モブリコ辺境暦   作:杖雪

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7月 モブリコ寿司本日開店 ①

 眼球に針を刺す時、スギナはいつもごめんなさいとつぶやく。

 

 目打ちと呼ばれる、太い針。先端は鋭く、握り手の部分は太くなっている鉄製の目打ちを、片手に握るスギナ。

 軽く息を止めた後、スギナは力を込めて、大きく見開かれた相手の眼に、鉄針を突き刺す。

 

 刺さった針は、反対側の眼球を貫通し、下に敷いてある俎板にまで到達する。

 俎板に針が固定されたのを確認したスギナは、ため込んだ息を大きく吐き出す。

 

 ごめんなさい、スギナはもう一度つぶやく。

 

 しかし、刺した後は、もう罪悪感はない。相手はすでに死んでいるし、なにより相手は食材なのだ。

 

 スギナが謝罪した相手は、アナゴ。ウナギ目アナゴ科クロアナゴ属の、アナゴ。

 

 煮物系のお寿司の代表ともいえるアナゴは、今が旬である。

 この時期に諸咲で水揚げされるアナゴは脂が乗っており、濃い味付けで煮ても負けないほどに強い上品な甘みと旨味が際立つ、夏の逸品である。

 モブリコ寿司でも、代々の諸咲リコリスがこの時期のメイン食材として、目の前の海でとれた地元産のアナゴを選んでいる。

 

 スギナもまた、本日の開店に向け、先週からアナゴの寿司を作る特訓を繰り返していた。アナゴの開き方、煮方、切り方、握り方を、風待の指導の下、念入りに学んでいた。

 

 昨日までにスギナがさばいたアナゴは約60匹。そのうち中型の大きさのアナゴはアナゴ寿司の練習に、大型のアナゴは干し籠に入れ、下宿のベランダに吊るして干物にしている。

 

 アナゴの干物は、この土地ではメジロと呼ばれている。

 

 干してもなお厚みがあり、深い飴色に輝く旬のアナゴの身は、グリルや網で焼くと、干物が汗をかいたかと思うほどの脂が浮き上がる。香ばしい匂いと干物特有の濃縮された旨味は、ビールのおつまみとしてこの時期最強なのよねと、同居人の風待は毎晩のように力説する。

 

 スギナにはまだお酒に合う味という概念は理解できないが、ご飯にもよく合う味なので、夕食の食卓に並ぶメジロは、おつまみではなくおかずとして美味しくいただいている。

 

 しかし、今店内でさばいている8匹のアナゴは干物にはしない。半分の4匹は煮て寿司ネタに、もう半分は白焼きにして、肝焼きと共に皿で出す予定だ。

 

 スギナは目打ちを刺したアナゴの背中に包丁を入れ、中骨に沿って身を開いていく。

 

 左手でアナゴの身を押さえながら、ひと呼吸で尾まで一気に切り開く。

 ワタを取り、腹骨と中骨を削ぎ取ったあと、頭とヒレを切り落とす。

 

 包丁を握って3か月、様々な種類の魚介の調理に慣れたスギナは、迷いのない動作で、黙々とアナゴを捌いていく。

 

 8匹のアナゴを切り終えると、開いたアナゴの皮の表面のヌメリを包丁でこそげるようにして取り除き、塩でよく揉んで更にヌメリを取る。

 塩もみをしたアナゴをザルに入れ、流水で塩気をよく洗い流す。

 

 洗ったアナゴの水気を切っている間に、スギナは煮アナゴ用の煮汁を作る。

 

 鍋に水と醤油と酒、砂糖と味醂を入れ、煮立たせる。沸いてきたらアナゴを優しく入れ、落とし蓋をする。

 スギナ一人しかいない、静かな寿司屋の店内に、煮アナゴの匂いが漂い出す。

 

 波の音がかすかに聞こえる、諸咲の小さなお寿司屋さん。普段は寿司屋の店主が地元客相手に商いをしているこの店の調理場を、スギナと風待は毎日のように借用していた。

 毎日といっても、スギナの料理の練習のため、昼の部が終わった後の中休みの間に、調理場を借りていただけだったが、今月からはそれに加え、月に何回か、昼営業の時間帯も借りる予約をしている。

