モブリコ辺境暦   作:杖雪

37 / 80
6月の雨の日に ⑯

 先輩、初手からメインディッシュ食べるんですか!

 

 思わず顔を真横に向け、風待の手に握られたういろうをガン見してしまうスギナ。

 

 世の中には、自分が一番食べたいものを最初に食べるタイプは多い。確かに多い。それはスギナも一応理解はしているつもりだ。

 しかし、一番好きな食べ物は最後まで取っておく性格のスギナにとって、今の風待の選択は、あまりに信じがたいものだった。

 

 先輩!任務はまだまだこれからですよ!楽しみは後にとっておいた方がいいですよ!と、スギナは通信機に向かって叫びそうになるのを必死に堪える。

 

 そのようなスギナの気持ちを全く無視して、風待は口で器用にビニール包装を開けると、一口ういろうを一口かじる。

 

 風待の手にあるういろうも、スギナと同じ上り味だ。

 

 上り味ってどんな味なんだろうね、と二人で話し合いながら選んだ小さなお菓子。

 任務終わり前まで我慢して、最後にゆっくりと確かめたかった謎の味、上り。

 

 それを真っ先に食べられてしまった。

 

 あー、こういう味なんだ、美味しいわねぇ、ふーん…これが上がりかぁ、という風待の小さな独り言が、通信機のイヤホンを経由してスギナの耳に入ってくる。

 風待の独り言が聞こえてくるたびに、どのような味なのかすごく気になってくる。

 

 スギナの心中にある上り味への興味が、ぐいぐい押されてくるその声。

 この程度の声でも、名古屋の作戦司令部には聞こえているだろう。しかし、風待は独り言程度なら聞こえていても気にしてはいないようだ。

 

 そういえば風待先輩は、結構好奇心旺盛な人だった。

 

 物静かそうな外見とは裏腹に、気になるところがあるとすぐ調べに行くタイプだった。

 諸咲の巡回路で野良猫を見つけると、どこに行くのか気になって追いかけ始めるタイプだった。

 追跡に気が付いた野良猫が、全力で逃げだしても執拗に追尾するタイプだった。

 

 追いかけまわされた野良猫が逆切れし、風待先輩に噛みついたことも何回かある。

 

 本気を出した猫の攻撃に、防戦一方だった風待先輩。

 片田舎の道端で繰り広げられるしょうもない戦いを、スギナは仲裁もせずにぼんやり見ながら、セカンドリコリスの戦闘能力って実はたいしたことないのかなと、猫に噛まれて悲鳴をあげる風待の姿を見ながら思ったものだ。

 

 それだけ好奇心豊かな先輩だから、上りがどのような味なのか気になっていたのだろう。

 

 任務に集中しながらも、美味しそうにういろうを食べている風待を横目で見ていると、スギナも上り味がどのようなものなのか気になってくる。

 

 スギナがういろうに引き寄せられているのは、人が食べているのを見ると、自分も同じものが欲しくなるという意志薄弱な性格ということもあるが、諸咲支部を出てから食事をとっていないため、空腹を感じ始めていたという理由もある。

 

 砂糖をたっぷりと混ぜた米粉を蒸して作ったういろうは、小腹がすいている時に目にすると、ひときわ輝いて見える。

 スギナは、しばらく考えた後、脳内に掲示されていたお菓子を食べる順番を書き換える。

 

 よし、次は、ういろう食べよう。

 

 腹持ちの良いういろうを先に食べれば、任務中の空腹感は減るだろう。

 楽しみは後にとっておきたかったが、任務に集中するためにはこの方がいいだろう。任務のためなら仕方がない、次に食べてしまおう。

 

 スギナは小さくうなずくと、首筋から襟元に流れる雨の筋を、左手の甲で拭う。

 

 雨はやむ気配はない。

 

 ゆっくりと量を増す雨粒は、次第に雨溜まりとなって路上に居座りだす。

 道路に降りそそいだ雨は、最初の内は順当に排水され消えていたが、雨の勢力が増すにつれ、道の上にも水たまりを作っていく。

 

