夏の夕方は、いつまでも明るい。
陽が完全に落ちるまでは、まだ長い時間がかかるだろう。時刻の針だけは夕方を示しているにも関わらず、相も変わらぬ暑い熱気と、相も変わらず騒がしい蝉の声が、町役場横の駐輪場に充満している。
「麦茶、美味しかったわね」
役場の中まで持参した釣り具を再び自転車に括り付けながら、風待がのんきに言う。
風待先輩、あなたは悪魔だ。
口を不満げに歪めながら、スギナは内心でつぶやく。声には出さない、出したいけど、出さない。
雑談のふりをして、役場の方々に支援を頼む。町民の安全のため、サポートをお願いする。風待が今しがたスギナに教えた、田舎支部の裏技。
無論、DAに知られたら最後だ。厳罰では済まされないほどの過酷な処分が待っているであろう。
けど、あまり気にしなくていいわよ、と風待は言う。
大規模凶悪犯罪の撲滅が優先事項である都市支部とは違い、田舎支部が最優先とするのは、管区内の平和である。
社会や国家の崩壊を狙う重犯罪者を、都市支部リコリスはどのような手段を使ってでも叩き潰すのと同じく、田舎支部リコリスは、日々平凡に続く支部内の平穏を、どのような手段を使ってでも守り抜く。
地域住民との連携。それは、人数の少ない田舎支部なら、どこでも裏で使っている手段。DAも、ある程度は黙認してくれているはずの手法。だからそれほど気にしなくてもいいのよ、と風待はさらに言う。
もともと田舎支部は、配置されたリコリスの数に比べて土地が広すぎるのだ。DAの秘密主義を杓子定規で適用していては、地域の安全は守れないこと程度は、本部も理解しているはずである。
地方住民と地方リコリス、この両者の関係が上手に機能している限り、そして協力すべき相手、情報を共有する相手を見誤ることがない限り、DAは田舎の流儀に口を出さないはずだ、との言で風待は説明を締めくくる。
理解しているはずだ、口を出さないはずだ。語尾が推量ばかりなのは気にはなるが、それでもスギナには一応納得できる内容ではあった。
実際、この諸咲支部の協力体制も戦前から続いていると聞くが、これまで一度もDAが調査や確認に来た形跡はないという。それならば、黙認とまではいかないが、ある程度のお目こぼしはしてくれているのだろう。
DAが求めるのは、結果のみである。リコリスたちの活動により、この国に平和がもたらされているのであれば、個々の活動の内容など精査しないのかもしれない。
これが田舎支部の慣習ならば、従おう。これが諸咲支部の慣例ならば、従おう。スギナはそう思った、が。
しかし…
「やっぱり、恥ずかしかったですよあれ…」
自転車のサドルに額を押し付けるようにして、スギナがへたり込む。
「そう?スギナもかなりノリ良かったじゃん」
「先輩がヘンな流れ作ったからですよ!」
未だ残る恥ずかしさに膝が震えているのか、熱いアスファルトの上に座り込みながらスギナが叫ぶ。
町長室に突然押し掛けたスギナたちが、町長や職員たちの目の前で行った、雑談のふりをして情報を伝えるという演技は、小心者のスギナにとっては、無理難題そのものであった。
多数の大人たちに見つめられながらの会話に、声が上ずり汗が止まらないスギナ。
さらには相方の風待が、世間話の体裁を整えることに不真面目であったため、段々とコントのような雰囲気を帯びていく雑談。
止まらない変な口調、直らない変な会話に、スギナの緊張はますます高まっていく。実際にあと数分話が長引けば、スギナは目を回してソファーからずり落ちていただろう。
気が小さい私の混乱する様子を、風待先輩は楽しんでいたのかもしれない、いや、きっとそうだ。
私が可愛いから、つい悪戯をしてしまったに違いない。とスギナは断定する。
風待先輩、あなたは悪魔だ。
「…それはそうと、最後に町長さんが書いた電話番号って、なんですか先輩」
気持ちを切り替えるため、座ったまま大きく息を吐き終えてから、スギナは尋ねる。
「ああ、あれね。スギナはあの番号、きちんと記憶した」
「もちろんです」
情報提供という名のコントを終え、憔悴しきったスギナが帰ろうとしたとき、デスクに座っていた諸咲町長がスギナを呼び止める。
風待に即され、緊張を残しながら町長と対峙するスギナ。
何を言われるのかと怯えるスギナに、町長は目線を合わせないまま、机の上にあるメモ帳に、一件の電話番号を書く。内線番号が後に書かれた、
