月の光に照らされる、金色の麦汁と銀色の盃缶。
夏夜の海岸を散歩しながら飲む、冷たいビール。
酔って浜辺に臥しても、スギナは笑わないでね。
それがセカンドリコリスの生きざまなのだから。
先輩! 何言っているんですか!
真面目にやって下さい! スギナはそう絶叫しそうになった。
敵は目の前ですよ先輩! スギナはそう怒鳴りそうになった。
銃を持つ10人の麻薬密売人。
最初は呆然としていた彼らの顔が、次第に正気に戻っていくのが、遠くで見ているスギナにもわかる。
荒事に慣れた密売人たち。彼らの鋭い目が、風待を見つめている。麻薬取引の現場に現れた一般人を、どのように排除しようか、どのように処理しようか、冷たい目で見つめながら考えている。
取引役の背後に立つ、護衛役とおぼしき8人の男たちが、肩に背負った自動小銃を脇に構え直す。
Vz58P、チェコスロバキア軍のアサルトライフル。1958年に採用された旧式自動小銃だが、手入れはされているようだ。銃身、機関部、弾倉、銃を銃たらしめる金属の部品たちは、皆丁寧に磨かれ、大量生産された兵器独特の実直さで、夜の光を冷たく反射し佇んでいる。ハンドガード、グリップ、ストックの樹脂パーツ、ウッドチップを混ぜたベークライトで成形された部品たちは、銃に色味を加える滑らかな茶褐色の肌を月の下に晒しながら、屈強な男たちの腕や掌によってしっかりと保持されている。
風待の目の前に立つリーダー格の男、密売組織の交渉役なのだろう、知恵も威厳も腕力も十分に備えていそうな中年の男が、ショルダーホルスターに収まっている拳銃を抜く。
これも古い銃だ。おそらく旧ソ連のトカレフだろう。慣れた動作で銃を抜き、風待から視線を外さずにスライドを引く。リコリスたちが持つポリマーオートとは違う、全金属製の拳銃特有の鋭い反響音が、殺意の合図となり浜辺に響く。
不審者を見かけ次第、銃を抜き初弾を装填する。先ほど戦ったヤクザたちとは違う、プロの動作。たとえ一般人であろうと、近寄る者には誰何の声一つ与えない、与えるのは一発の銃弾だけ。そのように訓練されている、プロの動き。強敵である。
しかし風待は、彼らの殺意など意に介していないかのように、おもむろにビールを飲む。そこに誰もいないかのように。ここに敵はいないかのように。
酔うか死か。ドランクオアダイ。
本当に何やっているんですか先輩! スギナは胸壁の前で、一人頭を抱えていた。
頭を抱えていたのは、スギナだけではなかった。
拳銃を取り出したチームリーダーの男。表情にこそ出していないが、彼もまた内心頭を抱えていた。
彼は、プロである。海外での密輸取引を何度もこなした、プロである。
偶然か好奇心か、取引中にのこのこと現場に現れた不運な一般人など、彼は何度も出会っている。出会うたびに彼は、何の迷いもなく撃ち殺している。
その彼の心に、今迷いが生じている。
この少女は、何者なのだろうかと。
この少女を、射殺していいのかと。
人気のない夜の海岸、殺すのは、容易い。
しかし、ここまで警戒心のない人間は初めて見る。もしかしたら、取引相手の仲間なのかもしれない。
日本の暴力団組織の構成については、我々は良く知らない。もしかしたら、少女ヤクザというのもいるのかもしれない。
「ストーイ! ニスミェースタ!」
チームリーダーは鋭く叫ぶと、歩み寄る少女に拳銃を向けた。両手保持の構え、本気で撃つ構え。
「アタィヂーチェッ! ストープ!」
再度の警告に、少女の動きが止まる。なぜ呼びかけられたのか、なぜ銃口を向けられたのか、全く理解できていない表情で、男を見つめている。
「スルーシアィ、ウミニァパブロース?」
「カコーィ?」
一般人か取引相手か、敵か味方かわからないため、少しだけ柔らかな口調で質問するチームリーダー。
「ウバスジェノーギィ、ザプリィタユッツァ」
