風待先輩は、過保護すぎる。私はいつも、そう感じている。
今夜初めて人を殺す私に、気を遣い過ぎている、心配し過ぎている。私は今、そう感じている。
リコリスにとって、ヤクザは処分しやすい、簡単な相手である。これは本部卒にとっても、分校卒にとっても同じである。
この国の、この世界のヤクザは、手出しをしてこない相手に対しては非常に強い。彼らが狙うのは、法律を守り、家族を守り、道徳を守るがゆえに暴力を振るわない善良な一般市民たちである。ヤクザたちは決して抵抗しない優しい人々から、恫喝で財産を巻き上げ、暴力で幸せを奪っていく。
弱いものを見つけ出す本能と、弱いものを平気で殴ることができる精神。この世界の日本に存在する大多数の暴力団は、このような心根のヤクザたちで構成されている。
しかし、守勢の人間にはどこまでも強くなれるヤクザも、相手が攻勢の手札を持っていた場合は、その威勢は霧消する。
戊辰の役や士族反乱の最中、戦場にいたヤクザたちが、その強面に見合うだけの活躍をしなかったというのは、よく聞く話である。
徴兵後に強い兵士になるのは、普段から暴力を好むヤクザたちではなく、普段は善良な市民たちであるというのは、よく聞く話である。
暴力を持たない相手には、容赦なく強いヤクザたち。
しかし、同じ暴力を選択できる相手には、その強さは発揮できない。
そして、リコリスは暴力を選択できる側の人間である。殺人という、ヤクザたちですら躊躇する行為を選択できる相手である。
歴戦のテロリストやプロの殺し屋、優秀な要人護衛官などと正面から闘うのが任務の本部卒リコリスにとって、ヤクザは敵としては一段劣る。
ヤクザは、元軍人や傭兵くずれのテロリストとは違い、武器を持った敵と戦場で戦ったことはないからだ。ヤクザは、殺し屋や要人専用ガードマンのように、狙撃や銃撃の修羅場を経験したことはないからだ。
そのヤクザが、今夜のターゲット。人数は4人と、ほんの少し多い気もするが、それでも問題ないと私は思っている。
夜11時に、浜辺近くに集まる彼らを射殺する任務。人を殺すのは初めてだが、それでも問題ないと私は思っている。
ズボンのポケットや背広の裏から、小型拳銃のグリップがのぞいていたが、それでも全然問題ないと私は思っている。
今回の任務、諸咲支部内でのオペレーションの命令が届いた時、風待先輩はDAに、この任務は筑詩スギナが担当すると返信した。しばらく考え、しばらく悩んだ末に、そう返信した。
まあ、それはいい。
リコリスの仕事は、人を殺すことだ。
DAで育ち、DAのリコリスとなった以上、いつかは人を殺さなければならないのだ。
私は11年前、崩壊寸前の電波塔の真下で、拉致同様にDAに拾われ、有無を言わせずリコリスにされた。そのことについては、不平不満がないわけではないが、どれだけ文句を並べても、人生が変わることはないと諦めている。そして、DAに育てられ、DAにしか居場所はないリコリスとなった以上、いつかは人を殺す日が来る。その覚悟はしていたし、そういう人生だと諦めている。
諸咲に赴任してから4カ月、ついにその日が来た。それだけの話だった。
むしろ、遅いくらいだと思う。
私と一緒に、この春にDA本部を卒業したリコリスたち。銃撃戦に狙撃戦、白兵戦に格闘戦、暗殺から強襲まで、ありとあらゆる殺し方を習得したエキスパートである本部卒リコリス。私と同期生である彼女たちのほとんどは、もはやすでに数回程度の実戦に参加し、数人程度の殺人経験を有しているだろう。
にもかかわらず、私がいまだ殺人未経験者なのは、理由がある。
本部卒とはいっても、成績はあまり良くない私を、DAは重視していない。そのため、重要な仕事は回ってこなかった。そういう理由もある。
配属先が田舎支部だったため、地区に凶悪犯罪がなかった。そういう理由もある。
