モブリコ辺境暦   作:杖雪

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6月の雨の日に ㉓

 雨が降る。

 

 無人のグラウンドに、雨が降る。

 深夜のグラウンドに、雨が降る。

 

 暗く広がるグラウンドに降った雨は、薄く広い水溜まりとなって留まり、遠くに輝く街路灯の明かりを反射して、割れた鏡片のように細かく光る。

 

 水溜りに落ちる雨粒の連打は、無秩序に叩かれる打楽器のように騒がしい。

 

 それ以上に騒がしいのは、ベンチの上に張られている防水シートの音。

 片側三本の鉄パイプの骨組みだけで支えられているベンチの屋根。薄い防水シートが貼られただけの天井は、数千本もの指先で、薄い扉をノックしているかのような、乱調で乱雑な雨音を立てている。

 

 それ以上に騒がしいのは、ベンチの上に座っている二人の少女の声。

 暗い雨の中、深夜まで続いた暗い任務も終わり、後はただ明るい朝を待つだけの、二人の少女の話し声。

 

 彼女たちの明るい声に、広場の雨音も、天井の雨音も、その勢いを潜ませる。

 

 いつまでも続く長話。

 どこまで続く無駄話。

 

 まだ夜は長い。

 まだ朝は遠い。

 

 雨が止む明け方まで、電車が走る始発まで、このまま話を続けよう。

 

 お菓子もある、お茶もある、椅子もある、暇もある。

 

 雨と闇が支配するこの間だけは、私たちは自由だ。

 夜のベンチで待機する間だけは、私たちは自由だ。

 

 だから、今だけは会話を楽しもう。

 だから、今だけは自由を楽しもう。

 

 二人の会話は、まだまだ続く。

 

 

「かんぱーい」

「はい、乾杯」

 

 スギナと風待は、今日何度目かわからない乾杯をする。

 

 お互いにそっと当てたペットボトルが、ペコンと音を立てる。

 

 乾杯をする意味は特にない。ただ、二人で同じことをするのが楽しくて、二人でいることが楽しくて、なんとなく何回も乾杯をしてしまう。

 

 ペットボトルに入った緑茶を、上を向いて一口飲むスギナ。

 天井を仰ぎ見るスギナの目に、鉄パイプに吊るされたお菓子袋とサッシェルバッグ、そしてタオルと靴下が映る。

 

 任務が終わり、この野球場公園に来たのが今から一時間前。

 

 本当は、任務前にここに隠していた菓子袋を取りに来ただけなのだが、本降りになった雨と、この場所が待機するのに好都合な立地条件であることに気が付いた二人は、そのままこの小さな屋根付きベンチに居座ることにした。

 

 まずは名古屋支部本館で大量にいただいた圧縮タオルの袋を数枚開け、濡れた頭や体を拭く。

 

 長い間雨にうたれていたため、スギナも風待も、全身水浸し状態だった。

 制服自体は防水加工が施されているのだが、上からの雨と横からの水飛沫によって、襟元や袖口から少しずつ侵入した雨水は、今は下着にまで到達している。

 さらには、スギナは泥水の中で泣き崩れていたため、全身は泥で汚れている。風待も、歩道の水たまりの上で泣き崩れていたため、スギナに負けず劣らず汚れた格好である。

 

 DAの超技術で作られたという圧縮タオルは、名古屋支部本館で風待が説明していた通り、袋を開けるとふわふわのタオルがポンと出て来る。持ち帰って普通のタオルとして使うこともできるほどの高品質という言葉通り、吸水性もよく、濡れた二人の顔や頭をしっかりと拭ってくれた。

 

 本来なら、裸になって体も拭きたいところだが、さすがに人気のない夜とはいえ、年頃の少女である二人には、外で服を脱ぐような度胸はない。身体は制服をボタンを全部開け、着衣のまま腕を服の中に入れて拭くにとどめる。

 

