雨はまだ止まない。
しかし、夜の地面を延々と叩いていた勢いは、次第に衰え始めているようだ。雨の密度が薄くなり、落ちる雨粒も小さいものへと変化する。
夜はまだ明けない。
しかし、空を覆う夜の蓋の一隅は、淡く輝きだしている。暗がりの向こうに控えている朝が、密やかに近づいているのだ。
二人は、静かに小雨の音を聞いていた。
二人は、静かに夜明けの空を見ていた。
一晩中語り明かした二人。
誰もいない深夜の公園の、小さな屋根付きテント。夜の暗幕と雨の帷帳によって世界から隔離された小さな世界で、二人は夜通し語り合った。
DAに禁止されている、自分の過去の話をすべて話した、すべて暴露した。
途中、雨が小ぶりな時を狙ってペットボトル飲料を買い足しに行ったり、近くの公園のトイレに行ったりしながら、この時間まで語り合った二人。
すべてを語りつくしたと感じた今の二人は、深い充実感と、けだるい疲れに包まれていた。
明け方前のこの時間になると、さすがに眠さも感じはじめる。無理もない、近城橋での待機任務が終わった後の徹夜なのだ。いかに鍛えているリコリスでも、体力も気力も擦り減っているはずだ。
まだ限界とまではいかないが、それでも憔悴した姿を衆目に晒すわけにはいかない。始発の電車に乗る前に、二人はベンチの上で、交互に仮眠をとることにした。
まずはスギナが、風待の膝枕で半時間の仮眠をとる。初めての任務とその失敗が堪えていたのだろう、スギナは風待の太腿の感触を楽しむ間もなく、あっさりと眠りに落ちた。
その後は風待が、スギナの太腿を枕に仮眠をとる。雨で濡れて蒸れた自分の下半身の匂いを嗅がれたくなかったスギナだったが、これまでベンチの上で何回も風待に膝枕をしてもらった以上、断ることもできずにいやいや太腿を貸す。
今、風待は顔をスギナの体の方に向け、小さな寝息を立てている。
強靭な体力と精神を持つセカンドリコリスの風待だったが、スギナと同じように疲れていたようだ。こちらもスギナの腿に頭を置くと、すぐに熟睡している。
それだけ疲れていたのだろう。
それだけ大変だったのだろう。
今ここに敵が襲い掛かっても、おそらくすぐ起きることはないだろうと思えるほどの、風待の無防備な寝顔。
スギナの下腹部に顔を埋めるようにして寝る風待の横顔を見ながら、スギナは一人反省する。
先輩をここまで疲れさせてしまったのは、自分だ。
先輩にここまで苦労させてしまったのは、自分だ。
私が、雨の音とトラックのブレーキ音によってパニックにならなければ、今回の任務はこれほど疲れるものではなかっただろう。
しかし、私の心の弱さが、先輩を泣くまで追い込んでしまった、ここまで疲弊させてしまった。
新人は失敗するのも仕事の内、そしてそれを助けるのが先輩の仕事、と風待先輩は言ってくれた。
新人が失敗経験を乗り越え、一人前のリコリスとして大成するなら、それを手助けできるのは先輩冥利に尽きるとまで言ってくれた。
しかし、私が仕出かしてしまった失敗は、あまりにも大きい。
自分が持っている心の傷による、今夜の失態。
原因が過去のトラウマに起因する限り、これからも起こりうるかもしれない、大きな不始末。
今回は、私たちは裏方だったから、失敗しても大勢に影響はなかった。
だが、今後はどうだろうか。
今後も、雨の中の出張任務はあるだろう。雨の日の事件はあるだろう。
私は、これからは雨が降る度に心の傷を気にしなくてはいけないのか、大きな音が鳴る度に侵入症状に注意しなくてはならないのか。
次回からは、私一人の任務も多くなるだろう。今後は、風待先輩のフォローは望めない。
どうしたら…
「スギナ、なに悩んでいるの」
スギナの懐から、風待の声がした。
「先輩…起きたんですか」
スギナは、自分の脳裏にある時計を確認する。どうやらちょうど30分たったらしい。
「ん…よく寝たわ。スギナの膝枕、とってもよかったよ」
まだ少しだけ心が夢の世界にあるのだろう、風待は横になった体を、猫が寝直す時の様にベンチの上で丸めると、スギナの下腹部に顔を埋める。
