モブリコ辺境暦   作:杖雪

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8月 初めて人を殺した日 ⑨

 

 静かに、歩を進める。

 

 ソーラーパネルの人工林を左右に分けるようにして伸びる作業用の通路。車一台が通れるだけの、細い路。乾いた土が剝き出しの、雑草がわずかに茂る、舗装されていない路。

 水分も栄養分もない、痩せた土が続く道は、月明かりに照らされ薄白く輝いているようにも見える。薄く儚く光る褪せた色、私の制服と同じ、痩せた色。

 

 私は、静かに歩を進める。音を立てず、ターゲットに近寄る。

 

 これから私が殺す4人のヤクザ。まず一人目は、通路の奥で見張り役をしている、私と同じ年齢の、まだ幼さの残る少年ヤクザ。

 私と同じだけの年月を生きたこの少年は、どのような人生を歩んだのだろうか。まあ、私と同じで、大して語ることの無い、大したことのない人生だったのだろう。

 あと数分で、彼の人生は終了する。この少年が死んだとき、だれか悲しんでくれる人はいるのだろうか。泣いてくれる親族はいるのだろうか。

 殺人に集中しなければいけないのに、心の片隅で考えてしまう。今から消える生命について、今から奪う人生について、考えてしまう。

 

 頭を軽く振って、脳内を堂々巡りしている妄心を追い払う。今から殺す相手の背中を凝視し、気持ちを任務に集中させる。

 

 国道から入ることのできるこの作業用通路は、つきあたりから海岸の胸壁に沿って左右二手に進むことができる。今夜この海岸で麻薬密輸を企むヤクザたちは、通路奥を右に折れた先に、自分たちの車を停めている。 

 このヤクザの少年の役目は、見張り。ソーラーパネルの奥で動き回る人影を不審に思った一般人が、通路の奥に入って確認しようとするのを、罵声と暴力で追い返す役目。

 

 しかし、彼は今、その役目を放棄している。

 通路を見渡せる位置に立たず、仲間に見える位置にも立たずに、ソーラーパネルの物陰に入り込み、座り込んでいる。周囲を見ずにスマホの画面を凝視している、無警戒な姿。

 この場所に到着してから、人が歩いている姿を見かけることがないという今の状況に、気が緩んでいるのかもしれない。あるいは、忍耐力や集中力、仕事への責任感が欠如しているのかもしれない。

 この年齢でヤクザになったほどの男だ、ほぼ間違いなく後者の方なのだろう。

 

 とりあえず、見張り役が無能なのはありがたい。意外と長い通路を進む最中に気が付かれたら、ターゲット達が分散逃亡する危険があったが、どうやらそうならずに済みそうだ。

 

 私は、静かに歩を進める。

 

 身をわずかに屈め、ソーラーパネルの上から頭が出ないように注意して歩く。

 

 足音は、立てない。

 無音で歩き、無音で走る技術は、DAで教わっている。

 

 枯葉の積もる山中を、音ひとつ立てずに走破したという陰明鏡寺轡田衆秘伝の修験八方大山踏が一つ、待坦踏と呼ばれる特殊な走法を元に作られた、DA独自の無音歩走術。分校リコリスが得意としている技だが、もちろん私たち本部卒リコリスも同じ技能を習得済みだ。というより、分校リコリスが有しているすべての技能は、私たちにとっては基礎技能に過ぎない。分校卒にできることは、全てできて当然なのだ。

 

 気配を隠す深く長い呼吸、殺気を消すマインドスイッチ。精神の湖面に落滴の波紋一つ起こさず、静かな心のまま静かに歩く。普段の散歩と変わらない歩幅と速度で、月夜の路を渡り終え、少年ヤクザの背後に立つ。

 

 死が背後に迫っているというのに、全く気が付いた様子のない不良少年。ここで尻の一つでも蹴り上げれば、さぞ仰天することだろう。

 全く無警戒な少年を驚かせてやりたいという悪戯心を押さえつつ、私はリボンタイの両端を、左右の手で握る。

 

