モブリコ辺境暦   作:杖雪

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8月 初めて人を殺した日 ⑭

 

―あな冥府の風吹きそめたり

 

 

 私は、ただ恐怖した。

 自分のしてしまった事に、ただ恐怖した。

 

 私は、人を殺した。

 

 それも残酷に、残忍に。

 苦悶を、苦痛を、激痛を与え、殺した。

 

 明らかに、やりすぎた。

 明らかに、やりすぎだ。

 

 私は、ここまで非道い人間だったのだろうか。

 私は、ここまで外道な人間だったのだろうか。

 

 ちがう、と私が弁護する。

 

 私がヤクザをここまで痛めつけたのは、DAの教育が悪かったからだ。

 DAの歪んだ教育のせいで、私の心が歪んでしまったのだ。

 

 ちがう、と私が反論する。

 

 DAのせいにするな。どのような育ちを経ようと、自分は自分だ。

 歪まずにDAを卒業した、清い心のリコリスだって数多くいる。歪んでしまったというのならば、それは自分の心が弱いせいだ。

 諸咲の地で得た仲間たちを見よ、名古屋支部で出会った同士たちを見よ、モブリコ寿司に来たリコリスたちを見よ。皆立派な心根の持ち主だ。自分と同じ教育を受けたにもかかわらず、彼女たちの視線は皆真っすぐで、心魂は明るく輝いている。

 

 おまえの周囲に散らばるヤクザの死体。それはおまえの醜い心が作り出した、己の内面を写し出した彫像だ。直視しろ、これがお前の本性だ。

 

 おまえは、人殺しだ。

 おまえは、殺人者だ。

 

―あな冥府の風吹きそめたり

 

 夜の闇が、うたをうたう。

 

 殺人者をよろこび迎えてうたえる諸にんのうた。

 昭和十八年に、十八歳の若者がうたったうた。

 

 転瞬に哭けとうたう。

 久遠に殺せとうたう。

 

 私という名の殺人者を、迎えてうたう。称えてうたう。

 

 嘲るように、罵るようにうたう夜の声は、やがて高く響く音となり、波の音と同化する。私の心に言葉だけ残し、声は音になる。声明の如き音は管弦楽の色となり、くるくる回る電波塔の光に溶け込むように鳴りきらきらとひかる。

 

 回り光り、交錯する音。鳴り響く高音は、ピアノの音のようにも聴こえる。不規則に連続する高音は、ひかりの鱗粉となって夜を覆う。めくるめく情味を伴い打鍵するアルペッジョ、突如出現する変ト長調の和音が明るくも騒がしい。

 

 私はかつて、このような音楽を聴いたことがある。ラヴェルのピアノ組曲「ミロワール」の第一曲。

 あの第一曲の題名は、蝶だったのだろうか、蛾だったのだろうか。

 

 私は、この曲を聴くたびに考える。この曲を思い出すたびに考える。この曲は、蝶なのだろうか、蛾なのだろうか。私は、蝶なのだろうか、蛾なのだろうかと。

 フランス人は、蝶と蛾を特に区別しないのかもしれないが、私にとっては、重要なことだ。蝶でありたかった私にとっては、この区別は大事なことだ。

 

 しかし、私は蝶になれない。私は、蛾なのだろうなと思う。リコリスとなり、殺人者となった私はそう思う。

 この曲の題名も、蛾なのだろう。実際、この曲を題材にしたファルグの詩にも蛾はでてくるのだ。

 

 波音の拍手と共に演奏される、切ない音楽。夜空を舞う、黄金色の鱗粉。

 

 金色の粒子が、ヤクザたちの死体に降りそそぐ。お前たちは人間ではない、蛾なのだと降りそそぐ。

 金色の粒子が、夜空を見上げる私に降りそそぐ。リコリスは人間ではない、蛾なのだと降りそそぐ。

 

 もはや、明るい世界に飛び立てない、明るい世界に戻れない、殺人者の私、蛾の私。

 世の中は暗い。電波塔の光だけが、私の光、陽の光。久遠の夜を照らす、転瞬の光。

 