メモは貰ったらダメよ、記憶しなさい。背後でそう囁く風待にうなずくと、スギナは電話番号をしばらく見つめ、わかりましたと一言だけ町長に伝え、風待とともに退室する。
無言のまま町長室を出る二人、無言のまま目線だけでお見送りする町長と役場職員たち、決して交わることのない表と裏の住人たちの奇妙な寸劇は、間の悪い沈黙だけを背中に残しながら終了した。
「あの電話番号はね、諸咲町役場のトップに直接つながる、完全非公開の非常用連絡番号。町長さんが、このリコリスは信頼できると判断したときにしか教えてくれない、秘密の電話番号だから、もしスギナに後輩ができたとしても、これだけは教えてはダメよ。教えるのはあくまで諸咲側から。いいわね」
風待の言葉に、素直にうなずくスギナ。
本来ならば触れてはいけない存在であるリコリスから、直接連絡を受け取るための手段。町側としては、信用できる人物にしか教えたくはないだろう。
この町に来てから四カ月、信頼できる諸咲リコリスであると、町長さんに認めてもらえたのは嬉しい。けど、あんな雑なコントを披露してしまった私が、あっさり容認されてもいいのだろうかと悩むスギナに、風待は解説を続ける。
「この番号ならば、たとえ夜間でも誰かが電話番をしてくれているから、24時間いつでも架電できるのよ。もし私が不在の時に、この町に大規模な騒乱が発生する予兆があったら、スギナがこの番号にすぐ電話しなさい。そうすれば、後は町の皆さんが独自に身を守ってくれるわ」
「どうやって電話するんですか。私たちのスマホ、一般電話にはつながりませんよ」
リコリスに配給されているスマートフォンは、外部への通話ができないように設定されている。連絡できるのは、DA関係の施設と近隣支部だけであるが、通常はそれすらも緊急時以外には発信しないよう指導されている。リコリスが持つスマートフォンの通話機能は、基本的にはバディ同士の連絡にしか使われていない。
例外として、任務中にターゲットへ偽電をかける必要性が生じた時などは、DAが許可した場合に限り、外部連絡が可能なように遠隔で設定される。しかし、それすらも煩雑な事前申請が必要であり、更には会話の内容は完全に監視され記録も残されるため、リコリスはあまりこの方法を使おうとしない。
「モブリコ寿司のカウンターにある電話を使えばいいのよ。役場側も、あそこのお寿司屋の電話番号は私たちも使っているって理解しているから」
「あ、そうか」
すっかり気が付かなかった簡易な手段に、スギナは思わず両手を叩く。
普段は使わない、いつも鳴らない、モブリコ寿司カウンターにある電話機。あまりに静かなため、毎日のように訪れているにもかかわらず、スギナの記憶には留まることがなかった電話機。
触ったことがあるのはただ一回。メカブ子さんとモズク子さんと一緒にお掃除をした時だけだった。忘れてしまうのも仕方がない。
「テロや紛争とか、何かしらの非常事態が発生したら、すぐに合い鍵かピッキングツールでモブリコ寿司に入って、役場に連絡すること。まあこの町でそんなこと起こる確率は少ないけど、名古屋支部や空港島支部で発生した大規模テロの余波が来る可能性は無きにしも非ずだからね」
その時に注意することがひとつ、と風待は指を一本立てる。
「この番号に電話した時に、決して会話はしないこと。電話で説明したら、会話内容で情報漏洩がDAに気付かれてしまうし、スギナが一般人にバラしたってことが声紋で解析されてしまうから。だから、電話に誰が出ても、基本は無言。いいわね」
「無言で、話通じますかね」
「よっぽどの緊急時は、電話で説明してもいいわよ。けど、いちど通話で説明をしてしまったら、この緊急連絡方法は今後使えなくなるし、私たちも情報漏洩者としてDAに処分される。市民の安全と私たちの命、きちんと天秤にかけた上での選択ならば私も運命を共にするけど、よく考えてから電話してね」
まあ、超緊急でなければ無言でいいのよ、と風待は言う。
「無言で電話を切れば、町側は着信番号で察してくれるから、あとは下宿に戻って待っていればいいのよ。そうすれば、町役場の誰かが直接聞きに来てくれるわよ」
「私たちの居場所、バレているんですか?」
やっと地面から立ち上がりながら、スギナが尋ねる。
