「時間をかなりオーバーしているわ。警察が来る前に、早くDAに任務報告をして帰りましょう」
止まらない顔の汗を、手の甲で拭いながら風待が言う。疲れひとつ見せない顔の彼女だが、蒸し暑い夜中に体を動かしたが故の発汗だけは止めることができないようだ。
最後に残った密輸組織の人間、呆然と死を待つだけだった会計役を始末したスギナが、風待の言葉にうなずく。スギナの顔も、風待以上に汗まみれである。薄着の風待とは違い、スギナは今夜、通気性の悪いリコリスの制服を着た完全武装で浜辺に立っているのだ。
今回の任務では、任務開始直後に、DAから警察に偽装通報が入る予定になっている。海岸でヤクザたちが口論している、仲間割れしているという偽情報を、一般市民からの通報という形で警察の耳に吹き込むのだ。
偽の一報を受けた警察が、この片田舎の海岸まで来るには時間がかかるが、それでも撤収準備は早めにするに越したことはない。スギナの任務はまだ終わってはいない。彼女はこれから、来ないはずの取引相手がなぜか上陸してきたという不測の事態と、その顛末をDAに通話報告しなければならないのだ。
「私が殺したリーダー格の男と、スギナが今撃ち殺した男、この二人のスマホを持ち帰りなさい。DAに提出すれば、喜んでくれるわよ」
麻薬組織内での通話記録や連絡先一覧の詰まったスマートフォンは、海外組織の情報に飢えているDAにとっては、文字通りの宝の山である。DA情報部ならば、通信通話履歴ではなく、過去の位置情報の解析など、スギナたちが想像する以上の情報をスマートフォンから吸い上げることだろう。
浜辺に横たわる死体と、浜辺に突き刺さったままの死体。まだ温かい二つの死体のポケットを漁り、男たちの体温を残したスマートフォンを取り出すスギナ。風待が変形の背負投げで殺したチームリーダーの死体は、スギナが乱雑にポケットをまさぐったにも関わらず、倒立したままの姿で浜辺に刺さっている。
「先輩、ゴムボートの中も確認しますか? 衛星通信デバイスとかあるかもしれませんよ」
二台のスマートフォンを、腰ポケットに入れながらスギナが尋ねる。
「ゴムボートと麻薬の入ったスーツケースには、指一本触れてはダメよ」
スギナの問いに、風待は即座に首を振る。
「なんでですか先輩?」
「ここだけの話だけど、少し前に今回と同じような麻薬取引があってね、その時は嘉木屋支部が対処したんだけど、作戦終了後にDAと揉めたことがあったのよ」
「嘉木屋支部って、空港島支部と名古屋支部の間にある、二人だけの小さな支部でしたよね。なにがあったんですか?」
名古屋支部長のルミナ先輩から直接聞いた話だから、他のリコリスには他言無用よ、と念押ししてから、風待は話す。
「嘉木屋支部のバディも、ターゲットを処分してから、私たちと同じように敵の遺品から情報端末を探し出して確保していたんだけど、その際に先走っちゃって、麻薬入りのスーツケースの中まで漁ってしまったのよ。おかげでDAから、麻薬を一部抜き取ったんじゃないかって疑いをかけられて、大変な目にあったらしいわ」
「ああ、怖いですねそれ」
「情報収集のために触ってしまったって何度も必死に説明して、最終的には納得してもらえたんだけど、誤解を与えるような行為をしてしまった罰として、嘉木屋支部の二人は溜めていた昇進ポイントを大幅に減らされてしまったそうよ。ひどい話よね」
DAは基本的に、リコリスたちを信用していない。自発的な収集行動も大事だが、必要以上に手を付けることはない。諸咲の大先輩であるルミナ先輩は、後輩である風待に、そのような意を言外に込めて語ってくれたという。
「だから、遺留品漁りはこれだけでお終い。今夜はヤクザだけではなく、密輸組織の取引連中まで潰せた大金星なんだから、これ以上功を重ねる必要はないわ。さあ、これで任務は終わり。早く電話報告して、さっさと帰りましょう、スギナ」
任務は終わり、という言葉を聞いたスギナの体に、一斉に疲れが襲い掛かる。どうやら、緊張の糸が切れたらしい。