 一番汚れていた足元は、服で体を隠しているのとは対照的に、開放的な姿を見せる。靴も靴下も脱ぎ捨て、雨水で濡らしたタオルで念入りに汚れをふき取る。

 

 汚れたタオルと靴下は、天井から滴り落ちる雨水で軽く洗い、よく絞ってから、頭上の防水シートを支える鉄パイプに上手に吊るす。

 この雨空の下に干しても、どうせ乾くことはないだろうが、せめて水気は切っておきたい。生乾き程度にはなりますようにと祈りながら、等間隔に干す。

 

 ついでに、ベンチの上に置いておくと邪魔なだけのサッシェルバッグと、意外とかさばるお菓子袋も、一緒に天井に吊り下げる。天井にぶら下がった私物たちの存在感によって、公園のベンチは二人だけの部屋のような空間に早変わりする。

 

 言うまでもないが、公共の場所を個人のスペースのように飾り立て、独占して使用することは重大なマナー違反である。たとえ深夜であろうと、たとえ無人であろうと、してはいけない行為であることは、二人も理解している。

 

 しかし、今夜は傘をさして歩くことすら躊躇するような大雨だ。この悪天候の中、施錠された公園に入り込んでくるような人間はいないだろう。雨が明けたら徹底的に掃除をしてから帰るので、今だけは許してほしいと、二人は心の隅で謝りながら、このベンチの軒下を借りていた。

 

 上を向いてお茶を飲んでいたスギナが、今度はペットボトルの蓋を閉めるため下を向く。

 

 眼下に見えるのは、自分の両足。制服のスカートから生えた、二本の裸足。

 泥で汚れた靴の上に踵を乗せた、まだちょっと子供っぽい、自分の二本の足。

 

 何となく、スギナは足の指を動かしてみる。

 

 薄暗いベンチの屋根の下、タオルで何回も拭ったはずなのに、こうしてゆっくりみると、まだ足には汚れが残っている。

 そして、その足を乗せている靴も、泥汚れがひどい。

 

 昼間にしっかりと磨いた靴。希望と期待を込めて磨いた靴。

 

 あの時は、自分がこの作戦の主人公になれるのではないかと、心のどこかで思っていた。

 

 名古屋支部の精鋭、大須鉛撃隊が撃ち漏らした敵を、私たちが華麗に掃討する展開があるのではないかと心が躍っていた。

 

 近城橋の下で待機した時も、派手な銃撃戦があることを期待していた。

 

 グロック36の装弾数では足りなくなるほどの、盛大な銃撃戦。

 風待先輩の援護のもとで繰り広げられる、初めての銃撃戦。初めての戦闘、初めての勝利。

 

 そのようなものなどなかった。

 

 自分が、侵入症状に襲われてパニックになっている最中に、包囲殲滅作戦は粛々と開始され、粛々と終了した。

 

 自分は、いてもいなくても関係なかった。

 

 風待先輩は、敵が近城橋を越えて来る確率は、1パーセント程度だと言っていた。

 1パーセント程度の危険に掛けられた保険。私達は、その程度の存在だった。

 

 作戦は、自分に関係なく終了した。

 

 自分は、それほど重要な存在ではなかったのだろう。

 

 今夜のこの作戦の主人公は、どこかにいたのだろう。

 自分は、この作戦の主人公ではなかった。

 それだけの話だ。

 

 私達のこの世界の主人公は、どこかにいるのだろう。

 自分は、この世界の主人公ではなかった。

 それだけの話だ。

 

 私は、この世界のモブだ、ただのモブリコだ。

 

 地方リコリスの意地と矜持によって、そして風待先輩との絆によって、かろうじて立っているモブのリコリスだ。

 

 それでも、頑張ってこの世界を守っていきたかった。この世界の主人公になりたかった。

 

 電波塔のあの日から11年。

 私は、どこまでこの世界に近づけるのだろうか。

 

「スギナ、あまり思い詰めてはダメよ」

 

 揺れる心を見透かしたかのような、風待の優しい言葉に、スギナの心がベンチの上に帰る。

 

