モブリコ辺境暦   作:杖雪

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8月 初めて人を殺した日 ⑬

 

 少しの間、ほんの少しの間だけ、私とヤクザはにらみ合う。互いの顔を、見つめ合う。

 

 苦痛に歪んだヤクザの顔、暑さと痛みから湧き出た汗を顔面から滴らせているヤクザの顔。全く以て醜い顔だが、多分私も同じ形相をしているだろう。

 ひと呼吸にも満たない時間、私たちは停止する。顔を見合わせた状態で、立ち止まる。

 戦いの最中に稀にある、凍結した時間。お互いに次の一手を考えるための、硬直した時間。

 しかし、奔流の渦中で生まれた静謐は、長くは続かない。私たちは、わずかに呼吸を整えると、再び動き出す。殺し合いを開始する。

 舞台のクライマックスを演出するかのように、電波塔の明りが私たちを照らしだす。愚物を見よと照らし出す、愚行を見よと照らし出す。世界が暗闇に包まれている中、私とヤクザの二人だけに、閃光色のスポットライトが浴びせられる。

 

 最初に動いたのは、ヤクザ。

 起き上がった時に手にしたのだろう。拳より大きいコンクリート片を右手に握りしめ、一歩前進する。片方の足、私に蹴られた足をかばうかのようにして歩く、少し不自然な脚運び。

 

 重い防爆板入りの靴で蹴られた足の脛は、立っているだけでも激痛が走っていることだろう。しかし、このヤクザは、苦痛を堪えながら素早く前に出る。

 重心が定まらない動きで私の前に進み、コンクリート片を振り上げるヤクザ。その顔は笑っていた。

 

 やっと立っているのは、このヤクザだけではない。私も同じだ。

 起き上がることで使い果たした肺の酸素。頭部と腹部に未だ残る打撃の痛み、そして狂乱の灯を放つ電波塔に支配された私の心。身も心もまんべんなくダメージを負った私の姿を見て、このヤクザは、勝機を感じたのだろう、勝利を確信したのだろう。

 

 表情を形取る筋をすべて表層に浮かび上がらせ、悪趣味な作風で劇画化されたかのような笑みを浮かべる組長ヤクザ。その醜怪に歪んだ顔は、私の心を再び逆なでした。

 

 人を殺す時に笑う性格、人の命を奪う時に笑みを浮かべる性根。私はそれを嫌悪する、憎悪する。

 怒りで沸く私の心。しかしその奥底では、冷静な私がただ静かに、男と自分との距離を測っていた。リコリスとして育てられ、リコリスとしての殺傷訓練を受けてきた私の心魂は、近づいて来るヤクザとの間合いを、薄紙一枚の厚さを単位として測っていた。軽く左足を前に出し、重心を前方に置く。右足は自然体のまま伸ばし、男が近づくのを待つ。

 

 男が二歩目を踏む。振り上げたコンクリート片を叩きつけようとする。今だ。

 

 完全な間合い、完璧な殺傷距離。前屈み立ちの構えをとって待ち構えていた私は、左足の膝を曲げ、腰を回しながら高く上に上げる。膝を夜空高くつき上げる体勢。スカートから飛び出た太腿が、月明かりに白く照らされる。

 

 重心は軸足、中心は腰部。上体を後ろに倒しながら、曲げた左脚全体を押し出すように腰を回す。大地を押す右足、力を込める下腹部、敵を撃つ左足。下半身の筋肉すべてを使い、迫りくるヤクザ目がけて、私は蹴りを放つ。

 

 中段の前蹴り。ドアや壁すら破壊する、本部リコリスの足刀蹴り。防爆板入りの特殊な靴によるこの蹴りは、リコリスの体術の中で、最大の破壊力を誇る。延空木占拠事件時、あるセカンドリコリスがこの蹴りを使い、旧電波塔の重量シャッターを空中から叩き割ったなどという、一概には信じられない噂話すら流れるほどの威力を持つ蹴り技。あまりの破壊力に、生身の人間への使用を躊躇してしまうほどのこの蹴りを、私は放った。躊躇せず放った。

 

 弱っている私の体では、完璧な蹴りは出せなかった。速さ、威力、どちらも通常の半分以下だろう。しかし、それでも問題はない。相手が一般人ならば、たとえ速さが十分の一でも、避けることはできないだろう。たとえ威力が十分の一でも、耐えることはできないだろう。

 このヤクザにも、私の足刀は視認できなかったはずだ。もっとも、もし見えていたとしても、彼は避けなかっただろう。所詮は女の蹴りと侮って、避けはしなかっただろう。

 

