モブリコ辺境暦   作:杖雪

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6月の雨の日に ⑭

 ほんの少しだが、自分のバディの凛々しい姿に見とれていたスギナだったが、任務中だったことに気が付き、慌てて前方に目を戻す。 

 

 いつも見ている先輩の顔だ。いつも触れている先輩の体だ。

 こんな時まで見とれていては、任務に集中できない。

 

 大きく深呼吸をし、雑念を振り払ったスギナは、五感のすべてを橋の監視に充てる。

 

 近城新埠頭での包囲殲滅作戦は深夜1時に開始される。まだ3時間も先の話だが、いつ敵が動き出すか、いつ状況が変動するかは予測がつかない。

 予測できない以上は、末端が勝手な判断で休むわけにはいかない。今から3時間、気持ちを集中して橋を監視するのだ。

 

 スギナもまた、風待と同じように一つの彫像と化す。

 

 分離帯の植樹の陰からわずかに顔を出し、前を見据える。

 暗い夜道はとめどなく続く雨のため、視界は悪い。等間隔に設置された街路灯の明かりも、降りしきる雨の密度に気圧されたかのように照らす範囲を狭めている。

 それでも街路灯周辺にわずかな勢力を保持している光の空間は、間を置かずに降り落ちる雨滴の乱反射が不規則な光の粒となり、スギナの視界を夜闇以上に邪魔している。

 

 篠突く雨は、視覚だけでなく聴覚をも阻害する。

 道路に舗装されたアスファルトに落ちる雨粒の音、数百メートル上空から落下し破裂する雨粒の音は、想像以上に大きかった。

 身を低くして隠れているため、普段より地面が近くなった分、雨が落着する音が耳に響くのだ。

 

 雨天の道は、これまで訓練や巡回でよく歩いていた。

 よく歩いていたから、道路に降る雨の音はよく知っていたはずだった。

 

 まさか、しゃがんだ程度で、これほどまでに雨音に差があるとは、思いもよらなかった。

 

 聴覚による警戒を風待先輩に任せたのは正解だった。今はまだノイズ程度だが、これ以上雨脚が強くなると、自分の耳には雨音以外何も入ってこなくなるだろう。

 普段心掛けている五感による警戒を、作戦開始直後に断念することになるとは、思いもよらなかった。

 

 ただの雨が、これだけ障害になるとは、思いもよらなかった。

 

 思いもよらなかったことは、雨だけではない。

 

 小さな樹の木陰で片膝をついて隠れているスギナの足元、左足の裏と右の膝を通して、背後から大質量の物体が近づいてくる小さな気配が伝わる。

 その小さな感覚は、やがて振動という大きな実感をともない、スギナの下半身を震わせる。

 

 この振動、この揺れの大きさからすると、後ろから来るのは大型トラックだろう。

 車両が通行する際、これほど地面が揺れるとは、思いもよらなかった。

 

 後方から近づく小さな地震のような地響きは、トラックの接近とともに激しくなり、スギナの小さな体を足底から持ち上げるように揺さぶる。

 地面から両足に這い寄ってくる不快な振動が、スギナの腰部を揺らす。広い骨盤に包まれた下腹部の臓物が、微細な揺れに合わせて上下に動く。

 

 舗装路を劈く鳴動が最高潮に達した瞬間、轟音とともに大型トラックがスギナの横を通過する。

 

 すべての音がしばらく聞こえなくなるほどの、トラックの通過音。しかし、大型車両がスギナに置いていく土産はそれだけではない。

 

 夜の闇を押しのけ、夜の雨を押しのけて走るトラック。大馬力で空気の抵抗を打ち破って走る大質量の車両は、押しのけた風と雨の塊を、左右にまき散らすかのようにして前進する。

 

 飛び散った風雨の断片は、衝撃波という名の凶器となって、真横からスギナの肉体に襲いかかる。

 

 幾条もある空気の鞭で全身を叩かれたような痛み、雨粒をペレットとしたバックショットで全身を撃たれたような衝撃がスギナの体に走る。

 

