モブリコ辺境暦   作:杖雪

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6月の雨の日に ⑱

 私は叫んだ。

 

 11年前の私が、電波塔の下で絶叫する。

 11年後の私が、近城橋の前で絶叫する。

 

 逃げなくては。

 

 逃げなければ、崩れ落ちる塔の残骸に押し潰される。

 

 お父さんのように、お母さんのように、お兄ちゃんのように押し潰される。

 

 けど、どこに逃げればいいのだろう。周囲は煙で覆われて、何も見えない。

 けど、どうやって逃げればいいのだろう。爆発と崩壊で揺れ動く地面に翻弄され、立ちあがることすらできない。

 

 何もできない幼児の私。ただできることは、叫び、号泣することだけだった。

 

 

 幼子だった私が、いつも最後にすがる手段、号泣。

 泣いていれば、お母さんが助けてくれた。

 泣いていれば、お父さんも助けてくれた。

 お母さんは、泣いている私を抱き上げ、あやしてくれた。

 私が泣き止むまで、抱きしめてくれた。

 そして、泣き止んだご褒美に、絵本を読んでくれた。

 

 お母さんが読んでくれた絵本。

 私のお気に入りだった絵本。

 ひよこさんたちのかわいい絵がたくさん描かれた、私の大好きな絵本。

 

 今日もその絵本を抱えて来た。絵本とともに電波塔まで来た。

 

 さっきまで私が持っていた絵本。あれはどこにいったのだろう。

 爆発で吹き飛ばされて、怖い人たちに踏みつけられた私の絵本。

 

 探さないと。

 

 見つけないと。

 

 そうだ、絵本を見つけて、またお母さんに読んでもらおう。

 

 絵本さえあれば、またお母さんと一緒になれる。

 お父さんも、お兄ちゃんも帰ってくる。

 みんなでここから出て、おうちに帰ろう。

 みんなで一緒に、おうちに帰るんだ。

 

 だから、絵本を探そう。

 大事な絵本、大切な絵本、周りは暗いけど、がんばって探すんだ。

 

 雨に濡れて体が重い。

 周りはまだうるさい。

 

 これは何の音なんだろう?爆発の音?トラックの音?

 私はどこにいるんだっけ?

 私は何をしてるんだっけ?

 

 まあいいや、そんなことより絵本を探そう。

 雨に濡れたままだと絵本がかわいそうだ。描かれたひよこさんたちがかわいそうだ。

 

 早く絵本を見つけて、お母さんのところに行こう。

 早く絵本を読んでもらおう。

 私の大事な絵本だけど、今日だけはお兄ちゃんにも見せてあげよう。

 

 だから、早く絵本を見つけよう。

 

 どこにあるんだろう。道路の上かな、お土産屋さんの中かな。

 

 探しに行こう。

 

 右手が重い。なんだろう、この右手に持っているピストルは。

 私、なんでこんなもの持っているんだっけ?

 

 こんなもの、いらない。

 

 背負っているカバンも、いらない。

 

 すてちゃえ。

 

 体が軽くなった。これで絵本を探しに行ける。

 

 瓦礫も煙もちょうど無くなった。目の前にあるのは道路と橋。

 真夜中で暗いけど、これなら、絵本はすぐ見つかる。

 

 探しに行こう。

 探しに…

 

 

 

『スギナアアアアアアアアアアァ!!』

 

 突然聞こえた絶叫に、スギナの意識が現実に戻る。

 声と同時に感じた、鋭く光る細身の刃物に脳髄を貫かれるかのような灼熱の殺気に、スギナの体が反応する。

 リコリスの本能が、殺気に対して即座に応戦態勢を取らせる。

 

 殺気は常に直線で放たれる。曲がったり、歪んだりすることはない。

 反射的に殺意の放出源の方向へ振り返り、殺気を発する相手に、手に持ったグロック36を構えようとするスギナ。

 

 長年の修練によって培われた、無意識の動作。しかし、右手にあるはずのグロックが見当たらない。

 

 なぜ?と疑問に思うより早く、スギナの左手が背中のサッシェルバッグに伸びる。

 