「ねえ、スギナ…失敗したこと、まだ悔やんでいるの?」
風待のくぐもった声が、スギナの下腹から響く。
「悔やんでいるというか、悩んでいるというか…今日のような失敗、これからも繰り返してしまうのかなって」
「スギナのトリガーって、雨の音と破裂音が重なることだったわね」
かつてスギナが電波塔で体験した爆発音と、消火スプリンクラーの散水音。幼いスギナが聞いたこの二種類の音は、今も解離症状の世界への扉を開ける二本のカギとなっている。
トラックのブレーキ音は爆薬の爆発音ではない。雨音はスプリンクラーの散水音ではない。それは理性では理解していたスギナだったが、それでも侵入症状は出てしまった。
「この二つの音って、私たちの仕事だとよく聞くのよね。天気悪い日は絶好の暗殺日和でもあるし、私たち本部卒はサイレンサー無しの銃撃戦も珍しくないし…」
「これからは私一人の任務もあるでしょうし、どうしたらいいんでしょうか」
気弱そうに語るスギナ。初めての任務の失敗は、スギナの仕事へのモチベーションを低下させているようだ。
「そうね、確かにこれからはスギナ一人で戦うこともあるでしょうね。けど、一人でいる時も、スギナは一人じゃない、それを忘れないで」
元気のないスギナの声を聞いた風待は、顔を上に向け、スギナの膝上から話しかける。
「今夜、私はスギナのトラウマを理解した。スギナのトラウマの兆候や症状を認識した。これから私は、スギナのトラウマに対応し、予防しようと努力するわ。もうあなたは一人じゃない。一人で抱え込まなくていい。一人で悩まなくていい。私は、いつでもあなたの隣にいる。私の体が近くにいない時でも、私の心はいつもあなたの隣にいる」
風待は、膝の上からスギナの顔に両手を伸ばす。スギナの頬を包むように、そっと触れる。
「電波塔での記憶を一緒に背負い、共に歩みましょう。今まで一人で背負ってきた荷物を、途中から二人で背負うと、体感重量は半分以下に感じるっていうわ。トラウマが半分以下になれば、症状の圧も半分以下になるはずよ」
「先輩…」
「そして、もし来年あなたに後輩ができたら、後輩にもトラウマを半分背負ってもらいなさい。そのかわり、後輩のトラウマもきちんと半分背負ってあげてね。そうすれば、スギナ自身のトラウマは四分の一以下、これなら任務も大丈夫なはずよ」
過去の話をバラしちゃうこと、諸咲支部の伝統にしてもいいわね、と呟く風待。
「今にして思えば、前の諸咲支部長の冠典先輩も、自分の過去を当たり前のように話していたわ。天才過ぎて両親に捨てられたこと、天才過ぎてアラン機関に捕まって、解剖されそうになったところをDAに助けられたこと。そんな過去の話、当たり前のようにバラしていたわね」
風待の指先がスギナの頬を撫でる。スギナの構造を確かめるかのように、スギナの存在を確かめるかのように。
「私も、冠典先輩の過去を背負ってあげればよかった、理解してあげればよかった。冠典先輩だけじゃない。セノカの過去も、聞いてあげればよかった。あの子、なにも過去を語らないまま、死んでしまったのよ」
セノカの名前を聞いたスギナの心が、ちくりと痛んだ。
いつものスギナなら、以前風待と同棲していたセノカの過去など、あえて気に留めることはなかっただろう。
しかし今は、過去を語ることもなく亡くなったセノカに、スギナははじめて嫉妬以外の感情が芽生えるのを感じた。
自分と似たような顔と姿をしていたというサードリコリス、
彼女は、とても優秀なリコリスだったらしい。
技能や体力に優れていたセノカは、おそらく精神力も強かったのだろう。
だから、言えなかった。
強いリコリスだから、言えなかった。
強い心で辛い過去をひた隠しにして、誰にも打ち明けずに死んでしまった。
DAにとっては、それはリコリスの模範的な姿なのだろう、模範的な最期なのだろう。
しかし、スギナには、過去を語ることができなかった彼女に、リコリスとしての理想像を見つけることはできなかった。