それでもなんとかDAへの任務報告を終えるスギナ。風待は今この浜辺にはいないことになっているので、報告は全て自分でしなくてはならない。自分が全て処理したというウソを、自分で考えて話さなければいけない。話下手な舌を必死に動かして、ヤクザたちの始末、密輸組織の始末を電話で報告し終えたスギナは、心底疲れ切っていた。リコリスとして鍛えられた体力はまだ残っていたが、気力が底をついている状態、もう一言も喋れないほど精神が摩耗している状態だった。このまま警察が来なければ、浜辺で朝まで倒れていたいと心から思った。荒れた石塊で敷き詰められた礫浜が、下宿の煎餅布団よりも高価な寝具に見える。今ここで寝たら、さぞ気持ちよいことだろう、そう本気で考えるほど、スギナの気力は尽き果てていた。
しかし、どれだけ心が削られていても、撤収は速やかにしなければならない。背後に立つ風待に黙然と頷き、重い足取りで歩き出すスギナ。風待も疲れているようだ、互いに語りかけることもなく、無言のまま、浜辺を後にして護岸壁を上がる二人。
胸壁の裏には、ヤクザたちの死体。先ほど殺したばかりのはずなのに、すでに腐敗は始まっているようだ。夏の夜の熱気と共に、鼻につく悪臭が漂っている。潮のにおいよりなお濃い、死のにおい。乾いた地面に、体液と共に吸い込まれたこの臭いは、死体が片付けられた後もしばらくの間残るだろう。そしてスギナの記憶にも、しばらくの間残るだろう。
死の臭い渦巻く夜道を、無言で歩くスギナ。ヤクザの車の中に積まれている、コンビニ袋に入った酒やビールを全て持ち出してから、スギナの後ろを無言で歩く風待。
必要以上の遺留品漁りはダメって言っておきながら、なにやってるんですか。とスギナはツッコみたかったが、言えなかった。もうその気力もなかったのだ。
無言で帰路につきながら、ふとスギナは気が付く。
そういえば先輩、ビール二本も飲んでいるのに、全然酔っていないなと。
アパートに帰っても、二人は無言だった。
汗に胃液、返り血にまみれたスギナの服を、風待は優しく脱がせる。全裸になったスギナを台所の前に立たせると、風待はゆっくりと傷のチェックをする。
胃液の残滓が付着している顔、乾いた返り血がこびり付く四肢、通気性の悪い制服で覆われていた汗まみれの体。普段ならは、このような裸体を先輩の目に晒すことは、年頃の少女としての健全な羞恥心が許さなかっただろうが、今のスギナの心には、そのような恥じらいを生み出す正常な回路が作動してはいなかった。疲れ果て、尽き果てた気力が、彼女から幾つかの女性的な精神を奪い取っていたのだ。
表情もなく立つスギナの裸体を、風待は丁寧に確認する。夏の暑さと過酷な任務が生み出した、スギナの濃密なにおいを気にすることなく、顔を近づけ、手のひらで撫で、小さな擦り傷一つ見逃さない真摯な目で、スギナの体を満遍なくチェックする風待。
任務後の創傷確認は、気軽に近所の医院に行くことができない地方リコリスにとって大事な作業である。大都市支部のリコリスならば、拠点施設に常勤している医師や、DAとサポート契約をしている各種医療施設などを気軽に利用することができるが、そのようなバックアップのない地方支部では、任務で怪我をしないこと、任務後に怪我をこじらせない事が、任務そのものと同等に重要視されている。
たとえ小さな傷でも、放っておけば化膿や炎症を起こす危険がある。簡単な初期治療で治るはずだった怪我を不注意から悪化させた結果、都市部への入院などという羽目になると、それだけで支部全体の機能が半減してしまう事態に陥ってしまう。数名程度の病欠ならば簡単に埋められる交代勤務制の都市支部とは違い、基本は二人しか常駐していない田舎支部にとって、健康な体で居続けるということは、何にもまして重要なことなのだ。
それゆえに地方支部では、リコリスたちは互いに身体の確認をしている。敵との戦闘を終えた後、格闘訓練などの危険なトレーニングの後、長期間の野外潜伏任務の後などには、常に互いに裸になって傷の確認をしている。怪我のシグナルは痛みであるが、人の痛覚は、意外とあてにはならない。戦闘後の興奮で痛みが麻痺していたり、激務の疲労で感覚が鈍くなっていたりと、様々な要因により負傷に気がつかないという事例は多い。たとえ自分は怪我をしていないと思っていても、きちんと仲間の目で確認してもらうことは大事なことなのだ。
精密機器を点検する高度技術者のような目で、風待はスギナの体の隅々をチェックしていく。スギナからでも見える場所、スギナの目からでは見えない場所、スギナが普段見せたくない場所。そのすべてを、風待は真摯に確認し、スギナの体の状態を把握する。