 少年ヤクザは、今だスマホに熱中している。何がそんなに面白いのか、少し興味の出た私は、彼の背中越しに、明るく光る画面を覗いてみる。

 

 私たちリコリスは、一般人の使うスマホアプリのことはよくわからないが、どうやらこの若いヤクザは、何かのSNSサービスを使用し、友人とチャットで話し合っているらしい。

 白色と緑色のフキダシに書かれた文章。同い年の、同じレベルの友人なのだろう。下卑た本性をむき出しにした、社会への悪口雑言や弱者への嘲笑が、通信文と思えないほど幼稚かつ低俗な語彙で綴られている。

 

 藪蚊の羽音が気になるのだろう。文章を送信する度に、スマホを持つ手を下げて、片手で耳の周囲を飛ぶ藪蚊を追い払う仕草をする少年ヤクザ。私は待つ、この非行少年がスマホを手放す時と、波の音が大きく鳴る時が同期する瞬間を待つ。

 

 私の体に撒かれた特殊な虫よけスプレーの効果範囲は狭い。それでも強力な忌避剤の成分によって、私の足元の草むらから逃げ出した藪蚊たちが、近くにいる少年にまとわりつきだしたようだ。そのうちの一匹が、彼の耳の近くを飛びながら、左頬に止まる。思わずスマホを下げ、左手で頬を叩く少年ヤクザ。

 手のひらの上で潰れた蚊を見つめる少年。スマホを地面に置き、右手の指で蚊の死骸を弾き飛ばしながら、年齢に似つかわしくない太い溜息をつく。大きく息が漏れる音、大きめの波が礫浜を舐める音。今だ。

 

 私は一歩前に踏み出し、まだ少年であるヤクザの細首に、両手に持ったリボンタイを輪にして巻く。

 滑らかな化繊の生地でできたリボンタイは、少年ヤクザの首に優しく巻きつく。ネクタイなど身に着けたことはないであろう彼が、最後に纏う、煌びやかな装飾品。

 躊躇なく、容赦なく、私は少年の首に巻いたリボンタイを締め上げる。

 

 反射的に起き上がろうとする少年ヤクザ。私はその背中に片膝を当て、二つ折りに押し潰すかのように体重をかけ力を込める。畳んだダンボールを縛るときに、膝で固定しながら紐でくくる時のような体勢だ。

 

 息を吐き出しきった瞬間を狙って締め上げたのが功を奏したのか、少年はかなりパニックになっているようだ。全身を強張らせながら、首に巻いたリボンタイを引き千切ろうと、爪先で掘るように喉元を搔きむしっている。

 しかし、どれだけ爪を立てても、市販品のリボンタイに指をかけることはできない。不摂生な生活が作り上げた、少年らしくない贅肉が、指先の侵入を妨げているのだ。

 

 これがリコリスなら、紐に手をかけるような無駄な動きはしない。戦いのプロならば、食い込んだ紐を外そうとするのではなく、相手に反撃をして拘束から逃れる方法を選択する。

 

 絞殺を仕掛ける側の不利な点は、両手が必ず塞がることである。逆に言えば、仕掛けられた人間は、首を絞められている間、両腕を自由に動かせるのだ。

 今、私の膝下で折りたたまれている少年のズボンのポケットから、リボルバーの銃把が頭を出している。爪で喉を傷つけている暇があるなら、その手で銃を取り出し、背中越しに後方へ乱射すればいいのだ。そうすれば運が良ければ背後で締め上げている敵を倒すことができるし、最低でも仲間が異変に気付いてくれる。

 

 どれだけパニックになっているのかわからないが、それだけの事を、なぜ彼は思いつかないのか。それだけの事を、なぜ周囲の大人は彼に指導しなかったのか。

 窒息の恐怖から逃れる救済者がポケットに入っていることに気が付かないまま、彼は同じ動作を繰り返す。皮膚が破れるほど力を込め、ただ闇雲に喉元を掻きむしる、無駄な動作。