 質量のある雨粒を大量に含んだ風圧でよろけそうになるのを、両腿に力を込めて必死に耐える。

 頭部への衝撃で意識が混濁しそうになるのを、目を閉じて必死に堪える。

 口から痛みによるうめき声が思わず出そうになるのを、歯を食いしばって必死に我慢する。

 

 スギナの声は、ヘッドセットの通信機を通して風待に聞こえるようになっている。

 トラックが一台通った程度で叫んでいては、風待先輩の邪魔になる。風待先輩が任務に集中できなくなる。

 

 サードリコリスである自分が、主戦力であるセカンドリコリスの邪魔をしてはいけない。

 どれだけ通過時の衝撃が激しくても、耐えなくてはならない。静かにしていなければならない。

 

 幸い、いまので大型車両が通過した時のショックは経験できた。思ったよりは激しいが、身構えていれば吹き飛ばされることはない。

 

 スギナは片膝を付いた今の体勢から、さらに尻を地面に近づけ、重心を下げる。

 横からも来る雨から拳銃を守るため、右手に持ったグロック36を股間に押し付けるようにして下向きに保持し、左手でスカートを持ち上げ上から覆う。

 

 太腿で拳銃を挟む姿勢はあまり格好よくないし、銃床が股の奥に当たる感触も不快だが、上からだけでなく横からも迫る雨水からハンドガンを守りつつ即座に発砲できるよう待機するには、この体勢が一番だ。

 

 身体を低くして構えるスギナの背後から、またトラックの地響きが聞こえてくる。

 

 小さな地鳴りに続いて、トラックのヘッドライトの明かりが、スギナの周囲を背中から照らす。

 地響きよりライトの光の方が早いはずなのに、なぜか路面の振動の方が先にスギナの体に伝わってくる。

 なんでだろう、雨で明かりが見えにくくなっているからなのかなと、スギナがぼんやり考えているうちに、トラックは雨夜の静寂を引き裂いてスギナの横を通り過ぎる。

 

 再び襲い掛かる暴風と暴雨の衝撃。まだ成長途中のスギナの小さな体に、再び風雨の散弾が浴びせかけられる。

 

 体勢が崩れそうになるのを、全身に力を込めてなんとか回避する。

 顎の奥に力を込め、食いしばった歯の間からうめき声が出そうになるのをなんとか堪える。

 

 橋から目視を離さず、手から拳銃を離さず、真横を通り過ぎたトラックが近城埠頭へと走り去るのを、じっと見つめる。

 

 これなら大丈夫だ、とスギナは心の中でつぶやく。

 

 今回は、前のトラックの時より上手に耐えることができた。

 風圧による痛みは同じだったが、前より姿勢が崩れることはなかった。痛みで思考が濁ることもなかった。

 身体に暴風暴雨が叩きつけられても、目を閉じず、橋から視線を逸らすこともなかった。

 

 これなら大丈夫だ、これなら問題ない、とスギナは自分に言い聞かせる。

 

 確かに消耗は激しい。任務開始からまだ数分、トラックが2台通過しただけなのに、体力や気力が予想外に削られたのがわかる。

 これから3時間、自分の体ははたして耐えられるだろうか。

 

 どれだけ大丈夫だと自分に言い聞かせても、不安が脳裏によぎる、心配が背中に貼りつく。

 

 警戒任務中は、そのまま現場で待機しているだけでも精神力が削られていく。いつ敵が現れるか分からない不安が、心を圧迫させる。

 雨天の任務は、そのまま外で待機しているだけでも気力が削られていく。雨で遮られる五感、雨で奪われる体温が、心を委縮させる。

 

 天気予報によると、この雨は一晩中降りそそぐという。

 

 夜間にもかかわらず、雨の一粒一粒がはっきりとわかるほどの大雨。街路灯やヘッドライトの光すら拡散させる大粒の雨は、スギナの体に遠慮容赦なく降り注ぎ、不愉快な馴れ馴れしさで薄黄色の制服にまとわりつく。