 

 借店の時間は朝から昼の数時間。その間は、店の外には本日ランチタイムは予約客のみ、と書かれた立て看板が臨時で設置される。

 臨時で設置されるのは、立て看板だけではない。この時だけは、貸主の店主了承のもと、店の暖簾も交換されるのだ。

 

 暖簾に書かれた名前はモブリコ寿司。旅行に来たリコリス専用の寿司屋の名前である。

 

 海陬の地で100年前から掲げられてきたというこの暖簾、普段は大事に金庫に保管しているこの暖簾は、今は店の外で夏の風を浴びて奔放に翻っている。

 

 今年度初めて掲げた暖簾、101年目の夏を迎えた暖簾。

 

 料理のプロではない諸咲リコリスたちによって、田舎の片隅でこそこそと受け継がれただけなのだが、年月の重みによって一流の風格を醸し出している暖簾を店先に吊るした時、スギナは、歴史あるモブリコ寿司を受け継いだ自分の責任を強く感じたものだ。

 

 アナゴを煮ている間、スギナは他の寿司ネタの調理にとりかかる。

 

 朝に3枚におろしたシマアジを冷蔵庫から取り出すと、腹骨と皮を取り、皮目を下にして斜めに切る。

 

 砥いだばかりの包丁の刃は、ほとんど抵抗もなくアジの身に入り込む。

 身がしまっているアジは、薄く切っても身が崩れることはない。切り分けられたシマアジの身は、昼の店内の明かりに照らされ、乳白色に光り輝いている。

 

 この時期のシマアジの身は、よく脂ののった白身魚のような味わいである。寿司ダネの分類では、光モノではなく、白身の寿司として扱われるという。

 

 銀白色の皮肌と白色の身の部分の対比が見目好く映えるよう、丁寧に包丁を使うスギナ。

 

 彼女以外誰もいない店内に、手慣れた調子で振るう包丁の音が静かに響く。スギナの手元から奏でる調理の音に、エアコンの音とアナゴの煮る音が添えられ、正午の光が溢れる店内に微かに鳴り響く。

 

 シマアジの身を寿司に必要な分だけ切り終えると、残りの身を賽子状に切り、台の横に置いた茶碗蒸しの容器に入れる。

 

 次にスギナは、同じく朝に下準備をしたスルメイカを手に取る。

 ゲソとワタ、軟骨を取り、薄皮を剥いたスルメイカから寿司用のサクを取ったあと、シマアジと同じように残りの身を細かく切り、これも茶碗蒸しの容器に入れる。

 

 アジとイカの次は、マグロとタコをさばいていく。

 十与浜漁港の直売店で今朝購入したマグロの切り身と、前の日から下宿の台所で煮つけたタコの足。

 それぞれ硬さも切り方も異なる食材を、スギナは丁寧に、そして的確に切りそろえていく。

 

 スギナが包丁を振るった寿司ネタの断面は、ささくれやうねりもなく、滑らかな切り口を見せている。

 練習を始めてから2か月、最初は古びたトタン屋根の様に荒れていた切り口も、今ではそこそこ見られるようにはなっていた。

 プロの料理人のような、無風の湖面の如き怜悧な切り口にはまだほど遠いが、素人料理人としてまず及第点だろう。

 

 アナゴとシマアジ、イカとマグロ、スギナは切った寿司ネタをバットに並べる。

 軍艦巻き用のウニと、自家製のイカの塩辛は、盛り付ける直前まで冷蔵庫に入れてある。残りは風待が持ってくる玉子焼きと茹で海老だけだ。

 

 本来ならばスギナの横で調理を手伝うはずの風待は、今は下宿にいる。

 今日モブリコ寿司に来店するお客様、初めてスギナが御接待するお客様と連絡を取り合うため、下宿で待機しているのだ。

 

