モブリコ辺境暦   作:杖雪

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6月の雨の日に ⑲

 皆の期待を裏切ってばかりの人生だった。 

 

 孤児としてDAに連れてこられた私は、分校リコリス候補生ではなく、本部リコリス候補生として選抜された。

 しかし、本部での成績は低迷、私を選抜してくれた担当官の期待を裏切った。

 

 本部では、一人前のリコリスになるため、人一倍頑張った。教導員役だったファーストリコリスの先輩も、未熟な私を一人前にするために、多くの時間を割いて指導をしてくれた。

 しかし、出来上がった結果は底辺サード。教導員リコリスの方々の期待を裏切った。

 

 それでも私は頑張ろうと思った。赴任した先で、きれいな先輩と出会い、この人の横に立つのにふさわしいリコリスになろうと、張り切って今回の出張任務に赴いた。

 しかし、結末はあまりに酷過ぎた。

 

 近城橋の手前で数時間待機するだけの簡単な任務。誰でもできる簡単な仕事。

 それすらも、私には荷が重すぎた。

 

 待機中に起こった様々な要因がトリガーになり、侵入症状に襲われてしまったのだ。

 

 銃を捨て、装備を捨て、逃げようとした。

 現実から、任務から、此岸から逃げようとした。

 

 そして、先輩から銃を突き付けられた。

 

 ここで銃殺されれば、どれだけよかっただろうか。

 

 射殺されれば、逃げた責任がとれる。

 射殺されれば、俗世から解放される。

 

 しかし、先輩は撃たなかった。

 撃てなかった。

 

 撃てずに、泣いた。

 泣かせてしまった。

 

 橋を監視する任務も忘れ、座り込み、泣いていた先輩。

 もしここで敵が襲撃してきたら、私たちは全滅していただろう。そして武装した敵は、夜の名古屋市内に攻め込んでいただろう。

 

 完全な、任務放棄状態。

 この顛末は、今後名古屋支部内で問題としてあげられるはずだ。

 

 私のミスで、先輩の経歴に、諸咲支部の名前に、傷をつけてしまった。

 私のミスで、作戦が失敗するところだった。

 

 しでかしてしまった事はあまりにも大きいが、それからの私の行動はもっと最悪だった。

 

 立ち直ることもなく、謝りもせず、ただ泣いていたのだ。

 作戦中に、いつまでも、何時間も、ただ泣いていたのだ。

 

 銃も取らず、監視も続けず、身を丸めて泣いていた。

 他のリコリスたちが必死に任務にあたっている間、私は幼児のように泣いていた。

 

 今回の作戦に選ばれたリコリスは、合計で173名。

 彼女たちは、皆が自分の役割を果たさんと、全力で頑張っている。

 自分以外の同僚も、皆同じように任務に励んでいると信じ、この雨の中頑張っている。

 私は、彼女たちの信頼も裏切ってしまった。

 

 私の瞼に、名古屋支部長の臥観手(ふしみて)ルミナ先輩の顔が浮かぶ。

 

 気概の旗を立てているのだなと褒めてくれたルミナ先輩。立派なリコリスになってくれと激励してくれたルミナ先輩。

 あの時私は、ルミナ先輩の目を見て、がんばりますとしっかり答えた。

 あの時私は、風待先輩のように立派で華のあるリコリスになります、と大きな声で答えた。

 その返答を聞いた時の、ルミナ先輩の笑顔が想い浮かぶ。

 私は、その笑顔を裏切ってしまった。

 元諸咲支部員の、偉大な先輩の期待を裏切ってしまった。

 

 私の瞼に、岡嵜支部の瑞碧生(みずあおい)コナギさんの顔が浮かぶ。

 

 私の薄っぺらな説明と、私の適当な励ましの言葉で自信をつけてくれたコナギさん。

 今も、この大雨の中、コナギさんは頑張って任務に就いているだろう。

 私なんかの説教を真に受けて、私なんかの激励を純粋に信じて、今も必死に巡回任務に勤しんでいるのだろう。

 当の私が、任務を放棄して泣きわめいているなんて、思いもしないだろう。

 私は、コナギさんの信頼を裏切ってしまった。

 

 私の瞼に、名古屋支部本館に集まった分校リコリスたちの顔が浮かぶ。

 

