モブリコ辺境暦   作:杖雪

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6月の雨の日に ⑰

 ……つないでください…つないでください

 

 遠くから声がする。

 天井から音がする。

 

 天井に取り付けてあったスプリンクラーヘッドからの、絶え間ない散水の音。

 同時に作動した軸流型排煙機によって、天井の排煙口から吸い出される煙の音。

 

 そして、あの時聞こえた、お母さんの声。

 

 あの日、爆風の衝撃によって低融点合金製の蓋が強制的に取り払われていたスプリンクラーヘッドは、火災発生からしばらく後に散水を開始した。

 展望施設と電波管制施設の配管は爆破によって破損していたため、上階では規定通りの散水は行われなかったそうだが、私がいた地上部の商業区画は加圧送水装置と配管がある程度無事だったらしい。

 

 温度が上昇する速度により火災を感知する差動式スポット型感知器と、火災時に発生する光を感知する紫外線センサーが、爆発によって発生した熱と光を感知。それによりスプリンクラーのヘッドが自動的に起動する。

 

 外部からの衝撃に弱いスプリンクラーは、轟爆速度が高い軍用爆薬の衝撃波を浴びてその半数が機能を停止していたが、生き残った残りの半分は正常に作動し、送水装置から供給された水を散水口より放出する。

 

 雨のように降りそそいだ水は、商業区画に散らばっていたすべてのものを均等に洗ってくれた。

 

 爆炎の直撃によって燃え上がったお土産コーナーの商品、商業区画の備品、観光客や店員の服や体から立ち昇る火と煙。

 C爆薬特有の、鼻の奥にいつまでも残る不快な臭いと、セムテックスの皮膚にまとわりつくようなガスの臭い。

 可塑性爆薬の臭いに混じり、硝安油剤の臭いも微かに立ち込めていた。破壊範囲を広げるため、おそらく手製のANFO爆薬も同時に使用していたのだろう。

 その二種類の爆薬が織りなす衝撃波によって飛び散ったショーウインドーの、鋭利なガラス片によって切り取られた人間の破片。

 爆発の衝撃波が作り上げた無数の生成破片により、叩き潰され、捻じり切られ、乱雑に砕かれた人体から噴き出る大量の血液。

 

 それらすべてを、スプリンクラーの雨は均等に洗ってくれた。

 それらすべてに、スプリンクラーの雨は均等に降りそそいだ。

 

 私は、雨の下にいた。

 お父さんと、お母さん、お兄ちゃんもいた。

 

 私たち家族全員に、スプリンクラーの雨が降り注ぐ。

 

 思い出すな!どこかで今の私が叫んでいる。

 今は任務中だ!もう一人の私が喚いている。

 嫌だ!思い出すのは嫌!と私が泣いている。

 しばらく耳元で絶叫していた私の声が、やがてスプリンクラーの音にかき消され、溶けて消えていく。

 

 代わりに聞こえてくるのは、お母さんの声。

 

 ……つないでください…つないでください

 ……つないでください…つないでください

 

 侵入症状。過去に経験した凄惨な出来事が、再び起こっているかのように感じる症状。

 

 延々と繰り返される悪夢や、顕著な生理学的反応、脳内に不随意に甦る記憶など、人や状況によって発症の仕方は異なるが、私の場合は心の傷となった出来事が再び起こっているように感じる解離型の症状、いわゆるフラッシュバックとなって現れる。

 

 私のこの症状は、いつも決まって過去のこの場面、爆発直後の光景から始まる。

 

 その前のことは、あまり思い出せない。

 

 楽しい休日、家族四人で、電車に乗って来たこと。

 お兄ちゃんの入園祝いで、ここに遊びに来たこと。

 お気に入りの絵本を抱えて、この場所に来たこと。

 

 そして、お土産を選んでいる時に突然起こった、爆発と衝撃。

 倒れる私。上から覆いかぶさるお父さん。

 

 混乱した商業区画になだれ込んだテロリストたち。奇跡的に爆発の衝撃から生き延びた観光客や店員に向かって放たれた銃弾の音。

 

 彼らは殺意の赴くままに銃を乱射した後、次の破壊目標である上階の展望塔へと走っていった。

 倒れたお父さんの下でうずくまる私の横を通り抜ける悪意の顕現者たち。何人もの靴によって踏みにじられた、私のお気に入りの絵本。

 

 その後、上階で絶え間なく続いた乱戦の音。数多くの種類の銃声が長いこと聞こえていた気がする。たまに手榴弾やクレイモアの爆発音がすると、その音に怯えたかのようにスプリンクラーの散水が束の間止まるのを、床とお父さんの間からただぼんやりと見ていた。

