モズク子さんは、メロン味。
そして風待先輩はレモン味。
さて私は、何味にしようか。
冷凍庫を開け、スギナは考える、真剣に考える。
冷たいシャワーで汗を洗い流し、ラフで涼しいハーフパンツとシャツ姿に着替えたスギナ。彼女の目線の先にあるのは、かき氷の入ったカップが三つ。
歌島の皆さんと一緒に食べるために、前日スーパーで買ったかき氷風カップアイス6個入り。6種類のかき氷が入った、お得なセット。
冷凍庫に鎮座する、のこり3種類のカップかき氷を見つめながら、風呂場から出たばかりのスギナは考える。
しばらく考えた末、スギナが手に取ったのは、みぞれ味。半透明に透き通る、甘いシロップ染みている、シンプルな味のかき氷。
地味なサードリコリス、筑詩スギナ。
地味なモブに相応しい、地味な選択であった。
畳部屋に戻ると、歌島の二人と風待が、思い思いの姿でくつろいで駄弁っていた。
二つ折りにした座布団を枕に、だらしなく寝そべるメカブ子。
胡坐をかきながら、来客用のガラスコップに入った麦茶を飲んでいるモズク子。
かき氷がまだ硬いのだろう、正座をしたまま必死にスプーンをカップに突き立てる風待。
ベテランのサードリコリスとは思えない、緩い姿。
優秀なセカンドリコリスとは思えない、弛んだ姿。
話している内容も、外見に相応しい、弛緩した話題。
夜の億陀駅に手のひら大の蛾がいたとか、おはじき遊びに使えそうな貝殻を今年は4つ見つけたとか、やくたいもない話ばかりだ。
「おおスギナよ、シャワーながかったな」「これで4にんそろったな」
メカブ子が、スギナに片手をあげる。
モズク子は、空になったコップを手に立ちあがると、スギナの横を通り台所に向かう。冷蔵庫の扉を開け、中の麦茶ポットから新たに麦茶を注ぐモズク子。自宅のような気安さである。
「じゃ、そろそろ打ち合わせ始める?」
カップのかき氷を突く手を止めて、風待が皆に話しかける。支部長としての威厳もない口調だったが、それでも皆の視線が風待に向かう。
「そうだな、さきにやっておくか」「たった4つだからな」
「打ち合わせ、ですか?」
畳の上に座り、カップかき氷の蓋を取りながら、スギナが尋ねる。
「そ、打ち合わせ。電話連絡の時代から脈々と続く、DAに気付かれない、私たちだけの連絡方法をこれから更新するの」
「…また何か悪いことやっているんですか?」
嬉しそうに語る風待に、スギナは微妙にげんなりした表情で答える。
モブリコ寿司に来たリコリス達から、置手紙を受け取っているだけでも明確な違反行為なのだ。これ以上悪事を重ねた場合、行きつく末路はどうなってしまうのだろうか。恐らく、再教育では済まされないほどの厳罰が待ち構えていることだろう。
「大したことじゃないわよ、けど大事な話。支部と分支部の絆、双関のように両意を同じくするために必要な、大事な話なの」
「ふだんのれんらくはメールしかつかえないからな」「だからそのメールにさいくをするんだ」
メカブ子とモズク子が、円座を組むように座り直しながらスギナに説明する。
「メールに細工?」
「諸咲と歌島の非常時に、秘密裏に連絡するための緊急コードのようなものよ。DAに知られずに伝えたいことがあれば、定時連絡メールの末尾に、事前に打ち合わせた意味を持つ単語を入力するだけ。要するに単なる符牒ね。ただ、毎年同じ符牒を使っていると、私たちのメールを監視しているDAのコンピューターにいつかはバレるから、年に一回夏の双関杯の後に、皆で更新しているのよ」
えっと、符牒ってことは、換字式とかでなく符号式かな…と考えるスギナに、風待が解答の助け船を出す。
「例えばだけど、定時連絡で『司令のバカ』なんて書いたら、すぐDA本部から警告が来るでしょ。けどそういうことを伝えたいときは『司令のバカ』ではなく、ほかの言葉に置き換えて書くの。そんな感じね」
「おきかえることばは4つだけだけどな」「けど、いがいとやくにたつぞ」