 彼女たちも、コナギさんと同じく、個々の配置場所で、自分の責務を果たしている頃だろう。

 私は、内心で分校リコリスを軽く見ていた。

 彼女たちを初めて見た時、風待先輩に向かって言った言葉は、今でも覚えている。

 ―正直…この程度なのかと…いえ、そんなこと言っては失礼なんだけど、少し油断が過ぎるというか、甘いというか何というか…

 あまりに驕り高ぶっていた。あまりに驕慢すぎた。

 どの口がそんなことを言えたのだろう。私は、何を考えていたのだろう。そんなこと言って、本当に失礼なヤツだ。

 本部卒であろうと分校卒であろうと関係ないだの言っておきながら、私の心の奥には、自分が本部卒であるという優越感があった。

 本部の底辺サードにしかなれなかった私が、勝手に分校卒を格下扱いして、勝手に優越感に浸っていた。

 しかし、そんな私を、分校の彼女たちは自分たちとは違う存在として見てくれていたようだ。

 勘違いや間違いから来る恐怖心もあったと思うが、それでも一応は本部卒のリコリス、同じサードでもランクが違う別格のリコリスとして見てくれていた。

 私は、そんな分校リコリスたちの期待を裏切ってしまった。

 

 そして、風待先輩。

 

 自分をバディとして認めてくれた風待先輩。只一人の自分として隣にいてほしいと言ってくれた風待先輩。

 かつて諸咲の漁港で私に言ってくれたその言葉を、私は忘れたことがない。その言葉を信じ、その言葉を裏切ることのないよう生きていこう、胸を張って先輩の隣に立てる存在になろうと、心に誓っていた。

 

 サードリコリスに華がないのならば、その分セカンドの華を育てよう。

 私のバディとしての役割は、風待先輩を大輪の華にすること。

 これが私の気概、これが私の意地と矜持だと思っていた。

 

 今日の任務は、その気概を示す第一歩だと思った。

 頑張って任務を遂行し、風待先輩の華を飾り立てよう。

 立派に任務を成功させて、風待先輩のバディに相応しいリコリスであるということを、周囲に示そう。

 そう意気込んでいた。

 

 意気込みのあまり、昼間は仮眠もとらず、身繕いに専念し、靴も丁寧に磨いた。

 綺麗な先輩の横に立つからには、少しでも綺麗な格好をしたかった。

 見栄えの良い服装で、カッコよく任務を成功させたかった。

 そうすれば、先輩はますます私のことを惚れ直すだろう。

 そう意気込んでいた。

 

 そして私の実力は、以前風待先輩がバディを組んでいた、芭照瓦(はしょうが)セノカさんに負けないくらい優秀なのだと、言外に伝えたかった。

 

 去年、半年間だけ風待先輩と一緒に暮らしていたセノカさん。

 優秀なサードリコリスだったというセノカさん。

 何度も出張任務についていたというセノカさん。

 

 風待先輩の心には、まだセノカさんの姿があるだろう。

 死に別れたセノカさんとの思い出は、風待先輩の心の傷となっているだろう。

 

 私は、その傷を癒してあげたかった。

 

 まだ残る心の傷を、二度と思い出すことのないように、全て消してあげたかった。

 先輩の心の傷を全て無くしてあげれば、先輩は今まで以上に楽しい生活を送れるはずだ、私だけを見て幸せに暮らしていけるはずだ。

 

 そのためには、セノカさんより強くならなくてはならない。

 そのためには、私も出張任務を華麗に成功させなければならない。

 そう意気込んでいた。

 

 その意気込みは、すべて無駄になった。

 私の心の弱さが、すべてを無駄にした。

 

 私の心の中で、様々な顔が闇の中から現れる。

 

 風待先輩の、泣き顔が見える。

 ルミナ先輩の、落胆の顔が見える。

 コナギさんの、軽蔑した顔が見える。

 

 そして、セノカの顔。

 

 私は、セノカの顔を見たことがない。だから、彼女の感情しか見えない。

 顔を知らない分、彼女の感情はよく見える。

 

 セノカは、笑っている。

 私を指さし、嘲笑している。

 あいつは、私を笑っている。

 風待先輩は、お前にはふさわしくない。風待先輩の心は、いつまでも私のものだと、あいつは暗闇の底で笑っている。

 

 悔しいが、そうかもしれない。

 

 私は最低のリコリスだ。

 私は最弱のリコリスだ。

 優秀なあいつと比べ、私はすべてにおいて負けているはずだ。

 風待先輩も、そう思っているに違いない。

 

 憎い、あいつが憎い。

 憎い、弱い私が憎い。

 

 どれだけがんばっても、どれだけ憎んでも、縮まることのない私とあいつとの差。

 

