モブリコ辺境暦   作:杖雪

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8月 初めて人を殺した日 ⑧

 昼間はあれほど明るかった海岸も、今は暗闇の底に沈んでいる。

 

 夜空の色と同じくらい黒い夜の海。昼間は陽の光で輝いていた空と海は、今は対岸に並ぶ市色の町明かりで分断されていなければ、混沌の内に同化しそうなほどの暗色で塗布されている。

 海の暗さに比べると、手前の海岸付近はまだ明るい。海岸から少し離れた道路に並ぶ街路灯が、ともすれば暗闇の中に沈みそうになる海岸や陸地を、健気に照らし続けてくれているからだ。

 街路灯の明かりに添えられるのは、月の明かりと対岸の明かり。たとえ田舎の夜とは言え、これだけの光量があれば、夜目の利くリコリスにとっては十分である。

 

 午後10時、スギナと風待は、昼間偵察に来た場所に再び現れる。大亥から数キロ北上した、人気のない礫浜の海岸。海岸と陸地を分けるコンクリート製の胸壁に沿って、延々とソーラーパネルが並ぶ、見栄えの良さとは無関係の侘しい場所。

 二人は、ソーラーパネルの群れの南端の陰に、乗ってきた自転車を倒して停める。立てたまま停めると、シルエットが目立つからである。

 

 胸壁と国道の間の、細長い土地に整然と並ぶソーラーパネルの鏡面は、夜空の果てに浮かぶ月の光を反射して、夜の静かさの中に白く輝く。正確な縦と横の線で作られたパネルが、夜の闇の中で淡く存在を主張する様は、近代芸術によって構築された墓石の群れのような静寂さと寂寥感がある。

 

 スギナと風待は、ソーラーパネルの墓石の影に隠れるかのように、身を低くして進む。パネルの隊列の中心部、ヤクザたちが車を止める予定の場所の近くまで、早足で進む。

 やがて二人の歩みを塞き止めるかのように、小さな川が現れる。昼間、釣りをした場所で見えていた、細い川。ヤクザたちはこの川の向こう、北側のソーラーパネルの作業路奥に車を停め、真下の海岸で密輸組織と接触する予定である。

 

 昼間に見た、ヤクザたちが乗った黒い車はまだ来ていない。先ほどDAからスギナのスマートフォンに送られてきた情報によれば、15分ほど前にヤクザたちは車に乗り、泊まっている旅館を出たらしい。

 GPSをハッキングしているDAの情報は、常に正しい。まだ車が到着していないのは、途中コンビニでも寄っているのだろうと、スギナは推測した。

 

 南側のソーラーパネルの陰に身を潜め、二人はヤクザの車を待つ。

 

 静かな夜だが、スギナの耳には、波の音が煩く感じられる。石の多い礫浜特有の、波によって石同士が打ちつけられる音、石同士が擦れ合う音が、スギナの耳奥に響く。

 近くの雑草、遠くの雑木林、様々な棲み処に隠れた虫たちが、静かに鳴き声をあげている。昼の甲高い鳴き声とは違う、重く長く細く続く、夏の夜の虫特有の、低い鳴き声。

 

 周囲に響く様々な音。しかし、今夜の音の中には、人間の営みが発する音は含まれていない。

 周辺に建てられた住居や旅館からの音、道路を歩く人の声、これら人間の出す音が、今夜は聞こえないのだ。

 聞こえるのは、道路を走る車の音、しかしそれすらも、今夜はまばらにしか聞こえない。

 

 町役場の皆さん、頑張ってくれたんだな、とスギナは思う。

 

 今から6時間前、まだ暑い最中に自転車を漕ぎ、丘の上の諸咲町役場に赴いたスギナと風待。エアコンの効いた町長室で二人は雑談を装いながら、今夜ヤクザたちが銃殺される事件が発生すると役場職員たちに警告する。

 情報漏洩すれすれの、いや、あからさまな情報漏洩ではあるが、広い田舎支部で、少数のリコリスが平和を守るには、行政の支援は必要なのよと、スギナは風待に教えられていた。