 電波塔に照らされる中、私は立ちあがり、周囲を見た。鱗粉輝く、夜を見た。

 

 明るいよるのなかに、あたまがみえた。

 くろいあたまがみえた。

 

 胸壁の上、ソーラーパネルの上、海の上。私の視界のそこかしこ、広い世界のそこかしこに、たくさんの頭が見える。

 夜の闇に塗られた頭は、真っ黒だ。真っ黒な頭が、たくさんの頭が、輪郭だけを鮮明に表して並んでいる。

 

 いや、はっきりと見えているのは、輪郭だけではない。

 眼だ、眼もはっきりと見えている。黒い頭に光って見える、二つの目。

 

 黒目はない、白目だけだ。

 なんで白目しかないのだろう。

 

 白い目が、二つ並んでいる。黒い頭の黒い顔に、二つ付いている。

 頭たちは、私をみつめている。

 皆が見ている。蛾と同じ色の制服を着ている、蛾のような私を見つめている。

 

 私は、周囲を見渡す。怯える私の感情が、視界を揺らす。

 

 ヤクザの死体たちも、私を見ていた。頭だけを立てて、私を見ていた。

 ヤクザの頭も、黒くなっていた。輝く白目で、私を見ていた。

 

 おとうさんも、おかあさんも、私を見ていた。頭だけを私に向けて、私を見ている。

 黒い頭になって、白い目になって、私を見ている。

 おにいちゃんも、私を見ている。地面に転がったお兄ちゃんの頭も、黒くなっている。

 

 みんなが、私を見ている。電波塔の光が、私を照らす。

 

 蛾になった私を、皆が見る。なんでだろうと、私は考える。

 

 視線が、痛い。光が、痛い。

 

 ああ、非難しているのだな。怒っているのだなと、私は気が付く。

 この頭たちは、電波塔の被災者だ、電波塔で亡くなった方たちだと、私は気が付く。

 

 それならば、怒って当然だ。非難して当然だ。

 

 銃火器を手にした殺戮者たちによる、一方的な惨劇。かつて電波塔にいた方々は、一方的な暴力で、一方的に殺された。

 そのような方々が眠る電波塔、慰霊の断碑である電波塔が見守る中、私は、一方的な暴力でヤクザたちを惨殺した。

 

 怒って当然だ。非難して当然だ。

 

 電波塔の悲劇を生き延びた私が、電波塔の真下で、かつてのテロリストたちと同じことをしている。生身の人間に銃弾を浴びせ、半死の人間にとどめを刺す、冷酷な殺人者になっている。

 

 怒って当然だ。非難して当然だ。

 

 お父さんも、お母さんも、お兄ちゃんも、怒っている。生き残った私が、殺人者になったことを怒っている。

 ヤクザたちも、怒っている。無惨に殺されたこと、凄惨に殺されたことを、怒っている。

 

―あな冥府の風吹きそめたり

 

 夜の闇が、うたをうたっている。

 

 電波塔から放出される光が、眩しい。世界が、妄想の光で照らされる。

 

 金色の鱗粉が、宙に舞う。ヤクザの魂の欠片たち、生命の粒子たちが、明るい夜空に消えていく。

 

 蛾の鱗粉は、死んだ人の魂なのだと、私は知った。

 

 これから、私は、蛾になるのだろう。

 殺した人の魂のかけらを鱗粉として身に纏い、死んだ人の心のかけらを鱗粉として夜空にまき散らす、色褪せた蛾になるのだろう。

 

 サードリコリスの制服の色は、蛾の色。

 

 リコリス候補生としてDA本部に連れて行かれ、サードリコリスの幼年用制服を着た時点で、私の運命は決まっていたのだ。蛾になる運命は決まっていたのだ。

 

 愕然とする私を、電波塔が非難する。

 

 転瞬に哭く私を、責める。

 久遠に殺す私を、咎める。

 

 もう、いやだ。

 

 帰りたい。

 

 どこに?