「すいません…先輩」

 

 小さな足の指をわさわさと動かしながら、スギナが答える。

 

 スギナが思っていたより、かなり長い時間考え込んでいたようだ、風待は天井に吊るした袋から、新たに取り出した駄菓子をむぐむぐと食べている。

 ベンチの上に胡坐をかいて座る裸足の風待。その横には、食べ終えた駄菓子の包み紙が何点か散乱している。

 

 会話中に、しばらく放心していたことを詫びようとしたスギナの目線が、風待の手元に落ちる。

 

「あっ!先輩、それ上り味!」

 

 スギナに優しい言葉をかけた風待の口は、一口ういろうを容赦なく齧っていた。

 

 小さな口でもぐもぐと、小さな一口ういろうを食べる風待。

 スギナは以前、任務中の糖分補給として、上り味の一口ういろうをポケットの中に入れていた。しかし、パニックになった際に零れ落ちてしまったのか、作戦が終了した時には、スギナの懐は空になっていた。

 

 残念がるスギナに、風待はまだお菓子袋の中に上り味のういろうがひとつあったはずだから、と慰めの言葉をかけていた。

 

 上り味ってどんな味なんだろうね、と任務開始前に二人で話し合っていた小さなお菓子。

 任務終わりまで我慢して、後でゆっくりと確かめたかった謎の味、上り。

 

 その最後の一つを食べられてしまった。

 

「先輩!なんで最後の一つ食べちゃうんですか!」

「いや、ちゃんと食べる前に断ったわよ。スギナ考え事していたから、邪魔しないように、小さな声で」

「邪魔してください!大きな声で言ってください!」

 

 スギナの剣幕に、風待は最後の一口を口に入れると、ごめんなさいと謝りながら咀嚼し、飲み込む。

 

「咀嚼しないで下さい!飲み込まないで下さい!私もどんな味か知りたいです!」

 

 スギナは風待のもとににじり寄ると、雨に濡れた風待の頭を両手でしっかりとつかみ、静かに唇を近づける。

 

 日頃は受け身が多いスギナではあるが、今夜は大胆に、そして積極的に風待の唇を奪う。

 

 風待の柔らかな唇の下に並ぶ、白い歯を押しのけるように、スギナの舌が潜り込む。

 風待の口内に侵入したスギナの舌は、上り味の残り香を探すかのように動き回る。やがて、風待も突然の乱入に抵抗するかのように、自分の舌をスギナの舌に絡める。

 

 舌上にまだ残る甘味を探すかのように、風待の舌を執拗に嬲るスギナの舌。耳音で聞こえる呼吸音と、絡まる舌同士の猥雑な水音が脳内に響く。

 

 いつしか二人はお互いに抱き合い、無心になりお互いの舌の味を探り合う。味ばかりではない、互いの体温、互いの匂い、互いの感触、互いの想いを、二人は淫らに味わう。

 

 やがて、スギナの体が弛緩し、全身から力が抜けたかのように崩れ落ちる。

 

 胡坐をかいた風待の両腿に頭を落とすように倒れると、真っ赤になった顔を隠すかのように、風待の股に顔を埋める。

 

「どうだった?上り味」

 

 スギナの頭を優しく撫でながら、風待が目を細め、優しく問いかける。

 

「すごく…甘かったです」

 

 胡坐座になった風待の脚を枕にしながら、スギナが潤んだ声を出す。

 

 スギナの方から迫ってきたはずが、あっさり返り討ちにあったのが恥ずかしかったのだろう。スギナはなかなか頭を上げようとしない。

 

 そのようなスギナを追い払おうとせず、風待はポケットに入っていたスマートフォンを取り出し、名古屋支部からのメールを確認する。

 

「今頃、分校のみんなも、甘いもの食べているみたいよ」

 

 作戦終了後も何通か届いている名古屋支部からのメールをすべて読んだ風待が、どさくさに紛れて風待の股間に顔を押し付けているスギナに話しかける。

 