 足裏を押し付けるかのように放つ蹴り。私の上足底が、男の胸に突き刺さる。胸全体を押し潰すかのように、靴裏がめり込む。

 胸骨が折れ、内側に向けて潰れる感触が、靴の厚いゴム底から伝わってくる。この生々しい感触を引きはがすかのように、私はめり込んだ足をそのまま軽く曲げ、さらに力を込めて男の体を蹴り飛ばす。

 

 片手に持った礫片を上に掲げ、襲いかかろうとした姿勢のまま、後方に吹き飛ぶヤクザの組長。立ち姿のまま、空中を軽やかに流れ跳ぶ男の体は、背後にそびえていた海岸の胸壁にぶつかり急停止する。

 

 男は驚きに目を見開いたまま、わずかに傾斜のある胸壁に、もたれるようにして立ちすくんでいる。何もわからないといった体で、私を見つめている。

 襲いかかろうとした彼の目には、私の片足が消えたように見えたのだろう。突然自分の胸に衝撃が来て、突如自分の体が後方に飛ばされたように感じたのだろう。いったい何が起こったのか、全く理解できていないのだろう。

 

 教える義理はない、理解できないまま死ね。私は重い体を引きずり、前に進む。

 

 先ほどの私の蹴りで、脊髄にも異常をきたしたのだろう。自分の下半身の感覚がなくなっていることに気が付いたヤクザが、恐怖の声をあげる。

 先ほどの私の蹴りで、肺部にも異常をきたしたのだろう。悲鳴をあげようにも、呼吸が続かないことに気が付いたヤクザが、大きく口を開ける。

 先ほどの私の蹴りで、気管にも異常をきたしたのだろう。大きく開いた口から、赤い血が噴き上がる。足蹴の衝撃で気管か食道が裂けたようだ。

 

 吐き出した血の量から、自分の最期を感じ取ったのだろう。ヤクザの顔が、敵意に溢れた狂暴な形相から、運命に怯える小心者の相に変化する。遁れえない運命、常に有り、皆に有り、無遍在に有る、死という名の運命。

 

 彼の目の先にあるのは、死。彼の目の前に来るのは、死。

 死を与える者が、彼の前に立っている。私が、彼の前にいる。

 

 数歩、前に進む。胸壁に背を付けて立つヤクザの、目の前に立つ。

 

 再び、ヤクザの口から血が噴き上がる。何か言おうとしたのだろうが、出たのは言葉ではなく赤い吐しゃ物だった。

 再び殴り合いの間合いに立つ私に、このヤクザは何を話そうとしたのだろうか。威嚇の言葉だろうか、命乞いの言葉だろうか、それともただの悲鳴だろうか。

 

 どちらでもいい、私はお前の言葉に興味はない。お前の人生に興味はない。

 

 スカートの中を見せつけるかのように、私は再び膝を曲げた片足を高く上げる。男の目が大きく見開かれる。月明かりに、男の目の周りに溜まった涙が反射する。

 私が何をするのか、男にはわかったようだ。まあわかって当然だろう、先ほどと同じ動きなのだ。先ほどと同じ構えなのだ。わからない方が、どうかしている。

 

 私の口が、笑みの形に大きく歪む。男の顔が、死の恐怖に大きく歪む。

 

 男の胸に、蹴りを放った。

 

 足裏の形に陥没した男の胸目がけて、再び放つ足蹴り。すでに破壊された肺や気管をさらに押し潰した靴裏は、さらに体の奥に潜り込んでいく。

 足裏に伝わる、固い棒のような感触、背骨だ。人体の中心を上下に走る背骨は、私の足に微かな抵抗を与えた後、微塵と成り果て砕け散る。大の男の大きな骨が、圧力鍋で煮た魚の骨、水煮の缶詰に入った魚の背骨、その程度の歯ごたえと脆さで砕け散る。

 

 前面から背骨まで砕いた私の蹴りの勢いは、背後の胸壁によって停止する。男の体を貫いた衝撃が、コンクリートの壁に当たり、鈍く重い音を立てる。胸壁の表面にまとわりついた砂粒が、男の身を隠す煙幕のように舞い飛ぶ。

 男の口から、粘度の高い血が噴き上がる。飛び出た血の雫が、私の服を汚す。

 

 残心。男の胸に足を突き刺したまま、私は動きを停める。男の断末魔の痙攣を楽しむかのように、消えていく心臓の鼓動を楽しむかのように、私は束の間、停止する。

 静かに息を吐きながら、ヤクザの胸から足裏を引きはがす。抜いた足は地面に下さず、膝を曲げるとそのまま抱え込むかのように胸元に密着させる。

 死相の浮き出た男の顔が、私の足を見つめる。膝を高く突き出した脚、肌がむき出しになった脚を見つめている。

 