辛かった過去に一人向き合う悲しみ、孤児となった寂しさを分かち合えない苦しみ。セノカが背負っていた、心の荷の重さ。
今のスギナには、セノカが心の奥で流していた涙が見えるような気がした。
「もし今後来る後輩が、セノカのような強い子でも、スギナは先輩として、優しく聞いてあげてね。支部長命令よ」
「わかりました。けど…」
「けど?」
けど、なあに?と優しく尋ねる風待。
「けど…今日先輩に半分背負ってもらって、来年後輩に半分背負ってもらっても、まだ何となく不安なんです。四分の一まで軽くなったとはいえ、私の電波塔の思い出自体が消えていない以上、まだ音を恐れそうで…」
風待がスギナのトラウマに寄り添ってくれるという言葉に、スギナは心から感謝していた。
しかし、11年の時間をかけて心の奥で熟成させた心の傷は、すぐには治癒しないだろう。
トラウマを呼び起こすトリガーとなっている、雨の音と破裂音。今後これとどのように付き合っていくか、どのようになだめていくか。
侵入症状、トラウマとなった出来事を強制的に再体験させるほどの症状は、今後は現れにくくはなるかもしれないが、それでも強い不快感や注意力の減少といった心の揺れは発生するかもしれない。
任務中や巡回中に、そのような動揺が訪れないように、もう一つ何かが欲しい。安心できる一押しが欲しい。
過去を半分背負ってもらったにもかかわらず、勝手なお願いをしているということは理解している。しかし、初の出張任務で失敗してしまったスギナにとっては、この不安だけはどうしても取り除いておきたいのだ。
スギナの不安を感じ取ったのだろう、風待は無理難題めいたスギナの懇願を邪険にすることなく、できる限り的確な答えを出そうと真剣に考える。
「音を恐れないためには、どうすればいいのか…そうね…」
スギナの頬を触る指の動きを止め、眉間にしわを寄せ風待は考える。しかし、いい解答は出てこないようだ。
「すいませんでした先輩。もう…」
「まって、簡単にあきらめちゃダメよ。スギナ、もう少し考えさせて、いま思考を切り替えるから」
「切り替え?」
なんですかそれ、便利そうですね、とスギナが尋ねる。
「大したことじゃないわ。思索に行き詰ったときは、他の人ならどう考えるかなって、その人になりきって考え直すの。そうすれば見方が変わって、物事を新しい面から見ることができるのよ」
なりきればなりきるだけ、新しい発想が思い浮かぶものよと、少し自慢気な顔で説明する風待。
「痩せ愛知リコリスの七ヶ条の一つ、見方を変えて違う角度から見ろ。ナナちゃん人形は遠くからだけではなく、真下の股下からも見上げて見ろ。冠典先輩がよく言っていた言葉よ」
「また適当なこと言っていますね先輩。その痩せナントカって気に入ったんですか?」
「とりあえず冠典先輩になりきって考えてみるわ、いま憑依させるから、少し待っていてね」
風待は目を閉じて、しばし瞑目する。
「…どうですか先輩、寒天色の脳細胞になれましたか?」
「だめね、脳内で冠典先輩になりきったんだけど、なかなか良いアイディアは出てこなかったわ。もしかしたら冠典先輩って、それほど天才ではなかったのかしら」
自分の知力不足を棚に上げて、かつての先輩に暴言を吐く風待。
「見方を変えて別の面から見るのって、案外難しいものなんですね」
「新しい面って言っても、音は音なのよね。好きな音でも楽しい音でもない、普通の音なんてどう見方を変えても…」
自分の発した言葉に何かヒントを見つけたのか、突然沈黙する風待。
スギナの問いかけにも反応せず、風待はそのまま自分の閃きを分析する。
もしかしたら、風待は本当に冠典先輩の頭脳になりきることができていたのかもしれない。
天から降りて来た寒天色の脳細胞をフル稼働させ、風待は一つの答えを出す。
「わかったわ…もし苦手な音があったのなら、それを音として聞かなければいいのよ」
「なんですかそれ?」