お寿司屋の符丁言葉みたいなものですか? というスギナの問いに、風待はうなずく。
「暗号の初歩の初歩、単なるロートヴェルシュだけどね。本当はもっと複雑な暗号でいろいろなお話をやり取りしたいんだけど、作成と解読の暗号競争になっちゃうと、こればっかりはどれだけ頑張っても、DAのコンピューターには敵わないからね」
「そのてん、コードならがんじょうだぞ」「きそくせいがないからな」
来月からはスギナが定時連絡担当をやってもらうから、これから言う4つの符牒は記憶しておいてね、と風待は優しく言う。
悪事の片棒を担がされるとき、風待先輩はいつもこういう猫なで声で話すんだよなと、心の中でため息をつきながら、スギナは嫌々首を縦に振る。
「それじゃ始めましょうか。前回はメカブに決めてもらったから、今回は私が考えるわね」
「まかせたぞ風待よ」「かんたんなたんごでたのむぞ」
こういうのは、連絡文章と混ざらないよう、普段使わない言語を選ぶのが肝よ、と風待はスギナに説明しながら考える。
日本語や英語は避け、定時連絡ではまず使わない言語の単語を選びつつ、なるべく覚えやすい言葉を使う。これって意外とセンスがいるのよね。来年はスギナに考えてもらうから、その時は頑張ってねと、独り言のように語りながら頭を働かせる風待。
「去年は中国語だったわね、それじゃ今年はロシア語から選ぶわ」
思考言語をロシア語に変え、しばらく黙考する風待。梅色の脳細胞が良い案を導き出したのだろう、少しの沈黙の後に、風待の口が開く。
「それじゃ1番『上記の連絡は無視してかまわない』をグヴォスジーカに置き換え」
頭を記憶モードに切り替えたスギナが、風待の言葉を脳の中に焼き付ける。
本部リコリスは、一度聞いた指示や命令を忘れることは決してない。言葉の意味だけではなく、その時の声や風景まで含めたすべてを、公安式の記憶術の応用で脳内に保存するのだ。
メカブ子とモズク子も、風待の声を耳に入れると、右手人差し指で左手の甲を軽く叩く。
どうやらこれが、分校リコリスの記憶術らしい。本部とは系統は違うようだが、分校にも独自の暗記方法があるようだ。
「1ばんはよくつかうよな」「DAのいっせいてきはつれんらくとかな」
「DAから諸咲支部に来るメールって、監視強化月間とか、出張任務志願とか、無駄な連絡も結構あるのよね。そんな連絡でも、一応本部からの通信ではあるから、定時連絡で歌島分支部にメール転送しなければいけないんだけど、あまり意味はないよって付け加えたいときにこの単語を沿えるの」
地方支部の士気と規律を維持するため、定期的にDAが送る精神訓示的なメール。ただでさえ弛緩しやすい地方リコリスの意識を引き締めるため、強い言葉が列をなしてはいるが、たいていのリコリスはその文面を読み飛ばしている。
しかし、ごくまれに、無視して構わないのか判断に困るメールもある。
風待が例に挙げた、政情不安に伴う監視強化月間の連絡や、出張任務の予備登録を募るメール。これらは、一読しただけでは重要性は判断し辛い。
たいていの地方支部は、このようなメールが来た場合、LC3Iシステムに掲示される周辺支部の危険度情報や、管轄区域内にある町の雰囲気から重要度を推測することができるのだが、人口の少ない分支部、特に歌島のような孤島支部では、その判断は難しい。
そのため、行間が読み辛いメールが来た場合、諸咲支部長は『上記の連絡は無視してかまわない』という一文を、符牒で歌島分支部に伝えるのだ。
「ああ、そういう感じで使うんですねそれ」
スギナが感心したような声をあげる。
書類上は諸咲支部の一部である歌島分支部は、LC3Iシステムを使えないという。
外部からの情報が少ない地で暮らすメカブ子とモズク子にとって、DA本部に近い立場の本部卒リコリスが支部長である諸咲支部、OGが現名古屋支部長である諸咲支部は、限られた連絡内容を裏で補完しくれる、重要な情報源でもあるのだろう。