「そりゃあバレているわよ。代々のリコリスが毎日同じ場所で暮らしているんだし」
「まあそうですけど…役場の職員さんが直接来るってのが、なんかイメージできなくて」
DAは秘密組織である、世間から隔離された組織である。そこで育ったスギナにとって、自分たちの住居に外部の人間が訪れるというシチュエーションは、考えたこともないことであった。
諸咲に赴任して四カ月、今だ新人のような戸惑いや驚きを見せるスギナの顔を、満足そうに見つめながら、風待は説明を続ける。
「実際に来るのはよほどの非常時か、あとは千社札を扉の新聞受けの中に投函していく時くらいだから、あまり気にしなくてもいいわよ。緊急性がなければ決して交わらないのが、お互いの不文律だからね」
「あ、その千社札ですけど!」
聞きたかったのに聞くきっかけがなかった千社札という単語を、スギナは会話の中から素早く拾う。
「先輩、さっき部屋から出て行くときに、町長さんの机の上に、赤い千社札を一枚置いてから帰りましたよね。なんですかあれ?」
緊張のあまり目が回っていたスギナだったが、それでも室内の人物の動きは、風待の行動も含めすべて把握している。その隙のないリコリスの目は、帰り際に自然な動作で千社札を取り出し、何気ない動きで町長の目の前に置いた風待の行動を捉えていたのだ。
「これです、ここに入っているケースから、一枚取り出しましたよね」
風待の胸の隠しポケットに指をさすスギナ。よく見ていたわねと褒めながら、風待は大きめの胸上を覆うように垂れるストームフラップ裏のポケットから、小さなカードケースを取り出し、スギナに渡す。本来は名刺入れとして使用していたのだろう、片開きタイプの、年季の入ったカードケース。DAの備品ではなさそうなので、おそらく何代か前の諸咲リコリスが、裏の手段で手に入れたものなのかもしれない。
「見てもいいですか?」
いいわよ、と風待がうなずくと、スギナはケースを開き中を見る。
アルミ製のカードケースの中には、ちょうど名刺を縦半分に割った大きさの、長細い千社札が数枚。メンコかと思うほどの厚い唐紙に、メンコのように少し雑な感じで、文字が刷られている。赤い文字の千社札が3枚と、青い文字の千社札が5枚、丁寧にカードケースの中に収められている。
赤い文字も青い文字も、書かれている字は同じだ。勘亭流で、諸咲紅座と印刷されている。
極太で印刷された諸咲紅座の四文字。あまりに太く立派に刷られているため、遠目には赤札や青札に見える千社札。これら二種の札は、カードケース以上に年季が入っている。
裏面には手書きで一桁の番号が振られている。千社札の表面は、色以外は全部同じ印刷なので、この数字で札の管理をしているようだ。
もう何十年も前に刷られたのだろう、千社札の四隅はすり減ったり折れ曲がったりと、さすがにくたびれた感がある。それでも色濃く刷られた赤や青の顔料、躍動感のある勘亭流の元気さは、紙の古さを跳ね返し、夏の駐輪場に降りそそぐ光すら跳ね返さんとする派手派手しさで、スギナの目に飛び込んでくる。
「赤と…青、さっきは赤い字の札を渡していましたよね」
「うん、赤と青、どちらにしようか迷ったんだけど、まあ久しぶりの地元の事件だし、役場には最近は赤札渡していなかったってのもあったし、奮発して赤い札を渡したわ」
「教えてください! これ、どうやって使うんですか」
スギナの心に、純粋な好奇心が湧きあがる。今彼女の頭上を覆っている、夏の入道雲のようにむくむくと湧きあがる。
好奇心は人一倍強いスギナ。硝子のように透き通る目を一杯に見開き、風待の顔を間近からのぞき込む。二人が被った麦わら帽子の縁と縁が軽く触れあうほどの、近い距離。
「これはね、町役場や交番、漁業組合や町内会の皆さんに協力をお願いした時に、赤か青の札を一枚渡すの。今回のように、住民の避難などの重要な作戦協力の時は赤札。歌島への移動のために漁船に乗せてもらったり、地域で不穏な動きがあったことを知らせてくれたりした時とかに、ちょっとしたお礼代わりに渡すのが青札。こういう風に使い分けているのよ」
目を輝かせて自分の話を聞いてくれるスギナを愛おしむかのように、風待は優しい声で説明する。
「リコリスと市民は、互いに接触しないのが基本。だからこちらが禁を破って接触し、相手に協力を依頼した以上、口止め料も含めたお礼はしなければいけない。これはその、お礼のお札なのよ」