哲学めいた風待の答えの意味を、スギナが尋ねる。
「音を音として聞かずに、音楽として聴けばいいのよ」
「音楽…」
神託めいた風待の答えの意味に、スギナの言葉が詰まる。
「スギナ、今降っている雨の音、よく聞いてみて」
風待がスギナの膝から頭を起こし、立ち上がる。
スギナは風待の顔を見上げ、屋根を見上げる。
簡易ベンチの上に張られた、白色の防水シート。
その上を乱雑乱打に連打する、ランダムな雨音。
破調乱調な音の重なりが心地よく鳴り響く、小さな雨粒たちの無数の呟き。
人の作為が入り込まない、人の意思が介在しない、あるがままの音。
いつまでも聞いていたいと思えるような、無垢で純粋な音。
「雨音の背後の音楽を聴くために、人は沈黙する。スギナもこの台詞、知っているでしょ」
上を見上げ、静かに雨音を聞くスギナに、風待が問いかける。
「こうのとり、たちずさんで…でしたね」
テオ・アンゲロブロスの映画の中で出てきたこの印象的な台詞は、スギナも何度か口にしたことがある。
「雨の音の奥に、音楽を感じ取るようにするのよ。雨に和音を見出して、雨に旋律を感じることができれば、雨を音楽として聴きとることができるはずよ。嫌な思い出の音ではなく、新しい思い出の音楽にしてみればどうかしら」
「新しい、思い出…」
「今夜この公園で、私たちはずっと雨音を聞いていた。スギナ、いままでベンチの上で外の音を聞いていて、どうだった?」
言われてみて、スギナは気が付く。
風待と二人、楽しく話している最中の雨音は、気にならなかった。
公園の近くを通る道路からは、たまにトラックのエアブレーキ音もしていたが、苦にはならなかった。
むしろ、喫茶店で流れるBGMのような、楽しい会話を引き立たせるための伴奏のような感さえあった。
伴奏。そう、音楽の様に聞こえていた。
スギナは、改めて外の音に耳を澄ます。
無秩序な音が重なり合う雨音は、確かに一つの音楽だった。
標題音楽と対立する、純粋に雨音の構成のみで全てを表現する絶対音楽に聞こえた。
わずかに白み始めた雨雲から落ちる雨。
高い空から長い道のりを経て地表に落ちる雨粒の音は、ただバラバラに騒めくのではなく、二つ、あるいは三つ以上の音が重なって聞こえてくる。
三つ以上の異なる音が重なるとき、そこに和音が発生する。
機能のない和音の連なり、決して和声にはならない音の積み重ね。
カデンツに与せず、次から次へと止まらずに続く和音の波は、やがて自然界のハーモニーとなる。
天から降るハーモニー。神話のハルモニア。
単調なようでいて、その実は不規則なリズムや不協和音によって構成されていく雨の音は、強いて言うならば、原始主義の音楽にも似ている。
自然の音、自然の音楽。楽譜もなく理論もなく奏でられる乱調の背後に聴こえる、和音、律動、そして旋律。
雨音の背後の音楽を聴くために、人は沈黙する。
段々と勢いは落ちているが、それでも朝明のフィナーレに向けて演奏を続ける、雨粒たち。
連弾続く雨音は、3度堆積ではなく、4度音程の堆積で形成されている。
4度の音程を6個積み重ねた完全4度と、増4度、減4度の音階が作り出す音。
かつてスクリャービンは、この和音をこう名付けた。神秘和音と。
しばらくの間、スギナは、雨音の奥にある何かを探すかのように、ただ夜の終わりの音を聴き、夜明け前の空を眺めていた。
単色で構築されていた夜の濃度が次第に淡くなり、それとともに朝焼の複雑な色彩と、人の生きる音が世界から滲み出る。
夜明けとともに近城埠頭に到着する船便を積み込むのだろう。公園の区画を挟むようにして通る近城埠頭線と近城西埠頭線、このどちらからも、大型トラックの通る音が聞こえだす。
どうやら近城西橋の交通規制も解除されたようだ。今朝からは、近城埠頭はいつも通りの活気を取り戻すだろう。
スギナが、疲れた頭でぼんやりと外の音を聞いている間にも、交通量は多くなっていく。まだ降る雨の音に交じり、トラックの走行音、エアブレーキの音、クラクションの音も聞こえてくる。