「甘いもの?」

「ええ、作戦も無事終わったから、分校の皆さんは市内の臨時巡回を終えて、名古屋支部本館に集まりなさいっていうメールが、さっき届いていてね」

 

 甘いものと聞いて興味が出てきたのか、好奇心旺盛なスギナがやっと顔を上げる。

 

「名古屋支部も結構優しいわね。本館から離れた場所に配置された分校リコリスは、例のDAのバスで回収してくれるらしいわ。ルート図と停留場所と到着時刻予定表を添付するから、該当地点で待っているように、だって」

 

 近城埠頭まで名古屋王須鉛撃隊を搬送していたDAの移動用バス。おそらく名古屋支部長の臥観手ルミナの発案なのだろう、任務を終え本館に戻ったバスは、今は分校リコリスたちの回収のため、夜の名古屋市内を走り回っているらしい。

 

「雨空の中、朝まで待ってから本館集合じゃ大変ですからね」

「で、本館に到着した分校リコリスたちは、任務報告が終わったら朝まで本館ロビーに待機。その際、お茶とあんころ餅が食べ放題らしいわよ」

「あっ、いいですね伊勢名物のあんころ餅!」

 

 スギナが体を上げ、風待の横に座り直す。

 

「名古屋支部では、甘味はあんころ餅しか出ないらしいけど、私たちから見ればうらやましい話よね」

「諸咲の周りって、エビせんべい売っている場所は多いですけど、伊勢のあんころ餅は売っていませんからね」

「数は多く準備しているので、ゆっくり帰ってきてください、だってさ。作戦が無事終了したからかしらね、文章も柔らかくなっているわ」

 

 撤退時の注意事項が書かれたメールをぼんやりと読む風待。自分たちには関係はないが、一応すべて目を通しているようだ。

 

 スギナも念のため、自分のスマートフォンを取り出してメールを確認するが、風待とは違い、自分には分校宛のメールなど一通も入っていない。

 作戦終了後とはいえ、他のリコリスの配置や移動の状況がわかってしまうようなメールは、本部卒とはいえスギナのようなサードリコリスには送られてこないのだろう。

 

 勝手にういろうを食べてしまうような人物とは言え、風待は一つの支部の支部長であり、青服の上級リコリスである。全体状況を把握し、非常時には状況に基づいた緊急行動がとれるよう、名古屋支部も特別に情報を送信しているのだ。

 

 つまらなさそうにスマートフォンをしまうスギナとは対照的に、風待は次に送信されたメールを何回も読み返している。

 

「帰るときの注意事項で、変なこと書いているわよ。例の本部リコリスに注意だって」

「なんですかそれ」

 

 少し嫌な空気を感じたが、とりあえずスギナは聞いてみる。

 

「えーとね…現在名古屋市内に、泣き声のような笑い声を上げながら両手の中指を突き立てて、テロリストたちを素手で絵本にしようとしている本部卒のサードリコリスが徘徊していますって書いているわね。危険だから周辺に注意して、なるべく暗がりの道は歩かないようにしてください。できれば複数のリコリス同士で移動し、人気のない通りを避けて帰ってきてください。そして遠くから笑い声が聞こえてきたら、速やかにその場から逃げてください、だって」

「なんですかそれ…」

「もしそのサードと目が合ったら、逃げても無駄だそうよ。浜辺に棲息するスナガニのような姿勢で、ものすごい速度で迫ってくるから、その時は大声で周囲に助けを求めてくださいだって」

「リコリスが助け呼んじゃダメですよね…」

「もし周りに誰もいないときは、デンパトウと三回唱えてください、とも書いてあるわ」

 

 さすがにウソですよね先輩!と言いながら、スギナは風待の手からスマートフォンを奪う。

 

 しばらく名古屋支部からの文面を読んでいたスギナだったが、やがて大きなため息をつくと、力のない手で風待にスマートフォンを返す。

 いつもしょうもないウソをつく風待だったが、今夜の先輩は正直者だったらしい。

 

