夏の遅い夕暮れがようやく近づくころ、スギナと風待は仮眠をとる。
今回の任務は夜10時ごろから始まる。初の単独任務に備え、体調を整えていくことの重要性は、スギナも認識していた。
しかし、寝られない。
日中の下見と、夕方の町役場訪問で、それなりに疲れているはずなのだが、いくら横になっていても、睡魔はスギナの上に訪れてこない。
日没とともに次第に暗くなっていく室内。瞼を閉じることすら出来ないほど覚醒していたスギナは、布団に横たわったまま、下宿の天井の木目を、何を思うでもなくただ眺めていた。
外の雑木林から聞こえてきた蝉の音も、いつの間にか止んでいる。今スギナの耳に聞こえるのは、遠くから聞こえる波の音、近くから聞こえるエアコンと冷蔵庫の音、そして隣から聞こえる、風待の呼吸音。
暗がりの中、スギナの隣で横になっている風待も、入眠していないようだ。スギナと同じく、暗い部屋の天井を眺めているのかもしれない。
闇色に覆われた畳部屋で、スギナは、触覚だけを頼りに風待の手に腕を伸ばす。
スギナの指先が、風待の手に触れる。風待の指先が、スギナの温度を確かめるかのように触れ返す。
淫らな行為のように蠢き、もつれあう指と指。しばらく絡み合っていた二人の指だったが、やがて結合するかのようにしっかりと、手と手を握りあう。
指の股に指を入れ、手のひらに手のひらを合わせ、絶対に離したくないという意思を込め、手を握りあう二人。
風待の手の温度、わずかに汗で湿る肌の感触。たとえどれほど闇が深くても、先輩が隣にいるということが触覚で理解できる、安心感。
起床時間まで全く寝ることができなかったスギナだったが、風待との手の触れ合いは、彼女の心を落ちつかせるには十分だった。
夜8時、二人は遅めの夕食をとる。
風待が台所に立ち、夕食を作っている間、スギナは武器のメンテナンスを終える。
スギナの武器は、装弾数6発のグロック36。
一般のリコリスが使用するグロック21と比べ小さく軽いため、常時携帯する際は非常に楽なのだが、その代わり装弾数が少ないという短所があるこの拳銃を、スギナは候補生時代から愛用している。
どれだけの数の敵が目の前に現れるか分からなかった6月の新近城作戦時は、さすがに.45ACPが6発という装弾数は気にはなったが、今回のターゲットは銃撃戦の素人であるヤクザが4人だけなので、弾数についてはそれほど心配していない。
とはいえ、念のため予備弾倉もしっかりと持っていく。一人一発で仕留める実力はあるとスギナ自身は思っているが、慢心や過信をするほど愚かではない。今回の任務は、初めての殺人任務なのだ。現場で緊張しすぎて、的を外してしまうこともあり得るのだ。
初めての、殺人。
フィールドストリッピングを終え、弾丸を装填したグロックをサッシェルバッグに戻しながら、スギナは改めて今夜の任務の重さを思う。
人の命を、奪う行為。
ヤクザとはいえ、人間だ。生きている、人間だ。
今夜私は、人間を、殺す。
昼間は漠然としか感じなかった殺人という言葉は、夜の闇と共にスギナの背中に徐々に圧し掛かってくる。何かしていないと動けなくなりそうな圧迫感で、押し潰されそうになる。
手か体を動かし続けていないと、呼吸ができなくなりそうだ。とりあえず、サッシェルバッグ内に仕込んだバタフライナイフでも砥ぎ直そうかとスギナが腰を上げた時、風待が夕食をお盆に乗せ、畳部屋に入る。
手持無沙汰にならずに済んだことに内心感謝し、スギナはサッシェルバッグを壁に掛け、座卓を出す。
夕飯は、お粥。炊飯器に残っていたご飯に水を加えて煮立てただけの、簡単な入れ粥。白い粥の上に乗せられた梅干しの赤が、吊り下げ電灯の光を浴びて映えている。
「お夕飯、これだけですか?」
