モブリコ辺境暦   作:杖雪

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 海から風が吹く。
 麦わら帽子の縁が、潮風に揺れる。


 風待先輩は、何を身に着けても似合う人だと、スギナはいつも思う。

 リコリスの制服に麦わら帽子。多少違和感のある組み合わせだが、風待先輩が着用すると、狙いを定めたファッションスタイルのように感じる。
 私の麦わら帽子姿は、ただ子供っぽいだけだが、風待先輩が被ると、麦わら帽子は夏空に輝く少女を飾る優秀なアクセサリーとなる。

 海と大地の明度と彩度を強調させるかのように降りそそぐ、夏の日差し。
 すべてが白色の光に染まる中、ただ静かに海を見る、麦わら帽子姿の風待先輩。

 いつまでも、いつまでも見つめていたい、夏の一葉。

 私のあこがれの人、風待先輩。

 今日の先輩のこの姿、いつまでも、いつまでも記憶に留めていよう。スギナは、風待の顔を見続けながら、そのようなことを考えていた。




8月 初めて人を殺した日 ①

 

「先輩」

 

 海岸に沿うように建てられたコンクリート製の胸壁に座っているスギナが、肩をつけるようにして横に座る風待に話しかける。

 

「なあに?」

 

 少し疲れた声で、風待が答える。表情は毅然としていたが、真夏の海辺を照らす夏光の強さに、少々うんざりしていたようだ。

 

「釣れませんね」

 

 スギナが、手に持った釣竿を、軽く上にあげ、釣り糸に付けた仕掛けを調べる。

 

 二人が握る釣り糸の先についているのは、小さな重りと、ハゼ用の5号針。浮きもヨリモドシもない、やる気のない仕掛け。釣り針の先端には魚肉ソーセージの切れ端を刺していたのだが、よく見ると、いつのまにか針先から消えている。

 

「エサが無くなるってことは、何かいるんですよね。こんな小さな川口にも、お魚いるんですね」

 

「流れでエサが外れただけなんじゃない? まあ、釣れない方がいいわよ。今日はコミュニティバスじゃなくて自転車で来たんだから、釣れても持ち帰るの大変だし」

 

 釣竿を操って釣り針を手元に戻し、新たに魚肉ソーセージのかけらを付けるスギナに、やる気のない声で答える風待。

 風待は先ほどから、投げ入れた仕掛けを一度も確認していない。声だけではなく、実際にやる気がないのだろう。

 

「けど、ここまで釣れないと、なんかヒマですよね。ターゲットもまだ来ないですし」

「時間も潮も悪いし、第一こんな小石だらけの海岸の、排水路近くの水溜りに糸垂らしても、何も釣れないわよ」

 

 風待の愚痴を無視するかのように、竿を軽く振って、釣り針を川口に沈めるスギナ。

 スギナの左側を流れる排水路の水は、二人の座る胸壁の下に、潮溜まりのような小さな池を作っている。深さも広さも全くない、本当に小さなタイドプール。持ってきた長い釣り竿が不釣り合いに見えるほどの、小さな小さな水溜まり。

 

 二人が手に持つ釣竿は、古びているが頑丈で高級そうな延べ竿である。

 

 釣り好きだったという十数世代前の諸咲リコリスが、DAに無理を押し通して購入した二振りの釣竿は、彼女がこの地から消え去ったのちも、その後に続く諸咲リコリスが、代々ありがたく使用している。

 

 地元の港や河口で釣り上げる魚は、たいていはその日の夜の食卓に並ぶが、秋口に釣れる大型のハゼなどは、握り寿司や煮付けにしてモブリコ寿司で饗されるという。

 

 スギナも、赴任してから数回、十与浜の港で魚釣りをしたことがある。

 

 風待の丁寧な指導の下、道具の手入れや仕掛けの付け方、釣りのマナーまでしっかりと学んだスギナだったが、センスがないのか運がないのか、これまでの釣果はあまり芳しくない。

 それでも、訓練生時代は全く触れたことがなかった釣竿の感触が、スギナには楽しいのだろう。釣れないことを前提とした、ただのカモフラージュである今日の釣りにも、スギナは真剣さと誠実さを持って向き合っていた。