 

 相手の背中に押し付けた私の片膝に、上に押し上げる強い力が幾度となく加わる。胡坐のまま押し潰された体勢の少年ヤクザが、全身に力を込め起き上がろうとしているのだ。

 無論、起き上がらせるような真似はさせない。変に暴れて他のターゲットに異変を悟られることの無いよう、このヤクザには、身動き一つさせないまま静かに死んでもらう。

 

 体の中心線である背骨を膝で押さえつけ、すべての動きを封じる。起き上がろうとヤクザが体をねじる度、膝の重心を力の対角線上に軽く移動させ、動きの軸をずらす。敵の身体バランスを崩し、中心軸をずらして動作を封じる技は、鍛えた男性相手に正面から戦う私たち本部卒リコリスにとって、必須の技術である。

 今足元でもがいているこの少年は、背中に片膝が乗っていることはわかっているはずである。しかし、何故その膝から抜け出せないのかは理解できていないだろう。おそらく、自分より背が高く、体重も数倍ある巨漢が圧し掛かっていると勘違いしていることだろう。呼吸も出来ず、身動きもできない今の状況下で、勘違いするだけの余裕があればの話だが。

 

 まだ若いにもかかわらず、早々に体力が尽きてきたようだ。膝下で悶える動きが鈍くなってきたのを見計らい、私はターゲットの首を絞めている紐に、更に力を込める。

 

 リボンタイという名の処刑具が、更に少年ヤクザの首に食い込む。私の手のひらに、握りしめた紐を通して、喉奥にある舌骨が折れる感触が伝わる。

 舌骨が折れる感触は、訓練生時代に学んだ、死体を教材にした絞殺練習の時に体験済みだ。折れるというより、砕ける感触。薄い煎餅やウエハースが、ポケットの中で潰れるような感触にも似た、脆い手応え。

 

 喉元を掻きむしる少年の両手が、更に力を増す。腕や手の甲に彫られた薄汚いタトゥーが、細かく震えているのがよく見える。

 酸欠によって次第に抜けていく体の力、それと入れ替わるかのように徐々に始まる断末魔の痙攣。確実に近づいてく死に抗うかのように、両手の指だけが勢いよく首元を抉るかのように動き続ける。喉に大穴を掘り、そこから呼吸をしようとするかのような、無駄な自傷行為。

 

 指先は赤い血で染まっている。喉を抉った傷から流れる血と、爪が剥がれかけた指先から流れる血が、腕部に無秩序に並べられたタトゥーの暗色系の文字や模様を、明るい赤で補色する。

 暗闇の中でも鮮やかに映る血の赤色。海から生えた電波塔から放射されるイルミネーションが、少年の血と私の罪を、七色の明かりで飾り立てる。

 

 光の装飾で輝く夜の闇の中、足元の少年ヤクザの動きが、次第に緩慢になっていく。

 首筋を貫かんばかりに動いていた指はいつしか沈黙し、やがて生を諦めたかのように、腕ごと地面に落ちる。起き上がろうと力を込めていた下半身も、生への努力を放棄し、筋肉が溶けたかのように弛緩する。

 頸部の筋が伸びたかのように頭が垂れ下がり、紐を持つ手に首の重量が加わる。背中に押し付けた膝越しに響いていた、心臓の脈動も感じなくなる。

 

 それでも私は、ターゲットの首に巻いたリボンタイを緩めなかった。相手に蘇生の機会を与えず、相手に確実な死を与えるためには、もう少し頸部を絞め続け、気道を完全に潰しておかなければならない。

 ターゲットの体を片膝で押さえつけ、二つ折りにするかのような姿勢のまま、首を絞めたリボンタイに込めた力を更に入れながら、私は他のヤクザたちの状況を確認する。

 