 

 それらの記憶は、薄い靄がかかった朝の遠い山並みのように、茫漠とした印象画で構成されているのだが、何故かその後の場面からは、自分がここにいるかのような精密な描写で世界に出現する。

 

 フラッシュバック。一度この世界に入ってしまうと、私一人では逃げることができない。

 

 恐怖と絶望で身を縛られ、瞬きすら忘れていた当時の私の動きに追随するかのように、身動き一つできず、目を閉じることもできず、同じ悪夢を強制的に見続けさせられる。

 

 思い出したくもない記憶の再上映会。観客は私だけ。途中退席は不可。終演時刻は未定。

 もう粗筋も台詞も全て覚えてしまったほど繰り返し見ている過去の幻影だが、湧き上がる恐怖心だけは常に強固な鉈となって私の脆い自己の幹を叩き伐る。

 

 希望も未来もない大地に生えた私の心。渇きひび割れた人生に芽吹いた私の自己の樹は、最近は心を通わした愛しい先輩との生活によって潤いを与えられているが、それでも過去から襲い来る刃物の一撃に耐えられるほどには成長していない。

 

 私はそれを理解している。己の精神という名の樹の細さ、貧弱さは理解している。

 

 一度あの光景を見せられたら、終わりだ。

 耐えることはできない、私の心はそこまで強くない。

 

 今までもそうだった。

 

 侵入症状によって、あの日の映像が強制的に脳内に映し出される度に、泣き、喚き、絶叫した。

 DA本部の職員たちから薬物を投与されるまで、暴れまわった。

 リコリスならだれでもある心の傷、リコリスならだれでも出る症状、リコリスならだれでも見る日常の添景なのだが、幼いころ、私はその回数が多かった。

 

 それは私の心が弱かったからなのだが、その他にも、発症のトリガーが周囲に多くあったことも原因だった。

 

 水が周囲に落ちる音、何かが破裂爆発する音。

 長い時間、この二種類の音が重なることが、私の過去回帰へのトリガー。

 

 トリガープルはすごく軽い。フェザータッチで簡単にハンマーが落ちるシングルステージトリガーだ。

 

 もう何年も触れていなかった私のトリガー。

 もう錆びついていて動かないと思っていたのに、触れたら簡単に作動してしまった。

 DAのケアプログラムでガードされていると思っていたのに、あっさり作動してしまった。

 

 消えていく、今が。

 落ちていく、過去に。

 

 ……つないでください…つないでください

 

 舞台が変わる。

 世界が変わる。

 

 今の私は、あの日の私。

 

 私はあの日、そこにいた。

 私はお父さんの下にいた。

 

 最初に起きた爆発から、私を守ってくれたのだろう。お父さんは私を包むかのように覆いかぶさり、倒れていた。

 

 床とお父さんの体に挟まれた私は、しばらく身動きが取れなかった。

 重く大きい大人の体に押しつぶされた私は、泣くこともできないほどの圧迫感に苦しんでいたが、動けなかったことが逆に幸いしたらしい。爆発後に乱入したテロリストたちが、逃げ惑う観光客へ浴びせる銃弾の雨から、私は逃れることができた。

 

 そして降り始めるスプリンクラーの雨。無機質で、人工的で、均一に降る無表情な雨。

 銃撃と爆発が織りなす死の舞踏会は上階へと移動したらしく、私のいる階は、ただ雨の音だけが響いていた。

 

 微かに床を揺らす爆発の地響き。遠くで聞こえる銃撃戦。0.9МPaの放水圧力によって作り出された雨に打たれ、だんだんと冷えていくお父さんの体。

 

 まだ物心がついてすぐの私は、お父さんの体温が消えていくということが何を意味しているのか分からなかった。

 まだ何も知らない幼児の私は、お父さんの呼吸が絶えているということが何を意味しているのか分からなかった。

 

 理解はしていなかったが、異常な事態に恐怖を感じていた私は、この場所から皆で逃げるため、お父さんという名前の重い軛から這い出した。

 まだ力のない小さな手足を必死に動かし、やっとの思いで動かない身体の下から抜け出た私の目の前には、静かに雨が降る、静かな世界が広がっていた。

 

 整然と並べられていたお土産品は、爆風で吹き飛ばされ床に散乱していた。

 買う喜びと貰う喜びを与えるはずだったお土産の数々は、大気中に伝播した衝撃波と室内爆発による反射波によって乱雑に千切られ、フロア中に散乱していた。明るい色彩の可愛らしいイラストや、煌びやかな観光地の光景が描かれた包み紙や紙箱が、砕けた土産物とともにスプリンクラーの雨に打たれ、煤汚れた床の上に無秩序なモザイク模様のように貼りついている。