 

 とはいえ、あまりに釣れないと、やがて意識は外に向いていく。スギナは、釣り竿を両手で持ちながら、ぼんやりと周囲を見る。

 

 左右には延々と続く護岸壁、背後には数年前に建てられたというソーラーパネルの群れが、夏の強い日差しを十分に浴び、十分な電力に変換している最中だ。

 

 整然と設置された、何列にも並ぶパネルの大群は、無機的な機械の波が迫ってくるような圧があるが、スギナたちが座る護岸壁とソーラーパネルの間には、車一台が通れるほどの無舗装の通路があるので、それほど圧迫感はない。

 

 白く乾いた地面がむき出しの通路をよく見ると、疎らに生える雑草を押しのけるかのようにして押し付けられた二本のタイヤ跡が、寄り添うように並行して続いている。おそらく、ソーラーパネルの点検業者の車両が、この通路を使用しているのだろう。

 

 ソーラーパネルの列の奥には、海岸と並行して走る国道。そのまた奥は、豊岡の丘陵と林が、立ち並ぶ壁のように腰を下ろしている。林の中に埋まるかのように、数軒の民家が見えるが、国道の周囲を歩く人影はない。

 

 スギナは、目線を前に戻す。

 

 二人が今いる場所は、支部拠点兼生活拠点であるアパートがある十与浜の反対側、大亥港から北に数㎞ほど移動した人気のない海岸である。目の前には、大きく広がる三河湾。海の果てには、対岸に立つ市色の街並みが、水平線の上に貼りつくように広がっている。そのはるか先には、高く大きくそびえたつ白い入道雲。白と青のみで構築された、夏の空。

 

 今にも迫ってきそうなほどの密度がある入道雲をしばらく見つめていたスギナは、やがて目線を左側の足元に落とす。

 

 海岸線から陸地を守るようにして立つ灰色の胸壁と、枚数を数えるのも面倒なほどに連なるソーラーパネルは、スギナの左手側を流れる小さな小川によって分断されている。

 小川の向こうに見える風景も、鏡で合わせたように全く同じ。肩ほどの高さの胸壁、雑草がわずかに生える干からびた通路、無表情に並ぶパネルの列。近頃の田舎の海岸に散見される、どこにでもある退屈な光景が、スギナの目に映る。

 

 同じ風景を二つに分ける小川は、風待の言う通り川というより排水路のようだ。この地方は、溜池が多い。背後の林の奥にある畑に水を供給する溜池が、この小川と真下の水溜まりを作っているのだろう。

 

 一昨日に降った夕立のためか川の水量は意外とあるが、それでも川幅は狭く、魚がいるようには見えない。水流も緩く、水深も浅い、今にも途絶えてしまいそうな小川である。直射日光に照らされ続けた水面は、見た目にも温そうだ。少しでも涼を求めたい真夏の昼間に、このような温い場所に留まる物好きな魚などいるまい。

 

 細々と続く川と川口の水溜まりの先には、砂利や小石の混じった浜辺が続く。この近辺の海岸は、細かい石によって形成された礫浜である。

 

 一応海水浴はできそうな浜辺であるが、砂地がないため、遊びに来る人はいない。この季節に観光に来る人たちは、ここから1㎞ほど南に下がった場所にある海水浴場に足を向ける。そこならば、裸足で歩いても痛くない柔らかい砂浜や海の家などの食事処、そして駐車場が完備されているのだ。

 

 昼間も人気がない場所だ。夜ならばさらに人は来なくなるだろう。

 周囲に珍しい観光名所はなく、あるのは珍しくもないソーラーパネルだけ。街路灯も少ないこの場所は、夜の散歩を楽しむ人すらいないだろう。

 

 航空写真や風景が見えるアプリで調べたのだろうが、この土地に来たことのない連中にしては、良い取引場所を見つけたものだと、スギナは感心する。

 

「先輩、今夜のターゲット、いつ頃ここに到着しますか」

 

 竿を上げ、まだ針先に魚肉ソーセージの欠片が付いているのを確認しながら、スギナは問いかける。

 

