DAの気象予報によると、今年は暑い時期が長いらしい。
確かに、9月も後半だというのに、いまだ夏が過ぎ去る気配はない。
汗が止まらない毎日の巡回、日焼けが気になる強い日差し、蒸し暑くて寝苦しい夜。夏は大変なことばかりだ。
しかし、夏はイヤなことばかりではない。
こういう、楽しいこともある。
「スゴイですね先輩……」
「スゴイよねスギナ……」
スギナと風待は、下宿の扉を半開きにして、下の空き地をのぞき込む。
扉の陰に身を隠し、頭の半分外に出し、ベランダ手すりの隙間から、眼下の空き地をじっと見る。
下にいるのは、同じ階に住む少年二人。スギナと風待は、彼ら二人の姿を、先ほどからそっと観察していた。
スギナたちの住む下宿は、木造2階建10戸の、小さなアパートである。スギナたちは、2階の角部屋、205号室に住んでいる。
10部屋あるこのアパートは、現在3部屋しか使われていない。入居している部屋は、全て2階である。1階は、全部屋が漁業関係や役場関係の来客が短期間泊まるゲストハウスとして使われているというが、スギナも風待も、これまで1階の部屋に明かりが灯ったのは一度も見たことがない。もしかしたら、リコリスの機密保持のため、DAが下階全てを借り切っているのかもしれませんよ、とスギナは推測する。
あるいは、大家さんがそれほど入居者の募集に熱心でないだけかもしれないわね、と風待は推測する。
アパートの賃貸契約は、リコリス個人ではなく、DA直下のダミー企業を通して結ばれている。その際にDAは、危険な存在であるリコリスを住まわせる謝礼として、かなり多めの金額を毎月振り込んでいるらしい。
謝礼という名目であるが、実際は口止め料と危険手当であるこの特別振込金、一体いくらの金額が振り込まれているのかは、スギナたちには無論知らされていない。しかし、入居者が少なくても特にあくせくしていなさそうな大家さんの姿を見ると、結構色を付けているのだろうなと想像はつく。安い作りの、薄い壁のアパートなのだ、入居者は少ない方が、自分もこのアパートで暮らす大家さんにとっては好都合なのかもしれない。
その大家さんは、2階真ん中の203号室に住んでいる。そして間の204号室は、DAのセーフハウスとして、空き部屋になっている。DAからの増援が必要な大事件が起きた時に、作戦室や待機室に使うため、あるいは他支部のリコリスが災害などで避難してきた時に使用するための部屋である。
このような空き部屋は、諸咲のような田舎支部でも必ず一つ、名古屋のような大支部では、街中に多数常備されている。リコリスならば誰でもできる簡単なピッキングで入室することができるこれらのセーフハウスは、支部外のリコリスが出張任務時に使用できる指令室兼休憩室、または逃走時や負傷時に逃げ込む避難室としても重宝がられている。
この2階のもう一つの角部屋、入口側から見て左端の部屋である201号室には、二人の少年が住んでいる。
スギナたちは、この少年たちが何者か知らない。胡散臭い二人組だと、彼女たちは思っている。
もっとも、少年たちもスギナと風待が何者か知らないだろう。胡散臭い二人組だと、彼らも思っているはずだ。
この少年二人が、スギナたちにとって怪しく見えることの一つに、彼らの部屋の使い方がある。
彼ら少年二人も、どうやらセーフハウスを持っているようなのだ。
201号室の隣の202号室。彼ら、あるいは彼らの所属する組織は、この部屋を空き部屋として借りているらしい。普段は無人のこの部屋を、少年二人が週に数回ほど換気や掃除しているのを、スギナは何度も見かけている。
あれ絶対セーフハウスですよね、怪しい奴らですね、といぶかし気な目で見つめながら、自分たちもセーフハウスの掃除をしながら話し合うスギナと風待を、彼ら二人もいぶかし気な目で見つめているということも何度かあった。
全く謎の存在である男二人。彼らもスギナたちと同じように、何度も代替わりしながら同じ部屋で暮らしている。
あまりに怪しいため、常に距離を置いている角部屋の二人。同じアパートの同じ階で暮らしているにも関わらず、代々のリコリスたちは、彼らに話しかけることはなかったし、話しかけられることもなかったという。