 橋につながる道路は、凹みができやすい。

 何千何万台の車両の通過によって生成された道の窪みを根城にして、雨は小さな池となって路上に居座る。

 スギナの横にも、気が付けば大小様々な水たまりが発生していた。

 

 スギナが待機する中央分離帯は、道路から一段高くなっているため浸水被害はない。しかし、水浸しになった道路に挟まれた分離帯の上にしゃがんでいるスギナにとっては、この状況は池の中に浮かぶ孤島に置いていかれたかのような心細さと圧迫感を与えだす。

 

 路の周囲に散らばっていた水たまりは、降りやまない雨によってさらに力を得て、一つ一つ結合しあい、やがて大きな溜池となる。

 少し前までは小さな池のように見えていた水たまりの群れは、いつしか川のように溢れ、スギナの左右で蠢動し始める。

 道路を覆う水の膜は、その上に叩きつけられる雨粒によって騒がしい音を立てる。

 乱雑に鳴り響く雨音の合奏に阻害され、その他の音が聞こえなくなる。もはや聴覚による警戒は不可能だった。

 

 雨溜まりによる狼藉はそれだけではなかった。

 

 雨音にかき消されていたため、到来を察知しにくくなってきたトラックが、背後からスギナの横を通り過ぎる。

 突然の接近に驚いたスギナの体に、今まで以上の衝撃が与えられる。

 

 堪えていても、思わずうめき声が出てしまうほどの衝撃、痛みすら伴う重い攻撃。

 これまでの風圧に加え、トラックのタイヤが水溜りを踏みつけた時の水飛沫が、物理的な打撃となってスギナに襲い掛かるのだ。

 

 濡れたタオルで殴打されるかのような、体の芯まで響く衝撃。

 待機し始めた時に浴びた水の粒とは違う、纏まって固まった水塊が与えるダメージは、スギナの体力を確実に削り出す。

 

 さらに絶望的なのは、この水の塊は、時間を追うごとに量を増していくことだった。

 

 大馬力のトラックによって跳ね上げられた水は、スギナを痛めつけた後、分離帯を流れて再び路上に還る。何度タイヤに轢かれようと減ることのない水溜まりは、とめどなく降りそそぐ雨水によって更に増え続ける。

 

 体積を増した路上の池は、トラックが往来するごとに砕かれ、空中に飛び散るが、その都度スギナの体を打ち据えた後、分離帯や道路上の汚れを吸収しながら元の位置に帰還する。

 道に積もっていた汚れ、車や工場から排出されるガスや粉塵などの汚物が、トラックのタイヤと降りそそぐ雨の勢いによって攪拌され、路上の水たまりを濁った汚水へと変えていく。もし今が昼間ならば、汚染物質により水たまりが変色し泡立つところが目視できるだろう。

 

 そしてその汚水は、次に通るトラックによって、スギナの全身に再び降りかかる。

 数分おきに真横を通りすぎる大型トラックによって、何度も、何度も、黒く濁った汚水の塊を全身に浴びせられる。

 

 スギナの軽く脱色したセミショートの髪を黒くするかのように。

 スギナのまだ幼さの残る愛くるしい顔を絶望で汚すかのように。

 スギナのベージュの制服を薄汚れた色で染め上げるかのように。

 スギナの磨き上げた学生靴の艶を汚濁で塗り替えるかのように。

 

 リコリスに対する世の中の敵意が顕現したかのように、スギナの小さな体が水の鞭で責め続けられる。

 

 しかし、スギナは、橋から目を離さず、歯を食いしばってその暴虐に耐える。

 

 これしきのこと、最初から想定内だった。

 

 歩道側ではなく、分離帯で待機することを選んだ時から、この程度のことは覚悟していた。

 体力的には楽だが重要なポイントである道路側を風待先輩に任せ、自分は道に挟まれた中央分離帯側で待機することを、私は自らの意思で選んだ。

 