 帰る場所はあるのだろうか、この私に。

 

 私は、たちあがる。

 

 よろめきながら、歩き出す。

 お母さんのいる方向に、歩き出す。

 

 かつて、電波塔での最初の爆発から生き延びた私は、お母さんの所へ歩いた。

 あの時と同じ足取りで、あの時と同じ感情で、私は歩き出す。

 

 世界はいつしか、電波塔の中。

 

 壊れた室内、壊れたお店、壊れた人間、すべてが壊れた、電波塔の中。

 スプリンクラーの散水と、煙の臭いが立ち込める、混濁した被害現場。

 

 その中を、私は歩く。

 

 帰ろう。

 帰るんだ。

 

 どこに。

 

 それは…

 

「スギナ」

 

 声がした。

 

 おかえりなさい、と声がした。

 

 妄想の世界からの声ではない、生きた人の声。

 記憶の不随意的再体験ではない、生きた現実。

 毎日聞いている、生き生きとしたあの人の声。

 

 先輩、と私はつぶやいた。

 

 そうだった。

 私は、そこに帰るんだ。

 

 私の帰る場所、私の風待先輩は、私の目の前にいた。

 私が歩こうとする道の先に、私の風待先輩がいた。

 

「スギナ…よく頑張ったわね。よく耐えたわね」

 

 私の風待先輩、私だけの風待先輩が、両手を広げ、私の前に立っている。

 

 いつもと同じ足取りで、いつもと同じ感情で、私は歩き出す。

 先輩の目の前に立った私、何か言おうとした私を、先輩は抱きしめる。両肩に手を回し、引き寄せるかのように抱きしめる。

 

 死体と鮮血が彩る地面、暗い夜道に落ちた二つの夜影が、ひとつになる。二人の影に隙間が出ないほど、先輩は私を強く抱きしめる。私の頭を、胸元に押し付けるように強く抱きしめる。

 

 先輩の胸の中に、私の顔が埋まる。柔らかな乳房が、私の顔を優しく挟む。優しく流れる、静寂の時間。

 私が呼吸をするたびに、先輩の匂いが鼻腔に充満する。外界に溢れる死臭は、先輩の乳房の隙間に籠る甘い匂いと、先輩の着ている薄地のシャツを濡らす汗の匂いで濾過され、私の肺を満たす。

 

 私は、何度も大きく息を吐く。その度に先輩の肌が蒸れて、更に匂いが増していく。

 私は、何度も大きく息を吸う。その度に蒸れた匂いが鼻に入り、脳髄を痺れさせる。

 

 先輩の、体のにおい。刺激的で濃い、夏のにおい。

 普段から嗅いでいる、におい。毎日漂っている、におい。

 日常の、におい。生活の、におい。

 部屋の中で、布団の中で、私の隣で、いつも薫っていた、先輩のにおい。

 

 帰って来た。日常が帰って来た。

 戻って来た。生活が戻って来た。

 

 先輩が、来てくれた。

 

 私の肩から、力が抜ける。

 私の足から、力が抜ける。

 

 倒れそうになる。

 倒れそうになる、私。その私を、先輩は、しっかりと抱きしめてくれた。

 

 先輩の唇が、私の頭頂部に当たっている。私の頭の上で、先輩が匂いを嗅いでいるのがわかる。私の頭の匂い、髪の匂いを嗅いでいるのがわかる。

 

 私も、大胆に息を吸う。先輩の肌に浮かぶ、夏の匂いを吸う。

 

 互いに抱き合い、互いの体臭を嗅ぎ合う。生々しい、動物のような行為。

 野に棲む獣たちのような行為が、私たちを安心させる。本能の赴くままに嗅ぎ合う原始的な行為が、私たちに生を実感させる。今という瞬間が、死のためではなく、生のためにあるという、安堵のひと時。

 

 先輩の手に、力が籠められる。ますますきつく、胸元に顔が押し付けられる。私の両頬が、先輩の大きな乳房で挟み込まれる。大きな質量で、挟み潰される。少し息が苦しいが、気持ちよく、心地よい。