 

 DAにバレたら厳罰必須、しかし町の安全のため、秘密の情報をあえて伝える行為。そして作戦に協力してくれるお礼として、諸咲リコリスが独断で、町役場側の要請を一度だけ受け付ける証の千社札を差し出すという行為。それらの行為の重さを、役場側も理解してくれているようだ。

 

 町役場の職員たちは、スギナたちが出て行ってすぐに行動したのだろう。事件現場となる海岸周辺の民家一軒一軒に、旅館の観光客一人一人に、頭を下げ説得して了解してもらったのだろう。今夜は何があっても出歩かない事、何があっても海岸には近づかない事を、約束させたのだろう。

 おかげで今夜は、仕事がしやすくなった。一般人が飛び出てくる可能性はゼロではないため、周辺への注意は疎かにはできないが、それでも町中での任務よりはターゲットに集中できる。

 

 風待先輩が教えてくれた様々な下準備のおかげで、今回の任務は楽に終わりそうだな、とスギナは思った。あとは、殺人という禁忌をどのようにして乗り越えるかだ。

 

 人殺しという名の黒い棘によって、心臓が締め付けられるように痛くなるのを感じながら、スギナはじっと前を見る。

 

 スギナ達の近く、ソーラーパネルの下の茂みで鳴いていた虫の声は、いつの間にか消えている。アパートを出る時に噴き付けた虫蛇避けの忌避剤、DA特製のKスプレーの効果が出ているようだ。

 このスプレーがなければ、今ごろ二人は藪蚊に刺されまくっていることだろう。人体に有害という欠点はあるが、それでも野外に出て蚊の羽音一つ聞こえないというこの状況は、素晴らしいことだなとスギナは感心する。

 

 しかし、どれほど優れたDAの技術でも、夏の暑さだけは防げない。

 

 溽暑の季節である。真夏の夜は、深夜を過ぎても熱気が籠っている。

 十与浜からここまで、自転車を漕いできた二人。すでに全身には汗が滴っている。

 

 流れる汗の不快さに、昼間は愚痴を言い続けていたスギナ。しかし今は、汗を流していることに気が付いていないかのように、ただ前方を見つめている。額から頬を伝い、顎の先から流れ落ちる幾筋もの汗を、ハンカチで拭こうともしない。

 隣に座る風待も、すでに汗まみれだ。体温が籠る素材で作られた制服を着るスギナよりは、涼しくラフな格好の風待だが、それでも熱帯夜の気温と湿度は、彼女の肌から汗を絞り出させている。露出した風待の腕や脚、汗に濡れた艶めかしい肌が周囲の光を反照させ、色白の四肢を夜の闇から美しく浮かび上がらせる。

 

 スギナと同じく、流れる汗を一切気にせず、周辺を監視する風待。やがて風待の口から発せられる、来たわよ、の小さな声。

 

 少し遅れて、スギナの耳にも、昼間聞いた音が聞こえてくる。今夜のターゲット4人を乗せた、黒い車の音。

 暴力団組員にしては慎重な運転で、深更の底から、目の裏に刺さるかのように鋭いヘッドライトの明かりと共に車は現れる。スギナたちから見て奥にある、ソーラーパネルの点検作業路に入り込んだ車は、胸壁突き当りで右折する。海岸に並ぶ胸壁とソーラーパネルの隙間に入り込むかのように侵入し、停車する黒い車。国道側から車体を隠す、絶好の位置である。

 

 波の音にかき消され聞こえないが、何か話しながら車内から出る4人のヤクザたち。四囲は暗い夜空の下ではあるが、それでも周りを照らすわずかな明かりの断片が、彼らのシルエットを胸壁沿いに浮かび上がらせる。

 間違いない、昼間に確認したヤクザたちだ、今夜の私の獲物たちだ。暗視訓練を十分に積んだ本部卒リコリスのスギナの眼球が、ターゲット達の顔形を鮮明にとらえる。

 