 大事な仕事はファーストリコリスやセカンドリコリスが、辛い仕事はサードリコリスが担当する。これは当然のことだ。

 

 私はサードリコリスだ。率先して辛い仕事を担当するリコリスだ。

 辛い仕事、華のない仕事はファーストやセカンドにはさせない。これはサードリコリスの使命だ、これはサードリコリスのプライドだ。

 サードリコリスにだって誇りはある。私はその誇りにかけて、最後まで耐え続ける。

 

 太腿の奥に挟まれた、グロック36を握る右手に、知らず知らずのうちに力がこもる。

 

 トラックの風圧と雨飛沫から拳銃を守りつつ、雨のカーテンがかかる橋を監視し続けるスギナ。

 

 心に余裕がなくなってきたのか、頭の中の時計が不鮮明になる。菓子を摂取する時間も忘れ、同じ姿勢で待機を続ける。

 来るか来ないかわからない敵、それをただひたすら待ち続ける。

 

 トラックが通るたびに浴びせられるのは、風圧と水圧だけではなかった。

 

 数台に一台の割合だが、暗い夜道の分離帯に、身を丸めて隠れるスギナの姿を偶然目にとめたトラックの運転手が、スギナの背後で慌ててフットブレーキをかけるのだ。

 

 その都度、車体の右側から突き抜けるブレーキ弁の破裂音、安全弁の金属音がスギナの耳を傷めつけ、神経を驚かせる。

 爆発音にも似た、大きな音。風圧、水圧に加え、激しい音圧が真横から殴りかかる。

 

 エアブレーキ特有の、叩きつけるような圧縮空気の破裂音を響かせて通り過ぎるトラックは、橋の手前でわずかに速度を落とすだけで、結局止まることなく橋の奥へ消えていく。それは一台の例外もない。

 

 真夜中に分離帯にしゃがみ込んでいるような種類の人間とは、関わりたくないのだろう。

 あるいは、ライトに映ったリコリスの制服姿から、自分たちが関わってはいけない種類の人間だと気が付いたのだろう。

 自分を無視して通り過ぎていくことは、スギナにとってもありがたかったが、耳元で響くエアブレーキの音だけは、神経に堪えた。

 

 爆発音のような破裂音。いや、圧力さえ感じるこの音は、爆発そのものだった。あの日に聞こえた、爆発の音に似ていた。

 

 あの日も、こんな音がしていた。そう、あの日も…

 

 困ったな、とスギナはマイクに拾われない程度の小声でつぶやく。

 

 雨の水音とブレーキの破裂音がトリガーとなり、スギナの心の奥深くにしまい込んだ記憶の扉を叩きだしたのを感じたのだ。

 

 最初は僅かな力で叩いていたそれは、やがて扉の外から、大きな音を大きな拳に変え、扉の奥にまで響くよう何度も叩き始める。

 DA独自の主要原則に沿ったインフォームドケア。ケアとは名ばかりの杜撰な強制抑圧によって厳重に封印された記憶の扉は、多少のきっかけでは決して開くことはない。どれほど当時と同じ音を聞こうが、扉の中で眠るそれは決して目を覚まさない。

 

 これまではそうだった。

 しかし、これまでの状況と今夜の状況とでは、ひとつだけ異なる点がある。

 

 時間だ。

 

 訓練中に聞く爆薬や銃の轟音は、たいてい短期間で終わっていた。

 入浴中に聞くシャワーの水音は、たいてい短時間で終わっていた。

 

 今夜は違う。

 

 視界のきかない暗闇の中、身動きせずに、長時間同じ音を聞き続けているのだ。

 

 リコリス候補生だったころは体験しなかった、初めてのシチュエーション。

 DAが自画自賛する、完璧な心理療法が作り出してくれたはずだった鉄壁の扉は、今のスギナが置かれている状況下では、薄っぺらな藁の戸にすぎなかった。

 スギナの過去を刺激し、あの日の苦痛を暴露させる轟音と水音。

 その音の振動によって、藁束で組まれた扉から、一本また一本と藁の欠片が千切れ飛ぶ。

 