食欲はないが、一応質問してみるスギナ。
「うん、これだけ。固いおかずをたくさん食べたら、吐くとき大変だからね」
スギナのコップに冷たい麦茶を注ぎながら、平然とした口調で風待が答える。
任務後に嘔吐する前提なのかと、スギナの周囲が少し暗くなる。
二人は無言のまま小さな座卓を囲み、一礼すると茶碗に手を伸ばす。
茶碗に箸が当たる音、茶碗の粥をすする音、小さな音が、無言の部屋に小さく響く。
「…先輩は、初めて人を殺した後、吐いたんですか?」
箸を止め、小さな声でスギナが尋ねる。
「うん。任務が終わった時は何ともなかったんだけど、その日の夜、下宿に戻ってからいきなり吐いたわ。自分たちの住み家に帰って来た安心感から、いきなり強い感情が襲ってきてね。泣きながら喚きながら何度も嘔吐して…もうめちゃくちゃだったわ」
風待が初めて殺した相手は、殺し屋の兄弟。彼女はその二人を、ナイフで切り裂き、防爆靴で蹴り殺したと、スギナは以前聞いていた。
罠に嵌められてからの決死の逆転劇、射殺ではなく、直接接触での殺害、当時新人サードリコリスであった風待の心理的負担は、相当のものだったのであろう。
「もういやだ、誰か助けてって泣き喚く私を、当時諸咲支部長だった冠典先輩が抱きしめてなだめてくれたわ。普段の先輩なら、リコリスとしての運命を理知的に教え諭すはずなんだけど、何故かその時は先輩も泣いていてね。ごめんなさい、ごめんなさいって泣きながら、必死になって抱きしめるのよ…本当に変わった先輩だったわ。別に先輩が悪いわけじゃないのにね」
茶碗に箸が当たる音より低い声で、風待が過去を振り返る。リコリスならば誰にでもある、初めて人を殺した夜を振り返る。
「初めての殺害後に、泣いたり吐いたりするタイプはまだいいって、冠典先輩がその夜に添い寝をしながら説明してくれたわ。人を殺したことによる罪悪感や恐怖感、衝撃や後悔、すべてを涙やゲロとして吐き出してしまえば、心が折れずに明日も生きていけるからって。問題は涙すら流さないタイプ。これは二種類あるけど、どちらも末路は悲惨なんだって」
「…二種類って、どう違うんですか?」
「人殺しに罪悪感がないタイプと、人殺しの罪悪感を心の中に抑え込んでしまうタイプ、この二種類ね。罪悪感がないタイプは、リコリスとしては優秀なんだけど、殺人を繰り返すたびに人としての軸がずれていってしまう。罪悪感を抑え込むタイプは、殺人を繰り返すたびに心が壊れてしまう。どちらも末は人間性が崩壊して、生きながら死んでいるリコリスになってしまうって言っていたわ」
だから、人を殺したら泣きなさい、叫びなさい。身を切り裂くような罪悪感が湧きあがってくるうちは、まだ人でいられるから。そう冠典先輩は教えてくれたのよ、と風待は茶碗の中で薄白く濁る粥を見つめながら話す。
「…私は、どのタイプなんでしょうね」
「こればかりは、実際にやってみないとね…ゲロ、吐けるといいわね、スギナ」
吐くためだけの食事を胃に詰め込み、食器の片づけを終えたスギナは、制服に着替える。
夕方帰宅後に、内側をべっとりと濡らしていた汗を丁寧にふき取り、部屋の隅に吊るしていた制服。通気性の悪いペールトーンの制服は、除湿した部屋の中で吊られていたにもかかわらず、まだ湿っていた。
数時間前にかいた自分の汗の匂いに辟易しながら、制服の袖に腕を通し、拳銃の入ったサッシェルバッグを背負うスギナ。その横では、クロップド丈の白いTシャツと紺色のショートパンツ姿の風待が、スマートフォンに随時送られてくるターゲットの情報を確認している。
「DAから密輸船の
私たちもそろそろ出発しましょう、と玄関に向かう風待。玄関扉前に吊るしてある自転車と部屋の鍵を手にして、サンダル履きで外に出る風待を、スギナは電灯の明かりを消しながら見つめる。