「都市伝説が作られていく過程、私初めて見ました…」

「臨時の回収バスが出たのも、このせいなのかもね」

 

 任務の疲れがいきなり押し寄せてきたスギナは、もう一度重いため息をつくと、胡坐をかいた風待の太腿に再び頭を落とす。

 

 雨に濡れたスギナの頭を、片手で優しく撫でながら、風待は続いて送られてきたメールを確認する。

 

「ねえスギナ、今夜のメールは悪いことばかりじゃないわよ。私達へのご褒美についての連絡も、さっき届いていたわ」

「ご褒美?」

 

 上半身を倒したまま、風待の顔を見上げるスギナ。

 

「そ、ご褒美。いわゆる昇進ポイント加算と、来月から行ける外出プレゼントが出たわよ」

「どっか遊びに行けるんですか?」

 

 自分のあずかり知らぬところで都市伝説にされてしまったスギナの死んだ目が、外出という言葉に輝きだす。

 

 任務成功のご褒美に、外出権が与えられることはスギナも知っていた。

 

 たいていのリコリスは、定期診断と出張任務以外に自分たちの支部の外へ出ることはできない。

 しかしDAは、功績のあったリコリスに、褒美として外部研修や地方支部視察の名目で外出許可を与えることがある。

 

 外出先は自由ではなく、DAが決めた場所へしか行くことはできないが、それでも支部外へ遊びに行けるという開放感あふれるこのご褒美は、リコリスたちにとって人気は高い。

 

 外出先にも成功に応じたランキングがあり、小は近くの支部の遊園地、大は他の都道府県に設置された観光用支部への一泊旅行となっている。

 二人が暮らす諸咲支部も、県内県外のリコリスがご褒美として遊びに来る観光用支部である。褒賞として与えられた旅行を楽しんだリコリスたちが、旅の締めくくりに立ち寄る場所として設置されたのが、諸咲支部リコリスが運営するモブリコ寿司であるということを、スギナは赴任初日に風待から説明されていた。

 

「どこに行けるんですか?一泊旅行ですか?」 

「さすがにそこまでは活躍していないでしょ。ええとね、今回私たちが行ける場所は、名古屋市内ね。市内にある名古屋科学館の、夏の特別展よ」

「名古屋科学館ですか…特別展って何やるんですか?」

 

 ちょっと地味ですね、という表情をしながら、風待の腿を膝枕にして尋ねるスギナ。

 

「特別展は、無顎類の化石がメインみたいね。タイトルは『アゴなし類とオレ物語展』だって」

無顎(アゴなし)類…」

 

 もっと地味ですね、という表情をしながら、スギナは風待の腿に指を這わす。

 

「ヘルシンキ自然史博物館の、例の復元模型も展示されているらしいわよ。ほら、サカバンバのなんとかって言う…」

「あー、そういえばその特別展、春に科博でやっていました」

 

 復元模型の顔真似をしながら、無顎類が出しそうな声を真似てスギナが答える。

 

「スギナって、こういうのあまり興味ないの?」

「興味はありますけど…できればもう少し遊べるところがよかったかなって」 

「二人で行けば、どこだって楽しいわよ」

 

 膝に抱いた猫を撫でるように、スギナの頭や顔に手を這わせながら、風待が静かな声で言う。

 

「そうですね、けど今夜は近城埠頭近くの任務だったから、記念に近城のロゴランド行きたかったです。あそこ、前から一度行きたいと思っていましたし…」

 

 近城埠頭にあるテーマパーク、ロゴランド。世界中のロゴタイプを集めたこのアミューズメント施設は、小さな子供を中心に、あらゆる世代が楽しめる一大娯楽施設として人気が高い。

 

 スギナもDAにいたころから知っていたテーマパーク。一度は行きたいと思っていた、名古屋のテーマパーク。

 ロゴランドの魅力を延々と語るスギナ。風待はその声を、ただ静かに聞いている。白く長い指でスギナの頬を撫でながら、無言で聞いている。

 