 たった4人の小さな組、完全平和社会である今の日本では珍しくもない、少人数の小団体。その粗末な組を率いる粗雑な組長。昼間と同じ派手な服を着た彼は、昼間と同じように部下たちに指示を出すと、一人エアコンの効いた車内に閉じこもる。現場まで足を運んだのは良いが、それ以上のことは何もしたくないらしい。面倒そうな感情が、動作にまで現れている。

 

 その組長の横に付き従っている、いかにも裏社会の人間といった感のある、暴力の気配を充満させた30代のヤクザ。彼もまた昼間と同じく、上半身裸になり、弛んだ体に彫った色褪せた刺青を月夜に晒している。

 自分の仕事は組長のボディーガード、そう考えているのだろう。他の仲間の仕事を手伝わず、組長の乗る車の横で、ぼんやりと立っている。ボディーガードといっても、特に周囲に気を配るわけでもなく、たまにスマートフォンを覗いたり、ズボンに差し込んだ小型リボルバーを弄んだりしながら暇をつぶしている。スギナの目から見てあまりに警戒心の無いその姿は、護衛というより生きた案山子を思わせた。

 

 その肥えた案山子から、無抵抗な市民を殴る方法を日々教わっているのだろう、年齢に似合わない、澱んだ眼をした10代のヤクザ。

 この組では一番の下っ端である少年は、彼らが今来た作業路の角、先ほど車が右折した場所に立っている。車を停めている場所とは15メートルほど離れた曲がり角、作業路の奥から国道を監視できる位置である。

 

 おそらく、組唯一のインテリヤクザが指示したのだろう。取引の間、何も知らない一般市民が来たら殴って追い返す、乱暴な見張り役。善良な人間に暴力を振るう事をためらわなさそうな目つきの彼ならば、その任務を十分に果たすだろう。

 

 人を傷つけることしかできない無能な少年に、適切な任務を与えたインテリヤクザ。今夜の任務にただ一人真面目に取り組んでいる彼は、まだ取引時間前にもかかわらず、ただ一人真面目に動いている。

 

 熱帯夜の最中ににもかかわらず、律儀に背広を着ている彼は、一般企業の社員のような髪型を潮風に揺らしながら胸壁に上り、周囲を確認し続けている。心配性な性格なのか、取引の合図に使う懐中電灯の点灯確認を何度も繰り返したり、たまに海岸に向けて投光練習をしたりと、落ち着かない様子だ。

 

 海外からの麻薬取引、それも前回は不首尾に終わった密輸の再挑戦なのだ。緊張するのも無理はないのかもしれない。仲間が皆知恵のないタイプの中、一人で頭を使い、一人で全てを取り仕切るご苦労は計り知れない。

 

 四者四様の姿を見せるヤクザたち。スギナと風待は、小川を挟んだソーラーパネルの物陰から、その動きを静かに観察する。

 

 最初の内は殺気だったように緊張していたヤクザだが、やがて落ち着きを取り戻したかのように、動きが鈍くなる。作業路の曲がり角で見張りをしていたヤクザの少年は、パネルの物陰に腰を下ろし、インテリヤクザも海を向いたまま胸壁の上に座り込む。手持無沙汰に懐中電灯の点灯消灯を繰り返すインテリヤクザを横目で見ていたボディーガードもどきのヤクザが、胸壁にもたれかかり大きく欠伸をする。

 

 現在の時刻は10時40分。取引開始の午後11時まで、あと20分。短くはないが長くもない、中途半端な待ち時間。

 ヤクザたち全員の集中力が途切れているこの時間、強襲するには絶好のタイミングである。

 

 行きます、とスギナは小さな声で風待に話しかけると、ソーラーパネルの横列の間を縫って走り出す。

 小川の上に架けられた国道の橋を渡ると、ヤクザたちのいる北側のソーラーパネルの作業路に向かう。

 身長の半分ほどの高さまで身を屈めながら走るスギナ。パネルの奥にいるヤクザたちには、スギナの姿は目に入らないだろう。

 ヤクザたちの車が進入した作業路の前で止まるスギナ。全力疾走にもかかわらず、呼吸ひとつ乱れていないスギナは、身を屈めた態勢のまま、作業路の奥を覗く。

 

