「そう、これはまだセーフのライン。けどねスギナ、このモブリコ寿司はね、そのライン超えちゃったサービスもしているの」
小悪魔っぽい笑みを浮かべて立ち上がる風待。
座ったままのスギナの顔を見て微笑むその表情は、新しい悪戯を思いついた子どものような無邪気さがあったが、その話を聞いたら最後後戻りはできないなと直感したスギナには、何かしら恐ろしい笑顔に見えた。
不安げなスギナの手を引いて立ち上がらせると、カウンターの裏に連れ込む風待。
入ってみると思ったより広い調理場の中にある金庫の前に立つと、風待はしゃがんで金庫のダイヤルを回す。
風待先輩が寿司を作っていた時から気になっていた金庫だ。
人一人が余裕で入りそうなほど大きな金庫だが、何が入っているのだろうか。
「ダイヤル番号はまた後日に教えるね。最終的には停電時でも開けることができるように、指先でも覚えてもらうわ」
残像で指の数が倍に見えるほどの素早さでダイヤルを回す風待。
本当に指先で覚えているのだろう、複雑かつ精密な回転と逆回転が十数回繰り返されると、重々しい音を立てて金庫の扉が開く。
思わず中をのぞき込むスギナ。
中には、大きめのブリキの箱が4箱と、ノートが数冊入っていた。
「中は紙だけど、ぎっしり詰まっているから重いわよ、気を付けて運んでね」
一抱えもある箱を渡されるスギナ。確かに中身が詰まっているのか、ずしりと重い。
本部事務の手伝いで運んだ、印刷用コピー用紙が詰まった搬送用段ボール箱の重さを思い出す。
金庫に入っていたブリキの箱を、全てテーブルに移動させると、風待はその箱の一つのふたを開ける。
中には、大小さまざまな紙が、隙間なく詰め込まれていた。
封筒もあれば便箋、絵葉書、メモ用紙、日めくりカレンダーの欠片や割り箸の包み紙、ありとあらゆる種類の紙が、混然となって縦に並べられている。
一応仕切り用紙や付箋は挟んであるのだが、紙の個性があまりに多様すぎて、整理されているようには全く見えない。
仕切り用紙をよく見ると、それぞれに年号が書かれている。
どうやらこの箱は、30年ほど前から最近までの紙類が集まっているらしい。
他の箱のふたも順に開けられていく。
それぞれの箱の中には、60年前、90年前の年号が書かれた仕切り用紙に分けられた、古い紙片が詰まっている。
最後に開けられた箱は、まだ数十枚しか紙片が入っていない。仕切り用紙には、数年前から今年の年号が書かれている。
「これはね、このモブリコ寿司に来たリコリスたちが置いて行った『忘れ物』よ。これらの手紙をきちんと保管して、いつの日か該当するリコリスが来店したらお渡しする。これがここの裏サービスなの」
「えっ…と。どういうサービスなのか、よくわからないんですけど…」
「じゃあ、ゆっくりと説明するわね。その前に、私たちの環境について振り返ってみて。私たちリコリスができないことって多いわよね。さっき言った旅行移動の制限もそうだけど、もっと厳しいのは通信の制限。スギナのスマホも、支部のメンバーと担当連絡官以外には電話できない設定にされたでしょ?」
風待の問いにスギナがうなずく。
出発前、本部で再設定されたスギナのスマートフォンは、これまで寝食を共にした仲間たちや教導員たちの連絡先は消去され、本部直属の担当連絡官と、新しい配属先のバディの連絡先のみが設定されていた。
ほとんど空欄になった連絡先の画面を見つめると、もう皆と話すことはできないということが現実に感じられて、胸が痛くなったのを覚えている。