「そういうこと、それじゃ次行くわよ。2番『本当の状況は、上記の連絡の逆である』をアカーツィアに置き換え」
事件は解決したにもかかわらず、しばらくの間は警戒態勢を維持し続けよというメールが来た時とかに使うのよと、風待はスギナに説明する。地方支部の意識引締めのため、実際の状況を知らせないことが稀にあるらしい。
「なあ風待、これってはなのなまえだけじゃないな」「もとねた、もうわかったぞ風待」
グヴォスジーカ、アカーツィア、この単語を記憶したメカブ子とモズク子が、笑顔で風待に語りかける。少しだけ難しいジョークの意味が分かった時特有の、言った相手への賞賛の笑み。少しだけ難しいジョークが分かった時特有の、自分への賞賛の得意顔。
「え、なんですか? 何か繋がりあるんですか?」
慌てたように皆の顔を交互に見るスギナ。少しだけ難しいジョークの意味が自分一人だけ分からなかった時特有の、心細げな表情。
「スギナもあててみてくれ」「リコリスなら、かんたんななぞかけだぞ」
自慢げな笑みを浮かべながら、スギナに解答を迫る二人。
スギナは焦りながらも、頭の中の知識を総動員する。
この二つは、ロシア語。この二つは、お花の名前。
クヴォスジーカは、カーネーション。
アカーツィアは、アカシア。
メカブ子さんとモズク子さんの言葉によると、なにか元ネタがあるらしい。
メカブ子さんとモズク子さんの言葉によると、リコリスならわかるらしい。
スギナはしばらく考える。スギナは真面目に考える。
エアコンと扇風機の音だけが響く室内。午後の日差しが窓から入る室内で、スギナは必死に考えた。
やがてスギナの脳裏に、可憐で柔らかな花とは異なる、武骨で固いイメージが夏の稲光のように閃く。
手にしたカップを思わず握りしめるスギナ。カップの中に入っているかき氷が、きしんだ音を立てる。
「2S1と…2S3ですね。すっかり忘れていました」
クヴォスジーカとアカーツィアは、旧ソ連の自走砲の名前。
2S1クヴォスジーカ。旋回砲塔に122ミリ2A31榴弾砲装備、搭載弾数40発、重量15.7トン。
2S3アカーツィア。同じく旋回砲塔に152ミリ2A33榴弾砲装備、搭載弾数46発、重量27.5トン。
リコリスは、現在世界で使われている武器兵器について、名称から外観、性能や生産工場まで、候補生時代に徹底して教え込まされている。
学んだ内容は現用兵器だけでなく、かつて使われ、かつて流通していた武器すべてに及んでいる。今ではどこの国にも見向きされないような旧式兵器であろうと、その安価さから国内に密輸入され、テロリスト達の武器となり自分たちに銃口を向けてくる可能性はあるのだ。どのような骨董銃器、少数生産品、試作武器であっても、その性能は頭に叩き込んでおかなくてはならない。
武器の正式名称と同じく、武器の別称や略称も大事な情報である。監視対象の相手の雑談、戦闘中の敵の作戦指示、捕獲した敵への尋問、これらの会話の端々に上がる武器の名前は、常に正式名称とは限らない。輸出先の国で使われている俗称、メディアが間違って使用している通称、組織内で呼ばれている愛称。それらも含め、武器の名前についてはありとあらゆる呼び方を、少しの漏れもなく学んでいる。
しかし、スギナは今の今まで、この花の名前と武器の名前が結びつかなかった。本部で確かに学んでいたはずなのに、紐付けできていなかった。
田舎支部に赴任してから3カ月、自分の支部にある拳銃と閃光手榴弾しか武器を見ていなかったからだろう。他の武器に対する緊張感みたいなものが、少し薄れていたのかもしれない。
まあ、旧ソ連の1970年代の自走砲なんて、実際に出会うこともないし、忘れていても仕方ないよね、とスギナは自分を慰める。
「じゃ、スギナ。次の花の名前、当ててみて」
忘れていたことを悔やむスギナに、風待が問題を出す。