 スギナがサブウェポンとして使用している、バタフライナイフ。サッシェルバッグの底面にある予備弾倉保管部に差し込んであるナイフは、近接用だけでなく投擲武器としても使われる。

 バタフライナイフを取り出し、片手で回し開き、投げるまでにかかる時間は1秒半。

 DA本部で鍛えられた、無駄のない動作。しかし、バタフライナイフを取ろうとしたスギナの左手は、背中で空をきる。

 

 いつの間に無くなったのだろう、スギナの気が付かない間に、グロックもサッシェルバッグも、自分の身体から離れ、消えていた。

 

 謎の出来事に困惑し、一瞬身を固めたスギナの額に、再び強い殺意が突き刺さる。

 

 この機能的で機械的な殺意は、火器による殺気だ。

 この機器的で無機的な殺意は、拳銃による殺気だ。

 

 銃口を向けられている。

 

 精密に、正確に。

 冷静に、冷酷に。

 

 威嚇ではない。

 

 本物の殺意だ。

 本気の殺意だ。

 

 射殺への恐怖、撃たれて死ぬことへの恐怖が、スギナの意識を、過去の世界から半ば強制的に連れ戻す。

 

 現実の世界、現在の世界に戻ったスギナだったが、過去の束縛から解放されたはずの自分の体は、硬直したまま動くことができない。

 

 動くと、殺られる。

 動くと、撃たれる。

 

 相手は本気だ。これ以上不必要に動けば、顔面に銃弾を撃ち込まれる。

 右手を前に出し、左手を背後に回した姿のまま、スギナの動きが止まる。

 

 もう動けない。動くと、私は死ぬ。

 

 中央分離帯の上で立ちあがった姿勢で、スギナは路上のオブジェと化す。

 周囲の空気が、緊迫感で固まる。路上に落ちる我儘な雨音すらも、この殺気立つ空間の中では肩をすぼめ、存在を自粛する。

 

 殺気の出所は分かっている。殺気が放出されているのはグロック36の銃口。私の銃と同じ、45口径の銃口。

 殺意の出所は分かっている。精確で正確、私の額をマークしたまま全くぶれない射撃技術の持ち主。私以上の射撃能力の持ち主。それは…

 

 スギナが、目を動かし前を見る。

 白目でも見ることはできるが、あえて目を向ける。スギナの目線と、銃を構える相手の目線が交差する。

 

「風待…先輩」

 

 スギナの口から、小さな声が漏れる。力のない声が漏れる。

 

 道路を挟み、歩道側に立っている風待は、毅然とした表情のまま、スギナに銃を向けていた。

 

 風待の右腕は、スギナを指さすかのように垂直に伸び、その右手の先に握られたグロックは、一分の揺れもなくスギナの額に照準を合わせている。

 

 風待の指がかかるグロックのトリガーは、撃発する寸前まで力が加えられている。絞り込むようにトリガーを引き、ストライカーまで力がかかっているのが遠目でもわかる。グロック独特のトリガーフィーリングを知り尽くしたホールド。あと数グラムの力を加えるだけでハンマーが落ちる、本気の構え。

 

『スギナ、動かないで』

 

 イヤホンから、風待の声が聞こえる。降りしきる雨より冷たい、感情のない声。

 

「先輩…私は…」

 

 銃口を向けられた緊張に耐えかね、体が揺れる。下半身に重心が載らない、半分浮いたような感覚。

 思わず一歩前に出てしまう。動いてはいけないとわかっている。しかし、意識しないのに、体が動いてしまう。

 

『動くなっ!』

 

 初めて聞く風待の怒鳴り声。いつもの優しい風待の声からは想像できない、心臓が締め付けられるような怖い声。

 父親に怒られた子供のように、スギナの体が震える。母親に叱られた子供のように、スギナの心が悲嘆する。

 

 お父さん、お母さん。助けて。

 

 スギナの心にまだ残留している、幼児のスギナが泣き始める。

 今のスギナもまた、心が恐れと悲しみの奔流に揺れ動かされる。

 

「先輩…私は…私は…」

 

 遠く離れた風待先輩に伝えたいことは多い。しかし、今の散り散りになった私の心を伝える言葉が見つからない。激しく渦を巻く感情の波に、言葉が溺れてしまっている。

 