「アスターフィミニャ、フパコィエ。プロースタヤームノーガ、ヴィイピル。ア、ピエーリ、ムニエプローハ」
ただの酔っぱらいか。男は内心苦笑する。
「スタボィフスィヨ、フパリャートキ? ウチビャリーツォタコーバツビエータ」
「ヤー、スリーシカム、ムノーガ、ヴィイピル。ガラヴァー、ラスカールィヴァイツァ」
どうやらこの国も、我々の祖国と同じくらいに、アル中が多いらしい。
念のためもう少し話をして、一般人かどうか確認しよう、確認出来たら、速やかに殺そう。面倒だが、密輸現場は常にクリーンでなくてはならない。男は冷静に、そう考えた。
再び少女に向けて語りかけようとする男。その口が、言葉を発することなく固まる。突如湧きあがった疑問が、男の声を封じたのだ。
この少女、どうして我々の言葉を話せるのだ。
日本人にとっては、我々の言語はマイナー寄りのはずだ。
にもかかわらず、自分が異国にいることを一瞬忘れたほどの、会話の滑らかさ、堪能さはなんなのだ。学校で習ったというレベルではない、流暢で流麗な、自国民と間違えそうなほどの言葉遣い。
状況から推測すると、おそらくこの少女は、自分の問いかけを聴いてから使用言語をスイッチしている。思考言語まで切り替えて、返答している。
よほどの苛烈な言語教育を受けて来たのだろう。我々の言葉が話せるということは、おそらく自分の前に立つ少女は、あと数か国程度の言語を自在に操ることができるはずだ。
多言語話者。言語の壁を容易く取り払う者たち。彼ら彼女らの成り立ちは、二種類ある。
ひとつは、天性の才能。言語に興味のある学生が言語学を修め、自然に多言語を吸収していく、非常の才。
ひとつは、努力の賜物。幼少時より大掛かりな特殊教育を受け、多くの言語を詰め込まされる、非情の才。
いま自分の隣に立つ通訳から、かつて雑談として聞いたことがある。大国が抱える秘密組織の実行役、その中のトップエリートたちは、たいてい多言語話者なのだと。それは我が国でもそうだし、他の国でも同じだと。
取引役であるチームリーダーの男、彼は優秀だった。
無防備な姿でビールを飲む少女と、二言三言交わした会話。その違和感から発したわずかな疑問を、彼はわずかな時間考え、わずかの内に結論を導き出した。
こいつは日本の秘密組織の掃除屋だ、それもエリートクラス。
我々の取引相手、護岸壁の向こうで待機しているはずのヤクザは、すでに全員始末されている。こいつか、あるいはこいつの仲間の手によって。
「アゴーニ!」
男は、優秀だった。
この少女は、全力で叩かねばならない。全火力をぶつけなければならない。背後に立つ8人の護衛役に射撃指示を出しながら、彼もまた少女に向けて引き金を引く。
男の手にした拳銃が、閃光を放つ。放射状に広がるマズルフラッシュを切り裂き、7.62mm×25弾が直線の弾道を伴い射出される。軍用拳銃ならではの重い発射音が、海岸を震わせる。
男の狙いは、ビールを飲む少女の顔面。ほんの少しの容赦も込めずに放った弾丸は、少女の口元を覆っていたビール缶を貫く。厚さ0.1ミリのアルミ缶に穴が開き、中の液体が黄色い粒と白い泡となり周囲に飛び散る。
「先輩!」
スギナは思わず叫んだ。夜の闇の向こうで、銃口が光り、風待先輩が倒れたように見えたのだ。
膝から崩れ落ちる風待。その頭の上を舞う、穴の開いたビール缶。
「先輩!」
夜の暗幕に遮られているスギナの視界。リコリスの視力をもってしても不明瞭な夜の浜辺が、スギナの叫び声で明るく光る。
瞬転する闇の世界。黒色の幔幕は全て切り払われ、幻視の光線が昼間の如き鮮明さで周囲を照らし出す。
私の前から去ったはずの電波塔、その妄像が放つ閃光が、再び世界を照らしてくれたのだと、スギナは心の片隅で理解する。
しかし今のスギナは、何故か出現した電波塔の存在を気にする余裕などなかった。なぜ私の叫びに電波塔が呼応したのかと考える余裕などなかった。