 再び、蹴りを放つ。

 次は、腹。ヤクザの腹目がけて、蹴る。

 

 蹴る瞬間の動きは、男には見えなかっただろう。突き上げた脚が消えたと同時に、一直線に伸びた左足が腹に刺さっていた。そのように感じただろう。

 蹴りの爆心地は、男の腹の臍の上。胸を蹴り上げた時よりも深く沈んだ靴底が生み出した衝撃波は、腸を引き裂き胃を砕き、五臓六腑を満遍なく攪拌する。

 腹の中身を粉砕し、奥底に立つ腰椎を破砕した靴底が、再び背後の胸壁に突き当たる。固い胸壁が重い音と共に微かに揺れ、表面のコンクリートが薄く剥がれ落ちる。

 

 男の口から、赤いゲロが噴き上がる。胃の内容物を、胃の欠片ごと噴き上げる。

 男が履いているチノパンの股下が、赤黒く濡れていく、肛門からも、腸の内容物や腸の欠片が噴き出たようだ。

 

 激痛に悶える男の体。私の足裏は、彼の体が発する悲鳴を、存分に感じ取っている。

 痛いか、痛いんだろうな。私の顔に浮かぶ笑みが深くなる。

 

 腹を蹴られると痛いよな。私もさっき蹴られたから、よくわかるよ。本当によくわかるよ。

 これはお返しだ。本当は二発蹴られたからもう一回蹴りたいところだが、そこはおまけしてやるよ。

 次でとどめを刺してやるよ。痛みのない世界に送ってやるよ。よかったな。感謝しろよ。感謝して死ね。

 

 緩慢にも見える動作で、男の腹から足首を抜く。未だ浅い呼吸を整え、私は男の顔を見る。

 

 男は、もう私を見ていなかった。世界を見ていなかった。

 顔をわずかに上に向け、私の背後にある何かを、夜の背後にある何かを、ただ見つめていた。何かを眺めるかのように、何かに救いを求めるかのような目で、夜の先を見つめていた。

 

 この男は、今何を見ているのだろうか、何が見えているのだろうか。

 ああ、走馬灯か、走馬灯を見ているのか。人生の終わりに、人生を振り返っているのか。

 

 うらやましい、うらやましいな。

 こいつは50年も生きてきたのだ、さぞ多くの過去を追憶していることだろう、さぞ多くの経験を追想していることだろう。

 

 わたしは、そこまで長く生きていない。

 そして、そこまで長くは生きられない。

 

 私は家族と酷い別れ方をして、本部で酷い教育を受け、今は酷い方法で人を殺す仕事をしている。私はそのうち、酷い方法で殺されるだろう。近い将来、私は酷い死に方をするだろう。

 望まない人生を歩んでいる私、短い人生が確定している私。50年も生きることができない私には、ヤクザとして自堕落に、そしてだらだらと半世紀を生きたこの男の人生は、嫉妬するに値する。

 

 私の心が黒くなる、怒りが再び舞い戻る。

 私は再び、男を蹴りつけた。

 

 最後の蹴りは、顔。とどめは、顔。

 

 上げたままの脚を下ろさずに、再び前蹴りを放つ。今までの横一直線に伸びる蹴りとは違う、上段への蹴り。軸足に込めた重心を崩すことなく、真っすぐに伸びた脚が男の顎に命中する。

 

 男の顎の骨が砕ける音、男の顎の骨が後頭骨にめり込む音が、胸壁を反射板にして海岸中に響く。割れ、砕け、潰れる音。下顎骨(マンディブラ)が粉々になり頭部奥に押し込まれる音が、私の耳に響く。

 

 背後に胸壁が立っているため、男の体に逃げ場はない。蹴りが与える衝撃から逃げることはできない。私の脚による破壊を、ただ甘受するしかすべはない。

 リコリスの防爆靴とリコリスの脚の筋肉によって発生した破壊力は、男の下顎を砕くのみならず、その奥にある延髄をも破壊する。胸壁と靴裏に挟まれ圧縮された後頭部から、血液髄液唾液体液粘液が勢いよく噴出する。耐圧容器部分に穴が開いたスプレー缶のように、盛大に中身をまき散らし、灰色の胸壁を汚い色で染め上げる。

 

 二度、三度、男の体が大きく痙攣する。断末魔の痙攣、最後のあがき。楽しそうに踊る、男の死体。

 