『スギナ…スギナッ…動くなっ!』

 

 いつもは能弁な風待も、言葉が詰まっているようだ。心が通わないもどかしさに、眉間にしわが寄っている。

 

 それでも何か言おうとした風待の口が、開いたまま止まる。左手をイヤホンにあて、何か聞いている。

 名古屋支部、あるいはDA本部から連絡が入ったのだろう。

 

 名古屋支部の作戦指令室に設置された作戦本部では、本作戦に動員された全リコリス、総員173名の会話や通信を全て傍受している。

 風待の突然の怒鳴り声が、作戦本部のスタッフにも聞こえたのだろう。無言で監視任務に当たっているはずの二人に何が起こったのか、確認の連絡があって当然だ。

 

『…こちら23TMZ001風待…現況説明は後で…申し訳ありません…』

 

 作戦本部から、状況の説明を求められたらしいが、風待は強引に話を切り上げる。

 その間も、風待の拳銃は寸分の隙も無くスギナを指向している。風待の大きめの澄んだ眼は、今はスギナの額という標的に銃弾を撃ち込むための精密なスコープと化している。

 

『スギナ…動かないで』

 

 名古屋支部からの連絡が、昂った神経を鎮めるクッションになったようだ。わずかに落ち着いた風待は、感情のこもらない声でスギナに話しかける。

 

「先輩…」

『スギナ…今のスギナの行動は、武器を捨て逃走しようとしているとみなされる。これ以上動いたら、私はスギナを撃つ…わかるわよね』 

 

 風待の静かな声。小さな声だったが、通信機を通して聞こえるその声は、雨の騒音を潜り抜け、はっきりとスギナの耳に入り込む。

 

 作戦中のチームリーダー、あるいは上位リコリスが部下に対してすることは、作戦指揮だけではない。任務中に規定外の行為を見せた部下に対し、適切な対処をするのも統率者の職務である。

 

 規定外の行為に適切な対処、というあいまいな表現ではあるが、そのほとんどは、新人リコリスが初めての任務に怯え動けなくなっているのをどうにかする仕事である。リーダー役のリコリスは、足が震えて進めなくなった新人リコリスを、なだめ、励まし、時には脅して前線に飛び込ませる役割を担っている。

 

 しかし、まれにだがそれ以上の状況も発生する。暗殺任務、戦闘任務といった通常と異なる環境下では、新人リコリスは恐怖とストレスで異常な行動に出ることがある。

 

 待機中の緊張感に耐えかね、意味をなさない言葉を喚きながら一人で敵中に飛び出す新人リコリス。

 戦闘中の恐怖心に精神を乱され、敵味方の区別がつかなくなり仲間に向けて銃を乱射する新人リコリス。

 撤退中の緊迫感に心を壊され、一人で敵に降伏する新人リコリス。

 

 そして、任務中に何かしらの精神的トリガーによってパニックになり、武器を捨て、待機場所から逃げようとする新人リコリス。

 

 作戦中に部下がそのような行為を見せた時、リーダーはそのリコリスを即座に処理しなくてはならない。

 

 処理の方法については、DAから明確な指示が出ている。射殺である。

 

 リコリスがリコリスに銃を向ける、仲間殺し。

 任務を阻害させるような行為、作戦を失敗させるような行為は、たとえ僚友であろうと許さないという、無慈悲な掟。

 

 どれほど大事な仲間であろうと、チームリーダー役のリコリスは、異常をきたした部下を即座に射殺する義務がある。

 

 風待先輩は、同じ支部の支部長だ。上位のセカンドリコリスだ。同じ近城橋護衛役のリーダーだ。

 

 だから、部下の射殺権がある。

 

 現在と過去の区別がつかなくなり、任務を放棄した部下を、処分しなければいけない。

 武器も鞄も捨てて、待機場所から去ろうとしている部下を、射殺しなければいけない。

 

 当然だ、と現世に半分意識を置いているスギナは思った。

 スギナも本部で学んだリコリスだ。現場処分が必要な状況、即時処理が必要な場合とはどのような時なのかは知っている。

 

 私は、先輩から銃口を向けられて当たり前だ。

 

