お風呂から上がり、風待先輩が貸してくれた寝間着に袖を通すスギナ。
先輩の匂いが残る衣類を身に着けるのは、なんだか嬉しい。
折り畳み式の座卓をどかして敷かれた二つの布団に、スギナは寝っ転がる。
お風呂から出て横になると、今日一日が終わったという実感がわく。
軽く目を閉じ、朝から今までの出来事を漠然と反芻するスギナ。
朝本部を出たのが、遠い昔のような気がする。
それだけ、今日一日いろいろなことがあったのだろう。
居間のドアの向こうで、風待の使うドライヤーの音がする。
どうやら、風待先輩も風呂からあがったようだ。
目を開けると、吊り下げ型の照明器具の光と、古びた板張り天井が視界に広がる。
合板の上に印刷された、規則正しい木目調が並ぶ天井をぼんやりと見つめる。
初めて一人暮らしする学生や若者が、家を離れ遠郷に来たということを一番感じる光景は、昼間に見る外の景色ではなく、就寝時に見上げる天井であるという。
DA本部棟で昨夜まで見上げていた天井とは全く違う、田舎の安アパートの天井。
それは、今日から生活の場が変わったのだということを、スギナに強く感じさせた。
「お待たせスギナ、パジャマの丈は問題なかった?」
「はい、少しまくれば大丈夫でした。ありがとうございます」
長い髪を乾かし終えた風待が、寝間着姿で部屋に入る。
風呂上がりの体に、ゆったりとした寝間着を身にまとう風待の姿は、きっちりした制服姿が醸し出す峻厳な美とは違う、柔らかな愛らしさをたたえている。
「スギナの部屋着や下着は、明日買いに行きましょうね。自分専用のコップとかお箸とかは、スギナの気に入るのが見つかるまでは私の予備を使っていいから」
風待が寝っ転がっているスギナに話しかけながら、スツールに座り、ノートパソコンの電源を入れる。
長い暗証番号を入力し、LC3Iシステムのメインページを開くと、風待は本部から送られてきたメールを確認しながら、DA本部と名古屋支部、そして直下の歌島支部にスギナの着任報告の文章を書きはじめる。
静かな夜だ。パソコンのキーを叩く音、キッチンから聞こえる冷蔵庫のモーター音、ラックの上の古びた目覚まし時計の音、それと何だろうか、外から規則正しい音が小さく聞こえてくる。
「スギナの制服一式は、明日10時に届くみたいよ。本人の内容確認が必要だから、スギナが受け取ってね」
リコリスの制服は、厚手の冬服が2着、薄手の春秋服が2着、そして半袖の夏服が4着の、計8着支給されている。
一般の防弾衣より軽いとはいえ、特殊素材製の制服はある程度の重量があるため、まとめて持ち運ぶには手間がかかる。そのため、リコリスが異動する際、制服は予備のカバンや靴などと一緒に、専門業者の宅配便で配送される。
スーツケースを使えばいいようなものだが、任務や異動中のリコリスは手がふさがるような荷物を持つことはなるべく控えるよう指示されている。
そのため、今日スギナが本部を出る際に持ち出せた私物は、特殊装備を内蔵したサッチェルバッグのわずかな収納スペースに入れることができた、替えの下着一日分と化粧品の入ったポーチ、それと歯ブラシだけだった。
「あと、私と位置情報を共有できる設定方法のメールもきているわ。私が設定やってあげるから、スマホ貸して」
立ち上がることもせずに風待の足元まで這いずり、腕をあげてスマートフォンを渡すスギナ。
風待に気を許しているということもあるのかもしれないが、スギナは一度だらけると、何事もものぐさになるタイプのようだ。
風待は受け取ったスギナのスマートフォンと自分のスマートフォンを手際よく操作し、お互いの制服に付属している複数の発信機と、スマートフォン本体の位置情報をすべて共有できるよう設定する。
リコリスの位置情報は、スマートフォンによって常時本部に管理されている。
スマートフォン以外にも、衣類に仕込まれている複数の発信機によって居場所を特定することができる。
発信機の場所は、制服の左第7ボタンと右第1ボタン、右靴の踵。あとは袖口裏の縫い目に錠剤型の発信機が隠されている。
靴の発信機は位置情報確認以外の使われ方はしないが、ボタン型の発信機は、非常時に取り外し、尾行相手の持物に忍ばせ追跡するという使い方もされる。
錠剤型発信機は、単独任務中に拉致された時に、すぐに飲み込める形をしている。
リコリスが捕獲された場合、どのような意図によるかは相手によって様々だが、衣類はすべて脱がされるケースが多いため、体内に隠すタイプの発信機は、自分の居所を伝える最後の手段として重要度は高い。