 

 毒液や返り血が付着しないよう特殊な撥水加工が施された本部リコリスの制服は、強酸や強アルカリの液体すら弾き返す。たとえどれほど荒天だろうと、雨水如きならば何日浴ようと染みることはない。

 しかし、学生服タイプの制服である以上、襟元から入る雨水までせき止めることはできない。制服の下に着る白のブラウスは、本部卒リコリスは各自採寸されたデータを基に仕立て上げたフルオーダータイプが支給されているが、生地自体は分校卒と同じブロードである。もちろん防水機能などない。

 

 ショートカットの髪から滴る雨水は、耳元やうなじをゆっくりと通り抜け、ブラウスの襟を濡らしながら、スギナの胸元や背中に侵入する。

 制服の下にじわじわと広がる水の感触。濡れたブラウスが、スギナの肩や背中の肌に吸い付くかのように、ねっとりと貼りつく。

 

 今はまだ襟元近くだけだが、このまま待機し続けていればいずれ腋の下や胸部、そして腹部や腰にまでこの雨染みは広がっていくだろう。任務が終わるころには、服の内側は全て襟元から入る雨水に浸されているはずだ。

 

 今が6月でよかった、とスギナは濡れながら考える。

 初夏の陽気をいち早く感じさせた今日の気温なら、服の内側が濡れるだけならそれほど体は冷えない。

 そしてこの制服なら、降り続く雨に長時間身を晒しても、さほど体温を奪われることはない。

 

 本部卒リコリスが着る制服は、表地の撥水加工処理と裏地の防弾防刃繊維のため、一般学生が着る制服に比べ、通気性は格段に悪い。

 体の匂いが籠りやすく、さらには暑い時期は汗で蒸れるため、着心地に関してはあまり良い評価がつかないこの制服だが、今日ばかりはこの通気性の悪さがありがたい。

 

 襟元から浸透する雨水は、外気に触れているスギナのうなじを冷やしているが、制服の内側の体温を急激に下げることはない。

 ブラウスや下着が濡れていく感触、制服と肌の間の空気が蒸れていく感触、どちらも気持ち悪いが、ただそれだけだ。

 

 絶え間なく降り続く雨は、その下に身を晒す人間の体温を強欲に奪っていく。

 それは季節を選ばない。たとえ夏でも、薄着で雨に打たれ続ければ人は低体温症になるのだ。

 

 長袖の制服を着てきて正解だったな、とスギナは思う。

 

 この地域の6月はもはや夏である。名古屋を歩く人々も涼し気な装いであったし、名古屋支部に集合した分校リコリスたちも、皆半袖の制服を身にしていた。

 支部本館に入った時は、季節感を捉えていない長袖の制服を着た姿が少し恥ずかしかったスギナだったが、存外に表面積が大きい両腕部を雨から守ってくれる長袖の存在に、今は感謝しかない。

 

 もともと、春秋用の長袖制服を着ていくことを提案したのは、風待先輩だった。

 

 出発前の仮眠の時、二人で一つの布団に入った風待とスギナ。

 そのとき風待はスギナの体を優しく抱きしめながら、長袖を着ていくことと買い物袋を持っていくことを、スギナの耳元で囁いたのだ。

 

 あの時はどちらの意味もよくわからないまま従っていたスギナだったが、今はその理由がよくわかる。

 

 風待先輩は、自分より2年早くリコリスになった。

 2年分の経験が、先輩にはある。

 

 雨の日の任務も多くあったのだろう。今日のような、ただ荒天に身を晒すような任務もあったのだろう。

 その経験の蓄積が、今夜の服装の最適解を選んだのだ。

 

 長袖の制服も、お買い物袋も、実際に役に立った。

 自分もこれから経験を多く積んで、適切な装備を選べるようにならなくては、とスギナは決意を固める。

 