 本日この寿司屋の暖簾をくぐるのは、歌島支部の二人のサードリコリス。スギナたち諸咲支部の直下にある分支部の分遣員たちである。

 

 諸咲支部は、書類上は4人のリコリスがいることになっている。

 しかし、4人のうち2人は、諸咲から離れた歌島という島に常駐している。

 

 かつては歌島と諸咲の二方向から、伊良湖水道を通る外国船を監視していた名残だという分支部。このような目的のために分けられた分支部という形態は、戦前戦中はいくつかあったらしい。しかし監視システムの発達した現在では、目視で海上輸送路を見張るためだけの支部など、完全に意味のない存在になっている。

 

 昔は東京湾に設置された品川台場分支部など、大都市につながる港湾近くには必ず設置されていた分支部も、今はほとんど残っていない。瀬戸内や沖縄など、島が多い地域にはまだある程度存在している分支部ではあるが、役目を終えてなお居残っている分支部は、歌島支部のみである。

 

 理由はわからない。たぶん、歴史に取り残されたんでしょうね、と風待は言う。

 

 DAからも歴史からも忘れられ、今もぼんやりと存在する支部、歌島支部。

 この歌島に取り残されている分遣員二人は、年に2回、定時報告のため諸咲に訪れる。この半年間、何もなかったよと報告するためだけに、諸咲支部長の住む下宿に来る。

 

 定時報告という名目であるが、実際はただの顔見せと、島では買えない日常品の買い出しに来るだけだという。

 

 前回は大晦日前に年末年始の買い物のために諸咲に来ているため、本来ならば彼女たちは6月末に訪れる予定であった。しかし、スギナが風待に頼みこみ、定時報告の日を、あえてモブリコ寿司開店の日である7月初日に変更してもらったのだ。

 

 風待がDAのノートパソコンを使い、定時連絡のメールで歌島支部にその旨を伝えたところ、彼女たち二人も快諾してくれたという。

 楽しみにしているぞ、がんばってくれと、その日のうちに返信があったらしい。

 

 初めて会う直下の支部の二人が、モブリコ寿司店員としての、スギナの初めてのお客様。

 スギナの店員デビューとしては面白い趣向ではあるが、その分緊張も大きかった。

 

 前日はあまり眠れなかったスギナだったが、それでも朝早く起きると、一人で十与浜漁港直売所へ寿司ネタを買いに行き、早いうちから一人モブリコ寿司の暖簾を店先に掲げ、食材の調理をしている。

 

 風待と二人で包丁を振るえば、朝早くから支度をせずともそれほど時間はかからない。しかし今回だけは、風待には歌島支部の上位に立つ諸咲支部長として、歌島リコリスたちと連絡を取り合うという役目があった。

 

 別支部のリコリスへの通話は、基本的には許可されていない。リコリスがスマートフォンを使用して会話できるのは、同じ支部の仲間だけであり、それ以外の支部や人物への通話は作戦任務時以外禁止されている。

 緊急時などの場合は、DAの承認を得ることができれば、本部の回線を経由した通話ができるのだが、後日DAから緊急性のある会話であったか厳しいチェックが入る。

 諸咲支部と歌島支部は、書類上は主支部と分支部という構成になっているため、ほぼ同じ支部として扱われているが、それでもスマートフォンを使った音声通話は、別支部への通話扱いになってしまうらしい。たとえ近くまで来ているとはいえ、気軽に架電してしまった場合は、後日DAに煩雑な報告書を提出しなければならなくなるという。

 

 そのため、歌島の二人は諸咲で買い出しをしている間は、日常の通話ではなくLC3Iシステムを使用した定時連絡の延長という形で、風待支部長のノートパソコン直通の連絡ページに、スマートフォンからメールを打ち込みながら連絡を取り合っているのだ。

 

 これならば、DAのチェックは入るが、それほど目くじらを立てられることもない。文章は記録されるが、通話時の様に周波数や声紋による心理解析までされることもない。

 しかしその代償として、風待は歌島リコリスたちが無事買い物を終えるまで下宿で待機しながら、近所の店舗のお値打ち品などの情報提供等の連絡を、外への持ち出しが禁止されている支部専用のノートパソコンを通してやり取りしなくてはならなくなっていたのだ。