 リコリスとして、やってはいけないことをしてしまった。

 しかし、私はやらなくてはいけないことがあった。

 先輩なら、わかってくれるはずだ。

 先輩には、わかってほしい。

 

「先輩…私…絵本を探さないといけないんです。大事な…大事な絵本なんです。雨に濡れると…ひよこさんたちが…」

『スギナ…』

 

 まだ半分過去の世界にいるスギナが、必死に説明する。

 もう一度過去の世界に戻るために、しなければいけない事を、ひたすらに話す。

 妄想と現実の狭間で考えた、幸せな人生に戻れる方法を、がんばって語る。

 

「絵本があれば、おうちに帰れるんです。絵本、おうちでお母さんに読んでもらうんです。だから、探しに行くんです。絵本があれば、私は…」 

『スギナアアァ!!』

 

 銃口から伸びる殺意が、急激に膨らむ。

 狙われた頭部、照準を付けられた額が、殺気に炙られ燃え上がる。

 

 撃たれる! 

 殺される!

 

 思わず目を閉じるスギナ。

 恐怖で立ちすくむスギナ。

 

 本来ならば、銃撃の脅威にさらされたリコリスは、どのような絶望的な状況下でも、最後まで諦めることなく抵抗し、生存に固執する。生き延びるのが無理ならば、せめて相打ちにもちこもうと、頭を働かせ、体を動かし、最期まで悪足掻きをする。

 

 しかしまだ不安定な意識下にあるスギナの体は、愛するバディから銃を向けられたショックにより、リコリスとしての土壇場の動作がすべて放棄され、ただ死の恐怖に身を固め、立ちすくむ。

 

 きつく目を閉じたスギナ。その耳に、雨音が聞こえる。

 死を覚悟した自分の、荒く浅い呼吸音が聞こえる。

 

 ほんのしばらく、音だけの世界に逃げ込んだスギナ。

 

 身構える。

 しかし、銃撃の音は聞こえない。

 

 覚悟する。

 しかし、発砲の音は聞こえない。

 

 いつまで待っていても、空気を切り裂き飛んでくる.45口径の銃弾の音は聞こえない。

 

 ほんのしばらく、ほんの長時間、スギナは目を閉じていたが、世の中の音は変わらない。

 額に突き刺さる殺気も、薄らいでいる。

 

 スギナは、震えるまぶたをこじ開けるように、時間をかけて両目を開く。

 

 再び見えた風景は、閉じる前とほとんど変わっていなかった。

 暗い雨の道も、暗い夜の空も、暗い歩道の近くに立つ風待先輩も、変わっていなかった。

 突きつけられた銃の、暗い銃口も、変わっていなかった。

 

 変わっていたのは、風待先輩の顔。

 

 泣いていた。

 

 突き出した拳銃の奥で、スギナを見つめる大きくて綺麗な目。

 毎日私の顔をしっかりと見てくれた綺麗な目。

 毎晩私の体をじっくりと見てくれた綺麗な目。

 

 その目が、泣いていた。

 

 雨に濡れていても、その涙ははっきりと見えた。

 初めて見た、風待先輩の泣き顔。

 初めて見る、風待先輩の涙。

 

「先…輩…」

 

 まだ霞がかる頭を必死に動かし、痺れたかのように動かない唇を必死に動かし、スギナは風待に語りかけようとする。

 

 先輩に、謝らなくてはいけない。

 自分のしでかしてしまったこと、先輩を泣かせてしまったことを、謝らなくてはいけない。

 先輩が引き金を引くのを逡巡している今のうちに、まだ生きている今のうちに、謝らなくてはいけない。

 

 撃ち殺されてしまっては、何も言えない。

 リコリスとして殺される前に、伝えたい。

 死ぬ前に、先輩に一言だけでも謝りたい。

 

「先輩…ごめん…なさ…」

『撃てるわけないっ!撃てるわけないじゃないっ!』

 

 風待先輩の叫び声。イヤホン越しでなくても聞こえた、叫喚の声。

 

『スギナアァ…スギナァ…』

 

 自分の叫び声で緊張の糸が切れたのだろう、風待は銃を下ろし、力尽きたかのように路上にへたり込む。

 風待の足元に溜まった水たまりが、落とされた尻によって大きな水紋を広げる。手に持つ拳銃が水に浸るもの気にせず、風待は前のめりにうなだれる。

 