しかし、一番の理由は、風待先輩が過保護すぎたことだった。
6月の新近城作戦より後、名古屋支部から、諸咲支部宛に出張要請が来たことが数回あった。諸咲から1名を1日だけ貸してほしいという、気軽な依頼メール。
これらの要請は、すべて名古屋支部管区内での警戒任務、頭数だけが必要な、日帰りの簡単な任務だった。
本来ならば、このような簡単な仕事は、下っ端のサードリコリスである私が行かなくてはならない。むしろ、新人が経験を積むには積極的に参加したほうが良いのだろう。そう考えて、私は毎回、風待先輩に任務参加を志願した。
しかし、風待先輩は許さなかった。
スギナにはまだ早い。スギナは行く必要はない。スギナはこんな出張よりも、モブリコ寿司の練習の方が大事だ。毎回そんなことを言って、私に出張をさせなかった。
出張任務の内容は、すべて危険度が少なさそうな警戒任務だったにもかかわらず、風待先輩は、頑なに私を諸咲に留めようとしていた。
結局私は、新近城作戦以降は一度も出張に出ることはなかった。名古屋支部への出張任務は、すべて風待先輩が引き受けてくれたのだ。
本部卒のセカンドリコリスにもかかわらず、一人名古屋に出張に出る風待先輩。名古屋では、地味な分校サードたちと一緒に、地味な警戒巡回の任務に就いたという。
おかげで、出張先では分校リコリスたちを中心に、変なウワサが飛び交ったらしい。
戦慄のダブルファック事件を起こした諸咲の新人サードリコリスは、上司のセカンドリコリスを顎でこき使っているらしい。テロリストの血が流れないようなヌルい任務など、いくらDAに依頼されても絶対出てやらねえと叫んだらしい。そのため仕方なく、上司であり支部長でもあるセカンドリコリスが、泣く泣く代理で出張任務に就いているらしい。今でもそのサードリコリスは、新たな強敵の襲来を待ち望みながら、伊勢湾に向かって中指を立てて、スナガニのような格好で夏の浜辺を闊歩しているに違いない。そのような可愛らしい噂が、出張に来ていた分校リコリスの間で流れていたわよ、と語る風待先輩の心底楽しそうな顔を見て、私は内心で頭を抱えたものだ。
分校リコリスたちのウワサ話については、まあどうでもいいとは思っている。本当はどうでもよくないが、いつか私が直接分校生たちと会って、直接弁解すればいいだけのことだ。
話し合えば、今までの話がデマだと納得してくるだろう。もし納得してくれない場合は、スナガニのポーズで脅しながら強制的に納得させればいいだけだ。
問題は、直接弁解する機会が未だにできないほど長く、私がこの諸咲の地に閉じ込められていることだ。
思えば、風待先輩は、私の初仕事は何が適切なのか、裏で考えていた節がある。
少ない危険で、安全に人殺しの経験が積める任務を、裏で選んでいた節がある。
赴任して4カ月。ようやくやってきた危険が少ない殺害対象。自分たちのテリトリーにやってきた、殺しやすいヤクザたち。
これならスギナにでもできる。初心者のスギナに、人殺しの経験を与えることができる。人を殺したことのない弱いリコリスにぴったりの、簡易な任務。一晩で4人も殺せる、お得な詰め合わせ。
そんなように考えていたのだろう。
風待先輩は、本当に過保護だ。
過保護なのは、任務の選別だけではない。
今、私はヤクザたちの取引現場の近くにいる。夜の取引に備えて、日中に下見に来ているヤクザたちを静かに観察している。静かに釣りをしている風を装って、静かに人着を記憶している最中だ。
直射日光降りそそぐ真夏の海岸で、麦わら帽子をかぶりながら、横目でヤクザたち見ながら釣竿を握っている私。
日陰ひとつない海岸線、陽光に焼けた胸壁の上に座り、釣れない釣りに熱中している体をし続けるのは、精神的に辛い。夏の暑さが全身にまとわりつき、全身から汗が流れ続けるのは、身体的に辛い。夏の暑さで気力体力が削がれることはないが、それでも辛いものは辛い。