 

「スギナ…スギナ…よく頑張ったわね。見事に殺せたね」

 

 先輩の声が、頭の上から聞こえる。

 

「先輩…私、ダメでした。こんなヤクザ相手に、無様な…」

 

 口を胸元に押し付けられているせいで、くぐもったような、ぼやけたような声しか出せない。薄布ごしに私の吐息を感じたのか、先輩の体が少しくすぐったそうな反応をする。

 

「いいのよ、最初は誰だって上手にいかないものよ。どれだけ無様でも、どれだけ窮地に立たされようとも、殺しさえできればいいのよ。一人で殺すことができた、今夜はそれだけで上出来よ」

 

 感情が昂っているのか、先輩は早口で私に語りかける。私が胸元で頷くと、また早口で語りかける。

 

「それにね、スギナが最後のヤクザと闘っていた時、どれだけ危険な目にあっても、私に助けを求めようとしなかった。あくまで自分の力だけで任務を遂行しようとしたスギナは、すごく立派だった。立派な諸咲リコリスだったわ」

 

 先輩の言葉に、私の胸が熱くなる。

 

 私は組長ヤクザと殺し合いをしている最中、かなり危機的な状況に陥っていた。ヤクザ如きに殴られ、無様に転倒し、上から銃を突きつけられるという、本部卒リコリスにあるまじき窮地に陥っていたのだ。

 

 その時私の混乱する頭の中では、この状況を打破する何十パターンもの反撃策が脳裏をよぎっていた。DA独自の徒手格闘術のうち、倒れた状況下で使える技の数々や、不利な状況下で相手の隙を作る交渉術など、本部で習った打開策が、錯乱と幻覚で不明瞭になった思考の片隅で走馬灯のように点滅していた。

 

 あの時の危機を逃れる策、幾通りも浮かんだ策の中に、風待先輩の姿は入っていなかった。

 

 先輩はセカンドリコリスだ。たとえ非武装でも、たとえ遠くにいても、私が先輩の名を叫べば、助けに来てくれたかもしれない。

 しかし、私は叫ばなかった。私の脳裏には、先輩の名は閃きすらしなかった。

 

 今日の任務は、私一人の任務だ。

 一人の任務は一人でこなせなくては、一人前にはなれない。

 

 相手は、ただのヤクザだ。弱い相手には強く、強い相手には弱い、ただのヤクザだ。

 ヤクザ程度の敵に仲間を呼ぶのは、本部卒リコリスの名折れだ。

 

 今回の任務は、殺害以外のすべてに、先輩の手を借りている。ヤクザという弱いターゲットを選んでもらった、一緒に下見をしてもらった、周囲の人払いまでしてもらった。何から何までしてもらった、過保護なまでのお膳立て。このうえ殺害まで先輩の手を借りてしまっては、この先私は一生一人前にはなれない。先輩の隣に立てるだけの立派なリコリス、かつての先輩のバディだったセノカさんを越える立派なリコリスにはなれない。

 

 私にだって意地はある。意地と矜持の旌旗(はた)を立てる気概はある。先輩の相棒になるための最初の試練で、へらへら笑って先輩に助けを乞うくらいならば、三下ヤクザに撃ち殺された方がまだましだ。怯懦な私にでも、その程度の意地はある。その程度の意地も張れないようでは、セノカに笑われる。

 

 私のその気概、ただの薄っぺらい決意だが、最後まで押し通したこの気概を、先輩は見ていてくれた。先輩は評価してくれた。

 

 私の先輩は、いつも私のことをわかってくれる。

 先輩だけが、常に私の心を深く見てくれている。

 この世の中で、先輩だけが私を評価してくれる。

 

 それが、嬉しい。

 

 思わず、涙が出る。

 

 先輩の胸に押し付けた私の顔を流れる涙が、先輩のシャツを濡らす。先輩の汗と私の涙が、シャツの繊維に染みこんでいく。

 

「よく頑張ったわね、よく殺したわね」

 