「今から20分前に美濱インターチェンジを出た料金記録がメールで届いているから、本当ならもう着いていてもいいころなんだけどね。多分どこかのコンビニで、飲み物買っているようね。今日は暑いから、飲料は必須よね」

 

 胸壁の上に置いてあるペットボトルに手を伸ばしながら、風待が答える。

 

「DAって、監視カメラだけじゃなくて、料金所のデータも見放題なんですね」

「ETCの決済履歴は、監視カメラが少ない地方では重要な情報源よね。特にオペレーション中は、DAがリアルタイムで履歴を教えてくれるから、本当に助かるわ」

「便利なものですね」

 

 感心するスギナの横で、風待はミネラルウォーターの入ったペットボトルに口を付ける。小さく喉が鳴るごとに、風待の胃に水が流し込まれる。

 

「スギナも本部で習ったと思うけど、DAが構築した国民監視システムについては、特別機密だから決して口外しないでね。どのような状況下でも決して話さず、墓場まで持っていくこと、いいわね」

 

 ペットボトルをスギナに渡しながら、先輩リコリスとして忠告する風待。

 

 どのような状況下でも、という言葉に込められたシチュエーション。あまり想像したくない陰惨で凄惨な状況においても、自白してはいけない秘密があるという責任の重さに気が滅入りながら、風待が口にしたペットボトルの水を飲むスギナ。

 

 釣りに飽きている風待は、腰のポケットからスマートフォンを取り出し、状況を確認する。

 

「どうですか先輩。そいつらコンビニで何を買いました?」

 

 ペットボトルの蓋を閉めながら、スギナが尋ねる。

 

「DAからの連絡は無しね。コンビニには行っていると思うけど、どうやらターゲット達は、電子マネーではなく現金で支払いしたみたいね」

「不便なものですね」

 

 太腿の上に置いたタオルで汗を拭いながら、スギナが不満を漏らす。

 

「先輩、そいつら、本当にここに来ますかね。もしかしたら、先に旅館行くかもしれませんよ」

「南智多道路を下りた場所が、宿近くの豊岡インターチェンジではなく、ここに近い美濱インターチェンジだから、奴らは必ずこの場所に下見に来るわ。取引は夜間だから、明るいうちに駐車場所とか周囲の状況を確認しておきたいでしょうしね」

「だといいんですけど」

 

 このまま暑い日差しの下にいるのはイヤですと、愚痴を言いだすスギナ。どうやらスギナも、釣れない釣りに飽きてきたようだ。

 

 今の時刻は午後3時。暑い盛りである。

 

 空の上から迫る直射日光と、海の上から反射する照り返しの光。多方向から迫る夏の熱線から身を守る盾は、麦わら帽子が作り出すわずかな陰のみである。

 大亥港の自動販売機で買ったペットボトルの水も、残り少ない。ターゲット達が現れるまで、二人で計画的に摂取しなくてはいけないのはわかってはいたのだが、この炎天下、誘惑に負けつい何度も口にしてしまったのだ。

 

 喉を潤した水分も、体内に長いこと留まっていてはくれない。夏の熱気に搾り取られるかのように、水分は汗となり体外に排出されてしまう。

 

 顔や腕に浮かんだ汗はまだ良い方だ。蒸散作用で皮膚の熱を奪ってくれるし、滴るほど流れてもタオルでふき取ることができるからだ。

 

 問題は、制服で包まれた胴体部分である。

 特殊な防弾防刃繊維で作られた本部卒リコリスの制服は、通気性が全くない。荒天時の任務も考慮して防水性も高めた制服は、夏季に着用するとレインコートを着ているかのように、内側に体温と湿気が溜まるのだ。

 

 今も、体から流れた汗は、蒸発する先を求めて制服の中を彷徨っている。汗に濡れた下着やブラウスが体に貼りつき、粘着的な愛撫をされているかのような不快感が肌の表面を走っている。

 

 胸元から立ち昇る汗の匂い、塩気を含む生々しい匂いが、気持ち悪い。時折脇や太腿から流れ落ちる汗の筋が、更に不快感を煽り立てる。

 

