいた道は能積駅の西側。右手側に球場公園、左手側に緑化地帯が広がる道を北に向けて歩いていた。
幸いにも深夜の人通りの少ないこの周辺で、二人がお菓子袋の避難場所に選んだのは、右側の野球場公園内の奥にある簡易ベンチだった。
埋め込み式の丸パイプでできた骨組みに、日よけと雨よけ兼用の防水シートが貼られただけの質素な天井。その下には外用の長いすが2脚置かれている、典型的な草野球用のベンチ。
入口を施錠され、フェンスで囲まれている公園内に、夜間、それも雨の日に入り込んでくる人はまずいない。となりの緑地帯の方が人目には付かないかもしれないが、なにもない球場公園のベンチならば、林の中と違い虫が入り込まないだろうという安心感もある。
二人は胸の高さまであるフェンスを軽く飛び越え、わずかにぬかるんできた夜の公園を、足跡を付けないよう横切ると、ベンチの天井シートを支える鉄パイプの内側に、雨に濡れないよう菓子袋を吊るす。
そして再び道路に戻り、周辺確認のため歩き出したのが今から約1時間前。
それから雨の勢いはますます強くなってきたので、あの時点で公園に手提げ袋を置いてきたのは正解だったが、手元から遠く離れた場所のため、スギナは少し心配しているようだった。
「あそこなら夜間に人は入らないし、公園内も暗くて目立たないから安心よ。もし吊るしてある袋が見えたとしても、ただの忘れ物だと思うでしょうしね。それより今は、ポケットにあるお菓子の方に注意を配りなさい。任務終了まで、きちんと時間配分を考えて糖分補給すること。いいわね」
制服の生地が伸びるのではと心配するほどに、お菓子をぎゅうぎゅうに詰めたスギナのポケットを、風待は軽く叩く。
はい、気を付けます、と返事をするスギナ。彼女も、遠くにあるコナギや菓子袋のことをここで心配していても始まらないと、気持ちを切り替えたようだ。
雨音がますます騒がしくなっていく橋の下で、二人は装備の最終チェックに入る。
グロック36と予備弾倉の相互チェック後、ヘッドセットタイプのIP通信機を左耳にかけ、お互いの通信状況を確認する。
今作戦では、風待は名古屋支部本館内の作戦指令室とスギナに、スギナは風待にのみ相互通話ができる。
スギナが名古屋支部と相互通話ができないのは、敵に通信機を奪われた場合の情報漏洩を防ぐためである。本部卒とはいえ、今日が初陣のサードリコリスの実力を全面的に信頼するほど、名古屋支部は甘くはない。
「さあ、そろそろ行くわよ。スギナ、心の準備はいい?」
「えっと…ひとつだけいいですか」
夜の海にわずかに目を向け、スギナが質問をする。
「どうしたの、スギナ?」
開始前の気勢を削がれたというのに、風待は気にした風もなくスギナに尋ねる。
作戦の前は、どのような些細な疑問でも、きちんと話し合って不安をなくすべきだ。風待はその大切さを知っているからこそ、スギナの質問に耳を傾ける。
「私たちの任務は、橋からくる敵を処理することですよね…もし、敵が橋以外から逃げて来たときは、どうするんですか」
「橋以外の場所ね。例えばスギナは、どのようなシチュエーションを想起したの?」
風待が逆にスギナに質問をする。
「私が考えたのは、海から逃げる場合もあるんじゃないかってことです。埠頭から泳いで、あるいは橋から海に飛び込んで逃げようとするパターンもあるんじゃないかと思ったんです」
スギナは、海の先に見える近城埠頭を見ながら答える。
埠頭から港区までの距離は約100メートル。黒々とした夜の海に飛び込むのは、わずかばかり勇気はいるが、泳いで渡れない距離ではない。泳ぎに自信がある人物ならば、逃走ルートの選択肢として思い浮かんでも不思議ではない。
実際には、予想外に強い潮の流れや、上陸できる場所が近くにないなどの問題が多く、逃走経路に組み込むには難があるのだが、追われている最中のターゲットには、そのようなことを考えている余裕はないだろう。特に橋の両側からリコリスに囲まれた時には、破れかぶれになって海に飛び込まれる確率は高いはずだ。
「うん、よく気が付いたわね。スギナはさっきまで海見ていたけど、その時気が付いたの?」
「はい、橋の防衛以外は私たちの任務じゃないってのは分かっていますけど、やっぱり気になって…」
任務以外のことを気にしていてはダメよ。と怒られるかなと、スギナはそっと風待の顔を見る。
任務前にもかかわらず、任務外の質問をしてしまったスギナに、風待は笑みを返した。