 風待先輩は、こんな私のことをどう思っているのだろうか。

 風待先輩は、私のことを…

 

 

『スギナ、終わったわよ。作戦終了、撤収するわよ』

 

 あまりに泣き続け、声も出なくなっていたスギナの耳に、風待からの通信が入った。

 その声は、あまりに平坦で、スギナには、風待の心が読めなかった。

 

 突然の声に、スギナの体が瞬時震える。

 

 セノカについて考えていた最中に聞こえた、静かな風待の声。

 セノカへの嫉妬、いや、嫉妬心よりもっと汚い、薄暗い妄念を見透かされたかのような、最悪のタイミングで聞こえた風待の声。

 

 それは、弱っているスギナを怯えさせるには充分すぎるタイミングだったが、彼女の体が震えた要因はそれだけではなかった。

 

 それは、風待の声から、感情が見えなかったこと。

 それは、風待の声から、内心が読めなかったこと。

 

 スギナが知っている風待は、物静かそうな外見とは裏腹に、自然体で喋る人だった。

 日常での会話において、風待の多弁な口からでる言葉は、常に喜怒哀楽が踊っていて、聞いているスギナの耳には、音で対話するジャズの即興演奏のように聞こえたものだ。

 

 その反面、風待は感情を隠す話し方も上手だった。

 本部や名古屋支部との音声通信の際や、4月にスギナとともに諸咲役場の重役に挨拶をした時などは、今の声のような、表情を見せない話し方をしていた。

 

 普段と変わらない優しい声だが、自分の内面を隠す、静かな話し方。

 スギナも一度だけ、風待から感情を隠した声で話されたことがある。

 

 それは4月の中旬、内箕駅の外。

 風待とスギナが初めて出会った、葉桜の下。

 

 あの時の風待は、スギナに優しく語りかけながらも、内心を隠していた。

 前のバディだったセノカを亡くしてから半年、まだかつての相棒の影を背負っていた風待は、初めて会うスギナに、心を開いてはいなかった。

 

 スギナも、その時の風待の声と表情は覚えている。

 優しいが、どこかよそよそしかった最初の声。

 遠くからふと見えた、どこか険のある表情。

 

 そのときの風待の態度は、スギナとふれあううちにすぐ消えてしまったのだが、当時セノカの顛末を知らなかったスギナには、ほんの少しの謎として、心の片隅に長いこと放置されていたものだ。

 

 自分に対しては、もう二度と使われることはないだろうと思っていたその声色。心を隠したその声色。

 今スギナに投げかけられた声は、もはや忘れかけていた声、4月に初めて聞いた風待の声と同じ声調だった。

 

 風待の平坦な声は、会話を全て傍受している作戦本部に、これ以上自分の心を開示したくないという気持ちから来たものだろう。

 しかしスギナには、その声が、自分との心のふれあいを風待が拒否したかのように感じられた。

 

 自分と先輩との関係、数カ月かけて築き上げてきた関係が、リセットされたかもしれない。

 当然だ、自分はそれだけのことを仕出かしてしまったのだから。

 

 スギナは、そのようなことを考えながら、そっと顔を持ち上げ、風待の姿を見る。

 雨の遮断幕の向こうに透けて見える風待の姿は、任務開始直後と何ら変わってはいなかった。

 

 長時間雨にうたれた衣類や長髪は、萎れた花弁のようになって身にまとわりついていたが、それでも凛々しく、疲れひとつ見せずに、歩道に立っている。

 左手はイヤホンにあて、何か話している。名古屋支部と何か会話しているのだろう。

 

 名古屋支部との会話は、スギナには聞こえない設定になっている。しかし、語っている内容はだいたいわかる。スギナが任務を遂行できなかったことを話しているのだろう。

 

 風待先輩のもとに戻るのが怖い。

 気が重い。

 

 しかし、撤収と言われた以上、いつまでもここに居座るわけにもいかない。

 スギナは、力の抜けた体を何とか動かし、立ちあがる。

 

 泥だらけになった分離帯の上に落ちている、グロックとサッシェルバッグを拾う。スギナが混乱の最中に投げ捨てたリコリスの基本装備は、雨と泥にまみれ、手に持つのを一瞬ためらう程に汚れていた。

 リコリスのだれもが持つ武装、リコリスの誇り。それを投げ捨ててしまったこと、それを汚してしまったことに、スギナの心が痛む。

 

 これだけ汚れてしまっては、帰ったら徹底的に清掃しなければならない。

 しかし、自分には帰る場所はあるのだろうか。

 諸咲支部に、風待先輩の胸の中に、帰る資格はあるのだろうか。

 