よく見ると、お礼とお札って、似たような字よねと、どうでもいい感想を述べる風待。こういう脱線が多いので、彼女の説明はいつも長い。
「お礼ですか。この赤札青札を集めると、なんかいいことあるんですか?」
「この千社札を持っている役場なり交番なりが、逆に私たちにお願いしたいことがあるときは、この札を私たちの下宿の新聞受けに入れるのよ。いつだれに渡したお札かは、裏の番号を見ればわかるから、投函されたら相手の勤め先に出向いて、それとなく話を聞くの。急ぎの時は、下宿横の空き地で話を聞いたこともあったわ」
「いいんですか、リコリスがDA以外の指示を受けちゃって」
「話を聞くと言っても、相手は私たちに直接説明をしたりはしないわ。依頼者たちは、私たちの前で雑談をするだけ。私たちはその雑談が聞こえてしまっただけ。それだけよ」
雑談のふりをした説明。今回私たちがしたようなことを、逆に相手側がするのかと、スギナは納得する。
「それに、依頼の内容は地域の治安維持に関するお願いがほとんど。不審者の排除とか、祭りやイベント時の巡回のお願いとか、この地域を守るのに必要な手助けの依頼ばかりだから、支部独自の判断で動くことができる行為の範疇に収まるわ」
赤い札は重大事件への対処依頼、青い札は地域の治安関係のお願い、そんな感じで覚えてねと風待が補足する。
「治安維持に関するお願いがほとんどってことは、稀にそれ以外のお願いも来るってことですよね、先輩」
「少なくとも私が赴任してからは来ていないわね。聞いた話だと私が赴任する前の年に、水着コンテストの参加依頼があった程度よ」
「先輩がここに来る前の年って…冠典ゼリィ先輩と臥観手ルミナ先輩の頃ですよね。お二人とも受けたんですか、その依頼」
「お二人とも受けたらしいわね、その依頼」
「ええ…」
スタイルは良いが、背が高く筋肉質な臥観手ルミナ先輩。低い背丈と貧弱なスタイルの冠典ゼリィ先輩。正反対な二人が諸咲の浜辺で水着姿になり、衆目を集めている姿を、スギナはなんとなく想像する。
「どちらも特殊なマニアに好評だったらしくて、賞品として商品券とかいろいろ貰ったらしいわよ。もし今年そういう依頼があったら、私たちも出ましょうね」
「いやです」
風待ののんきな提案を、スギナは即座に拒否する。
ただでさえ私は、大勢の人の注目を浴びるだけで、身が強張り心が竦む気弱な性格なのです。そのような私がコンテストの舞台などに上がれるわけがないし、ましてや水着姿でなど、絶対にできない相談です。私は思春期の少女なんですよ先輩。
それに先輩の水着姿も、大勢の人に見せたくないんです。先輩のそういうはしたない姿は、私だけのものなんです。わかりますよね先輩。
スギナは必死に説得する。水着コンテストの依頼は受けないで下さいと説得する。
風待は、慌てふためき話し続けるスギナの顔を、少しだけ笑いながら素直に聞いている。聞いてはいるが、スギナの説得の内容は耳から通り抜けているようだ。風待は今、慌てているスギナの可愛い反応を、楽しみながら味わっている。悪い先輩だ。
スギナが落ち着いたころを見計らい、風待がおもむろに逸れた話題を元に戻す。
「私たちリコリスと地域の皆さん。距離を置きつつ、持ちつ持たれつの関係を保つには、この千社札は便利な小道具なのよ。今現在渡しているお札の数と渡した相手、渡した経緯については、またいつかゆっくり教えてあげるから、きちんと覚えて、次代にも引き継いでね」
「…これ、どこの支部もやっていることなんですかね。このお札、大量生産品みたいですけど」
年季の入った千社札を見ながら、スギナは尋ねる。紙質は良いが、どこかの印刷業者が急いで作った感のある、少し雑な印刷のお札。個人で依頼したものでないのは、スギナの目にもはっきりとわかる。
「この千社札自体は、戦前のリコリスが使っていた備品だから、少し歴史のある支部なら押入れの奥とかにあると思うわ。通信機器の発達した現在なら無用の小物だから、捨てた支部も多いと思うけど、こういうのって意外と捨てづらいのよね」
「まあ、確かに捨てるにはもったいないですね。メンコ遊びとか使えそうですし」
「だから私たちのように、感謝券のような使い方をしている支部も多いはずよ。もうDAの消耗品管理台帳には載っていない除却品だから適当に扱えるし、もし第三者に見られたって、意味を知らなければただの厚紙にしかすぎないし」