 お土産やショーケースの破片に混ざり、割れたガラスが、外から射し込む陽を反射してきらきらと光っていた。気化した爆薬の可燃ガスの残滓によって汚された周囲の中で、それだけがにぎやかに輝いていた。

 

 床に積もる残骸たちの、一番上に乗っているのは、四散した人の体。

 

 入口の駅直通通路や、奥の展望塔通路の近辺は、起爆直後に乱入したテロリストたちによって丁寧に穴の開けられた射殺体の山ができていたが、私のいるエントランスゾーンのお土産コーナーの周囲は、爆発で倒れた人たちの体で溢れていた。

 

 爆圧で千切られた体。ガラス片で刻まれた体。爆炎で燃えた体。爆風で飛ばされた体。

 

 砕けていた。裂けていた。壊されていた。粟散していた。

 

 後日聞いた話では、土産物の保管庫の中に、前夜から爆発物が仕掛けられていたらしい。

 群衆にパニックをおこさせるため、人が集まる土産物店を中心に設置された爆薬は、初手の一撃としては最大の効果と、大量の死者を生み出した。

 

 軍用爆薬の燃焼による轟爆現象は、可燃ガスによる轟爆の数千倍の圧力を発生させ、その爆速は超音速にまで達する。

 人の体は、そのような爆発には耐えられない。

 

 私の目に入る人の体、私が見た人の体は、ほとんどがバラバラだった。

 これが指、これが内蔵、これが頭と、生物の学習用に展示されている標本のように部位ごとに分解され、床に転がっていた。

 断面から流れる血がスプリンクラーによって洗い流されていたのも、標本らしさを際立たせる要因となっていた。

 

 まだ人の死を理解する年齢ではなかった私だが、血が出ていない人体部品の数々に、心の奥底から湧き上がる恐怖を感じ始め、倒れているお父さんの身体に後ろ手で触れた。

 

 お父さんの身体は冷たかった。

 

 私は、何か話しかけようと振り返り、頭を横に向けうつぶせに倒れているお父さんを見た。

 

 見るな!見ちゃだめだ!と今の私が叫ぶ。

 しかし、当時の私には届かない。

 

 私の侵入症状、フラッシュバックと呼ばれる、過去の記憶の追体験。

 私はこの過去の世界では、過去と同じ動きしかできない。

 

 当時の私はすがるように、お父さんの顔を見た。

 

 最初に見えたのは、割れた頭だった。

 

 背後からの爆圧により、ぱっくりと裂けた頭蓋骨。

 速度8060m/sの爆轟が作り出す衝撃波と破片は、人体を容易く破壊する。

 後頭部から額まで一直線に割れ、頭の形が変わるほど大きく裂けていたお父さんの頭部。爆風とスプリンクラーの水によって中の血や脳はすべて取り除かれ、頭の中は暗い空洞が広がっていた。

 奇跡的に飛び出さなかった両の眼は見開いたままで、その顔には驚いた表情が貼りついていた。

 おそらく爆発から反射的に身体を背け、咄嗟に近くにいた私をかばって倒れたのだろう。

 裂けた背広の生地によって隠されているが、頭だけではなく、背中にも多数の傷があるようだ。

 

 お父さんが私を守ってくれなかったら、これらの傷のいくつかは、私が負っていたはずだ。

 あの日の記憶を追体験するたびに、命と引き換えに私を助けてくれたお父さんへの、純粋な感謝の気持ちが湧き上がるが、当時の私はただ恐怖に怯えた目で、かつてはお父さんだったモノを見つめていた。

 

 いつまでそうしていただろうか。

 

 気が付けば、スプリンクラーの散水は止まっていた。

 床にできた水たまりの上に、不規則に落ちる水滴の音。

 遠くで聞こえる銃声の音も、心なしか少なくなっていた。

 

 ……つないでください…つないでください

 

 破壊の足音が去ったフロアに響く、独り言のような、小さな声。

 先ほどから散水の音の中に混ざりおぼろげに聞こえていた、力のない、微かな声。

 

 その声が、お母さんの声だと気が付くまでには、かなりの時間を要していたと思う。

 今まで私が聞いたお母さんの声、私やお兄ちゃんに語りかけていた優しい声とは全く違う、魂の抜けたような口調、これまで聞いたことがなかった声色だったことが、私の理解を遅らせていたのだ。

 

 口調に若干の違和感を覚えながらも、私はお母さんに助けを求めるため、声のする方向へと向かおうとした。お母さんがいるところは、距離にして数メートル程度しか離れていなかったと思うが、瓦礫が積み重なるフロア内は、当時の小さい体では、途方もなく遠くに感じられた。