 今後一人で出張任務に行く時があったら、何が必要か、何が大切かきちんと考えよう。

 季節にそぐわなくても、現場に沿った格好をしていこう。

 恥ずかしがらずに、必要ならばお買い物袋も持っていこう。

 そして出されたお菓子は袋にいっぱい詰め込んで…いや、あれはやっぱり恥ずかしい。

 

 恥ずかしいというか何というか、あれって人としてやってはいけない行為だと思う。

 

 風待先輩のすることは、基本的には正しい。

 正しいけど、どこまで真似すればいいんだろうか。

 

 些末なことだが、本人にとっては重大な問題に悩むスギナの真横を、3台目のトラックが通過する。

 

 三度襲いかかる風雨の衝撃。トラックが通過する直前、スギナは低くした身をそれ以上に屈め、真横から殴りかかるショックに耐える。

 身体の骨がきしむような風圧を、太腿の間を広げ、少しでも重心を下にする格好でやり過ごす。トラックが通過した後、全身の緊張を解き、軽く息をつく。

 

 少しずつ、ほんの少しずつだが、大型車両の横風に耐えるすべがわかってきた。

 

 これなら3時間我慢できるかもしれない。

 辛い任務だが、音を上げることなく、声をあげることなく、風待先輩の邪魔にならないよう、静かに監視を続けることができるかもしれない。

 

 3車線の道路を挟んで、すぐ真横にいる風待先輩。

 二人の口と耳は、ヘッドセットタイプのIP通信機によってつながっている。

 自分がわずかでも悲鳴を出してしまえば、その声は風待先輩に伝わってしまう。

 

 DAの基本は静寂主義だ。無言で待機し、無音で行動するのがリコリスだ。

 トラックが真横を走った程度で声をあげていては、立派なリコリスにはなれない。風待先輩の横に立てるリコリスにはなれない。

 

 口をしっかりと閉じ、前方を警戒するスギナの足元に、再び振動が走る。

 

 今までの振動とは違う感触。これは反対車線から来るトラックだな、とスギナは揺れ具合で判別する。

 自分たちの後方、名古屋市内から近城橋に向かうトラックではなく、前方の近城埠頭から市内へ向かう大型車両だろう。

 

 スギナの予想通り、やがて近城橋から、雨に輪郭を滲ませたヘッドライトの光が向かってくる。

 

 スギナから見て最も右側の車線を通るそのトラックは、近城橋を通り抜け、スギナたちの待機している場所へと、400馬力のエンジン音を立てながら迫る。

 

 風待先輩のすぐ近くを通る車線だ、とスギナは風待の待機する歩道側に視線を送る。

 風待が立つのはガードレールの車道側、車線内すれすれの場所だ。たとえ立っている姿勢でも、トラックの風圧はかなりのものだろう。

 

 しかし、風待の表情に変化はない。

 

 セカンドリコリスならではの毅然とした態度で、迫りくるトラックなど意に介していないかのように悠然と立つ。

 

 身構えたり、緊張したりなどしていない、その超然とした姿。

 どれほど天候が悪くても、どれほど環境が悪くても、風待先輩はそこに立ち続けるだろう

 任務中にもかかわらず、心配して監視対象から視線を外してしまったことが恥ずかしくなるほどの、優雅ささえ感じるその姿。

 

 先輩なら大丈夫だ。

 

 スギナは再び目線を近城橋に向ける。

 

 幾重にも折り重なった雨のカーテンを破きながら、トラックは風待の真横を通り過ぎる。

 車線が離れているにも関わらず、地鳴りはスギナのいる位置まで届く。

 

 一瞬だが、風待の安否を心配するスギナ。

 

 しかし、スギナは横を向いて風待の姿を見ようとはせず、その目は橋に向けられたまま動かすことはなかった。

 

 スギナは、胸の内で唱える。

 

 風待先輩なら大丈夫だ。

 風待先輩なら問題ない。

 そう、私の風待先輩は…

 

『うひゃあああぁ!怖ああぁ!なにこれえぇ!風スゴイッ!えぐっ!怖あああぁ!』

「風待先輩!!少しぐらいは耐えてください!!」

 

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