「…先輩?」

 

 スギナの声が、途中で止まる。

 風待の目は、遠くの暗闇を見ていた。

 

「先輩?」

「…ごめんなさいね、スギナ。私、遊戯施設ダメなのよ。スギナと行けばどこでも楽しいんだけど、人混みの多い遊園地だけは…行けないのよ」

 

 行きたくない、ではなく、行けない。

 風待の一言に含まれた意を察して、スギナの口が閉じられる。

 

 リコリスは、誰でも心に傷がある。

 

 望まぬ孤児となり、望まぬ暗殺教育を受け、望まぬ殺人を強いられる。

 陰惨な人生を押し付けられた彼女たちの心には、一生癒えることのない、多くの傷が残っている。

 

 触れてはいけない風待の心の傷を、スギナは知らないうちに触れてしまったようだ。

 

 いや、知らないうちに、ではない。

 風待は、スギナと会ったその日、すでにそれとなく話していた。そしてスギナは、それとなく聞いていた。

 

ー私、この田舎支部に赴任して長いし、愛着もわいたというか、慌ただしくて人が多い大きな支部や本部直属でやっていけるか心配というか、大都市の人混みが多い遊戯施設が苦手とか…色々あるのよ…ー

 

 モブリコ寿司の説明を受けながら、風待がふと語ったその言葉を、スギナは覚えていた。

 覚えていたにもかかわらず、言葉の裏の意味まで考えていなかった。

 

 スギナがシャワーの音と破裂する音が苦手なように、風待にも苦手なものはあるのだろう。いや、あって当然だ。

 しかし、強いセカンドリコリスというイメージで風待を見ていたスギナは、風待の心の傷がどこにあるのか、今まで考えてもいなかった。

 

 ごめんなさい、と起き上がって謝ろうとするスギナ。

 

 しかし、体を上げようとしたスギナの頭が、動かない。

 

 今までスギナの頭を撫でていた風待の両手の指、長くきれいな10本の指が、スギナの頭を押さえつけているのだ。

 

 セカンドリコリスの強さは、サードリコリスよりもはるかに上である。

 膝枕で天井を見上げているという力を入れにくい姿勢とは言え、本部卒サードのスギナの動きを、風待は10本の指だけで完全に封じ込めていた。

 

「…先輩?」

 

 上を向いたまま、風待の太腿の上に押さえつけられたスギナの目が、不安そうに風待を見る。

 

 風待は、まだ前方の暗闇を見ていた。

 いや、見ているのは別の暗闇だろう。

 

 しばらく動かなかった風待だったが、スギナの再三の呼びかけに、ようやく目線を下げる。

 

 胡坐の上に乗っているスギナの頭を、上からのぞき込むようにして目線を合わせる風待。

 風待の黒く長い髪が、スギナの顔を上から包み込むように迫る。

 

 顔に落ちて来る風待の髪が、スギナの顔をくすぐる。風待の濡れた髪の匂いが、スギナの鼻をくすぐる。

 どれだけくすぐったくても、強い力で押さえつけられたスギナの頭は、少しも動かすことはできない。

 

 捕獲罠にかかった小動物のような表情で怯えるスギナの顔を、風待はしばらくの間見つめながら、何かを考えているようだ。

 薄暗いベンチの中、さらに長い髪が遮光壁になっているため、スギナからは風待の表情は見えにくい。

 

 それでも、スギナは風待の視線から目を離さない。

 風待の気持ちに触れようと、風待の気持ちを理解しようと、怯える心を押さえつけ、風待の顔を見続ける。

 

 やがて、スギナを押さえる指に力が入ったかと思うと、風待が意を決したように口を開く。

 

「スギナ…私ね…」

 

 スギナの上から聞こえてくる風待の声。

 

「私ね…遊園地で孤児になったの」

 

 その声は、少し震えていた。

 

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