『スギナァ…お願い…撃たせないで…もう、一人はイヤ…一人にしないで…スギナ…』 

 

 左手で顔を覆い、嗚咽の声をあげる風待。

 

 雨に打たれ、水溜りに落ち、一人泣くその姿は、数時間前に名古屋支部本館で分校リコリス相手に見せていた威厳はすでになかった。

 

 エリートであるセカンドリコリスの制服に相応しくない、弱弱しい姿。

 支部長としての尊厳を忘れたかのような、小さな泣き声。

 

 今の風待の姿は、これまで隠していた内面の弱さと儚さを曝け出し、心が折れたリコリスは、普通の十代の少女と何ら変わるものではないということを、世の中に公表しているかのようだった。

 

 おそらく誰にも見せたくなかったであろう風待先輩の心の弱さ、これを表に引きずり出したのは、自分だ。

 

 私の心が弱かったから、風待先輩を泣かせてしまった。

 私が過去を捨てられなかったから、風待先輩を困らせてしまった。

 

『スギナ…お願い…行かないで…』

 

 嗚咽の中から聞こえる、風待の哀願の声。

 

 その声に、まだ浮遊感のあったスギナの心が、後悔の念という重しを付けられ、現実という地面に降ろされる。

 

 侵入症状によって、二つの時代に散らばっていたスギナの心をまとめ、水平な現実世界に着地させたのは、適切な療法でも優しいケアでもなく、ただ静かに流れる、先輩の涙だった。

 

「先輩…先輩…ごめんなさい…」

 

 スギナも、その場に崩れ落ちる。

 

 座り込むスギナの体に、これが罰だと言わんばかりに、トラックの水飛沫が浴びせられる。

 

 その水飛沫が合図となったかのように、スギナもまた、一人号泣した。

 

 11年前のあの日のように。

 11年前のあの時のように。

 

 トラックのブレーキ音と、延々と続く激しい雨音が、スギナの心をまた過去に引きずり込もうとする。

 

 強制的に思い出す、悲しい過去の断片。

 私だけが、生き残ってしまった。

 

 そしてそれとおなじくらい悲しい、風待先輩の泣き顔。

 私が、先輩を泣かせてしまった。

 

 過去の絶望と現在の後悔が交互に襲い掛かり、スギナを責める。

 

 不幸中の幸いなのは、現在の悲しみが重い足枷となり、過去へ歩むことができなくなっていることだ。

 どれほど侵入症状が激しくても、それ以上に激しい風待への呵責の念に精神を乱され、心が11年前のあの日に戻ることはない。

 しかし、スギナにとってそれは不幸中の幸いなどではなかった。今の彼女に幸いなどなかった。

 

 過去へ堕ちなくても、記憶の断片は脳裏に浮かぶ。

 目を閉じていても、先輩の泣き顔が脳裏に浮かぶ。

 昔と今、二つの世界が交互に訪れ、スギナの心を痛めつける。

 

 私だけが、生き残ってしまった。

 お父さん、お母さん、お兄ちゃん、ごめんなさい。

 

 私が、先輩を泣かせてしまった。

 風待先輩、ごめんなさい。私は最低のバディです。

 

 ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。

 

 泣きながら、スギナは謝り続ける。

 

 泣きながら、スギナは家族の名を、先輩の名を呼び続ける。

 

 身を丸め、地面に頭をつけて泣くスギナの横を、何台ものトラックが通り過ぎる。

 トラックが浴びせる水飛沫の痛みが、弱っているスギナに襲い掛かる。トラックが鳴らすブレーキの破裂音が、無防備なスギナの心を責めさいなむ。

 大型トラックが通り過ぎるたび、スギナの体が震え、その都度、スギナの泣き声が高くなる。

 

 何時間も、何時間も、スギナは泣き続けた。

 

 

 どれだけ泣いただろう。

 

 あまりに泣き続け、声も出なくなっていたスギナの耳に、風待からの通信が入った。

 

『スギナ、終わったわよ。作戦終了、撤収するわよ』

 

 

 その声はあまりに平坦で、スギナには、風待の心が読めなかった。

 

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