「大局を気にしてはいけないってさっき言ったけど、それでも自分の対処できる範囲内で起こりうる、様々な突発事項を考えることは大事よ。スギナ、よく考えてよく質問してくれたね」
今後の成長のためにあえて残した研究課題を、見事に自力で解いた学生を褒める教師のような表情を風待はスギナに向ける。
ということは、何か対策は取られているんですかと、少し首を傾げ質問するスギナに、風待は笑顔でうなずく。
「実は名古屋支部でルミナ先輩に任務内容について聞いたときに、私も同じこと尋ねたのよ。海側の包囲はどうするんですかって。そうしたらルミナ先輩ね、私のこと褒めてくれたのよ。やっぱり諸咲リコリスは優秀だなって」
だから、同じこと考えたスギナも、ルミナ先輩は褒めてくれるはずよ、と風待は嬉しそうに言いながら言葉をつなぐ。
「で、これから先は極秘事項なんだけど、海から逃げる相手に対しては、DA以外の別組織が対応するそうよ。海上警備に優れた装備を持つどっかの組織が、私たちに協力してくれているみたい。海は私たちの範囲外だから、DAも名古屋支部もしぶしぶ依頼したそうよ」
「ルミナ先輩って、そこまで話してくれたんですか?」
「さすがにどこの組織かまでは教えてくれなかったけどね。これまでDAと仲悪かった組織で、延空木占拠事件の時にもなんかイザコザがあったらしいんだけど、その後にトップ同士が話し合って、すこしだけ和解したんだって。その一環として、お互い協力できるところは少しずつ協力し合おうって話になったらしいわね。今回の作戦は、この協力体制の初めてのテストケース。互いに接触せずに、陰でフォローするという形で作戦に参加するみたいよ」
海と空、このふたつはDAにとって完全に守備範囲外である。
海と空を制するには、専門の艦船や航空機、専用の港や飛行場などが必要である。秘密裏に存在しなければならないDAが、これらの大道具を所有することは、どう考えても無理である。
無理を押してそれらを手に入れても、DAにとっては手に余る存在である。戦闘機やミサイル艇で社会の敵を暗殺するのは楽だが、それはもはや暗殺ではないし、静寂主義のDAではない。社会の裏で密かに活動し、それを国民が見て見ぬ振りをしてくれているからこそ、DAは存在できるのだ。
現在DAが海空に手を伸ばせる装備は、海は離島支部がそれぞれ持っている連絡用の小型ボート、空は本部内ヘリポートにある多用途ヘリコプター1台と小型ヘリコプター3台のみである。
これまでは、空からの監視や海側の封鎖などが必要になった場合は、民間の航空会社や海上保安庁などに秘密裏に援助を要請していた。
しかし今回は、それ以外の組織が初めて応援に来てくれたという。
「裏でそういう話があったんですね。けど、どうして名古屋支部は、このことを秘密扱いにするんですかね」
「極秘事項にした理由を考えるとすれば…そうね、協力体制をとる組織が、私たちと同じ秘密主義の集団だからなのかもね。もしくは名古屋支部のプライドかな。この作戦って、名古屋支部が手柄独り占めにしたいらしいから、たとえ範囲外の海であっても、手を借りたなんて公にはしたくないでしょうし。あと考えられるのは、DAとその組織の過去の諍いが、まだ完全に抜けきっていないとかかな。あとは…」
思いつくままに、すらすらと例を挙げる風待。
風待はスギナ以上にDAの内部事情を知っている。
前諸咲支部長だった冠典ゼリィ先輩から受け継いだ知識と、モブリコ寿司の客席から聞こえてくる噂話。
それらを土台にして築き上げていく推論は、おそらくすべて正解なのだろう。
「私たちリコリスが知らない謎の組織から今回派遣されたのは2名。向こうにある近城西橋の下で待機しているらしいわよ。特殊な水上オートバイ乗って、落水した敵がいたら処分するんだって」
スギナは、雨粒に霞む外の景色に目をやる。
自分たちのいる近城橋から離れること約200メートル弱。封鎖中のためか橋上の街路灯がすべて消えている近城西橋は、暗い夜の海に同化したかのように、黒々としたシルエットだけをわずかに残し佇んでいる。
暗色の空と闇色の海、その狭間の橋下に落ちている影の奥に、謎の応援部隊の二人が待機していると風待は説明してくれたが、あまりに濃い闇と降りしきる雨が視界を遮っているため、スギナの目には何も映らなかった。
「気配みたいなのは感じますけど、何も見えませんね…先輩は見えるんですか?」