雨音に交じり聴こえるトラックの音、特にエアブレーキやクラクションの音は、音楽としてとらえると、暗い夜の曲の終わりを締めくくる、ピカルディ3度のような明るさ、軽やかさを伴う和音のように感じ取れる。
長く引き伸ばされたクラクションの音を聴くと、カラヤンが70年代に録音したブルックナー第七交響曲冒頭のトレモロが鳴り始める、とある人は言った。
今ならその言葉はわかる気がする、その興趣を理解できる気がする、とスギナは思う。
全ての音は、音楽になる。
音楽ならば、怖くはない。
音楽を、聴こう。
先輩と、聴こう。
この世には、風待先輩がいて、私のトラウマを理解してくれる。
苦手な音を、風待先輩と二人、一緒に音楽として聴いていける。
これならば、怖くはない。
実際にどこまで効果はあるのかは分からないが、少なくとも、今までの様に怯えることはない。
ありがたいことだ、とてもありがたいことだ。
感謝をしよう、感謝と共に、恩返しをしよう。
私も、先輩のトラウマを半分引き受けよう。
そして、先輩の心の傷に寄り添おう。傷の痛みを軽減できるようにしよう。
そうしよう、私ができることを、先輩に話そう。
「先輩、いつか私と、遊園地に行きましょう」
「えっ…?」
「最初は小さなところからでいいです。入口近くだけでもいいです。二人で遊園地に入れるように、少しずつ慣れていきましょう」
驚いた顔で、風待はスギナの顔を見る。
「先輩が一人になってしまった場所だから、行くことが苦手だってことはわかります。けど、このまま遊園地が嫌いになってしまったら、遊園地に嫌な思い出しか残らなかったら、先輩のご家族の最後のご好意が無になります」
風待を怒らせることを覚悟のうえで、スギナは真剣な顔で語りだす。
「先輩のご家族は、幼かった先輩を楽しませるために遊園地に連れていってくれたはずです。最後に置いていかれたとはいえ、ご家族の好意は純粋なものだったはずです。だから、皆で行った思い出の場所を嫌ってしまっては、ご家族がかわいそうです。最後に皆で遊んだ思い出が、かわいそうです」
風待が抱えている傷は、スギナと同じように、大きくて重い。
その傷に触れようとしているスギナの行為に、風待は激怒するかもしれない。
それでもあえて、スギナは風待の心の闇に向け語りかける。
自分も、風待先輩のトラウマを半分背負いたい。
自分も、風待先輩の過去の傷跡に向き合いたい。
共に生きていくと誓ったからには、私も先輩を支えたい。
その思いの前には、先輩に怒られることなど、些細なことだった。
「だから、いつかは遊園地に行きましょう。少しずつ慣れていって、最後には出張任務か外出特典を使って、ご家族と別れた遊園地に二人で行きましょう。そして、二人で手を合わせましょう」
楽しむために行くのではなく、思い出を忘れないようにするために。
家族に置いていかれた場所ではなく、家族と最後に遊んだ場所として。
二人で遊びに行くのではなく、二人で冥福を祈りに行くため。
そのために、遊園地に行けるようにしないといけない、とスギナは硬い表情で語る。
「私は、いつかは電波塔に行って家族に手を合わせたいと思っています。私には家族がいた。リコリスにだって家族はいた。DAがどれだけなかったことにしようとも、私たちには家族があって、楽しく暮らしていた。楽しい思い出がいっぱいあった。それを忘れないためにも、別れた場所で手を合わせるのは大事なんです」
私にとって電波塔は、お墓なんです、とスギナは言う。
「私も電波塔にはいい思い出はありません。もしかしたら、電波塔の近くに行くと、また侵入症状が起こるかもしれません。それでも電波塔には、私のお母さん、お父さん、お兄ちゃんがいるんです。亡くなった電波塔孤児たちもいるんです。だから、私は頑張って電波塔に行きます。私に家族がいた証として、私は電波塔に行くんです」
スギナの言葉を、風待は沈黙したまま聞いていた。