「えっと、自走砲つながりなら…次は、2S4チュリパンです」
「当たりよスギナ。3番『上記の連絡の真偽は不明。各自注意して行動せよ』を
核砲弾が発射可能な240ミリ重迫撃砲を搭載する、軍直轄砲兵部隊所属の自走砲、チュリパン。
かつて講義中に記憶させられたその姿。アカーツィアと同じ車台に、巨大な21口径2B8重迫撃砲を乗せた重々しくも禍々しい姿の写真を、スギナは思い出す。
チューリップの花言葉は知らないが、チュリパンの性能は諳んじられる。スギナも他のリコリスも、皆そのような教育を受けていた、そのような世界で育っていた。
「メカブもモズクも、この3つの符牒を忘れないようにね」
「わかったぞ風待」「まかせろ風待」
「あの…」
打ち合わせも無事お開きになり、各自またくつろいだ姿勢に戻ろうとする三人に、スギナがそっと手を上げて質問する。
「なんだスギナよ」「どうしたスギナよ」
「先ほど、皆さん符牒は4つって言ってませんでした?」
ああ、そうだったわねと、スギナの問いに風待が面倒そうに言う。
「4番は…ねえ。まず使わないと思うけど」
「けど、まあいちおうきめておくか」「いちおう、な」
嫌々といった感じで、また改まった姿勢になる三人。4番って何ですかと、スギナが風待に小声で尋ねる。
「この符牒の内容って、数十年前から変わらないんだけど、4番はまだ一度も使ったことがないのよ。まあ、伝統でもあるから一応決めておこうか」
「でんとうだから、とりあえずということで」「2S5のなまえをつけておけばいいだけだしな」
しばしの沈黙の後、風待の口が開く。
「4番『最終連絡。諸咲支部と歌島分支部の閉鎖が決定した。清掃班が来る前に、各自必要とする行動をとれ』を
午後の日差しが、微かに色褪せた。
夏の日の夕焼けは、柔らかい。
7月の大地を苛烈に照らしていた陽光が勢いを弱め、赤色に染まった優しい光となる夕方。昼間は町中を覆っていた高い温度と湿度たちは未だ周囲に居座っているが、伊勢湾から時折吹く風によって、大空を支配していた暑気は少しずつ遠くの世界に流されていく。
夕日の色に照らされる十与浜港、防波堤に身を打ちつける波の音を伴奏に、少女たちの歌声が聞こえる。
田舎の港に響く合唱、田舎のリコリスたちの斉唱。彼女たちの澄んだ歌声は、暮れ始める陽の光よりも明るく輝き、港中にこだまする。
符牒の更新、そして双関杯の絵羽子板の譲渡式を終えた後は、夕方までだらだらと話し続けていた4人。諸咲歌島の区別なく、気持ちを交わし心を通わせた4人は、喋りながら下宿を出て、歌いながら帰りの船を待っていた。
歌島からメカブ子とモズク子を迎えに来る漁船の到着時間は、もうそろそろ。楽しかった一日の締めを飾るため、仲良くなった4人の絆を深めるため、彼女たちは漁船が見えるその時まで、声を合わせ心を合わせ、訓練生時代に習った歌を一緒に歌っていた。
リコリスは、流行りの歌を知らない。
訓練生時代に習った歌は、童謡と唱歌のみ。
限られた歌しか知らず、限られた遊びしか知らない、リコリスたち。
しかし、今日の彼女たちは幸せだった。
友人と食事し、友人と遊び、友人とおしゃべりをし、友人と歌いあう、喜び。
同い年の少女たちが楽しんでいることを、自分たちもできたという、満足感。
その嬉しさが声に出る。
その楽しさが歌になる。
港を歩く人たちの視線も気にせず、喜びを込めて歌いあう4人のリコリス。夕暮れの港に響く、古い童謡。
楽しそうに歌う彼女たちとは裏腹に、その歌声は、もの悲しい響きで溢れていた。
「あの船かしらね、こっちに一艘向かってくるわ」
視力のいいセカンドリコリスである風待が、宵闇迫る海の果てから迎えに来た漁船を発見する。
「そうか、もうむかえがきたか」「じゃあ、そろそろいくか」
名残惜しそうな顔で、メカブ子とモズク子が帰り支度をする。