今住んでいる少年二人は、風待が諸咲支部に来た年に、先代の少年たちと入れ替わりで入居したという。ということは、風待先輩と同じ年齢かとスギナは推察する。
わかることは、それくらい。あとは全てが不明の、謎の男たち。
しかし、いくら怪しくても、いくら交流が無くても、長年同じ下宿に住んでいると、自然と不文律のようなものができあがる。
アパートの渡り廊下で出会ったら、軽く会釈、朝のランニングコースは、被ったら男側が変更、スーパーやコンビニで出会ったら、基本無視、買い物かごは決して覗かないなど、暗黙の掟は多種あるが、一番大事なのは、アパート共有部分のテリトリーである。
スギナたちの住むアパートの共有部分は、各階の渡り廊下と左右の階段、扉側正面の狭い空き地、アパート右側空き地の4カ所である。ベランダ側の空き地は、下り斜面のため狭く、通常は足を踏み入れることはない。
この共有部分のうち、少女たちの領地は二階渡り廊下の右半分と右階段、そして右の大きな空き地。少年たちの領地は二階渡り廊下の左半分と左階段、そして一階渡り廊下と扉側前の小さな空き地である。
相手が所有する領土については、2階渡り廊下と階段への侵入は絶対禁止、空き地は大家さんが植えているゴーヤなどの作物を収穫する時以外は侵入禁止。互いに文章で締結したわけではないが、そのような条約が、彼ら彼女らの間で代々伝わっている。
少しばかり息苦しくはあるが、他の居住者に気兼ねすることなく、自分たちが自由に使える場所があるというのは、多少の窮屈さを差し置いても得難い便利さがある。スギナたちはランニング前の準備運動や格闘訓練、あるいは7月の双関杯の会場など、女性側が優先的に使える右の広い空き地を、日々重宝して使っている。
そして今、踊り場下の正面空き地を、男たちが重宝して使用している。
男性側の領地である扉側前の空き地、彼らはそこで、自転車の整備をしている。未だ8月の余韻を留める暑い青空の下、上半身裸になって、高価そうな自転車を個々の部品に分解し、丹念に磨いている。
陽の光を浴びて光る自転車のパーツたち。傷ひとつない赤や青の塗装が眩しいフレーム、錆び一つない銀色輝くチェーンやスプロケット、汚れ一つない漆黒のタイヤやドロップハンドル。たとえ結合を解かれた状態でも、その一つ一つが、通常の自転車よりも早く駆けることができるのだということを主張するかのように輝いている部品たち。
少年二人は、空き地の地面に座り、黙々とパーツを磨いている。今の時刻の日差しはアパート側から差しているため、彼らはアパートに背を向けて、静かに、しかし楽しそうに部品を洗浄し、磨き、注油している。
暑い日差しを浴びている背中は、沸々と湧きあがる汗に濡れ、滑らかに光っている。男の背中、広い背中、陽光の激しさをも跳ね返す、少年たちの生命力にあふれた背中を、スギナと風待は2階の自室から覗いている。彼らに見つからないように、扉を半分だけ開けて、顔を半分だけのぞかせて、半裸の少年たちを見つめているのだ。
「スゴイですねぇ先輩……」
「スゴイよねぇスギナ……」
楽しそうに、嬉しそうに、ニヤニヤと笑いながら、しかし真剣な眼差しで、二人は階下の少年たちを見る。
角部屋の少年たちは、各自が二種類の自転車を持っている。舗装路を早く走ることができそうなスマートな自転車と、荒れた山道でも軽々と走れそうなマッシブな自転車の二種類である。スギナと風待は自転車には詳しくないが、それぞれロードバイクとマウンテンバイクという名称だということ程度は、おぼろげながら理解している。
彼ら二人は、半月に一回、下の空き地で、どちらかの自転車の整備をしている。なにが楽しいのかスギナたちには理解できないが、彼らは嬉々とした感じで、長い時間をかけてお手入れをしている。
どれほど高価な自転車なのか、どのような整備をしているのか、スギナと風待の二人には、そのようなことは興味の対象外である。彼女たちの目に入っているのは、少年たちの日に焼けた、褐色の上半身だけである。
「しかし、男の子って本当に上脱いでも恥ずかしくないんですね」
「そうね……まあオトコってそういう生き物なんでしょうね」