 スギナは、もう一度風待の姿を見る。

 

 いや、帰る資格を考える前に、リコリスとしてやらなくてはならないことがある。

 上官である先輩に、きちんと謝らなくてはならない。

 怒られたり、呆れられたりするのは、その後だ。

 

 まずは謝ろう。

 リコリスとしての尊厳をすべて捨ててしまった私にできることは、それくらいしかない。

 

 幸いなことに、今まで泣きすぎて、すでに涙は枯れ果てている。

 今なら、何を言われても、泣くことはない。

 幸いなことに、今まで喚きすぎて、すでに精神は麻痺している。

 今なら、何を言われても、傷つきはしない。

 

 悲壮な決意とともにスギナは立ちあがり、疲れた脚で風待のもとに向かう。

 顔を上げられないまま、風待の顔を見ることができないまま、長い長い道路を横切る。

 

 風待の前に立ってもなお、顔を上げることができないスギナ。視界には、地面の水溜りを跳ね上げる雨粒と、風待の靴しか見えない。

 これから起こる叱責、これから起こる決別。顔を上げたら最後、怒涛の如く始まるであろう二人の仲の終焉。

 それが怖くて、それが嫌で、スギナは何時までも顔を上げることができなかった。

 

 わずかに震えるスギナの頬に、風待の手が伸びる。

 頬を叩かれる。スギナは思わず目を閉じる。

 

「…スギナ、顔を見せて」

 

 しかし、風待の手のひらは、スギナの片頬を優しく撫でる。

 

 先ほどと変わらない、感情を殺した風待の声。しかし、その手のひらは、言葉ほど上手には感情を隠しきれていなかった。

 

 愛おしいものへ触れたとき特有の、優しく、静かに包み込むような愛撫。雨に濡れ、冷たくなってはいたが、その掌の感触と、その動きに込められた想いは、毎晩体で感じた愛撫と全く同じだった。

 

 思わず、スギナは風待の顔を見上げる。

 

「スギナ…スギナ…よく帰ってきて…怖かったね…大変だったね…スギナ…」

 

 風待は、無表情だった。いや無表情の顔を、無理やり作っていた。

 感情を抑え、無理やり無感情の声を出していた。無理やり立っていた。

 

 顔を見たら一目で分かった。これは無理やり演技していたのだと。

 

 ヘッドセットタイプの通信機は、作戦本部である名古屋支部の許可があるまで外すことはできない。

 そのため、二人の会話は今も駄々洩れである。

 これ以上騒ぎ立てると、スギナの経歴についた傷が広がってしまう。通話中に問い詰めると、スギナの聞かれたくない過去が記録されてしまう。風待はそれを心配していたのだ。

 

「先輩…私は、してはならないことを…」

「いいのよ…スギナ…もういいの…」

 

 スギナの頬に触れた風待の手が、かすかに震えだす。感情の昂りに、手の温度が上がりだす。

 

「スギナ…スギナ…」

 

 必死に語句を選んで話そうとする風待。しかし、名古屋支部にも聞かれているこの状況下では、なかなか適切な言葉が浮かばないようだ。何度も口を開けるが、想いを伝える言葉は出てこない。

 

 深夜に書くラブレターを熱心に推敲するかのような顔をして、言葉を選択し始める風待。しかし、会話は名古屋支部に筒抜けという厳しい制約のため、だんだんと眉間にしわが寄り、思いつめた表情になっていく。そして…

 

「おいっ!クソ名古屋支部っ!貴様ら人の会話を盗み聞きしているんじゃねえぞ!!」

 

 風待は暴言とともに自分のIP通信機を耳からむしり取ると、力いっぱい地面にたたきつけた。

 

「ええええええええぇ!」

 

 普段の風待から想像もつかない、ドスの効いた大声と突然の暴挙に、思わず素の悲鳴をあげるスギナ。慌てて地面を転がる通信機を拾おうとするスギナの肩に、風待の手が伸びる。

 

 力強く引き戻されるスギナ。風待は呆然とするスギナの左耳から通信機を取り外すと、これも同じように全力で投げ捨てる。

 

「先輩これダメですよ通信機捨てたらダメですよそれリコリスの装備でDAの備品なんだから投げたらダメで…」

「DAなんかどうでもいい!」 

 

 何言っているんですか先輩、と言おうとして向かい合ったスギナを、風待が思い切り全力で抱きしめる。

 