何かを考えるかのように、何かを思い出すかのように、表情を変えることすら忘れ、ただスギナの言葉を聞いていた。
「だから先輩も、遊園地、行きましょう…ご家族のためにも、思い出のためにも」
スギナが話を終えた後も、風待はただ沈思し、黙考する。
雨は既に小雨に変わっていた。雨のカーテンが薄くなるとともに、夜明けの白い薄明かりが公園を少しずつ照らし出す。
淡く輝く朝の照明によって、風待の顔が次第にはっきりと見えて来る。
まだ色の付いていない夜明けの光に照らされた風待の顔には、穏やかな微笑みが宿っていた。
スギナの思いが伝わったのだろう、朝の空気の清冽さをそのまま形にしたような、風待の純真な微笑。
家族との最後の思い出の中に、楽しかった時間があったことを思い出したのだろう。遠い追憶の夢を見た朝に、一人寝床の中でそっと浮かべるような、安らかな笑顔。
それは、身動きのとれぬ暗い夜、いつ果てるとも知れぬ長い夜が終わり、また一歩を踏み出せることに安堵する旅人のような笑顔だった。
「うん…確かに、楽しかったわ遊園地。みんなで遊んで、みんなでお食事して…みんな楽しかった、みんな優しかった」
雨は次第に消えていく。空は明るくなっていく。
「スギナの言う通り、楽しい思い出まで消してはいけないのかもね。いつかは遊園地で手を合わせて、楽しかったよありがとうって、言わないとね」
もちろんその後に、遊園地に一人置いていかれたグチも言うけどね、と風待はスギナに向けて微笑みながら話す。
「苦手な遊園地に行けるようになるよう、できるだけ頑張ってみるわ、そしていつかは、二人で行きましょう。スギナと二人で遊園地のアトラクションを楽しみながら、家族と遊んだ時の幸せを語りたい。二人で園内で食事をしながら、家族と一緒に食べた食事の美味しさを語りたい。私は一人じゃない、笑って楽しめる仲間ができたってことを、家族のみんなに伝えたい。だから、一緒に遊園地行きましょうね」
風待の言葉に、スギナはハイと大きく返事をする。
「そして電波塔にも、いつかは二人で行きましょう。私も一緒に祈るわ、スギナのご家族、電波塔のリコリス候補生たち、そして電波塔で亡くなれた皆さまのご冥福を」
約束よ、と言う風待の言葉に、スギナはもう一度ハイと大きく返事をする。
ふと気づくと、あれほど暗かった夜も、あれほど長かった雨も、どこかに消えていた。
上空を覆う雲は、まだ雨雲の名残をとどめるかのように重い灰色をしているが、全体的な密度は昨日の夕方に比べはるかに薄くなっている。そこかしこに見える雲の隙間からは、初夏の空が朝焼けに色を滲ませながら輝いている。
今日は暑くなりそうだ。雨に打たれた公園や道路、ついでに私たちの服も、これならすぐ乾くだろう。
長々と居座った公園のベンチを掃除し、撤収の準備を始める二人。
待機や野営の痕跡を残さないようにするのは、軍隊と同じだ。菓子の包み紙一つ、ベンチの水滴一つ残さず、二人は感謝の気持ちも込めて丁寧に掃除をする。
やがて東の空から昇る朝の陽が、掃除を終えた二人を照らす。
首にタオルをかけ、汚れた生乾きの服を身にまとい、やつれた顔をしている二人の姿が、遠慮のない明瞭さで朝日の下に映る。
お互いの変わり果てた姿を改めて見た二人は、一緒に苦笑する。
「さ、そろそろ青凪線の始発電車が出るころよ。こんなヨレヨレの姿、あまり人に見られたくないから、お客さんの少ない始発に乗ってさっさと帰りましょう」
風待に急かされ、公園を出るスギナ。
フェンスを乗り越え、早足で青凪線の駅に向かう。
公園を出てしばらく歩いたスギナは、ふと足を止め、後ろを振り返る。
スギナの目には、遠くに見える公園と、フェンスの奥に見える屋根付きの小さなベンチ。
私たちが一晩過ごしたベンチ。私たちが語り合ったベンチ。
この夜のことを、このベンチのことを、私は生涯忘れることはないだろう。
スギナは朝の明かりの中で佇む小さなベンチに一礼すると、前に向き直り、先を進む風待のもとに走っていった。