 サードリコリスとはいえ、スギナは本部卒リコリスである。夏の熱気ごときで、体力や精神力、集中力が減衰することはない。

 しかし、不快感だけは別である。はやくこの場を離れ、汗のかかない場所に移動したい。この気持ちが、愚痴になってスギナの口から出ていた。

 

 しばらくスギナの愚痴を聞き流していた風待だったが、少しだけ背後の道路に目をやると、人差し指を口に付ける。静かに、の合図。

 

「左50メートル先、黒い車。来たわよ」

 

 唇を動かさない、本部卒リコリス同士の特殊な会話方法で、風待は車種とナンバーをスギナに伝える。一瞥しただけで、見るべき車両情報は全て確認したようだ。

 風待は車の減速音で、この場所に駐車しようとしている車両を判断したらしい。海を見ながらぼんやりと釣竿を握っている体の風待だったが、その耳は背後の国道を通る車両を漏らすことなく観察していたのだ。

 

 セカンドリコリスの監視能力の高さに、改めて驚くスギナ。しかしスギナもリコリスである。驚き慌てて、該当車両に目線を向けるような真似はしない。無表情な顔のまま、顔も目も動かさず、視界の左端に入ってきた黒い車に焦点を合わせる。

 

 本部卒リコリスは、特殊な訓練の結果、黒目を動かさずに、視界の端でも焦点を合わせることができる。視野の隅でも眼球の中央にあるかのように注視でき、同じ明快さで注目できるのだ。目線を前に向けたまま、左右の真横に置かれた本を同時に読むことができるようになるまで、本部卒リコリスは厳しい訓練を積み重ねている。

 

 小川のような排水路を挟んで北側、スギナと風待がいる南側と全く同じ、ソーラーパネルが立ち並ぶ殺風景な場所に、一台の黒い車が侵入してくる。型は少し古いが、威圧感のある高級車。磨き上げられた艶のある黒色の車体に、無舗装の乾いた土が巻き上げる砂埃が薄く被さる。

 

 岸壁に沿って伸びる胸壁と、多くの列を成して並ぶソーラーパネルの間にある、点検車両用の小道に黒い車が入り込む。濃いスモークガラスフィルムを全面に貼った、いかにも反社会的な人物が乗っていそうな車だが、巻きあがる砂埃でこれ以上車体を汚されたくなかったのか、意外と神経質そうな運転で小道の奥まで入ると、静かに停車する。

 

 その間、スギナも風待も、微動だにしていない。黒い車に顔も視線も向けず、傍目には一切関心がないかのように、静かに海を見つめている。

 

 エアコンをフルに動かしているのだろう、くぐもるようなエンジン音が鳴り響く車の中から、4人の男が外に出る。

 

 彼らは注意深く周囲を見渡しながら、胸壁の近くに集合する。そのうちの一人がスギナと風待の姿を目にとめ、大きく舌打ちする。いつも自分たちの周囲で見かける、謎の監視集団の少女たち、直接手出しはしてこないが目障りな存在がこの田舎にもいた。そのような意味を込めた舌打ちだろう。

 

 しばらくの間、警戒の目でスギナたちを見ていた4人であったが、目線ひとつ向けず無言で釣りを続けている姿に安心したのだろう。胸壁の下で地図を取り出し、小声で話し始める。

 

 排水路を挟んだ反対側、聴音訓練を積んだ本部卒リコリスならば、どれほどの小声でも聞こえる距離なのだが、今日は聞き取ることが難しい。

 海岸中に響く波の音に風の音。砂利と小石でできた礫浜特有の、波が立つごとに石同士がぶつかり合う高い音。そしてソーラーパネルの柱の下を通る風の低い音。これらの音が天然の妨害機(ジャマー)となり、男たちの声を掻き消しているのだ。

 

 もっとも、今回の任務においては、彼らの声から情報を得る必要はない。知りたい情報、大事な情報は、すでにDAが与えてくれているのだ。

 

 今得ておきたいのは、彼らの人着、そして車の特徴と駐車場所。それを確認するために、スギナと風待は、炎天下の中わざわざ自転車を漕いで、下宿の反対方面にある三河湾の海岸まで来たのだ。