やっぱりついて来るんだ、スギナは風待の後ろ姿を見ながら考える。
昼の下見にも同伴してきた風待先輩。今夜の任務時にもついて来るんだろうなと思っていたが、その通りだった。
しかし、今回は、服装が違う。
昼の時は紺色の制服に武装した鞄を背負う完全装備。しかし今は、丈が短くカットされたシャツとショートパンツの、ラフな服装。
短い袖から剥き出しになった二の腕、大胆に露出した長く健康的な脚。スタイルの良い風待先輩の体に、薄い布地をまとわりつかせただけのようにも見える肉感的な姿。美の一文字によって形作られてた塑像のような顔立ちと、万年の時を経ても摩耗しない強い意志が鋭く光る瞳、そして如何なる夜であろうと常に輝く清楚で長い黒髪が、夏の彼女の淫猥さを清廉な美しさに置換しているが、それでもスギナの目には、いつ見ても暴力的なほど淫らで綺麗に感じる、カジュアルな格好。
部屋の風景、日常の点景、生活の光景の中で常に目にしている同居人の普段着。散歩がてら近くの自動販売機で飲料を買う程度の気安い服装で、素足にサンダル履きの姿で玄関を出る風待。スマートフォンを居間に置いて出ていくのが、更に散歩感を増す。
風待が普段着でついて行く理由、風待がスマートフォンを持たずに出る理由、スギナにはその理由が何となく理解できた。
スギナは考える。何となく透けて見える、風待の内心について考える。
風待先輩が制服を着ない理由。その一つは、今夜の任務は私だけの任務だということだ。
海岸で行われる麻薬密輸を阻止するのが、今回の私の任務。
海岸で取引相手を待つヤクザを殺すのが、今夜の私の仕事。
私だけの任務だ、私が一人前になるためには、私自身の手で密輸を阻止し、私自身の手で人を殺さなければならない。
だから、風待先輩は、今夜は銃を持たない。何があろうと、手助けはしない。
そのような意思を込めて、あえて普段着でついて行くのだ。
支部長としての、先輩リコリスとしての、非情な決意。先輩の今の姿は、その決意の表れなのだろう。
しかし、厳し気な理由とは裏腹に、先輩が内心に隠している甘い理由も、私にはわかる。
先輩が普段着のまま外に出た理由、それは、DAに知られたくないからだ。
リコリスの制服には、全部で4つの位置情報発信機が備え付けられている。ボタンに2つ、袖口に1つ。そして右の靴に1つ。
そして、スマートフォンにも発信機は内蔵されている。合計5つの監視の目が、任務中のリコリスの現在地を常に見つめている。
風待先輩は、この監視を嫌がったのだ。
今夜の任務は、私一人によるオペレーションである。仲間の手を借りない、単独作戦である。
無論、単独での任務だからといって、バディが協力してはいけないということはない。しかし、一人での仕事を一人でできなかったリコリスには、当然のことながら評価は厳しくなる。
風待先輩は私の評価を気にしてくれている、ということを、私は気付いている。
DAに、任務現場までついて行ったことを知られたくないのだろう。
DAに、スギナは一人で無事任務を達成したと報告したいのだろう。
バディの支援が無くても、ヤクザ殺害程度なら難なくこなせた、立派なリコリス。
初の任務を一人で成功させた、本部卒の名にふさわしい、優秀なサードリコリス。
赴任先で成長し、一人で任務経験を積み重ね始めた、将来有望な本部卒リコリス。
諸咲支部長である風待先輩が、後日に書く今回の任務結果報告書には、このような美辞麗句が並ぶだろう、並べたいのだろう。
過保護な先輩による過保護なお膳立て。風待先輩は私の初任務を、単独成功という花で飾りたいのだ。今夜普段着で付き添うのは、私の成果を完璧なものとするための、風待先輩の重い好意からなのだ。