「スマホを奪われた時の情報漏洩防止のため、って建前なんだけど、実は私たちが連絡しあって連携しあうのを本部が恐れているのよね。集団での反乱とか脱走とかをさせないために、通信通話は完全制限。公衆電話だって本部には丸聞こえ、郵便を出しても勝手に本部に転送されて検閲後処分。こうなると一度別れた仲間…かつて絆で繋がっていた親友、縁で繋がっていた恩人、そして愛で繋がっていた恋人。深いつながりのあったかつての仲間に、自分の心を届けるのは難しくなってくる、というより不可能ね。それでも何とかして伝えたい、胸の内を伝えたいという衝動。こういう欲求を叶えてあげるのが、ここモブリコ寿司の裏のサービスなの。この缶の中に詰まっているのは、紙きれじゃなくて心の声。届かない想いを届けたいという祈りを込めて渡された、とても重くて、とても大事な伝言なのよ」
静かな夜の店内で、静かに語る風待。
その口から出る澄んだ声は決して大きなものではなかったが、スギナの心には重々しく響いていた。
「ここに来た人が、伝えたい相手に伝言を書いて、忘れ物として置いておく。その伝言を渡したかった相手が、後日に運よくここに旅行客としてやって来たら、伝言の書かれた紙を渡す。それだけの他愛もないシステムだけど、それでもこれだけのリコリスたちが本気で手紙を残しているの」
「けど…それって受け渡しできる確率、かなり低くないですか?それに伝言残すこと自体、私たちにとっては危険な行為なんじゃ…」
「そうね、これだけ残った紙きれがあるのを見てもわかるように、書かれた言葉が相手に伝わる確率は、かなり低いわね。旅行できるご身分のリコリスなんてほんの一握りだし、行けたとしても旅先が別の観光支部の可能性だってあるしね。まあそれは書いた相手もわかっているはず。それに、スギナの言う通り伝言を残すってことはリスクが大きいわ。この箱が本部に押収された場合、私たちだけじゃなくて伝言書いた人も何らかのペナルティはあるでしょうね、だけど、それでも書かずにはいられない思いがある人たちが、この紙を残していくのよ」
「…危ないことやってるんですね、ここ」
スギナが暗い溜息をつく。思いを伝える大事なサービスと力説されても、結局は組織の規律に反する危険な遊戯でしかない。
まだ就任初日なのに、どうしてこういう悪事に誘われなければならないのだろうか。
将来の不安に呆然とするスギナに、風待が優しく微笑みかけ、手元にある紙束の入った缶を、スギナの前に押し出す。
「ほんとは他人の手紙を読むのはマナー違反なんだけどね。どれでもいいわ。数枚引き抜いて、少しだけ、数行だけ読んでみて」
スギナの目の前に置かれたブリキの箱たち。風待の声に押され、おずおずと紙片に手を伸ばすスギナ。
どれを取るというのではなく、最初に指で触れた紙を引き抜く。手に取ったのは一枚の古びた絵葉書だった。
『前略。あなたが鞍敷支部から転属して一年たちましたが、そちらはお変わりありませんでしょうか。茂上支部では楽しくやっていますか。新しい友人はできましたか。牛乳の賞味期限は気を付けていますか。あなたとお別れする最後の夜、ずっと無言で過ごしてごめんなさい。あなたと別れるとき、差し出してくれた手を握らなくてごめんなさい。あなたに語りかけ、あなたに触れるだけで、私は泣き崩れてしまいそうで、それが恥ずかしく虚勢を張っていました。あなたの前では、私は最後まで立派な先輩でいたかったのです。あなたが私にとってどれほど大事なペアだったのか、別れてからすぐに気が付きました。私はあなたのことを……』
それは地方支部へ異動した後輩に向けて、残された先輩リコリスが綴った文面だった。
絵葉書の裏面、住所欄と通信欄のすべてを使って、転属した後輩への思いが小さな字で書かれている。
書きながら感極まったのか、最後の方は文章も乱れてきているが、それでも末尾はしっかりとした字で「もう一度あなたに逢いたい」と結んでいる。
次に取った紙は、数枚ほど重なった古い便箋だった。丁寧に折りたたまれた便箋を、破らないようにそっと開く。