隠微なチェックを終えると、風待も汗に濡れた服と汗に蒸れた下着を脱ぎ、共に風呂場に入る。
冷たいシャワーの下で、念入りに、丁寧に、風待はスギナの体を洗っていく。ボディーソープを手のひらに付け、撫でるようにスギナの裸体を洗う風待。
優しい愛の儀式。普段ならば、風待の手が与える刺激に、敏感に反応するスギナだったが、今夜はなぜか、先輩の繊細な手の動きによって湧き上がる、幾重にも折り重なるように強く響くはずの快楽が、自らの指で慰めている時のような単純な刺激にしか感じなかった。
全身に厚いゴムを被せられ、その上から愛撫されているかのような、どこか遠い感触。敏感な粘膜を洗われている時ですら、スギナの体は、薄い反応しか示すことはなかった。
体も心も、朧げな世界に浮かぶスギナ。殺人という初めての経験によって摩耗した自我を守るため、心を閉ざしすべての思考を投げ捨てているスギナだったが、それでも今自分の体を清めてくれている風待の愛だけは伝わってきた。
弱っている自分を、健気に介護し、看護してくれる風待先輩。たかが人を殺した程度で、ここまで情けない姿を晒している自分を、優しく洗ってくれている風待先輩。
DAでの候補生時代、ここまで優しくしてくれる人はいなかった。先輩の無償の優しさに、思わず声が出るスギナ。
ごめんなさい、とスギナは声を出す。
いいのよ、と風待の声。
私も、初めて人を殺した日の夜は、茫然としてなにもできなかったわ。今のスギナのように弱っていた私を、当時のバディだった冠典ゼリィ先輩が、お風呂場で優しく洗ってくれた。
翌年ここに来たセノカも、初めて人を殺した日の夜は、同じようにぼんやりしていたわ。昔の私のように弱っていたセノカを、当時のバディだった私が、お風呂場で優しく洗ってあげたわ。
「初めての大仕事の後なのだから、何もできなくなって当然よ。こんな夜くらいは、先輩を頼りなさい、バディを頼りなさい」
「はい…」
頭の上から流れ落ちるシャワーの水の中に、己の弱さを晒しながらスギナが答える。
「スギナも、いつかは後輩の体を洗ってあげるんでしょうね…スギナは、どんな先輩になるのかな」
初めて味わう衝撃に打ちのめされているスギナの姿に、かつての自分を重ねながら、風待は寂しそうにつぶやく。
その小さな声は、風呂場に響くシャワーの音にかき消され、スギナの耳に届くことはなかった。
スギナのスマートフォンに、DAからの指示が入っていた。
布団を敷く風待の隣で、エアコンの風を浴びながら、ぼんやりとスマートフォンの画面を見つめるスギナ。
どうやら、今夜の任務は無事に幕を降ろしたらしい。事務的な文章の行間に、スギナの今夜の活躍を称揚する感が見て取れる。
DAからの情報によると、スギナたちが作り上げた凄惨な殺害現場は、現在警察の実況見分の最中らしい。目撃者もいない今夜の事件は、表面上は暴力団と海外組織の抗争という流れで収まりそうだと、スマホの文字は語っている。
蹴り技で体や顎を潰された死体、投げ技で頭を潰された死体。常人同士の格闘の末の最期とは思えない死体もあるが、警察は通常の抗争として処理するだろう。
ヤクザや密輸組織が持っている拳銃のカートリッジとは異なる、ケースヘッドにヘッドスタンプがない謎の薬莢も現場に落ちているが、警察は普通の銃撃事件として処理するだろう。
鑑識課員たちは、これらの状況を不可解に思うだろう。しかし警察上層部は、現場の声を完全に無視するはずである。犯罪組織同士が勝手に殺し合い、勝手に対消滅した事件、警察はこのように発表するだろう。
そしてメディアも、事件の裏取りもせず、警察の発表をそのまま記事にするだろう。新聞は地方欄の片隅に小さくまとめて、テレビは地方局のニュースで短くまとめて、必要以上に国民の関心がいかない程度に公表するのだろう。
平和で安全なこの国のメディアは、善良な市民を不安がらせるようなニュースを好まない。おそらく明日のテレビや新聞のトップには、好景気が続く幸せな未来を確信させるようなニュースが並んでいることだろう。夜の浜辺で無惨に死んでいった男たちの無念など、この国の人間は誰も一顧だにしないだろう。