 私は、男の痙攣が終わるまで、足底を離さなかった。男が完全に死体になるまで、足をめり込ませたままにしていた。

 やがて、夜は静かになる。耳に入るのは、海から聞こえる波の音。耳に入るのは、男の死体から聞こえる血が滴る音。

 

 血にまみれた靴を、そっと離す。血にまみれた脚を、そっと下す。

 

 男の顔は、下半分が消滅していた。

 

 本部リコリスの蹴りにより、潰れ圧縮された下顎部は、喉の奥にめり込んでいる。この死体を初めて見る人は、顎が吹き飛んでいると思うことだろう。

 下顎が消えたため、上顎の裏面が、私の目にしっかりと映る。乱雑に生えた上顎の歯列の白色が、赤黒い血にまみれた口内を彩る不潔な差し色となっている。

 頸椎という支えを失っているにも関わらず、なぜか頭部は項垂れることもなく、頭を片側に傾けた姿のまま、真っすぐに前を見ている。見開いた両目が、真っすぐ私を見ている。非難がましい目で、私を見つめている。

 

 生の光を失った目。この目が最期に見たのは、肌をむき出しにして迫る私の脚だったのだろうか、歯をむき出しにして笑う私の顔だったのだろうか。

 

 男の目に、私の顔が見える。光のない瞳が光を反射し、光の消えた私の顔を映す。

 今は無表情な私の顔。この私の顔は、男を蹴り殺す寸前、笑っていた。お前は、笑っていた。男の目が、そう訴える。

 お前は、笑っていた、と。

 

 笑っていた…

 

 夏なのに、震えが来た。

 全身の体温が抜ける。全身の力が抜ける。

 思わず、私は座り込んだ。寒さに震えた。

 

 低くなる体温をこれ以上逃がさないよう、両腕で自分の体を抱きしめる。

 今までかいていた汗が、冷たい水滴になる。濡れた全身が、寒い。

 

 身体が、震える。

 

 この寒さは、気温によるものではない、恐怖による凍えだ。私という存在への、恐怖からくる凍えだ。

 

 私は今、笑っていた。

 笑って、人を殺した。

 

 男を蹴り殺す時、笑っていた。

 人間を殺す瞬間、笑っていた。

 

 殺人快楽に酔っている笑みではなく、怒りによる殺意に付随した笑みだったのだろうが、笑っていたことに変わりはない。

 

 私は、笑っていたのだ。笑いながら、人を殺したのだ。

 

 組長ヤクザと戦う前、私はこの男が笑みを浮かべていることに怒りを覚え、更には軽蔑した。

 人を殺す時に笑う性格、人の命を奪う時に笑みを浮かべる性根、私はそれを嫌悪する、憎悪する。その時私は、そう思った。

 快楽や衝動によって人を殺すのではない。任務のため殺すのだ。仕事だから、仕方なく仕様がなく殺すのだ。そう考えていた。

 

 自欺だった、それは自己欺瞞だった。

 

 私も笑っていた、笑って人を殺していた。

 

 私も、性根はこのヤクザと同じなのかもしれない。私がこのヤクザに怒りを感じたのは、ただの同族嫌悪だったのかもしれない。

 

 人を殺すという行為。人の命を絶つ行為。リコリスである以上、その行為に私情を挟んではいけない。

 しかし、先ほどの私の蹴りに、私情がなかったと言えるだろうか。

 

 私情は、入っていた。私情を込めた、蹴りだった。

 

 殺すだけならば、最初の一撃と追撃の一撃だけで、任務は終了していた。胸部に二発の蹴り、これだけで相手の肺は砕け、やがて心臓も停止していたはずだ。

 

 しかし、私はその二発だけでは飽き足らなかった、満足しなかった。

 

 更に腹部への蹴り。これは先ほど二回腹を蹴られた復讐だった。

 更に頭部への蹴り。これは先ほど頭近くを撃たれた復讐だった。

 

 私情を露わにした、復讐心を露わにした、醜い追撃。必要以上に相手を苦しめ殺す、醜い行為。

 

 私は、こんな人間だったのか。

 私は、ここまで屑だったのか。

 

 震えが止まらない。自己嫌悪が止まらない。

 胸壁に磔にされたヤクザの足元に、私はうずくまる。磔刑にされた聖骸に許しを乞うかのように、私は座り込む。

 

 寒さで、震えが止まらない。体温が、戻らない。

 いや、私には、体温はなかったのかもしれない。私の心は、温かくなかったのかもしれない。

 

 

 私は、夏の最中に凍えるほどの、冷たい心を宿した人間だったのかもしれない。

 

 

 

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