これらの発信装置から送られる自分の位置情報を、スマートフォンによってバディと共有することにより、作戦時の連携や定期巡回の効率化、相互監視の徹底が行われているのは、DA本部部隊も都会の支部も、そして田舎の支部も変わりはない。
「位置情報と共有と連絡先の交換はこれで終わったわ。最後は、自爆ワードの設定だけね」
「じば…なんでしたっけそれ?」
「このスマホが組織以外の人間の手に渡らないように、ある特定の言葉に反応して物理破壊するシステム、って教育課程で習ったでしょ」
リコリスたちが持つスマートフォンは、外見だけは既製品だが、内部は前述の位置情報システムをはじめ、様々な最新装置や特殊なアプリケーションソフトが組み込まれている。
このスマートフォンを奪われた場合、組織の情報漏洩や技術漏洩、さらには本部メインコンピューターへのハッキングに使われる危険があるため、非常時には最も確実な処分方法である爆破措置が取られている。
「そういえば、スマホ操作の講義中に習ったような…たしか通話中に、事前に設定したキーワードを言うと、スマホが大爆発するんでしたっけ?」
教育課程では実際に使わない機能のため、今まですっかり忘れていたスギナだったが、風待の言葉によって記憶の澱みの奥底に光が当てられ、少しずつ思い出してくる。
「実際にスマホに仕込まれている炸薬は少しだけだから、スギナが想像しているような爆発は起きないわ。せいぜい軽い音がして、画面にひびが入る程度らしいわよ」
「非常時のための装置って習いましたけど、どんな時に使うんですかこの機能」
「んー、まずは戦闘中に致命傷負ったときかな。一人で戦っているときに急所撃たれて、もう助からないなーって時に使うの。自爆コードによる通話停止って、本部にとって死亡連絡の意味もあるみたいね」
さっそくイヤな事例をあげてきたな、とスギナはため息をつく。
「あとは敵に捕まった時ね。そういう時って交渉とかで無理やり本部に電話させられることが結構あるらしいから、その際に本部宛に電話をかけて、担当官との通話を装って設定したキーワードを言うのよ。これで少なくともスマホからの情報漏れは防げるわ」
「…捕まったリコリスが無事スマホ壊せたとして、その後ってどうなるんですか。裏をかかれた相手は無茶苦茶激怒しません?」
「まあ悲惨な目に合うというか、楽な最期は期待できないわね。それでも一矢報いたと思えば、笑って死ねると思うわよ」
この場合もやっぱり死ぬんだ、とスギナは再度ため息をついた。
それでも、そういう時に使うシステムなんだな、ということだけは今の説明で充分に分かった。
「そういうわけで、自爆ワードは通話に見せかけた言葉を使うのが基本なの。単語じゃなくて文章、それも普段使わないような文章じゃないといけないから、考えるのは大変よ。スギナは何か使いたい文章ある?」
風待の問いに、足元で首を横に振るスギナ。
断末魔の時に叫ばなければならない言葉を、風呂あがりに布団の上で横になりながら考える趣味はない。
「それじゃあ、私の文章と同じにしようか。そうすれば、私たちのどちらかが死んだ時、残った方が相手のスマホをすぐ破壊処理できるしね」
風待は自分のスマートフォンが通話モードになっていないのを確認すると、スギナのスマートフォンの自爆コード設定画面を開き、足元にいるスギナに投げ渡す。
「スタート画面をタップしたら、今から私が言う文章を大きな声で3回繰り返してね。私の自爆コードは『アルタイル38番。定時連絡です。担当連絡官の琴座をお願いします』よ」
本当に通話に偽装した言葉なんだな、と感心しながら、スギナは素直に3回復唱しながら自爆コードを音声入力する。
確認ボタンを数回押し、自爆設定が完了した。
なんかこう…私たちの組織って、本当に秘密組織なんだな、とスギナの胸に謎の実感がわいてくる。しかし…。
「しかし…先輩。大声で復唱してから言うのもなんですけど、こういうのって、気軽に話したりしていいんですか?隣の部屋に聞こえそうですけど…」
「ああ、心配ないわスギナ。隣の部屋って、万年空き部屋だから」
カウンターテーブル上のノートパソコンから、設定終了の返信メールを本部宛に作成する寝間着姿の風待。
送信を終えると、大きく伸びをし、敷布団の上でだらしなく寝そべっているスギナに話しかける。