 

「スギナ、あいつらのもっている地図を見て。取引相手が送ったメールに添付されていた11000分の1の海図(チャート)よ」

 

 周囲に聞こえにくい、唇を一切動かさないDA独自の発声方法で、風待が囁く。

 

 海図(チャート)とは、安全な航海に必要な情報が盛り込まれた、海の地図である。海の深さや海底の底質、岩礁の存在や潮流、航海標識など、海の様々な事柄が記入されており、操船に必須な書類として、船員法や船舶安全法で、大型船には必ず常備するよう義務付けられている。

 

 風待の目線を追うように、スギナも男たちが見つめている海図に、白目部分で焦点を合わせる。

 

 男たちが取り囲んでいるので、かなり見え辛くはあるが、たまに地図の高さや体勢を変えながら周囲を確認しているので、何とか確認することはできる。

 添付ファイルを複合機でプリントアウトしたのだろう、薄いコピー用紙に印刷された海図は、明らかにこの海岸のものだ。

 

 出航前に航海士が書き込む予定航路や、航路標識の移設などの、事前に得た最新の情報が手書きで書きこまれているところを見ると、どうやら取引相手は、乗船している船の海図をそのまま撮影してメールに添付したようだ。

 

 そして、航海士が使用しているペンとは違う色で描かれたバツ印。印の場所は、男たちのいる場所である。

 取引場所はここであるということが一目でわかる、完璧な証拠である。

 

 もっとも、スギナと風待にとっては、彼らの手にしている海図の書き込み内容は、特に知りたい情報ではない。昨日からすでに、DAからの連絡ですべて知っているからだ。海外の取引先とのメールでのやり取りや、添付された海図を含め、任務に必要な情報はすべてDAから諸咲のアパートの畳部屋に置いてあるノートパソコンに送られており、スギナと風待はその内容をすべて確認している。

 

 DAから今回の作戦について指示が来たのは、昨日の朝。朝のトレーニングと朝食を終え、座布団に座りデザートのスイカを食べている最中に、二人のスマートフォンに届いた、DA本部と名古屋支部連名の機密命令作。

 

 送信されたメールは、明日の夜に諸咲支部内で行われる重大密輸犯罪の阻止指令。今年度初めての、諸咲支部リコリスだけでの単独オペレーションである。

 

 外で閲覧する状況が多いスマートフォンには、それ以上の情報は送られてこない。メールの末尾には、詳細はLC3Iシステムで確認するようにと書かれていた。その指示に従い、二人は食べ終えた西瓜の皿を急いで片付け、ノートパソコンでLC3Iシステムを開き、通知欄に送信されたメールに添付されていた、今作戦に必要な情報を閲覧する。

 

 今回のターゲットは、関西の広域暴力団系の三次団体の、小さな暴力団。もともとは名古屋を拠点とする暴力団だったが、近年急成長を続ける関西系暴力団の勢いに飲み込まれる形で、三カ月前に軍門に下り、今は西側暴力団の名古屋での橋頭保のような扱いになっている。

 

 関東系と関西系の暴力団組織網の中間に立つ名古屋の裏勢力は、この一年で大きく様変わりしている。

 

 真島一派が関東で起こした騒動によって疲弊した東側暴力団組織の縄張りに食い込もうと、積極的に攻勢をかける西側の暴力団組織。その強引な勢力拡張は、社会の裏で多数の小競り合いとある程度の抗争を生みながら、現在も継続中である。

 

 諸咲の海岸で今夜行われる密輸品の取引も、このような状況下が生み出した産物である。総員6名の小さな組であるこの団体が西側暴力団の中で成り上がるために、海外の麻薬組織と手を組んだのだ。

 

 諸咲支部の今回の任務は、密輸品を受け取りに来た暴力団員の処分である。名古屋からわざわざ車に乗ってのこのことやってきた彼らを、諸咲の地で殺す仕事である。

 

 今夜殺害される運命に気が付いていない4人のヤクザたちは、海図を見ながら何やら話し合っている。深夜の大規模取引に興奮しているのか、全員が話に熱中しているようだ。皆の視線は海図に集中し、遠くで釣り糸を垂れる二人のリコリスに注意の目を向ける者はいない。