「もともとは、何に使っていたんですかこれ」
カードケースを静かに閉じながら、スギナは尋ねる。
「DA本部って戦前は浅草にあったらしいんだけど、当時浅草六区の最精鋭部隊だった紅団ってのが、司令に頼んで作ってもらったのが始まりだそうよ。追跡作戦時に、後続への道標として電柱に張り付けたり、武運つたなく拉致された時に、現場の物証として路上に撒いたり、あとは隠れ家の目印とか協力者への割り札代わりとか、まあ戦前の推理モノに出てくる少年探偵団とかが持っていそうな小道具として使っていたんだって」
「紅団って、ファーストリコリスが部隊長だから紅なんですか?」
「そうみたいね。ちなみに今でいうファーストは、当時は赤帯って呼んでいたらしいわよ。で、最初のうちは、その浅草紅団がこっそり使っていただけだったんだけど、当時の司令が文才のある人で、任務の合間に紅団をもとにした新聞小説を連載してしまってね。当時の新聞小説って影響力大きくて、連載が始まると同時に、紅団が内々で使っていた小道具の千社札が、あっという間に全国の支部に知られちゃったのよ」
「いいんですか? 司令自らリコリスの存在をばらしてしまって」
「さすがに組織や任務のことは隠して、作中ではただの不良集団ってことにしているけど、わかる人にはわかるって感じで書いていたわね。私も以前読んでみたけど、なかなか面白かったわよ」
大抵の図書館にはあるはずだから、スギナも読んでみるといいわよ、私たちの大先輩のお話、と気に入ったマンガを勧めるような気安さで話す風待。
「図書館…って、その昔の司令、有名な作家でもあるんですか?」
「文学賞も取っている方よ。その紅団の小説を読んだ全国のリコリスから、自分たちの支部にも同じような千社札が欲しいって嘆願の葉書が多く来てね、司令も作中でつい吹聴してしまった後ろめたさから、しぶしぶ了承したんだって」
どんな文学賞なんだろうか、私も知っている賞かなと、ぼんやり考えながら話を聞くスギナ。
「上質の唐紙に活版での大量印刷、見た目はチープだけど思ったより予算がかかったみたいで、司令も部下からかなり小言を言われたみたいね。趣味で書いていた連載小説も、紅団の事を表に出しすぎているって内々で問題になって、打ち切り同然に終了させられたし、踏んだり蹴ったりね」
「まあそうでしょうね」
今では信じられないほど情報統制の緩かった昔、司令自ら情報漏洩してしまうほど大らかだった昔。今から百年前の、牧歌的な時代の温い失態から生まれた産物である千社札。
スギナには、千社札の入ったカードケースの隙間から、浅草で暮らす精鋭部隊の少女たちの朗らかな笑い声と、自らの文才に振り回された司令の愚痴が、夏の蝉の声に交じり聴こえてくるような気がした。
「そのケースは、今日からスギナが持っていなさい。浅草紅座の意気に負けない、私たち諸咲紅座の千社札。出し惜しみせず、地区の平和を守るために渡しなさい。そして、地区の危機を救うために受け取りなさい。いいわね」
「はい」
夏の夕べの騒がしさにも負けない声で、大きく返事をするスギナ。
「じゃ、これで支部長として教える最後のお話は終わり。諸咲支部内での慣例や裏の手口は、これで全て伝え終わったわ。おめでとうスギナ、今日からスギナは、一人前の諸咲リコリスよ」
四か月もの間、情報を小出しにしながら、新人スギナに教えを授けていた風待。その長い長い講義は、町役場横の駐輪場で、セミの声を終幕の拍手代わりに修了する。
ありがとうございました、と頭を下げる前に、スギナは素直な疑問を口にする。
「先輩、本当にこれが最後の説明なんですよね。まだ何か隠していませんよね?」
「あたりまえよスギナ。名残惜しいけど、もう全部伝え終わったわ」
感慨深げに、一人目を閉じてうなずく風待。
しかし、その口元は、少し笑っている。
あ、まだいくつか隠している感じだな、これ。
また私の驚く顔が見たくなった時のために、説明していない話がまだありそうだ。
風待先輩、あなたは悪魔だ。悪戯好きの、小悪魔だ。
含み笑いが隠しきれていない風待の、綺麗で可愛いが小憎たらしくもある表情。
スギナは風待の顔から目線を外すと、大きく明るい夏の夕空へ届くかのような、大きく長いため息をついた。