それはまあ嬉しい。嬉しいが、それはそれとして、あまり露出度の高い格好で出歩かないでほしいなと思うスギナに向けて、風待はスプレー忘れないでねと振り返りながら言う。
スギナは靴を履くと、靴箱の中に置いてあるスプレーを手にして、アパートの外廊下に出る。
片手では握りきれないほどの大きなスプレー。金属色剥き出しの缶の表面に、Kとだけ印刷された、愛想のないスプレー缶。中には、DAと日本の研究機関が独自開発した、虫よけ蛇よけの忌避剤が充填されている。Kとは、忌避の頭文字である。
この季節、DAが全国の支部に配っている特殊な忌避剤。体に一回吹き付けるだけで、12時間の間、ありとあらゆる毒虫や毒蛇を近づけさせないこのKスプレーは、自然の中での巡回任務や暗殺任務が多い地方支部では、なくてはならない季節装備品である。
宅配業者を装ったDA輜重部隊によって、春遅くに直接配送され、晩夏のころに使用回数表とともに直接回収される厳重管理品。おそらくは本部リコリスの制服や靴と同じく、莫大な研究費を費やして開発した、国家レベルの機密の薬剤が入っているのだろう。
国家機密の虫よけスプレーという字面は、傍目には大袈裟に見えるかもしれないが、一度でもその効力を目の当たりにすれば、たいていの人はその言葉が適切なものであったことに気が付くだろう。
本当に、虫蛇の害に会わないのだ。這う虫の災いが、祓われて清められたかのように消滅するのだ。
たとえ害虫が雲霞の如く湧く温床に伏しても、たとえ濃密な蚊柱が渦巻く深藪に立っても、全く虫に刺されないのだ、虫が近づかないのだ。
人類史が始まる以前から続く、人と虫との戦い。その渦中で生み出された奇跡の薬剤、Kスプレー。完成までに費やされた莫大な金額と、それにふさわしい効果を考えると、DAが機密扱いにするというのも、頷ける話である。
しかし、このKスプレー、機密扱いにして公表できないのはもう一つ理由がある。
この薬剤は、人体に重大な悪影響があるのだ。悪影響の内容も国家機密だが、寿命が短くなるほどの有害物質が、人体に蓄積されるらしい。
このような課題な欠点があることは、使用者であるリコリスには知らされていない。
しかし、リコリスたちは知っている。女子が得意とする噂話の伝達網によって、すべてのリコリスに知れ渡っている。
しかし、リコリスたちは気にしない。どうせ自分たちは、寿命を気にするほど長く生きられないと諦めているからだ。
スギナも風待も、悪影響は気にしていない。アパート外の渡り廊下で、互いの体に向けて、虫よけスプレーを気前よく吹き付ける。
全身くまなく忌避剤をかけ終えたころ、渡り廊下の端、スギナたちの部屋から見て一番奥の201号室の扉が開く。
スプレーを握りしめたまま、一瞬身体が固まるスギナ。隣の風待の動きも、しばらくの間硬直する。
扉の奥から姿を見せた少年2人。彼らの体も、スギナたちを見つけたまま固定される。
ほんの数秒の間、停止する世界。気まずい雰囲気のまま固まり続ける、少年たちと少女たち。
しかし、時間はすぐに動き出す。何もなかったかのように、何も見なかったかのように、少年2人は両手に持った鞄を背負いなおし、扉を閉める。
少年たちの姿は、6月に青凪線の始発電車で見た時と同じ、ラフな運動着姿。風待と同じく、これから少し近所を歩こうとする感じの、軽めの着こなし。
しかし、軽装の二人が持つ荷物は、これもまた青凪線車内で見たミリタリー系の頑丈そうなダッフルバッグと、長く頑丈そうな黒色のアタッシュケースという重装備。どう見てもこれから特殊な仕事に出かける絵面である。
ダッフルバッグには、おそらく着替えが入っているだろうが、アタッシュケースの中身は、スギナには想像もつかない。