 感激に震える私に、先輩の言葉が心地よく響く。

 

「これでスギナは、一人前になったのよ。一人前のリコリスになったのよ…スギナ」

 

 先輩の言葉が詰まる。抱きしめる手が、少しだけ震える。

 

「スギナ…ごめんなさい。私はスギナを、一人前のリコリスにしてしまった…ごめんなさい」

 

 人殺しにしてごめんなさい、と小さな声で繰り返す先輩。その声は、少しだけ涙に濡れている。

 

 葛藤が、あったのだろう。

 

 リコリスとして当然のこととはいえ、人殺しのお膳立てを整え、殺人を教唆したこと。寝食を共にしたバディが、初めて人を殺すのを、遠くからただ見守っていたこと、助けなかったこと。

 私が人を殺していた間、先輩は心を痛めていたのだろう。私が危険な状況になったとき、駆けつけ救おうとする気持ちを無理に抑えていたのだろう。

 

 助けたかったのだろう。しかし、助けることはできなかったのだろう。

 

 新人が一人前のリコリスになるための儀式。リコリスになるための通過儀礼。リコリスならば、誰もが通る道。

 この大事な儀式には、一人で立ち向かわなくてはならない。孵化する最中の蛹に触れてはいけないように、この試練だけは他者の手が触れてはいけないのだ。

 

 だから、先輩はただ見守っていた。この辺境の籠の中で、過保護なまでに優しく育ててくれた先輩が、ヤクザと殺し合う私を、ただ見守っていた。

 

 辛かったのだろう、助けたかったのだろう。

 もしかしたら、私以上に心が乱れていたのかもしれない。

 

 人殺しを無事終えた私の前に駆けつけた先輩、弱った私を力いっぱい抱きしめてくれている先輩は、ごめんなさいと繰り返す。先輩が悪いわけでもないのに、ごめんなさいと繰り返す。

 もしかしたら、今も心が乱れているのかもしれない。

 

「いいんです…先輩」

 

 露わになった先輩の感情が、私の心を逆に落ち着かせる。

 

「先輩、私、覚悟はしていました。いつか人を殺すこと、覚悟していました。人を殺して生きる人生を選択したのは、私自身なんです。だから、どれだけ電波塔が非難しても、私は生きて、先輩の横に立ちます」

 

 これからも人を殺しながら、生きていく。リコリスとなった以上、それ以外の選択肢はない。

 一年生きて、また五月の漁港で、先輩と一緒に旗揚げの空を見上げよう。春の終わりに先輩と交わしたあの約束を守るためには、私は人殺しも厭わない。そう決意していた。

 

 先輩も、私の決意を感じてくれたようだ、しばらく無言のまま、私たちは一つの生きた柱になる。

 

「ねえ、スギナ」

 

 頭の上から、先輩の、心配そうな声が聞こえる。

 

「スギナ…また電波塔が見えたの?」

「…はい」

 

 先輩に、ウソはつけない。私は素直に頷く。

 私を抱く先輩の腕に、力がこもる。

 

「そう、だから途中から動きがおかしかったのね…サードとはいえ、本部卒がヤクザ程度の相手にここまで苦戦するなんて、おかしいと思っていたわ」

 

 先輩の頬から落ちる汗が、私の頭頂部に落ちる。先輩は、何か考えているらしい、会話が、少しだけ停止する。

 

「ねえ、スギナ」

 

 先輩が尋ねる。

 

「スギナは、また電波塔に戻ろうとしていたの? お母さんやお父さん、お兄さんに会いに行こうとしたの?」

「…はい」

 

 先輩に、ウソはつかない。少しためらった後、私は頷く。

 

「そう…」

 

 先輩の声が再び途切れる。先輩の感情が、読めなくなる。

 波の音と、先輩の鼓動だけが、私の耳に響く。しばらくの幕間をつなぐ、単調な音。

 

「ねえ、スギナ」

 

 先輩の声が、聞こえる。

 

「今も、電波塔は見えている?」

「はい、三つ見えています。私たちを、照らしています」

 