 恐怖で震える私の足と、お母さんと私の間に倒れている商品棚の残骸。すぐにでもお母さんのもとに駆け寄りたかった私だが、多くの障害に遮られていたため、その希望はかなわなかった。

 

 残骸の隙間から見えたお母さんの背中。私はその背中に向かって、出せる限りの声で助けを呼んだが、なぜかお母さんは振り向いてくれなかった。

 

 ……つないでください…つないでください

 

 お母さんは、振り向かずに前を見たまま、同じ言葉を繰り返していた。

 

 下半身に怪我をしているのだろう。不自然な姿で床に座り、両手で何かを抱えているお母さん。

 その下には、お兄ちゃんが横たわっていた。お母さんの体の陰に隠れて全身は見えないけど、入園したばかりの園児服を身にまとっていたお兄ちゃんの、半ズボンをはいた両足が見えている。

 

 お母さんは、両腕で何かを抱えている。抱えながら、前に向かって同じ言葉を発している。必死になって話している。

 

 お母さんの目の前には、店員のお姉さんがいた。

 

 爆発前、お母さんとお話をしていた店員さんだ。お土産のお会計をしながら、私やお兄ちゃんを可愛いと褒めてくれた店員さんだ。

 店員さんは、瓦礫にもたれかかり、力なくうずくまっている。お腹を押さえて、しゃがんでいる。

 

 お腹を押さえている両腕の隙間から、はみ出ている内臓が見えていた。

 出血はすべて洗い流されてしまったようだ。てらてらと光る自分の臓物を抱え、下を向いたまま身動きしない店員さん。

 まだ命はあるようだが、すでに生への希望は失っているようだ。やがて来る死に絶望したその表情は、一切の喜怒哀楽が削ぎ落され、この世のすべてを拒絶したかのような虚無で溢れている。

 

 ……つないでください…つないでください

 

 お母さんは、全てに無反応になっている店員さんに向けて、か細い声で語りかけている。

 

 ……かわいい子なんです…大切な子なんです…さっき可愛いって言ってくれたじゃないですか…だから、つないでください

 

 私は、もう一度お母さんに助けを求めた。お母さん、お母さんと何度も呼び掛けた。

 

 けど、お母さんは振り向いてくれなかった。

 相変わらず、店員さんに何かを訴えていた。

 

 ……ほら、血が出ていないでしょ…まだ生きているんですよ…つなげば生き返るんです…だから、つないでください

 

 私は叫んだ。お母さん、と叫んだ。

 

 ……つないでください…ちょっともげただけなんです…つないでください

 

 私は叫んだ。

 

 ……つないでください…まだ生きているんですよ…ちょっと取れただけなんですよ

 

 動かない下半身、不自由な体を動かして、店員さんに詰め寄るお母さん。

 

 ……つないでください…つないでください……この子の頭を、つないでください

 

 体勢を崩して、倒れるお母さん。その手から、大きめの丸い塊が落ちる。

 

 それはお兄ちゃんの、お兄ちゃんの

 

 叫んだ。絶叫した。

 

 まだ小さな私、体も声も小さかった私が、商業区画中に響き渡るほどの大きな声で絶叫した。

 

 それに呼応するかのように、世界が爆発した。

 

 耳で認識できないほどの大きな音。体全体が震え、体全体で爆音を感じた。

 

 崩れ落ちる天井。上階から降りそそぐ構造物の大きな破片。鋼材やコンクリートの、固く巨大な礫片が、フロアの天井を突き抜け、落ちて来る。

 私のいるフロアに落下した、私の体より大きな塊が、私の周囲のすべてを潰した。

 

 お父さんが潰された。

 お母さんが潰された。

 お兄ちゃんも潰された。

 店員さんも潰された。

 

 瓦礫が巻き起こす微細塵で、周囲が見えなくなる。

 

 それでも、全身に浴びた爆音が、何が起こっているのかを私に理解させた。

 聞こえてくる音だけで、上階で何が起こっているのかが理解できた。

 

 上階の塔が、爆発した。

 

 塔が、倒れる。

 

 私が聞いた音。それは塔の分岐継手に仕掛けられた、爆薬レンズの轟爆平面波によって破壊され、崩れ落ちる支柱の音。

 私が聞いた音。それは大爆発による振動で、塔の先端にそびえるゲイン塔が歪み曲がる音。

 私が聞いた音。それは円錐爆薬の溶融金属ジェットによって、塔の中心柱に大穴が穿たれる音。

 

 私はただ叫んだ。

 

 爆発する塔の下で、ただ叫んだ。

 

 

 

 11年前のあの日。

 

 私は、電波塔にいた。

 

 

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