 波音の中からかすかに聞こえる話し声、ソーラーパネルの柱の間からわずかに見える姿、人の気配、空気の流れ、私は五感を駆使しながら、それらの情報を全て感じ取る。

 

 見張り役の少年ヤクザを、ほぼ無音で殺すことができたからだろう。残り3人のヤクザたちは、無警戒のまま先ほどと同じ場所にいるようだ。そろそろ取引が始まる時間、密輸組織の構成員たちが乗り込んでいる貨物船に、懐中電灯で合図を送る時間だ。彼ら全員の意識が海を向いているのは、仕方のないことなのだろう。組の下っ端の見張り役のことなど、だれも気に留めていないのだろう。

 

 残り3人のヤクザの位置は、少し前に小川の向こう側で風待先輩と確認済みだ。車の中にいる組長、車の横に立つ護衛役もどき、胸壁に座るインテリヤクザ。あれから時間は経っているが、ソーラーパネルの柱の隙間から見えるシルエットから考えても、まず変化はないはずだ。

 

 胸壁とパネルの間の、細い作業路に停めた車の周囲に群がるターゲット。分散も警戒もさせずにここまでこられたのは、まずリコリスとして及第点だろう。あとは普通に射撃で殺せばいい。敵が見張りを排し、すぐ近くまで来ているというのに、いまだ不穏な気配のひとつも察していないような、間抜けな連中だ。まとめて射殺することなど、容易いことだ。

 

 周囲を警戒しない、間の抜けた連中。彼らが無警戒なのは今に始まったことではない。

 

 彼らが昼間この場所に下見に来た時、私たちは隣で釣りをしていた。釣りをしているふりをしながら、彼らを偵察していた。

 彼らはリコリスがどのような存在かをある程度知っている。知っていながら、彼らは釣りをしている私たちを無視していた。人の少ない田舎でリコリスに出会う確率などほとんどないというのに、私たちが取引予定の場所の近くにいたことを気にしていなかった。

 

 そして今夜、再びこの場所に訪れた時、周囲が妙に静かすぎるということに、誰も異常を感じていなさそうだった。

 リコリスとヤクザの銃撃戦に備え、町役場の職員たちが周辺住民に注意を呼び掛けた結果、この場所から人の気配が消えたということに、彼らは気が付いていないのだ。

 

 初めて来た場所なので、普段の雰囲気を知らないが故ということももちろんあるのだろう。しかしそれでも、昼間とはあまりに違う人気のなさに、なにかしらの違和感はあったはずである。

 しかし彼らは、その違和感を無視した。リコリスが近くにいた違和感、人の気配が消えた違和感、彼らが心の奥底で感じていたはずの不可解さを、彼らは気にしていなかったのだ。

 

 あるいは、あえて違和感の正体を考えることを放棄していたのかもしれない。周囲の些細な不自然さを口に出すと、仲間から男らしくないと揶揄され面子を潰される、そのようなヤクザ特有の空気もあったのかもしれない。

 

 どちらであるにせよ、周辺の目を常に気にしなくてはならない麻薬取引の現場で、役に立たなさそうな若手の下っ端一人に見張りを任せ、後はぼんやりと突っ立っているのは、あまりに不用心である。いくら拳銃で武装していたとしても、このような連中ならば分校リコリスを数グループ投入するだけで、一時間以内に全員暗殺が可能なはずだ。

 もっとも、ヤクザ程度の相手に、各分校グループが連携し、時間をかけ一人ずつ背後から暗殺するという、分校リコリス特有の悠長な殺害方法をとるのは、私や風待先輩から見れば、時間の無駄でしかない。

 私は本部リコリスだ。残る敵が三人程度ならば、たとえ相手が武器を手にして待ち構えていようとも、全員まとめて正面から射殺できる、本部卒のリコリスだ。人気のない周辺環境、まとまって立っているターゲット、この状況下ならば、後は直接敵の前に立ち、直接撃ち殺した方が、時間もかからないし簡単だし確実だ。