彼らの罪や死の意味すらも、たった数行の記事、たった数分の映像として処理してしまうこの国の正義。今夜私が殺した男たちの人生とは、いったい何だったのだろうかと、スギナはぼんやりと考える。
「明日の午後、名古屋支部に状況報告に来るように書いてあるわね。ちょうど良かったわ、名古屋支部本館にはDAの常駐医がいるから、頭の傷を見てもらいなさい」
拳銃の台尻で殴られ、青痣になっているスギナのこめかみの傷を、風待は身体のチェックをした時から気にしていたようだ。名古屋支部への出頭命令を見た風待は、安心したかのようにスギナに語りかけると、こめかみに貼っている大きな絆創膏をそっと指で撫でる。
頭が通常回転せず、文章の意味が入ってこないスギナに代わって、風待が横からメールを読みあげる。報告すべき細かい内容は、明日の朝考えましょう、本館に行くのなら、ついでに汚れた制服を持って行ってクリーニングをお願いしなさい。風待の的確な指示に、スギナはただうなずく。
風待に文面を考えてもらいながらメールへの返事を送信し終えると、スギナはようやく、畳に敷かれた敷布団の上に身を横たえる。
長い一日だった。長い夜だった。
精神的な疲れが溜まっているのだろう、頭の中が、細かく揺れているような感じがする。横になっただけで、視界が細かく波打っているような感じがする。脳髄の奥が、心臓の鼓動に合わせて踊っているような感じがする。頭部を駆け巡る疲労の騒がしさに、スギナの眉間にしわが寄る。
エアコンの風量を下げた風待が、吊り下げ電灯の明かりを消してスギナの横に寝る。
今の二人は、一糸まとわぬ裸である。風呂場で冷たいシャワーを浴びてもなお、体の芯に残る火照りが取れず、服を着る気にはなれなかったのだ。
一枚の薄いタオルケットで互いの体を隠すと、風待はスギナの裸体を静かに抱きしめる。
愛の籠った、優しく穏やかな抱擁。誘われるかのように、スギナもそっと風待の体を抱きしめる。
毎夜の如く交わす、愛の行為。憧れの先輩の存在を、最も近く感じるための行為。しかし今夜は、風待先輩の存在が、スギナには遠く感じられた。
全裸になっているのに、まだ一枚脱いでいないかのような、まだ晒し足りない部分があるかのような、もどかしい感触。先輩の体によって癒されたいのに、麻痺した触感が快楽による開放を妨げている、歯がゆい感覚。
それでも先輩の体温、先輩の鼓動、先輩の匂いが、少しずつスギナの心を温めていく。火照った体の中で、唯一冷たかったスギナの心臓部分が、安らぎによって温められていく。
明日は一人で名古屋支部に行かなければならない。今夜は先輩の優しさを体で感じて、少しでも心を回復させよう。スギナはそう決心して、風待の存在に心を委ねる。
まだ麻痺している五感を働かせて、全身で先輩の存在を受け止めるスギナ。しばらくの間、共に抱き合う精神的な安楽を感じていたスギナだったが、やがてあることに気が付く。
スギナを優しく抱きしめていた風待の腕、普段のようにただ静かに、ただ慈しむかのように回されていたはずの風待の腕が、今夜はかすかに震えていたのだ。
「先輩…」
不安そうに呼びかけるスギナ。精神が損耗している状態のため気が付くのが遅れたが、このような弱々しい、震えながらの抱擁など、今まで風待先輩はしたことがなかった。
いや、これは抱擁ではなかった。先輩は、私に縋りついていたのだ。私に抱きしめてほしいと、助けを求めていたのだ。スギナはそう感じ取る。
「やっぱり、暗くなるとダメね…殺した人たちが、天井に浮かんでいるわ」
腕の震えが、全身に回ったらしい。風待は、震える身体をスギナに強く押し付け、スギナの成長途中の胸に顔を埋める。
「先輩…先輩も、怖いんですか」
スギナの言葉に、風待はうなずく。震える頭をスギナの胸に埋めながら、小さくうなずく。
「初めて人を殺してから今まで、三桁の人間を殺してきたけど、全然慣れることはないわね。殺した日の夜は、必ず殺害相手の顔が思い浮かぶし、その後の数日間は怨念めいた気配を周囲に感じるわ。時間がたっても、何かの拍子に簡単に思い出してしまうし、おそらく一生忘れたり慣れたりすることはないんでしょうね…」
まだ十代半ばの少女にもかかわらず、百人以上の人間を殺してきた風待。あまりに多くの死を背負った少女は、今は年相応のか弱さをむき出しにして、年下の後輩に縋りついて震え泣いている。