先輩! とスギナはもう一度叫び、光の先に倒れ崩れる風待を見る。
撃たれたのか、負傷したのか、駆け付けねば。疲れ果てた身、もはや動けないほどに消耗しているはずのスギナの全身の筋肉が、風待のもとに駆け寄ろうとプレテンションの状態になる。
しかし、スギナは動かなかった。明瞭になったスギナの視界が見せた光景が、スギナの筋肉を、スギナの本能を押しとどめたのだ。
風待は、銃弾を避けていた。
噂で聞く伝説のリコリスのように、動体視力と反射神経で避けたのではない。風待は異国語での何気ない会話中に、男の目線と構えた拳銃の銃口の向きから、狙いは頭部だと判断していたのだ。そして引き金に添えられた指が動いたと同時に、身を沈めて銃弾を回避したのだ。
事前に着弾部位を予測していたとはいえ、トリガーを引かれてからの回避。それを可能にしたのは、セカンドリコリスならではの機敏さと集中力もあるが、それ以上に、DA独自の特殊な身体操作法もよるところも大きい。
通常動作、普通に腰や足の筋肉を使用して屈むという動作では、引き金を引く速さには敵わない。DAでは戦闘時や緊急時の身体操作として、筋力による動作だけではなく、脱力による動作も教えている。
脱力。今の風待が使った回避は、脱力による特殊な動きだった。
胴体の中心線を乱さずに、膝と腰の関節を脱力、下半身は足首だけに力を込め、屈むというより崩れ落ちる様な感じで、効率よく身を沈めたのだ。
体の部位ごとに緊張と脱力を使い分け、重力や遠心力といった外部要因をも味方につけ加速する本部直伝の身体操作法。無論、本部卒であるスギナもこの身体操作は習得しているが、敵に銃口を突き付けられるという緊迫した状況下で使えるかといわれると自信がない。
この複雑な動作を、酔った状態で精密にこなした風待。男の目には、風待の体がいきなり縮んだかのように見えただろう。
いや、男の視界の中では、風待の姿は消えたように見えたに違いない。風待は、銃弾をかわしただけでなく、この場所にいた人間すべての視線をも操り支配していた。
身を沈める際、風待はそっとビール缶を手放していた。軽く上方向への力を与えられて放られたビール缶は、重力に逆らうかのように空中に停止し、風待の代わりに銃弾を浴び中身を噴出させている。
硬質の貫通音を響かせる缶、周囲にまき散らされる透明な液体。撃った男も、背後の護衛達も、そしてスギナも、思わず空中を跳ねるビール缶に視線を移していた。戦場では何の脅威もない、ただの金属ゴミに過ぎない缶を、全員が見つめていた。
完璧な視線誘導、完璧な隠形術。男たちが視線を送っていたのは、ほんの一秒にも満たない時間だったが、セカンドリコリスには十分な時間だった。男の懐に潜り込み、男に死を与えるには十分すぎる時間だった。
力を抜いた膝に、力を込める風待。鍛え上げられた両脚は、瞬時に脱力から緊張へと切り替わる。力を込めた下半身の力を一気に解放し、身を屈めた低空状態のまま、一挙に男の足元に駆け寄る。その瞬走の姿は、たとえ視線誘導が無くても、男の目には一筋の光にしか見えなかったかもしれない。
速度を緩めず、低い姿勢で男の腰に体当たりする風待。体重差があるとはいえ、注意を外され、視線を外された男の大きな体が、不意を突かれ大きく揺れる。
密着した状態で、銃を持つ男の右腕を左手で押さえ、男の襟元を下から握りしめながら片足を軸に半回転する風待。男の視線が下を向くと同時に、風待の左手で掴まれた男の右腕が、強い力で下方に引き込まれる。
不安定になった男の体を、自分の背中の上に乗せる。風待は逆関節で掴んだ男の右腕を自分の肩に回しながら、左脚の後ろ蹴りを股間に放ち、腰を跳ね上げる。
男の右腕の肘関節が折れ砕ける音、男の睾丸が蹴り潰される音と共に、男の体が風待の背中を支点として回転する。一本の丸太棒のように、一体の立人形のように、直立した姿勢のまま宙を縦回転する男。