 

 残りは射撃戦で排除することを決意した私は、すでに動かなくなっている足元の少年ヤクザの背中から膝を下ろし、紐に力を込めて上半身を仰向けにさせる。胡坐と正座のどちらともつかない姿勢で畳まれた脚はそのままに、少年の上半身を上に向かせ、寝せるように地面に横たえる。心臓が止まってからも、なお数分ほど首を絞めていたのでもはや蘇生することはないだろうが、それでもターゲットに確実な死を与えたか確認するため、私はかつてヤクザだった死体を観察する。

 

 もはやまばたきをすることもなく、大きく見開かれた両目。空気を求めて開けられた口からは、どす黒い色をした舌が突き出ている。舌上につけられた銀色の丸いピアスが、輝きを失った両の黒目とは対照的に、夜の明かりを反射して両生類の卵のように鈍く光っている。

 血の気を失った首下の皮膚とは対照的に、頭部の肌は赤黒い色で染まっている。人の皮とは思えないほどの、赤と黒との混色模様。皮膚の下から滲み出た、苦悶の色。

 混濁の皮の上に貼りつく表情も、人間のものとは思えなかった。窒息の苦痛、死への恐怖、まだ続くはずだった人生が突然終わる絶望、これらの激情をむき出しにした、歪み捩じれた形相。私と近い年齢のはずなのに、苦悶によって作り出された皺の波が、彼を老人のような顔に仕立て上げている。

 

 私は、何も感じず、彼の表情を観察する。私が殺した相手の死を確認するため、彼の顔を観察する。

 

 大丈夫、死んでいる。

 私は安堵する。

 

 私は軽く息をつくと、死体の首に巻かれているリボンタイを解く。

 醜い男の首に触れたリボンタイ。洗濯しないと身に着ける気にならないため、丁寧に折ってポケットに入れる。その指先が震えていないことに、私は安堵する。

 

 立ち上がった私の目に、死体の横に置かれたスマホの画面が目に入る。

 私の知らない通話アプリ、数分前まで少年とやり取りをしていた相手は、いまだ飽きずにチャットを送り続けている。ほぼ等間隔のタイミングで、スマホの画面下から白色のフキダシが浮かび上がってくる。

 

 遠く離れたこの送信者は、通話している相手が今し方死んだことに気が付いていないようだ。品のないふざけた文章が延々と湧きあがるスマホの画面を、私はほんのしばらくの間だけ、そこに何かしらの啓示が見えてくるかのような面持ちで眺めていた。

 

 生も愛もうら若き頃を、生より奪われて、ここに殉教のいと青春(わか)きものよこたわる。しかし今夜、片田舎の海岸に建立されたキイツの墓に手向けられる友人からの弔辞は、下卑て卑猥で猥雑なトークであった。このような墓の側辺に咲く菫など、だれも押し花にはしないだろう。まあ、学校にも行かず、全身にタトゥーを入れ、麻薬密輸の片棒を担ぐような少年だ、この程度の人間にはこの程度の悼辞が相応しいのかもしれない。

 

 自分では落ち着いていると思っているのだが、任務から気が離れスマホの画面を見つめているのは、注意力が落ちてきている兆候かもしれない。私が気を取り直そうとした時、落ちているスマホ画面に、新しいフキダシが現れる。

 

『変顔、送れ』

『変顔、送れ』

 

 スマホの先にいる連絡相手は、少年から返信が来ないのは、ネタ切れだからだろうと思ったらしい。新しいネタを振って、盛り上がろうとしているようだ。

 二度も同じ文面を送信したということは、よほど少年の変顔が見たいのだろう。私は、少し考える。

 

 今地面に横たわっている少年ヤクザの死に顔。この苦悶の顔を送信してあげれば、相手は喜ぶだろうか。

 私は何気なく、落ちているスマホを拾おうとする。拾おうと

 …

 

 …私は、今、何をしようとしていたのだ。

 …私は、今、何を考えていたのだ!