 

 情報が洩れていることに気が付いていないということもあるが、彼ら都市部のヤクザにとっては、田舎に住むリコリスなど、脅威とは思っていないのだろう。

 

 裏組織の人間は、DAの存在をある程度知っている、リコリスの実力をある程度把握している。

 一般人に紛れて社会を監視している組織とその手先、とたいていのヤクザはDAとリコリスのことをそのように認識している。

 

 行き過ぎた犯罪者には徒党を組んで暗殺に来る存在、そのように認識している賢いヤクザも、ほんのわずかだけいる。

 

 今海岸で騒いでいるヤクザは、どちらかといえば賢いヤクザである。海外からの密輸を企てるだけの知能がある、賢いヤクザである。

 

 おそらく、リコリスが暗殺者であることを知っているのだろう。背後から銃を突きつける存在であることを知っているのだろう。

 

 しかし、それだけ知っているからこそ、彼らは油断していた。

 

 たかが二人の少女。たった二人の田舎少女。麦わら帽子を被り、暇そうに釣りをしている、二人の少女。

 もしもこの少女たちが、うわさに聞く暗殺者だったとしても、倍の人数の男たち相手にはできないだろう。深夜とはいえ、警戒さえしていれば背後に近づくことはできないだろう。今回、自分たちは拳銃も懐に入れて来ているのだ。何も恐れることはない。第一、自分たちの取引は、外部には全く漏れていないはずだ、何も怖がることはない。彼らは皆、そう思っていた。

 

 彼らは、知らなかった。

 

 DAが、国内すべての通信通話情報を傍受し、分析していることを。そして、リコリスは二種類あるということを。

 

 彼らが知っているリコリスは、分校リコリスである。彼らが普段目にしているリコリスは、地域の巡回と背後からの暗殺を主な業務とする、分校卒のリコリスである。

 

 もし彼らにもう少しだけ注意力があったならば、排水路の向こうで釣りをしている二人の制服の生地や仕立てが、常に街を歩いているリコリスとは異なっているのに気が付いたかもしれない。二人のうち一人の制服の色が、常に人混みの中にいるリコリスの服の色と異なる青地であることに違和感を覚えたかもしれない。

 

 DAの切り札、戦闘特化型リコリス。通称、本部卒リコリス。

 

 孤児の中でも優秀な幼女たちを、DA本部内で純粋培養し強化育成した、リコリスの精鋭。重武装した重装備の敵の、重火器の銃口に臆することなく、真正面から立ち向かうことが主な業務の、最強の少女たち。

 

 その最強の目が、麦わら帽子の陰から、ヤクザたちを見つめている。釣竿を気怠そうに揺らしながら、彼らの顔、体格、服装、動作の癖まで全て観察し記憶している。

 

「受取場所が描かれた海図、DAから送信されてきたあいつらの特徴、車両のナンバーも事前情報通り。間違いないわね、スギナ、あいつらが今夜のターゲットよ」

「はい」

 

 目線を合わせず、視界の端で4人のヤクザを注視しながら、スギナが固い声で答える。

 

「私は声をなるべく拾ってみるから、スギナはあいつらの人相を覚えなさい。深夜のシルエットだけでも、暗闇の輪郭だけでも相手が分かるくらい、徹底して覚えなさい」

「はい」

 

 風待の言葉に返事をしながら、スギナは竿を少し上げ、排水路横の水溜まりに沈めた釣り針を見る。

 

 エサ替わりの魚肉ソーセージの切れ端は、やはり消えている。この油色に光る水面の底には、何かがいる。温く濁った水たまりの底にいる何かが、私を嘲笑している。

 

 心の片隅で、そのようなことをふと思うスギナ。しかしその思考は、遠くにいるヤクザたちの人着を覚えるという大事の前に、儚く飛散する。

 

 じっと相手を観察するスギナ。その耳に、風待の声が入る。繰り返し、繰り返し聞こえる、丁寧な指導の声。

 

「顔は特によく覚えておきなさい。あの4人の顔、スギナが今夜殺す相手の顔をね」

 

 

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