 先輩の胸の谷間を通して、わずかに私の目に入るスポットライト。七色に変化するにぎやかな灯の三重唱は、ヤクザを殺した時ほどの激しさはなくなっているが、それでも田舎リコリスのチープな愛情劇を演出するかのように、か細い光で私たちを照らし続けている。

 

「スギナ」

「はい」

「…いい機会よ。スギナ、電波塔に、お別れを言いなさい。お母さんたちに、お別れを言いなさい」

 

 決意の籠った、先輩の声。

 

「スギナは今日、人を殺した。殺人者は、天国には行けない。もうスギナは、電波塔には行けないの。人を殺したスギナには、ご家族に会う資格はないの」

「先輩…」

 

 衝撃的な、先輩の言葉。

 しかし、そうかもしれない、と私は思う。そうなんだろうな、と私は思う。

 

 生きている私は、死んでいる家族には会えない。

 先輩と生きようと誓った私には、死者の園には入れない。

 

 どれだけ会いたくても、生身の私は、家族には会えない。どれだけ祈っても、エウリディーチェは訪れないように。どれだけ待ちわびても、ゴドーは来ないように。

 

「スギナは、もう電波塔には行けない、お母さんたちには会えない。人殺しのスギナは、人殺しの私のもとでしか生きられないの。だから、お別れを言いなさい。さようならって、ひとこと言うだけでいい。電波塔と、ご家族にお別れを言いなさい」

 

 先輩の声が、激しくなる。静かだが、叫んでいるかのような、震え声。

 

「もう会えないって言いましょう、スギナ。電波塔には、スギナの居場所はもうないの。スギナには、もうここしかないのよ。わかるでしょ、わかってね、スギナ」

 

 先輩の鼓動が、激しくなる。波の音より大きく聞こえる、先輩の心臓の音。

 

「さあ、早く電波塔にお別れを言いいなさい。私は人殺しだから、もう会えないって言って。言いなさい、スギナ。言え」

 

 荒々しく、剥き出しになった言葉に、なぜか私は安堵する。先輩の心を聴いた私は、小さく息を吸い、唱えるようにつぶやく。

 小さな声で、つぶやく。

 

「…お父さん、お母さん、お兄ちゃん。私は今夜、人を殺しました。ごめんなさい。私はもう、皆に会う資格はありません。私は…私は…」

 

 さようなら、と私はつぶやく。

 さようなら、眼から涙が出る。

 

 さようなら、かつての自分。

 さようなら、いままでの私。

 

 今夜、私はリコリスになった。本物の、リコリスになった。

 人を殺し、殺し合い、殺される、リコリスになった。

 

 大きな虚無感、大きな虚脱感が、私を包む。

 失ってしまったものの大きさに、身が竦む。

 

「よく言えたわね、スギナ」

 

 虚ろな私の心に、虚ろな先輩の声が響く。

 

「これでいいのよ、スギナ。これからスギナは、私と二人、同じ人殺しとしてずっと一緒にいるのよ。同じリコリスとして、一緒にいられるのよ」

「はい」

 

 私は、素直に答える。

 虚ろな私の心に、先輩の声が流れ込む。

 

「今夜からスギナは、私の真のバディ、ずっと一緒、いつまでも一緒よ。絶対会いに行くって言ってくれたのに、全然顔を見せに来てくれないウソつきサクラやモモとは違う。絶対戻って来るって言ってくれたのに、結局帰ってこなかったセノカとも違う。ずっとずっと一緒にいてくれる、離れても必ず帰って来てくれる、私の家族のように突然消えたりはしない、私を絶対に一人にしない、真のバディよ。そうよね、スギナ」

 

 はい、と私は答える。

 虚ろな私の心に、先輩の愛が流れ込む。

 

「よかった…大好きよ、スギナ」

 

 先輩の焦りの声が、喜びに変わる。

 

 ああ、先輩って、顔に似合わずころころと気持ちが変わる人なんだよなと、私は泣きながら苦笑する。

 