「私が見えるのは、せいぜいシルエットくらいね。黒いダイビングスーツ2人に黒い水上オートバイ2台、まさに夜間専用の装備って感じね。ファーストならもっとはっきりと、相手の顔まで見えるんでしょうけど、セカンドの視力ならこの程度ね」
ファーストって視力もバケモノなのよね、と少しだけ悔しそうに言う風待。それだけ見えればセカンドも十分バケモノですよ、とスギナはきちんとツッコミをいれておく。
「それはともかく、そろそろ10時よ。あと少しで王須鉛撃隊のバスが通るから、お見送りしましょう」
近城埠頭を監視する名古屋支部リコリスは、すでに埠頭内に潜入し、各自所定の場所で待機しているが、新近城ターミナルを包囲する名古屋支部の精鋭部隊、王須鉛撃隊は、殲滅作戦開始の3時間前に専用のバスに乗り近城埠頭に入る。
埠頭内で下車した彼女たちは、密輸武器の取引が始まる深夜までに包囲網を形成し、夜1時に一斉に襲い掛かるのだ。
中部地区最精鋭のリコリスたちを乗せたバスは、午後10時にスギナたちが配置された近城橋の道を通る。
埠頭と市内をつなぐこの橋にも、リコリスが配置されている。橋の終点側にも、敵の逃走防止のための人員がきちんと配置されている。
このことをバスに乗っている彼女たちに伝えるためにも、橋の横で姿を見せて、見送らなければならない。
二人は橋の下の通路から外に出ると、雨の降る近城橋のたもと、街路灯のある歩道の横に立つ。
はるか上空から襲い掛かる雨は、その数を増し、勢いを込めて地面に衝突する。
そのアスファルトにぶつかり砕ける雨の音をかき分け、一台のバスの音が迫る。
夜闇に隠れる歩道を一直線に切り裂くヘッドライトの光が、淡い街路灯の明かりをかき消すかのように、スギナと風待を照らし出す。
決意と殺意を乗せたDAのバスは、路上にわずかに溜まり始めた雨水を引き潰し、轟音を響かせ諸咲支部員二人の前を通り過ぎる。
スギナと風待は、両腕を後ろに組み、背筋を伸ばした姿勢で、そのバスを見送る。
リコリスには、軍人や警官のような敬礼はない。女子学生が最もしない動作である敬礼を、日常的な癖や習慣にしてしまうと、社会に溶け込めなくなるからだ。
しかし、任務に赴く仲間たち、そして任務から帰還した仲間たちに敬意を表す時は、このような直立不動の姿勢をもって敬礼としている。
スギナもリコリス候補生時代、正面戦闘に出向く本部附の精鋭リコリスを見送る際に、候補生全員で整列し正門前に立ったことが何度もある。
成績が底辺を彷徨っていたスギナは、精鋭たちの顔も見られない一番奥の列の一番端に毎回立たされたが、それでも同じリコリスの先輩を応援し見送ろうという気持ちで参加していた。
今も、そのときと同じ気持ちで橋の横に立つスギナ。
バスが通り過ぎる時、スギナの目は車内にいる名古屋支部の精鋭、王須鉛撃隊リコリスたちの姿をとらえていた。
背もたれを使わず、背をピンと伸ばし座席に座る20名のリコリス。その目は皆前方を見据えていた。
そしてバスの車内通路の中央前方で、両腕を組んで凛々しく立つ名古屋支部長兼鉛撃隊隊長臥観手ルミナ。
彼女もまた前方を見つめ、揺れる車内で微動だにせず立っていたが、スギナと風待が橋の手前で立っているのに気が付いたのだろう。その黒目がわずかにこちらに向けられたのを二人は見た。
本部卒リコリスは目線を向けずに白目で見ることができる。
にもかかわらず、ルミナ支部長がスギナたちに目線を向けたのは、スギナたち諸咲支部の後輩のお見送りへの返礼だったのだろう。
大支部の支部長は、与えられている権限は少ない。
さらに今は作戦開始前の緊迫した状況だ。出張任務で配属された田舎支部のリコリスが道端に立っていた程度で、わざわざ応答することなどはできない。
それでも、わずかに残された返答の手段、わずかに動かした目線をもって返礼してくれた。
雨の中お見送りをする諸咲支部の後輩二人に、あいさつを返してくれた。
様々な方向からの重圧でがんじがらめにされた元諸咲リコリス、ルミナ先輩。
それでもルミナ先輩は、背負わされた役を果たそうと頑張っている。与えられた作戦を成功させようと必死になっている。
そして、そのような状況でも、私たち諸咲の後輩のことを気にかけてくれていた。
名古屋支部本館のロビーで一回会っただけだったが、ルミナ支部長が立派な先輩だということは、スギナにも十分理解できた。
立派な風待先輩と、立派なルミナ先輩。
立派な先輩へ渡す最高の贈り物は、立派な後輩になった姿を見せることだ。
今回の任務、地味な任務だけど、立派にやり遂げよう。雨空の下、スギナはそう決意した。