 本気の全力、スギナの骨がきしむほどの全力。

 スギナの背中に回した腕に力を込め、セカンドリコリスの腕力で捕縛するかのように風待は抱きしめる。

 

 もう逃がさない、もう離さないという決意が込められたかのような、全力のホールドに、スギナの息が詰まる。

 

 これまでも、風待先輩に抱きしめられたことは多々あった。

 部屋の外で、部屋の中で、布団の上で、何度も抱きしめられた。

 そのどれとも違う、筋力を制御していない抱擁。

 抱きしめるというより、捕まえるという感じの、容赦のない抱擁。

 愛情以外の感情に突き動かされている風待のハグに、スギナの体が悲鳴をあげる。

 

「先輩…ちょっと待って…これ痛い…」

「スギナ!行っちゃイヤだっ!」

「えっ?」

 

 感情剥き出しの風待の声、子供が駄々をこねるような風待の声。

 いつもの静かでおとなしい口調とは全く違う、荒れ狂う激情をともなった風待の声。

  

「一人で行こうとしないでっ!絵本探しに行かないでっ!私を、私を置いていかないでっ!スギナは…スギナはいつも私のそばにいなくちゃダメなのっ!」

 

 ほとんど叫び声のような風待の言葉が、スギナの脳裏に閃光のような衝撃を与えた。

 自分の過去に囚われ過ぎて見えなくなっていたもの、スギナが見失っていたものが、その光によってはっきりと姿を現す。

 

 私は、先輩を置いて立ち去ろうとしていた。

 私は、先輩を残して俗世を捨てようとした。

 

 大事な先輩、大切な先輩。

 

 二人で暮らし、二人で生き延び、来年の5月にまた大漁旗たなびく旗挙げの祭りを二人で見ようと誓いあった先輩。

 

 それを、私は見捨てようとしていた。

 先輩を、また一人にするところだった。

 

 それも、射殺という最悪の別れ方で。

 

 セカンドリコリスという立場上、やむを得ず私に銃を向けた先輩。

 先輩がもう少し感情を抑制していたら、私は射殺されていた。

 

 私が撃ち殺されるのは構わない。しかし、私を殺した後に先輩が背負う煩悶を、私は考えもしなかった。

 

 私は、先輩の心を、全く考えていなかった。

 私は、先輩との誓いを、全く思い出さなかった。

 

 先輩と二人で、生きていきたいと誓ったあの日。

 先輩と二人で、この町を守ろうと誓ったあの日。

 

 私が最初に謝るのは、任務を捨てたことではない。過去の侵犯に負けたことでもない。

 

 私が謝らなければならないのは、あの日の誓いを忘れたことだ。そして、先輩を置いて去ろうとしたことだ。

 

「先輩…ごめん…ごめんなさい…」

 

 口から零れる言葉とともに、目から涙も零れる。

 

 泣きすぎて、涙も尽きてしまったと思っていたのに、新たに漏れ出る静かな涙。

 夜空から降る冷たい雨とは違う、相手を想う心の温度がそのまま滲み出る、温かい涙。

 

「いいのよ…スギナ…よく…よく戻ってきてくれたわね…」

 

 風待先輩も泣いていた。

 

 先輩らしくもなく、セカンドリコリスらしくもなく、支部長らしくもない、普通の女の子そのままの嗚咽。

 先輩は、これまで上手に隠してきた心の弱さをむき出しにして、ただ泣いていた。

 私も、これまでの人生で必死に隠そうとしてきた弱い心を露呈させ、ただ泣いた。

 

 二人で泣いた。

 

 抱き合って泣いた。

 ずっと抱き合った。

 

 支えあって立っていないと、そのまま泣き崩れそうなのが怖くて、降り続く雨の中ずっと抱き合っていた。

 

 私たちは弱い。

 一人では立っていられない。

 

 だから、抱き合おう。

 だから、支えあおう。

 二人で、支えあって、生きて行こう。

 

 

 

 

 

 

 

 お父さん、お母さん、お兄ちゃん。

 

 この世の中は、辛い雨ばかりで、楽しいことはほとんどありません。

 家族も絵本も帰る家もないこの世界は、正直寂しいです。

 

 けど、今の私には、支えあって生きていける、大事な人がいます。

 この人が隣にいる間だけは、私はこの世にとどまろうと思います。

 

 お父さん、お母さん、お兄ちゃん。

 

 私もいつかは、皆のところに行きます。

 けど、もうしばらくは、この濁世で生きてみようと思います。

 

 もう少しだけ、待っていてください。

 もう少しだけ、お空の上から、私を見守っていてください。

 

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