 

 全身から吹き出ていた汗が止まった。急な悪寒が体の芯を包んだ。

 内臓が裏返る。臓物がよじれる。

 胃を襲う不快感、劇物を飲み込んだかのような、激しい嘔吐感。

 足が震える。腰に力が入らない。

 思わず地面にへたり込む。痙攣する腹部を、力のない腕で抱え込む。

 

 吐き気が、する。

 吐き気が、酷い。

 胃の中の残留物を、すべてもどしてしまいそうだ。

 

 だめだ、吐いたらダメだ。

 吐いたら、音がする。ターゲットにバレてしまう。

 

 しかし、吐き気は止まらない。

 胃の中身が、喉まで逆流する。喉から口に流れ出る。

 

 私の小さな口内は、すぐにヘドで満杯になる。

 耐え切れずに口を開くと、吐しゃ物が勢いよく地面にぶちまけられる。

 

 嘔吐は、一回だけでは止まらない。激痛を伴う腹部の痙攣と共に、断続的に、何度でも胃が絞り上げられ、その度に新たな反吐が口や鼻から噴出する。

 鼻腔に溜まる胃酸のすえた匂いが、更に嘔吐感を誘発させる。反吐と共に出る涙によって、視界がぼやける。

 

 近くに敵がいるというのに、完全に無防備な姿。早く立ち直らなければならない、早く立ち上がらなくてはならない。リコリスとしての本能が、そう警告する。

 しかし、今の私は、無防備な状況に恐怖を覚えてはいなかった。それよりも恐ろしい嫌悪、自分という醜悪な存在への嫌悪が、心身を包んでいた。

 

 私は、人を殺した。

 初めて人を殺した。

 

 言い訳かもしれないが、私が人を殺すのは、仕方がないことだと思っている。

 

 リコリスだから仕方がない。命令だから仕方がない。そのように育てられたのだから仕方がない。

 確かに言い訳だ、ただの欺瞞だ。しかし、リコリスである限り、人殺しの任務は避けられない。だから、私は今、仕方なく人を殺した。

 

 だが、殺す前の、殺した後の、私の感情は何だったのだ。

 黙々と首を絞め、粛々と殺し、淡々と死を確認する。そればかりではなく、人の生命を奪っておきながら、その死に顔を送信するという、死者の尊厳を冒涜するような行為までしようとした。

 

 私は、これほどまで邪悪な行為を、容易く行える人間だったのか。

 

 家族の死を目の当たりにし、仲間の死を何度も見て来た私は、命の大切さと死別の悲しさを知っているはずだ。その私が、任務というだけで、これほどまでに冷酷になれるのか、残酷になれるのか。

 

 夕飯に食べた粥を嘔吐するたび、私は恐怖する。

 人を殺した衝撃が、嘔吐と共に湧きあがる。

 自分は非情に人を殺せる教育を受けていたということへの絶望が、涙と共に湧きあがる。

 

 人としての禁忌を犯してしまった痛感、一人前のリコリスになってしまったという実感が、私を更に怯えさせる。嘔吐の苦痛など比べ物にならないほど強い、もはや後戻りできない人生への、絶望と恐怖。

 

 白い地面に横たわる、まだ温かい死体の横で、私はゲロを吐き続ける。

 

 苦痛に歪んだ死者の顔、苦悩に歪んだ生者の顔を、電波塔から放射される七色の光が、様々に変化する万華の煌びやかな色で照らし出している。

 

 私は吐きながら、顔を上げる。涙に霞む視界の先に見える。胸壁の奥に立つ電波塔に目を向ける。

 

 

 夜の海から生える電波塔。その数は、いつのまにか三つに増えていた。

 

 

 

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