しかし、これは私の任務だ。今夜殺す相手の下調べ、車両や地形の下調べは、大事な任務だ。どれだけ辛くても、今この場所にいるのは当たり前のことだと思っている、疑問は一つもない。
疑問なのは、隣に風待先輩がいることだ。
今夜の任務は、私の任務だ。今の下調べは、私の仕事だ。
なのに、なぜ風待先輩まで一緒に来ているのだ。
任務場所の事前調査、殺害対象の事前確認は、目立つことが無いよう本来一人で行うものだ。訓練生時代の現場実習でもそうだったし、今でもそう思っている。
だが、風待先輩は、この下調べにも、当たり前のようについてきている。当たり前のように隣に座り、暑い暑いと愚痴をこぼしている。
暑いなら、なぜついてきた。
この言葉が、何度私の口から出かかった事だろう。
今も風待先輩は、私の横で、任務内容や人着確認の注意点について説明してくれている。
経験豊富な先輩リコリスの、現場での直接指導は、非常にためになる。
しかし、いくらなんでも、甘やかしすぎではないかとも思う。
バディだから心配して当たり前、同居人だからついてきて当たり前、先輩はそう思っているのかもしれない。
しかし、たかが下見にまでついてくるのは、さすがに心配しすぎではないのか。
風待先輩がここまで心配する理由、ここまで過保護な理由は、ふたつ思い当たる。
一つは、私が弱いリコリスだからだ。
最底辺の成績で卒業した、経験不足の新人サードリコリス。誰が見ても弱いリコリスだ、誰が見ても心配になるリコリスだ。
だが、私の弱さは、他にもある。
私は、心が弱い。
6月の雨の日、風待先輩と二人で行った深夜の任務。私はそこで、先輩に心の弱さを曝け出してしまった。私のトラウマ、電波塔孤児になった過去が、侵入症状となって突然襲いかかってきたのだ。
あの夜先輩がいなければ、あの夜先輩が止めてくれなければ、私はリコリスとしての存在を抹消されていただろう。それほどまでに重い失態、それほどまでに根深い症状。
おそらく風待先輩は、私がまた任務中に同じ状態になるのを恐れているのだろう。私の心が過去に溺れ、再び任務を放棄してしまうのを恐れているのだろう。
だから手放したくなかった。せめて次の任務、初めて人を殺す任務だけは、自分の目の届くところ、自分の助けの手が伸びるところで実施させたい。そう考えていたのだろう。
もう一つは、私をセノカさんのようにしたくないという思いからだろう。
去年風待先輩の隣にいたサードリコリス、芭照瓦セノカさん。
彼女は、非常に優秀なサードリコリスだったらしい。
風待先輩に憧れ、セカンドリコリスに憧れた彼女は、昇進ポイントを溜めるべく、何度も出張任務を志願したらしい。
単独での出張任務を重ね、経験を積んでいったセノカさん。最初は出張のたびに心配していた風待先輩も、その優秀さに、いつしか安心して送り出すようになったという。
しかし、実力と実績が増すにつれ、彼女の出張任務も次第に危険なものになっていった。
そしてある夏の日、東京圏の出張任務に出発したセノカさんは、二度と帰ってこなかった。
風待先輩の後悔は、大きかったと聞く。
どれだけ悔やんでも悔やみきれない、断腸の至り、痛恨の極み。あの日の出張を引き留めていれば、あの日の出張を私が代わっていれば、そう毎日悔やんでいたはずだ。
だからこそ、今のバディの私には、一人での出張任務はさせなかったのだろう。危険な任務は与えようとしなかったのだろう。
今にして思えば、名古屋支部が参加要請した新近城作戦は、二人での参加だった。
これがもし、私一人での参加ならば、風待先輩は断ったか、あるいは無理やり自分が交代して参加していただろう。