男を投げながら、両膝を付く風待。砕けた男の腕を握っていた左手を離し、襟元を掴んだ片手だけで、男の頭頂部を地面に叩きつける。
拳大の石が多数散乱している礫浜に、受け身も取らせない技で投げつけられた男の頭蓋骨が、内側へと大きく陥没する。逆さまになった男の両目や鼻から、赤泥のような液体が噴出する。粘度が高い、粘土のような液体。頭部の中身が、急激な圧壊によって撹拌されたのだろう。赤みを帯びた薄汚い体液は、止まることなく噴出を続けている。おそらく、頭の中身を全て出し切るまで止まらないのかもしれない。
夜の浜辺の片隅に、逆さまに生えた一本の死体。よほど強く地面に打ちつけられたのか、直立したまましばらくは倒れそうもないチームリーダーの死体を、8人の護衛役と1人の会計役は、ただ茫然と眺めていた。自分たちのチームリーダー、自分たちの組織のベテラン幹部を、奇妙なオブジェに変えた少女の姿を、ただ茫然と眺めていた。
男たちの視線を意に介さず、風待は静かに立ちあがると、男の倒立死体のそばに落ちている拳銃の下に立つ。サンダル履きの足先で、地面に落ちた拳銃を蹴り上げると、踊るかのような華麗な一回転を加えながら、宙に浮いた拳銃を片手でつかみ取る。
優雅にも無邪気にも見える風待の動作を、ただ見惚れていた男たち。しかし、風待が握りしめた拳銃を、無造作に男たちの方に向けると、彼らも突然夢から覚めたかのように一斉に動き出す。
腰だめに抱えていた自動小銃を、風待に向けて構えようとする8人の男たち。浜辺の空気が、一気に一挙に一転する。鍵盤右端C8の張り詰めた空気と、左端A0の重苦しい空気が連打交槌する、戦いの空気。熱く冷たい、戦場の、空気。
―先輩! ダメです!
スギナが叫ぶ。声に出さず、声に出せず、叫ぶ。
―相手は、8人です!
今、風待先輩が握っているのは、シルエットからして、トカレフだろう。
トカレフの装弾数は、8発。
風待先輩が手にする前、男が1発撃っているので、残りの弾は、7発。
今まさに自動小銃の銃口を向けようとしている男たちの人数は、8人。
たとえ先輩が一人一発で仕留めたとしても、1発足りないのだ。1人生き残ってしまうのだ。
先輩が先に7人を撃ち殺したとしても、残った1人が撃つ自動小銃の銃弾、フルオートで放たれる銃弾の嵐を浴びてしまうのだ。防弾制服を着ていない、薄布一枚の先輩の体に、多数の銃弾が撃ち込まれてしまうのだ。
ただでさえ自動小銃と拳銃という、劣勢な状況。
ただでさえ8人相手にするという、不利な状況。
7発しかない拳銃で、8人を相手にするということ。
たった1発の差ではある。たった1人の差ではある。
しかし、たとえ先輩がセカンドリコリスでも、この1発の差は、大きい。
助けなければ!
おそらくこの後、しばしのにらみ合いが続くだろう。しばしの均衡の後に、激しい銃撃戦が始まるだろう。
銃撃が始まるまでに、駆け付けよう。防弾装備を身に着けた私が、先輩の盾になるのだ。拳銃も予備弾倉もある私が、先輩を助けるのだ。
闘いを決意したスギナは胸壁を飛び越え、浜辺に降り立つ。石塊の多い礫浜に、夜間着地するのは危険であったが、今のスギナには問題はなかった。電波塔、なぜかまた出現した電波塔の光が、スギナの足元を照らしてくれていたのだ。
照らしているのは、足元だけではない。胸壁下から海岸の先まで、ここから風待先輩たちのいる戦場までの一本道を、電波塔の七色の光は照らしてくれている。ファッションショーのパッセレッタを照らすフォローライトのように、街のプロムナードを照らすカラーライティングのように、真っすぐに、一直線に照らしてくれている。
スギナは走った。走りながら、銃を抜いた。銃を構えながら、最短距離を走った。
だが、間に合わなかった。
にらみ合いもなく、しばしの均衡もなく、浜辺に銃声が響いたのだ。