太い腕や厚い胸板、力強い歩き方、精悍な身のこなし。鍛えた体であることがひと目でわかる少年二人。その彼らが重そうに背負う、長く四角いアタッシュケース。自動小銃でも入っているのかなと、思わず突拍子もない想像をしてしまうスギナ。
スギナがぼんやりと見つめる中、扉の鍵を閉める二人。渡り廊下奥の階段を降りようとする少年たちの動きが、ほんの少しだけ止まる。
二人の視線が、まっすぐスギナに向けられる。男児の柔らかさと、男性の固さが入り混じった、思春期特有の少年の顔。性の違いはあれど、自分たちと同じ澄んだ瞳が、ただ真っ直ぐにスギナを見つめる。
ほんの数秒の間、二人の少年はスギナを見つめ、スギナも二人の顔を直視していた。スギナの心に迫るかのような、少年たちの真摯な視線、誠実な顔。スギナは身動きすら出来ず、自分たちと同年代の、自分たちと同じ雰囲気を纏う、謎の隣人たちの眼を見返していた。
しばしの沈黙の後、少年たちはスギナに頭を下げ、階段を下りる。普段顔を合わせた時のわずかな会釈より、数センチだけ深い、簡素な会釈。
階下に降りた少年二人は、スギナたちの部屋の反対側の小さな空きスペースに置かれている自転車に乗り、夜の暗闇の中に消えていった。ほぼ同い年の少年たちの、ほんの少しだけ普段と異なる行動、しかし思春期の少女にとっては、天地を揺るがすような大事件だった行為に、スギナの頭が固まる。
彼ら二人も、スギナたちと同じように、視線を合わせず相手を見ることができる。白目の部分、視野の端に焦点を合わせて相手を注視する技術。本部卒リコリスにしかできないはずのこの技を、何故か彼らも習得している。広範囲の視野、特殊な発声法、独自の手話、何故かはわからないが、彼らはリコリスと同じ技術を身に着けているのだ。
その二人、視線を合わせなくても相手を見つめることができる二人が、あえてスギナを直視で見つめたこと、その意味が分からないことに、スギナは狼狽していた。
敵意のある目ではない、疑惑の目でもない、性的な目でもない。数秒間とはいえ、ただ純粋に見つめられた。年齢も近い異性に、射られるかのような視線で見つめられた。普段気にしている同じ階の少年たちに、しっかりと見つめられた。
それだけの事なのに、胸が苦しくなる。風待先輩のことを考えている時と同じような、甘く苦しい疼きが胸を灼く。
これは、なんなのだろう。
なぜ、彼らは私を見つめたのだろう。
なぜ、私の体はその視線に反応しているのだろう。
「スギナ、自転車のかごに迷彩ポンチョ入れておく?」
風待は、彼らがスギナに向けた視線を、全く気にしてはいない。異性の体に興味はあっても、異性の心には無関心な風待は、彼らの行動のわずかな変化など、気にも留めていないようだ。粗暴なオスが粗末な顔を向けていたわね、という程度にしか感じていないのだろう。
「ねえスギナ、どうする? 私は遠くで見ているだけだから持って行かないけど、スギナの制服は夜間目立つんだし、持っていくなら新品おろしていいわよ」
玄関に入り、Kスプレーを靴箱の中にしまいながら、風待が再度尋ねる。
自然が多い田舎支部にのみ支給される、迷彩柄が裏表に印刷された、薄手の合成繊維製の、四角形の大きな防水布。中央に切れ込みがあり、そこから頭を通せば、人一人の胴体部分を覆うことができる程度のサイズ。畳めば手のひらに乗る大きさに収まり、工夫すれば簡易テントや雨具、防寒具としても使用できる、サバイバルに便利な装備品。機密品でも高額品でもないため、気軽に請求し手軽に使用できるこの用具は、リコリスの間では、迷彩ポンチョの愛称で呼ばれている。