 けど今は、その感情の起伏が、妙に心に響く。

 

 私のことで、一喜一憂してくれる先輩。

 

 私も、大好きです。

 

 しばらくの間、先輩の愛の重さと体の柔らかさに身をあずけながら泣いていた私。涙を出し尽くした後、先輩の胸から顔を離す。

 

 そっと、夜の海を見る。

 

 三基建っていた電波塔、夜の海上に輝いていた電波塔は、光一粒残さず消滅していた。

 黒い頭の列も、お父さんも、お母さんも、お兄ちゃんも、影一片残さず消滅していた。

 

 見えるのは、夜の浜辺。寄り添うのは、私の先輩。

 塔の代わりに浮かぶ夜空の闇が、なぜか私の心と同じに思えた。

 

 

 

 

 

 任務を終え気が緩んだのだろう。無性に喉が渇き始めた。

 

 熱帯夜の最中に、走り、殺し、撃ち、戦ったのだ。無理もない。

 汗も涙も胃液も、全て出し尽くしたのだ。無理もない。

 呼吸が苦しかったのは、体全体が乾いていたからかもしれない。そう思えるほどの渇きが、私を襲う。

 

 私の声のかすれ具合で、水分不足を理解していたのだろう。風待先輩が、地面に置いてあるコンビニのレジ袋から、一本のミネラルウォーターのボトルを取り出し、私に差し出す。

 

 表面に水滴が結露している、よく冷えていそうなミネラルウォーター。私は礼もそこそこに、先輩の手からボトルを受け取ると、キャップを開封して水を喉奥に流し込む。

 500ミリリットル入りのペットボトル。私の小さな胃には全部入らないかと思っていたが、予想に反し、あっさりと飲み干してしまう。

 

 一息ついた私は、レジ袋の中からもう一本ミネラルウォーターのボトルを取り出し、口をすすぐ。口内に残った胃液や、地面に這いつくばった時に入った砂を、うがいで何度も吐き流す。

 順番が逆だった、口をすすいでから水を飲んだ方が良かったな、と私は後から思った。順番を間違えるほど、私の体は水分を欲していたのだろう。

 

「しかし、よくコンビニで買い物する暇ありましたね、先輩」

 

 素直な疑問が、口に出る。

 

 この近所には、コンビニはないはずだ。私が四人のヤクザを殺している最中に、買い物に出かけるほど時間の余裕はなかったはずだ。

 私の問いに、先輩は少しだけ気まずげな表情で、夜道の奥を指さす。

 

 指先には、ヤクザが乗って来た黒い車。ドアが開いている。車内に、複数のコンビニの袋が見える。

 

 あ、そこから失敬したのか。

 

 宿泊していた旅館から、車に乗ってここまで来たヤクザたち。旅館を出てから到着するまでの時間が存外に長かったので、途中コンビニに寄っているのだろうと、私は推測していた。

 実際に彼らは、コンビニで買い物を楽しんでから、この場所に来ていたようだ。

 

「海から来る密輸組織との取引を終えた後に、旅館で一息つくために、飲み物を買い込んでいたようね。水とかビールとか、いっぱい積んであったわ」

 

 殺した相手の遺品を漁るかのような行為。先輩が気まずげな顔をしていたのもよくわかる。

 

「まあ、任務後の水分補給は大事よ。喉が渇いたままだと、体力も回復しないしね」

 

 言い訳じみた独り言をつぶやきながら、先輩は缶ビールのプルタブを開け、美味しそうに飲み始める。

 

「あっ! 先輩!」

 

 その姿を見た私の体が硬直する。

 先輩、いつの間にかビール飲んでる!

 

 しかも500ml缶!