「ごめんなさい、スギナ。初めて人を殺した夜に、こんな話をしちゃって…」
今夜9人の人間を殺した少女は、後輩の少女に謝罪する。
「…先輩、謝らないでください。私、先輩の悲しみに気が付きませんでした。先輩の心に寄り添うことを忘れていました…謝るのは、私の方です。私が、謝らなくてはいけないんです」
今夜5人の人間を殺した少女は、先輩の少女に謝罪する。
スギナは悔やんだ。初めての殺人とはいえ、任務を終えた後は自分の心の殻に閉じ籠り、隣にいる先輩の心の奥底に流れていた悲しみに気が付かなかった。帰り路、口数が少なかった先輩の態度、ビールを2缶も飲んだのに、全然酔いが回っていなかった先輩の表情、これらすべては、先輩の内面が悲嘆により固く強張っていた顕れであったのに、私は自分自身の安い悲劇に耽溺し、愛する人への注意を放棄していた。
私は愚かだった。先輩は年上だから、先輩は強いから、先輩はセカンドリコリスだから、殺人などとうに慣れていると思い込んでいた。
人を殺した後の絶望感、痛覚すら感じるほどに辛い感情を、私は自分だけのものだと思い込んでいた。人を殺す時に辛さを感じるのは自分だけではない、先輩だって辛いし、他のリコリスたちだって辛い。こんな簡単なことを、私は今まで想起すらしていなかったのだ。
自分一人が悲しいなどと思っていた自分、愛する人の悲しみに気が付くことができなかった自分。まったく私という人間は、なんと傲慢であったことか、なんと酷薄であったことか。
ごめんなさい、と無意識につぶやくスギナ。殺人という衝撃によってできた、世界と自分を遮断する心の壁が、この一言で溶解する。
スギナの繊細で鋭敏な感受性が、風待の悲しみと呼応する。先輩の持つ悲しみと、自分の持つ悲しみ。この二つが全く同じものだと知り、スギナは涙を流す。自分の悲しみだけではなく、仲間の悲しみにも共感して流す、慈しみの涙。
やっと、涙が出た。やっと、泣けた。
人を殺したら泣きなさい、叫びなさい。身を切り裂くような罪悪感が湧きあがってくるうちは、まだ人でいられるから。かつて風待先輩は、バディであった冠典ゼリィ先輩から、そう教えられたという。
私は今、泣いている。
先輩も、泣いている。
二人で、泣いている。
私たちは、まだしばらくは、人でいられる。
私たちは、これからも人を殺すのだろう。
それでも、私たちは人として生きていく。
この地で二人、人として生きていくのだ。
スギナは、震え泣く風待の体を、強く抱きしめる。自分の腕も震えていたが、それでも強く抱きしめる。
二人の微かな泣き声が、微風流れるエアコンの音、微かに響く波の音に交ざりあい、静かな調べとなり部屋を満たす。
二人は、抱きしめ合った。ただ、抱きしめ合った。
「ねえ、スギナ」
スギナの耳元で、風待が囁く。部屋の外に漏れないよう、怨霊たちに聞こえないように話す、小さな囁き声。
「昔ね、おばあちゃんが言っていたの。悪いことをしたら、必ず地獄に行くって。地獄はとても怖いところだから、悪いことはしてはいけないよって」
スギナは、地獄って信じる? と風待は尋ねる。普段の凛々しい先輩からは想像できない、弱々しい声。
「私は、地獄はあるって信じている。悪いことをしたら、地獄に行くって信じているの。人を何人も殺した私は、絶対に地獄に行くんだろうなって、たまに思うのよ」
「先輩…」
「実はね、私嬉しいの。今夜スギナが人を殺してくれたこと、本当は嬉しいの。スギナも私と同じように人を殺した。だからスギナも死んだら、地獄に落ちるの。私はそれが、本当に嬉しいの」
風待の、小さな声。暗い部屋に流れる、かすかな声。
「死んだら一緒に、地獄に行こうね。たとえ地獄に落ちても、私たちはいつまでも一緒よ、スギナ」
過去のトラウマによって、一人になることを病的なまでに恐れる風待が、楽しそうにスギナへ語りかける。
ああ、先輩も弱いんだな、とスギナは風待を抱きしめる腕に力を込める。
弱い、先輩。
弱い、自分。
弱い者同士、支え合って生きていこう。
弱い者同士、共に地獄に落ちていこう。
けど、違うんですよ先輩。とスギナは風待の耳に囁きかける。
地獄は、死んでから行くところではないんです。
今のこの世界が、私たちにとって地獄なのです。