船揚場の奥に積んである大量のバッグを、漁船が停まる岸壁近くまで移動させる4人。島ではそろえるのが難しい雑貨や日用品、コンビニや量販店でしか買えない食品や菓子など、半年分の生活物資を詰め込んだバッグの数は多く、4人がかりで移動させないと、時間がかかってしまうのだ。
やがて、漁船は十与浜の港に接舷する。
漁船の船員と一緒に荷物を詰め込むメカブ子とモズク子。支部長として、船長に挨拶をする風待。なぜか港の端で座り込むスギナ。別れの時は、慌ただしくも確実に近づいて来る。
「それじゃあ、おわかれだな風待」「それじゃあ、おわかれだなスギナ」
荷物を載せ終えたメカブ子とモズク子が、赤い夕陽の下でスギナと風待に微笑みかける。
「風待よ、げんきになったようでなによりだったぞ」「さけはほどほどにな」
漁船の前で、風待としっかり握手する歌島の二人。沈む夏の陽に照らされる、静かな別れの儀式。
「スギナよ、これからもよろしくな」「りっぱな諸咲リコリスになってくれよ」
二人の手を、交互に握りしめるスギナ。はい、頑張りますと大きな声で答えながら、固い握手を交わす。
「ああそうだ、スギナにひとついいたいことがあった」「さいごに、ひとついいたいことがあった」
メカブ子とモズク子は、似たような顔でスギナに語りかける。
「スギナがくるまえの風待はな、ほんとうにしょうすいしていたんだ」「セノカがいなくなってからのはんとしかん、ほんとうにあれたせいかつをしていたんだ」
「そこまで憔悴していないし、荒れてた記憶もないわよ…」
気恥ずかしいのだろう。スギナの横で不平を込めてつぶやく風待。
「けど、スギナがきてからは、風待はすごくげんきになったんだ」「ていじれんらくのメールのぶんしょうだけでもわかったぞ、すごくうかれはしゃいでいたんだ」
「そこまで浮かれていないし、はしゃいでもいないわよ…」
気恥ずかしいのだろう。スギナの横で不満を込めてつぶやく風待。
「風待にとって、スギナはかけがえのないあいぼうなんだ」「これからも、なかよくしてあげてくれ」
「メカブ子さん…モズク子さん…」
夕焼けの中に浮かぶ、歌島リコリスたちの温かい笑顔。
彼女たちは、心配していたのだろう。かつて風待の心が欠けていたことを。
そして、安心したのだろう。風待の欠けていた心が、スギナの存在によって満たされていたことを。
そのことを、心の底から喜んでいるメカブ子とモズク子。二人の幸せを、本当に祝ってくれているメカブ子とモズク子。
本当にいい人たちだ。
私は、こんないい人たちに、フナムシを投げつけてしまった。
昔からの癖で、つい投げつけてしまった。
ごめんなさい、とスギナは改めて二人に頭を下げる。
「ああ、フナムシのことならきにしていないぞ」「というか、ひとつききたかったんだが…」
口喧嘩の最中に虫を投げつけることって、DA本部で暮らしていた候補生時代のころからやっていたんだよな? という質問に、スギナが恥ずかしそうにうなずく。
「DAほんぶは、やまのなかだから、フナムシいないよな?」「とうじは、なにをなげていたんだ?」
少しだけ気になっていたのだろう。二人の質問に、スギナは笑って答える。
「当時投げていた虫ですか? それはゴ…」
「いやいい! もう言うな!」「もう言わないで!やめて!」
のんびりとした口調を捨てて、慌ててスギナの言葉を遮るメカブ子とモズク子。本当に昆虫が苦手なんだな、とスギナは微笑ましい目で二人を見る。
「この子ってね、何故か昆虫触っても平気なのよね…本当に困っているのよ」
隣にいる風待が、大きな声でため息をつく。先輩も本当に昆虫が苦手なんだな、とスギナは微笑ましい目で風待を見る。
「まあ、リコリスたるもの、むしごときでおどろいていてはいけないのかもな」「つぎからは、フナムシになれておくようがんばるからな」
本当に優しい二人だ。虫が苦手にも拘わらず、スギナのフナムシを否定せずに、むしろ受け入れてくれようとしている。