 

「先輩! こんなところでお酒飲まないで下さい!」

 

 思わず私は叫ぶ。

 

「いや、私だって汗かいて喉渇いていたし、一仕事終えた後のビールって美味しいし」

 

 車内にビールがあるのが悪いのよ、私は悪くないわと、くだらない言い訳をする先輩を、私はにらみつける。

 

「これから私たち、自転車で帰るんですよ。飲酒後に自転車漕ぐと酔いの回りが早くなりますし、だいいち飲酒後に自転車乗るのは犯罪ですよ!」

「未成年に人殺しさせるような国の法律なんか、守る義務ないわよ」

「それでもダメです! だいたい先輩はそれほどお酒強くないんですから、外飲みは控えて下さい!」

 

 わかったわかった、これ一本だけにしておくわと、妥協しているようで全く人の話を聞いていない台詞を言いながら、冷たいビールを美味しそうに喉に流し込む先輩。

 

 楽しそうにお酒を呑む先輩。手にしたビール缶の銀色が、月の光を反射する。

 

 お酒にだらしない先輩、それを怒る私。狭い下宿で毎晩のように繰り広げられている日常の寸劇が、夜の浜辺で再現される。

 

 ああ、日常が戻って来たんだなと、私は怒りながらも安堵する。

 周囲には、ヤクザの死体。地面には、飛び散った鮮血。

 しかし、私は安堵する。平穏な日々が戻ってきたことに、安堵する。

 

 とりあえず、帰ろう。私は周辺を確認する。

 

 今回の作戦は、他のヤクザ組織への見せしめの意味もあるので、任務後の隠蔽工作は不要。死体も遺留品もそのままにして、帰宅すればいい。

 

 目撃者も、無し。ターゲットの生命反応も、無し。

 すべて無事終了しました、帰りましょうと、私は先輩に語りかけようとする。

 

 言葉は、出なかった。

 

 先輩は、海を見ていた。

 先ほどまでの緩い顔とは違う、鋭い表情。敵を見据える、セカンドリコリスの顔。張り詰めた気配が、冷たい空気となり、私に突き刺さる。

 

「先輩、何かあったのですか」

 

 我ながら間の抜けた質問だ、しかし思わず聞いてしまう。

 先輩は、その質問には回答を与えてくれなかった。代わりに与えてくれたのは、困惑したような独り言。

 

「どうして…どうして来るのよ。なぜ、あいつらが来るのよ…あいつら、いったい何を間違えているの?」

「だれか、来るのですか?」

 

 またもや間の抜けた質問。私は本当に間が抜けている、間の抜けたサードリコリスだ。

 

「2隻、10名。あと5分ほどで浜辺に付くわ…なんで来るのよ! どれだけ間抜けなの! 合図の灯りなんか見えなかったでしょうに!」

 

 独り言の様な、愚痴の様な、叱りつける様な先輩の言葉で、私にも状況が理解できた。

 

 どうやら、この近辺にいる間抜けは、私だけではなかったらしい。

 

 夜の海の向こう、大亥港と豊岡港の中間で停船している運搬船。はるか外国の地から、海を越えてきたこの運搬船の正体は、通常貨物と一緒に、密輸品の麻薬と、輸送用ゴムボート、そして麻薬組織の人間たちを載せた密輸船である。

 その密輸船から、ジブクレーンで下ろされた二隻のゴムボート。

 取引時刻に、陸上から合図の光が無ければ、そのまま撤収するはずだったゴムボート。合図役のインテリヤクザが死んだ今、来るはずもなかったゴムボート。取引先のヤクザ組織が壊滅した今、来る意味もなくなったゴムボート。

 

 それが、なぜか、来る。

 たくさんの麻薬を詰め込んで、多くの護衛を連れ込んで、ゴムボートは今、私たちの目の前に上陸しようとしている。

 

 私は呆然と、夜の海を見つめる。

 

 サードリコリスである私の視力では、闇の奥に蠢くゴムボートの姿は見えなかったが、やがて微かに、白い航跡が見え始める。

 真っすぐにこちらに向かってくる、二つの航跡。わずかに聞こえ始める、エンジンの音。

 

 私たちの平穏な日々は、まだしばらくは来ないだろう。

 私たちは、まだしばらくは修羅の世界にいるのだろう。

 

―あな冥府の風吹きそめたり

 

 夜が、まだうたっていた。

 

 

 

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