「この角部屋の隣、204号室は他支部のリコリスのためのセーフハウス用に、空き部屋になっているの。この地区が大事件の舞台になった時に増援部隊の待機室として使ったり、あるいは撤退戦や災害等でここまで退避してきたリコリスの緊急避難場所として使うための部屋なんだけど、私の知っている限りだと、これまで使われたことはないわね。たまに換気とか掃除、あとは部屋に置いてある緊急用備品のチェックのために入るけど、私たちの生活には関係ない部屋ね。ついでに説明しておくと、その隣の203号室は大家さんの部屋。そしてそのまた隣の202号室と201号室なんだけど…何というか、あやしいのよねアイツら」
「怪しい?何かいるんですか?」
「奥の角部屋、201号室なんだけどね…なんか、私たちと同い年位のオトコが二人住んでいるのよ」
「男?」
布団から風待を見上げるスギナ。
「そ、オトコノコ。まあ話とかしたことないんだけど、あいつら同じ雰囲気があるのよ、私たちリコリスと」
「なんですかそれ?」
「私と同い年っぽいのに学生ではないみたいだし、朝夕に走り込みとか鍛錬しているみたいだし、本部の戦闘教練で手合せした特殊部隊の人たちと動作が似ているし…」
「自衛官なんじゃないですか、特殊作戦群とか…」
「目つきがなんか似ているのよね…私たちと。年齢からみても、少なくとも非公然組織ね。さらに言うと彼らが住んでいる201号室の隣、202号室も空き部屋なんだけど、たまにあいつらその部屋を掃除しているのよ。私たちと同じく隣部屋をセーフハウスにしているみたいで、そういう共通点が多いのが気になるのよね」
風待先輩でもわからない謎の男たちと聞いて、スギナは少し心配になる。
今まで男っ気のない世界にいたスギナにとって、男性という存在自体が未知の恐怖対象になる。
それが同じ建物に住んでいるということ自体が、また恐怖心を煽る。
「そんな謎の男の人がいるなんて、落ち着きませんね先輩。寝る前に戸締りとか確認したほうがいいですね…」
「そこまで怖がらなくてもいいと思うわよスギナ。203号室の大家さんは私たちの組織の協力者だから、賃貸契約に関してはきちんと国の指示には従っているはず。そんな大家さんが部屋を貸しているってことは、所属は不明だけど、少なくとも私たちの敵ではないわね」
「…けど、話しかけられたりしたら、なんか怖い気もします」
会話は苦手で人見知りしやすく、さらに異性と話した経験が少ないスギナにとっては、仕事以外で男性が話しかけてくるということ自体が怖い。
ましてや同い年の男子となど、一体何を話せばいいのだろうか。
「それは大丈夫。向こうも私たちを警戒しているのか、たまに出会ってもチラチラこっちを見ているだけだから。…まあ私もチラチラと見ることしかできなかったんだけど。けど、最近は軽く会釈ぐらいはできるようにはなったわ」
「それなら、私でもなんとかなりそうです…」
「けどスギナが怖がるのもわかる気がするわ。このアパート、一階は全部屋が漁業関係の方や役場関係の方が臨時で短期間泊まるゲストハウスとして押さえられているから、普段は大家のおばさん含めて2階の5人しか住んでいないの。その内の2人が正体不明って、やっぱりいい気はしないわね」
「やっぱり、戸締りはしっかりしたほうがいいですね…私たち女の子ですし」
まだ少し怖がっているスギナに、風待が笑って答える。
「それは心配ないわスギナ。私の考えでは、あいつらホモだから」
「はい?」
いきなり何言っているのですか?と、スギナの目が丸くなる。
「だって、私たちと同い年のオトコノコって、性欲の化け物よ。そんな日々獣欲に悶える若い男2人が、毎日同じ部屋で、毎晩同じ布団で過ごしていたらどうなると思う?行きつくところは決まっているでしょ」
「あ、そうか…先輩、すごい洞察力!」
ガバッと布団から起き上がり、尊敬の眼差しで風待を見上げるスギナ。
論理的な推考と完璧な結論。
これこそがセカンドリコリス、諸咲支部の頂点に立つにふさわしい明晰な頭脳。
パジャマ姿でスツールの上に胡坐をかき、満面のドヤ顔でニヤニヤ笑う風待の姿は、スギナの目には輝いて見えた。
「その二人が男同士で愛し合っているとしたら…それはとても素敵なことですね先輩」
「そうでしょ、そうでしょ、だから温かい目で彼らを見守ってあげましょうねスギナ」
スギナの顔から、隣人への恐怖感が消えたのを見て満足しながら、風待はノートパソコンの電源を落とした。
「さ、やることはすべて終わったし、お風呂も入って歯も磨いた。それじゃもう寝ましょうか。スギナ、今日一日おつかれさま」
スツールから立ち上がり、電灯の紐に手をかけようとした風待のズボンの裾が、ぎゅっと引っ張られる。
風待が下を見ると、床で寝そべっていたはずのスギナが、敷布団の上で正座し、寝間着の裾を握りしめたまま真剣な顔で見上げている。
「風待先輩。座って下さい」