リコリスの制服は、都市迷彩である。学生に擬態する、都市専用のカモフラージュである。町中の風景に紛れるには最適解であるこの制服も、人より木の数が多く、車より獣の数が多い田舎支部では、逆に人の視線を集めてしまうことがある。
巡回中に一般人の視線を集めてしまうだけなら、まだ笑い話で済むが、暗殺任務、特に山中など周囲が自然に囲まれている地形での暗殺任務の時は、笑ってもいられなくなる。
ファーストリコリスやセカンドリコリスの、天然には存在しない鮮やかな赤や青の生地は、大自然の景色の中にその存在を明瞭に浮かび上がらせ、隠密行動を困難にする。サードリコリスの白系の明るい生地は、日の光や月の光を眩く反射させ、潜行追跡を困難にさせる。
そのため、田舎リコリスは、奥深い山や森での戦闘時には、必ず迷彩ポンチョを持っていく。支部によっては、その土地に風景の色合いに合うように自作したポンチョを常時所持しているという。支部によっては、ポンチョの上に枝葉を貼り付けた独自の偽装を身に纏い、大自然と同化して戦う山岳戦特化のリコリスもいるという。
田舎支部の必需品ともいえる迷彩ポンチョ。港町支部とはいえ、丘や森林も多い諸咲にも、数枚ほど支給されているが、今まで風待はこのポンチョを使ったことはないらしい。支部内での犯罪は少なかったし、その少ない犯罪者を相手にする場合でも、相手が森林に逃げ込む前に始末していたからだ。
どうする? と尋ねる風待に、スギナは少し考えた後、軽く首を振る。
「殺害場所はソーラーパネルに囲まれていて視界が狭いので、すぐ見つかることはありません。見つかる前に射程内に入り、見つかったらすぐケリをつけます」
「そう。やっぱりスギナは本部卒ね。さっきまですごく不安げで緊張した顔をしていた割には、自分の腕を冷静に信じている。それでいいのよ、私たちは分校卒みたいな、暗殺しかできないリコリスではない。敵に見つかったらその場で叩き潰すことができる、戦闘専門リコリスよ。さ、それじゃあ行きましょうか、スギナ」
「先輩」
風待の言葉に、スギナは先ほどの少年たちが、自分に視線を送った意味の、答えを見つける。
「先輩。私、そんなに緊張した顔をしていましたか?」
「ええ、すごい強張った顔だったわよ。まあ仕方ないわね、初めて人を殺すんだし…」
「そうですか…」
黒色に塗り潰された夜の田舎町。スギナは階下に見える細い道、十与浜港に続く暗い道を見つめる。少し前、少年たちが走っていった、夜の道。
彼ら二人は、スギナの表情に気が付いたのだろう。玄関を出る時、不安と緊張で固くなったスギナの顔が見えたのだろう。
少年たちは、気が付いたのだ。スギナが今夜すること、スギナが初めて手を汚す仕事をすることに、彼らは気が付いたのだ。
スギナは、夜の闇を見ながら考える。
彼らの視線は、励ましの視線。初めて人を殺す私への、彼らができる最大限の、激励。
慰めの視線ではない、憐みの視線ではない。真っすぐで心強かった彼らの目は、過酷な運命を背負う私への、無言の励ましだったのだ。
もちろん、そうである証拠はない。彼らが私たちと似たような組織の人間でない限り、私の顔色だけで今夜の任務を察することはできないからだ。
しかし、なぜか私には確信がある。彼らが、私を励ましてくれたという確信がある。
今日、私は一人で、人を殺す。
しかし、私は、一人ではない。
過保護な先輩が、私を見ていてくれる。
同じ階の二人が、私を励ましてくれる。
大丈夫、私は、殺せる。人を、殺せる。
頑張ろう。
スギナは一人、夜の中で決意した。
無言のまま、階段を降り、自転車に乗るスギナと風待。
三河湾側の海岸に向けて走りだす二人。回りだした自転車の車輪の影は、町明かりが照らす道にその輪舞を映していたが、その影絵はやがて夜の泥闇の中に音もなく消えていった。