名古屋支部の支部長、臥観手ルミナさんは、元諸咲リコリスだ。過保護な風待先輩なら、ルミナ先輩に懇願して、それくらいの無理は押し通すに違いない。
もう仲間を失いたくない。特に死に別れだけは絶対にしたくない。
だから次に来たバディには、最初から危険な任務は与えないようにしよう。強くなるまでは手元で育てよう。新人が一人前のリコリスになるまでは、私が任務を管理しよう。勝手にあの世に行くことがないように、勝手に私の腕から抜け出さないように、この辺境に体を縛り付け、心には首輪をつけておこう。先輩は、そのように考えていたのだろう。
優しいが、重い愛情。
嬉しいが、強い束縛。
共に諸咲を守る強いバディになれるよう、人殺しの経験豊富で優秀なリコリスになれるよう、大切に育てたいという大義名分はあるのだろう。しかし、その裏にある独占欲が表層に兆し過ぎて、名存が実亡しているようにも思える。
風待先輩の優しい腕の中から離れられないこと、諸咲という安楽な鳥籠の中から抜け出せないこと。
まあ、正直なところ、それは嬉しい。
風待先輩に心配されていること、束縛されていることに、私は退廃的な安堵を感じている。
DA訓練生時代、私は誰からも大事にされていなかった。
セカンドリコリスやファーストリコリスになれるだけの伸びしろのない私、どれだけ手塩をかけてもゴールはサードリコリスが確定している程度の才しかない私を、DAは雑に扱ってきた。
訓練中に壊れ潰れても構わない、卒業前に分校に送られても構わない、夜中に首を吊っても構わない。それだけの、安い存在だった。
だから今、この辺境の地で大事に扱われていること、大切に思われていることに、私は後ろ向きな幸せを感じている。
このまま、いつまでも新人でありたい。
このまま、いつまでも飼われていたい。
正直な話、私の本心は、このぬるま湯のような生活がこの先も延々と続くことを願っている。
しかし、このままではいけない。
私は、早く一人前のリコリスにならなければいけないのだ。
早く優秀なリコリスになりたい。芭照瓦セノカさんのような、優秀なリコリスにならなければいけない。
風待先輩の相棒に擬するに足る、立派なリコリスに、立派なバディにならなくてはいけない。
かつてここにいたセノカさんは、風待先輩の横に並ぶに相応しい、強いリコリスだったという。
今でも風待先輩の記憶の隅には、そのセノカさんの頼もしい姿があるはずだ。
そして風待先輩は、セノカさんの姿や思い出が瞼に浮かぶたび、彼女の最後を思い出し、胸中に苦しみを溢れさせているはずだ。
それではいけない。先輩に、辛い思いをさせてはいけない。
だから、先輩の心の傷であるセノカさんとの思い出は、すべて私の存在によって上書きして、消してしまわなければならないのだ。
私が先輩に見合うだけのバディになれば、私がセノカさん以上のバディになれば、先輩は安心して私だけを見つめ、辛い過去を見つめなおすことはなくなるだろう。
セノカの思い出を、消してあげたい。セノカのことを、忘れさせたい。
これは、先輩のためなのだ。
あいつの思い出さえ消えれば、先輩は幸せになれる。
あいつの影に捕らわれている先輩を、私が救うのだ。
そのためには、今夜の任務は、絶対に成功させなければいけない。6月の新近城作戦のような失敗は、許されない。
そのためには、しっかりと敵の顔を覚えよう。私が殺す相手を、しっかりと覚えよう。
小川を挟んだ隣側で、取引現場の下調べをしているヤクザたちに気持ちを集中させながら、私は手にしている釣り竿を上げる。
仄暗い水の中、幽邃の奥底に沈んでいた釣り針。その先端に付いていたはずの魚肉ソーセージの欠片は、またしても消えていた。
なぜだろう。
私の釣りの仕方が間違っているだろうか。
私は、何か間違えているのだろうか。