 扉の奥にいるそれは、もう目を覚ましている。

 扉の奥にいる過去は、もう目を見開いている。

 

 脆くなっている戸をどのタイミングで壊そうかと、太く獰猛な両手を振りまわしながら思案している。

 外に出たら何をしようかと考えている。

 DAの雑な認知行動療法によって、心の奥に隔離されたあの日の世界に、スギナを引きずり込もうとしている。あの日の舞台、悲劇の舞台にもう一度立たせてやろうと薄笑いを浮かべている。

 

 いやだ!もうあの日のことは思い出したくない。

 

 自分を過去に引きずり込む呪文のように、延々と聞こえ続ける外の音に対し、耳をふさぎ叫びたくなるのを気力で押さえ続けるスギナ。

 

 今は任務中だ。両耳を塞いでしまっては、拳銃を握れない。聴覚を使っての監視ができない。

 もっとも、自分の周辺は雨音に包まれていて、遠方の監視どころか、近くの音すら不鮮明に聞こえているのだが、それでも周囲の変化を感じ取るには、聴覚はまだ有効な手段だ。耳を塞いではいけない、音を遮断してはいけない。

 

 過去が背後から迫りくる恐怖に耐え続けるスギナの耳元から、激しくなった雨音が入り込み、鼓膜を震わせ脳を揺らす。

 スプリンクラーで水を撒いているかのような雨音。いや、絶え間なく続くこの音は、スプリンクラーそのものだった。あの日に天井から降りそそいでいた、スプリンクラーの音だ。

 

 あの日も絶え間なく音がした。広い室内を覆いつくす爆発音、銃声、悲鳴、怒声、泣声、そして断末魔のうめき声。様々な音が圧力となって襲い掛かった。

 しばらくの後にスプリンクラーが作動した。塔の上層に設置された加圧送水装置が作動し、大量の水が雨のように、今の雨のように降りそそいだ。

 

 放水は、今の雨のような音だった。

 爆発は、今のトラックのような音だった。

 

 まったく同じ音かもしれない。いや、同じ音だ。

 

 あの日と同じだ、あの日と同じだ。

 

 今の私はどこにいる。

 今の私はここにいる。

 

 ここはどこだ。ここはあの日か。

 ここはあの日だ、あの日は今だ。

 

 あの日は今だ。

 

 違う!今はあの日ではない。

 今は今だ。昔のことなど思い出すな。

 意識を任務に向けろ!過去のことを考えるな!

 心を任務に集中させろ!あの日のことはもう終わったことだ!

 

 思い出すな、思い出すなと、スギナは祈りの言葉のように何度も心の中で唱え続ける。

 

 しかし、スギナが焦れば焦るほど、不鮮明だった記憶の断片が次第に形になり始める。

 どれだけ意識を現在に置こうとしても、地の底へと続く大穴に突き落とされたかのように、過去へ過去へと意識が落下していく。

 周囲の風景が溶け出していく。色彩、明暗、触感、質感、世界を歴然と形作っていた垂直と水平が歪な曲線へと変化し、崩れ、不明瞭な描線になっていく。

 

 この症状が出た時の対処は学んでいる。

 しかし、心が恐怖に委縮し、本部で習ったはずの対処法が思い出せない。

 

 こういう時やるのって再調整とかの呼吸法だっけ?

 眼球を動かすんだっけ?

 いや、膝を叩く?

 見えているものを順に543?

 いや、それとも…

 

 なにも思い出せない、なにも思い浮かばない。

 

 思い出せるのは、昔のこと。

 思い出したのは、過去の音。

 

 あの日聞こえたあの声、それは、

 それは、

 それは、

 

 

 ……つないでください…つないでください

 

 

 突然耳元で聞こえてきた囁き声に、スギナの背筋が凍る。

 恐怖で、口元から小さな悲鳴がか細い音となって漏れる。

 

 ああ、もうダメだ。

 

 

 侵入症状が、来た。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。