『……あの日、トラヤンが言った通りだったよ。本部なんか配属希望しなきゃよかった!もう帰りたい帰りたい帰りたい帰りたい帰りたい!ここサイアク!みんなギスギスしているしイジメばっかり。私も田舎組だからそろそろイジメのターゲットになりそうな気配感じる。今も任務のたびに最前線係やらされるし、この旅行だって次の大キボ任務でステゴマ役やらされる人へのおわびらしいけど、こんなのと命じゃ引きかえにならない!ほんとうに帰りたい!なんで私こんなとこ希望したんだろう。田舎キライって出ていったんだけど、トラヤンやチョーチンと別れてまで行くんじゃなかった。ノラ吉は元気にしてる?裏の農園、今年は何植えてる?村神社のウラに皆で書いたあの……』
地方支部、それも田舎の支部から本部附になったリコリスが書いた、殴り書きのような文章。
それは本部の人間関係への恨み辛みと、かつていた田舎支部への追慕が連綿と書き連ねられていた。
次に手に取った便箋は一枚だけだったが、小さな文字で隙間なく書かれている。
『……送られた5月の報告書にも貴方の死亡が書かれていたけど、何かの間違いだよね。貴方のような強く立派なファーストリコリスが、手製爆弾くらいで亡くなるなんてこと絶対ないし。第一、貴方の体と生命の強さは、毎晩抱かれたこの私が一番よく知っているんだから。まだ極秘の任務が続いていて、帰ることができないだけだよね。大変だってことはわかってはいるけど、この手紙を読んだら、すぐ連絡して。貴方のことが心配で、もう限界なんです。自分はまだ荊木支部にいるよ。10時と18時にいつものコースを巡回しているから、姿だけでも見せて。会えないようだったら、あの初めて告白した時のベンチの裏にマークを……』
増援任務のため出張し、そこで死んだらしいファーストリコリスを待ち続けるバディが書いた文面。
不安定になりつつある精神で書かれた文章は、仲間の死を認めたくない思いであふれていた。
天井を見上げ、軽い溜息をつくスギナ。
読んだ3通の手紙は、すべて30年ほど前の年号が入った仕切りから取っている。
書かれてから30年、未だここで保管されているということは、これらの手紙を渡す相手はついに現れなかったのだろう。
茂上支部に異動した後輩、任務で出張したファーストリコリス、田舎支部に残ったトラヤンやチョーチン。彼女たちに、思いは伝わらなかったのだ。
無言で他の缶を勧める風待。重い指先でスギナはまた一枚手紙を引き抜く。
次の缶は今読んだ缶より前の手紙、約百年前から五十年前の紙切れが入っている。
ほとんどの手紙はインクが消えかけ、紙も土色に変色して脆くなっていた。
保存状態のいい紙片を選んで手に取るのだが、達筆すぎてスギナには読むことのできない手紙が多い。
『私だけの貴女へ。この度、私は新京支部に配属される運びになりました。おそらくこの身は大陸の土となりますが、私の心はずっと貴女の……』
『……馬来は冬も温かいと聞きましたの。寒がりのワタシが奉天支部で、暑がりのアナタが昭南支部なんて、ナンテ変な人事なのでしょうね……』
本部で地歴はしっかりと学んだはずだったが、スギナの知らない地名がどんどん出てくる。
『……上海の時局委員会設立と居留民大会の件ですけれども、私まさか騒擾が四川路にまで広がるなんて思わなくて、少しやりすぎましたわネって。まあその後に私は馬玉山路で……』
『……自分は南洋路の最終船で来週サイパンに向かいます。水交社の近くの社員寮に住み、昼休みに遊球場を使わせてもらうタイピストを装い守備隊本部と接触、監視を続け……』
『……航空本部の理事生として日吉に潜入して2カ月、最近は持ち回りという仕事をしています。お給料は三十円と少なめですが、仕事柄、軍極秘の赤判を手にすることができ……』
本部で地歴はしっかり学んだから、スギナもなんとなくわかった。
私たちの組織、戦前戦中から危ないことやってる…。
この時代の置手紙は、個人の裏ではなく、歴史の裏を覗いているようで、読むたびに疲れがたまってくる。
「昭和のリコリスたちって、なんで、こんな極秘任務をこんなエセ田舎寿司屋に書置きしていくんですかね…」
「おそらく、耐えきれなかったんでしょうね。いろいろと」