 無舗装の作業路の角にいるはずの見張り役、座っているとはいえ、今も歩哨として周囲を警戒しているはずの少年ヤクザの現在位置を、スギナはソーラーパネルの柱から半分顔を出し確認する。

 

 今回の任務は強襲が前提である。相手に見つかる覚悟で顔を出してみたスギナだったが、作業路の奥に座る若いヤクザの姿を見て、拍子抜けしたような表情を浮かべる。

 奥に座るヤクザの少年は、国道側に背を向ける位置で地面に座っていたのだ。身を屈め、周囲を飛ぶ藪蚊を片手で追い払いながら、何かに熱中している少年。たまに前側から光が漏れているところからすると、スマートフォンを見ているのだろう。

 

 本来監視の目を向けなければいけない方向に背を向けている理由は、スギナにはすぐわかった。

 この少年ヤクザは、外の敵より身内を恐れているのだ。

 兄貴分のヤクザに呼ばれたら、すぐに反応しないといけない、すぐに戻らないといけない。そうでないと怒られる、機嫌が悪ければ殴られる。

 だから、見張りを気にするより、仲間の動きを気にしているのだ。兄貴分たちの声に聞き耳を立て、カシラたちの一挙手一投足にすぐ反応できるよう、用心しながら怠けているのだ。

 

 そして彼は今、見張りの役目をおろそかにして、ソーラーパネルの柱の陰に座りスマートフォンを見ている。国道側の暗い作業路という、仲間に見えない位置にいるのだから、どれだけ手を抜いてもバレないだろうと考えている。

 物事に真面目に取り組まない、ヤクザ者ならではの思考。仲間の声や足音が聞こえてきたら、すぐスマートフォンを隠せるよう、仲間から隠れつつ車側を向いて座り込む、無責任かつ小狡い思考。

 

 こいつは歩哨の役割を全くわかっていないな、とスギナは思う。

 

 歩哨の仕事は、敵味方に自分の存在を見せつけることだ。今我々は警戒態勢だということを周囲に示すことだ。

 

 そして歩哨の役割は、ただ監視することだけではない。味方の視界内で、敵に撃たれて死ぬのも歩哨の仕事だ。撃たれ倒れることで、仲間に異変を伝えるのも、歩哨の大事な仕事なのだ。

 

 周囲を警戒していない事、味方から身を隠している事、これだけで、彼の歩哨としての意味は全く無くなっている、彼が今から死ぬ意味は全く無くなっている。

 

 まあ意味もなく人を傷つける連中だ。意味もなく死ぬのは、彼らにとってふさわしい最期なのだろうと、スギナは思いなおす。

 

 それと同時に、スギナは考える。遠くで私に背を向けているヤクザを、どのように始末しようか考える。

 

 この距離から射殺するのは、容易い。グロック36にサイレンサーを付け、後頭部を狙ってトリガーを引くだけで、容易く殺せる。

 隙だらけのこのターゲット、殺すことに問題はない。問題は、殺した時に音がすることだ。

 

 前かがみの姿勢のターゲットに、背後から射殺すれば、相手は必ず前のめりに倒れる。その時に、大きな音がするのだ。

 人間が頭部を地面にぶつける音、撃たれた衝撃でスマートフォンが落ちる音。波音響く野外とはいえ、これらの音は意外と大きい。

 このヤクザが死ぬときに発する音を最小限に留めないと、残ったヤクザたちが警戒してしまう。この無能な人間が最期に出す音が、彼を有能な歩哨にしてしまう。

 

 さて、どうしようか。スギナはしばし考える。

 

 これからどのように料理されるのか、どのような最期を与えられるのか。自分の人生のフィナーレを飾る臨終コーディネーターが背後に迫ろうとしていることも知らぬまま、スマートフォンの画面を熱中して見続ける少年ヤクザ。

 

 しかたない、これでいくか。とつぶやき、スギナはブラウスの襟に巻いたリボンタイをそっと解いた。

 

 

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