 

 モブリコ寿司の店長でもある風待が、一番忙しい調理の時間に、スギナ一人に台所を任せて、ぼんやりとパソコンの画面を眺めているわけにもいかない。今風待はスギナを援助するため、下宿で歌島の二人と連絡を取り合っている合間に、下宿の台所で寿司ネタのクルマエビを茹で、玉子焼きを作っている。

 

 時間があればエビの頭で出汁を取った味噌汁も作って持っていくわね、と風待先輩は言っていた。

 手際のよい風待先輩なら、味噌汁までできちゃうだろうな、とシャリ櫃に入った酢飯の温度を指先で確認しながらスギナは考える。

 

 今の時間は11時半。歌島リコリスたちは12時頃にモブリコ寿司に立ち寄る予定である。

 

 最後の連絡が終わり次第、下宿で調理した寿司ネタを持って移動すると言っていた風待先輩。

 そろそろ来る頃かな、とスギナが調理をしながら聞き耳を立てていると、店の外の舗装路を走る、風待の乗る自転車の音が聞こえてきた。

 

 坂の上の下宿の裏手を通る細い道は、曲がりくねったように立つ民家の間を縫うように伸びながら、寿司屋の前を横切り十与浜港まで続いている、歩いてもそれほど時間のかからない距離ではあるが、今日のように忙しい日は自転車で通うことが多い。

 

 本部卒リコリスは耳がよい。道を歩く足音程度ならば、店内からでもある程度聞くことができるし、よく知っている人物ならば、足音のパターンも記憶している。さらには近隣住人が乗る自動車や自転車の音紋も、彼女たちは正確に脳内に記録している。特に風待が乗る自転車の音は、毎日聞き飽きるほど聞いているので、識別は容易だ。

 

 風待の乗る自転車の走行音は、軽いブレーキ音とともに店の前で消える。続いて後輪のスタンドを立てる音と鍵をかける音、自転車を店の隅に寄せる音が小さく響いた後、元気よく寿司屋の引き戸が開けられる。

 

「おやじさーん。今帰ったよ!」

 

 夏の日差しの下に立つ風待の大きな声が、静かな店内に反響する。

 

 この挨拶は、スギナに向けられたものではない。店の奥にある住居、そこに住んでいる寿司屋の店主とその家族に向けた挨拶である。

 

 風待とスギナは、この店の主人や家族と直接会話したことはない。

 

 この店は、DA直下のダミー企業を通して、風待とスギナに正式に貸出の契約がされている。本来ならば、店舗を借りるたびに対面して挨拶をするのが普通である。

 しかし、リコリスという職務上、あまり付き合いを深くすると、敵の報復対象となったり人質に取られたりする危険が発生するため、あえて互いに顔を見せず、薄い関係を心掛けている。

 

 店内へ入るときに、彼女たちが必ず行うこの呼びかけは、挨拶ではなくただの到着連絡。これから店内を使わせていただきますので、申し訳ありませんが立ち入りはご遠慮くださいという、報告の言葉。

 一般市民がリコリスと距離を置いて暮らしているように、リコリス側も一般人とあまり接触しないよう注意して生活しているのだ。

 

 今日も風待は元気な声で呼びかけると、エアコンの効いた店内に入り、静かに店の引き戸を閉める。

 

 風待の手には、味噌汁が入った両手鍋と、調理した寿司ネタの入ったタッパー、そして腕に下げた小さなビニール袋という、下宿から持参するには、かなり面倒な大荷物。

 

 よくここまで持って来ることができたなと感心するが、セカンドリコリスの運動能力なら、全力で自転車を漕いでも、両手に持った鍋の汁をこぼすことなく、揺らすことなく小波のひとつも立てることなく持ってくることが可能なのだろう。それより…

 

「先輩、両手塞がっているのに、どうやって自転車乗って来たんですか?」

 

 

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