書簡箋に綴られた文字は達筆でも、実際はスギナたちと同い年の少女たちだ。
背負い込まされた任務の重さを、誰かにわかってほしかったのだろう。
「戦中戦後くらいまでの手紙だと、当時の礼儀作法だったのか、ただ見られるのが恥ずかしいだけなのかはわからないんだけど、仲間に恋心を伝える感じの手紙は封書が多くてね。見ることができる手紙は、どうしてもこういう時局柄な手紙が目につくわよね」
言われてみれば、戦前から戦後十年目あたりまでは、紙片だけでなく封筒も目につく。
少し興味をそそられ、封筒を数通引き抜いてみる。
表面には一言『私のSへ』『最愛のあなた様へ』『花カナリシ貴女』等書かれている。
厚みも種類も様々だが、表のその一言を見れば、どのような内容かは大体把握できる。
まあ貞淑な乙女たちだったんだろうなと、スギナは推察した。
封筒で一番大きいのは、昭和初めの仕切りに入っている大封筒だ。
週刊誌一冊が入っているかのような大きさと厚みのあるその封筒は、缶の中にある紙片の中でも最大級で、周囲の手紙を圧倒する威容を誇っている。
試しにとってみると、やはり重い。指二本で摘まんで取るのに苦労する。
手紙を引き抜くたびに指先が重く感じられたものだが、物理的に指先が重いのは初めてだ。
頑張って抜いた封筒の表面には『あらたまの君へ』と墨書されている。この昭和の超大作をぜひご拝見したかったが、残念ながらこれも厳封されていた。
最後に、現在の年号が入った缶に手を伸ばす。
最近の手紙には、地名も支部名もスギナが知っている場所が書かれていて、少しほっとする。
現在の時間を生きているリコリスたちが書いた、現在の文章。
しかし、スギナには、なぜかこれらの手紙が、昭和のころの手紙と変わらないように感じた。
伝えたい気持ち。
贈りたい言葉。
30年前の手紙も、100年前の手紙も、今の手紙も、その熱さに差はなかった。
ここ数年の紙片は、割り箸の包み紙に書かれたものが多い。
モブリコ寿司の割り箸は少し高級品で、司寿こりぶもと印刷された厚手の紙を三つ折りにして割り箸を包んでいる。
包み紙を広げれば、一筆箋程度の大きさになるので、便箋代わりに使用しているようだ。
「前に比べて、近年は諸咲支部へ来るリコリスたちも少なくなってね、以前は口伝えで広まっていた置手紙のことを知らないお客さんも多くなったのよ。昔のように、前日に文章をしたためてくるリコリスのほうが今では稀ね。会食中に置手紙のことを知って、あわてて適当な紙…こういう箸置きの紙とかに書くパターンが多いわ。まあ中には、あえて箸置きの紙に書くリコリスもいるんだけどね」
「なんでです?封書のほうが見られなくていいと思うんですけど…」
「んー、そうね。きちんとした紙に丁寧に書くと照れくさいからって人もいたし、本部に見つかった時、お遊びで書いたって言い逃れするためって人もいたわ。まあ、そういう人たちに限って、帰りの時間ぎりぎりまで使って、しっかりと長文を書いちゃうんだけど」
言われてみれば、両面を使って長々と書き込まれている箸置きの紙も多い。
しかし、食後に慌てて書いたからか、箸置きに書かれた文は、基本的には短い。
箸置きの紙を数枚引き抜いてみたが、大半は一行だけ、または一言二言だけ書かれていた。
『生きていてくれ。オレよりも長く生きてくれ』
『毎夜10時に、あなたのために祈ります。あなたも、毎夜10時に、わたしのこと思い出してください』
『絶対ファーストになる!今度は私が助ける番だ!』
たった一行だけの、文字通りの一筆箋。
しかし、その一行に込められた気持ちは、数千の文字で書かれた手紙に負けずとも劣らない実直さがあった。
机の上に広げられた十数通の紙片。そして缶に詰まった多数の紙片。
百年前から現在まで。
大封筒から包み紙まで。
先輩から後輩へ。
後輩から先輩へ。
仲間から仲間に。
様々な人間関係と任務、希望と絶望。
それらの思いが文章となって、ここに沈殿している。