二人の優しさに心を動かされたスギナは、思わず両手で二人を抱きしめる。
突然抱きしめられ、少し驚いた風の二人だったが、それでも静かに、感激に震えるスギナの身体を、優しく抱き返す。
「メカブ子さん、モズク子さん、今日は本当に、本当にありがとうございました。私もがんばります。がんばって、諸咲の平和を守ります。がんばって、美味しいお寿司作ります。がんばって、風待先輩の横に立てる立派なリコリスになります!」
二人を両腕で抱え、二人の腰ポケットに左右の手を伸ばしながら、スギナはメカブ子とモズク子に誓う。
リコリスとして、町の平和を守り、町の人々を幸せにすること。
モブリコ寿司店員として、リコリスの皆に幸せなひと時を提供すること。
そして、風待先輩と二人、幸せに生きること。
6月の雨の日の失敗で、折れかけていた心。その心を、歌島から訪れた二人が癒してくれた。
スギナは二人に感謝した。
そして、誓った。
がんばろうと、誓った。
涙に目を潤ませながら誓うスギナを、歌島から来た二人はいつまでも優しく抱きしめていた。
夕暮れの中に、漁船が消えていく。
海の果てにある歌島は、夕焼けの淡い色に消され、すでに見えない。
メカブ子とモズク子が住む島、歌島。
彼女たちはまた明日から、あの島で平穏な日々を暮らすのだろう。
スギナと風待は、漁船の影が海と同化するまで、手を振り続けていた。
歌島の姿が夜の中に消えるまで、手を振り続けていた。
「ねえ、スギナ」
港からの帰り道、風待がスギナに話しかける。
「本当は、あまり聞きたくなかったんだけど…」
「なんですか先輩?」
アパートへと続く曲がりくねった坂道、スギナは足を止め風待に聞き返す。
「メカブとモズクにお別れするとき、スギナは二人に抱きついたよね。その時、あいつらのポケットに何入れたの?」
「あ、わかりました?」
街灯の明かりの下で、スギナが少し恥ずかしそうな顔をする。
「…なにを入れたの」
風待の問いに、スギナが笑みを浮かべる。他愛もない悪戯がばれた男子小学生のような、照れ隠しの笑み。
「フナムシ、入れちゃいました」
やっぱりね、とげんなりした顔の風待に、スギナが微笑みかける。
「歌島のお二人が言ってくれたんです。次からは、フナムシに慣れておくからなって。だから私、少しでも早く慣れていただけるよう、ポケットに忍ばせておいたんです」
「そう…」
「フナムシっていっても、死んで乾いていましたし形も小さいのを入れましたから、そんなに嫌悪感はないはずです。ちょっとびっくりするかもしれませんけどね」
帰りの漁船に荷物を詰め込むとき、手伝いもせずに岸壁の近くで座り込んでいたスギナ。その時見つけた二つのフナムシの死骸を自分のポケットに入れておき、隙を見てメカブ子とモズク子のポケットに投入していたのだ。
スギナに悪気はない。些細な悪戯としか考えていない。
昆虫に関しては男子小学生並みの倫理観しかないスギナの無邪気な行為。人畜無害な顔をしたスギナが時折仕出かすこの邪悪な行為を矯正するには、おそらく長い年月がかかるだろう。
やっぱりセカンドリコリスの目はごまかせませんね、と感心するスギナの隣で、風待は夜空を見上げて大きなため息をつく。
「ねえスギナ」
「はい?」
「歌島への定時連絡の係、今夜からはスギナにやってもらうわ。そして、まずは謝りなさい。ポケットにフナムシの死骸入れたこと、メールで必死に謝りなさい。いいわね」
「はいっ!」
罪の意識一つなく、朗らかな声で返事をするスギナ。
何度も重いため息をつく風待の横で、スギナは後ろを振り返る。
両脇にそびえる木造住宅の隙間から見える、夜の海。
黒色の海と紺色の空の間に、わずかに光る島の明かり。
私たちの仲間、そして友人が住む島、歌島。
私たちと同じモブリコリスが住む島、歌島。
スギナの耳には、海原を越えて、彼女たちの悲鳴が聞こえてきたような気がした。