男たちは、上半身だけなら、裸になっても恥ずかしくないらしい。これは今まで、女性だけの施設で育てられたスギナにとっては、驚愕すべき事柄であった。男性の羞恥心の薄さについては、4月に風待から何度も聞かされていたスギナだったが、実際に夏になり、上半身裸のハーフパンツ姿で自転車を弄る彼らの姿を見るまでは。その言を疑い半分に聞いていたものだ。
恥ずかしくないから、こうして堂々と半分裸になっている。恥ずかしくないのなら、私たちが堂々と見ても構わないわよね。スギナと風待はそのような論法で自分を納得させ、こうして毎回、夏の少年たちを物陰からこっそりと覗いているのだ。
「しかし先輩、見れば見るほど、男って私たちとは違うカラダですね」
「そうなのよ、本当にあれって私たちと同じ生き物なのかしらね……」
思春期の好奇心をむき出しにして、少年たちの身体を眺めるスギナと風待。
自分たちの背中を、舐めまわすかのように見つめられていることに気が付いていない少年二人は、楽し気な感じで何か話し合っている。聞き耳を立ててみるが、周囲に聞こえにくい特殊な発声方法での会話しているのだろう、聴音訓練を積んだ二人の耳ですら、話の内容を拾うことはできない。
スギナは、仲良さげな異性のバディの後ろ頭とたまにのぞく横顔を、交互に見比べる。
二人の少年の顔、髪はどちらも清潔そうに刈られた短髪だが、顔の形はそれぞれ特徴がある。
普通の男よりも背丈の高い少年は、さっぱりした感じでやや長めの顔。
その横に座る平均的な背丈の少年は、少しごつい感じでやや硬めの顔。
当然のことながら、二人の名前はスギナたちにはわからない。そのため彼女たちは、少年二人をそれぞれ、顔の特徴から長夫と丸夫というコードネームで呼んでいる。
何か会話が弾んでいるのだろう、長夫と丸夫の二人が笑うたびに、肩や背中の筋肉が、表皮下に蠢く蛇の群れのように動くのがスギナの目に映る。
「男ってムダに筋肉が多くて、ごつごつしていて、なんか怖いですね」
「力は私たちよりあるんでしょうね……ねえ、スギナはオトコの身体のどこが好き?」
そうですねえ、とスギナは二人の身体を交互に見比べながら、真剣に考える。
「私は、手ですかね。あのでかくて武骨な手が、なんか好きです」
「そうね、あのごっつい手でおもいっきり握られたら、私たち壊されちゃうでしょうね」
「先輩はどこが好きですか?」
「私はやっぱり背中ね。あの広い背中を見ていると、ピシャーンって平手打ちしたくなるわ」
「あ、わかります! なんかいい音が出そうですよね」
とりとめのない会話を交わす二人。自分たちの近くにいる、遠く離れた異性の話題は、尽きることなく続いたが、やがてパーツの清掃を終えた少年たちが自転車を組み立て始めると、盛況とどまらない雑談に、急いで幕が降ろされる。
地面に腰を下ろして部品を磨く時に比べ、組み立ては立ち作業などの動作が多い。何かの拍子に、顔を上に向けた少年たちと目があっては、次から警戒されてしまう。そのことを恐れるスギナと風待はそっと顔を隠すと、静かに扉を閉める。
いいもの見れたわね、次の整備は何時ごろかしらねと、はしゃぎながら部屋に戻る二人。
「そういえば、なんであいつらって毎月自転車磨いているんですかね。そんなに汚れるものじゃないですよね、自転車って」
昼食の準備をしながら、ふと風待に語りかけるスギナ。
「そうよね、私たちの自転車なんて、何年も使っているのに、錆び一つ浮かないのにね」
部屋隅の収納ラックの下から、部活用のサブバッグを模した肩掛け鞄を出しながら、風待が答える。
「錆びどころか、汚れも気が付いたら自然に落ちていますし、タイヤの空気も全然抜けませんよね」
「そうなのよ、私はここにきて3年目だけど、玄関に置いてある空気入れとか自転車用油とか、今まで一度も使ったことがないわね」
風待の言葉につられ、スギナは玄関先に立てかけてある青い筒の空気入れと、靴箱奥にしまっているスピンドル油の黄色い容器に視線を向ける。青と黄色の、二つの自転車お手入れセット、玄関の掃除のときに埃を払ったことがある程度で、スギナも一度も使ったことの無い二つの小道具は、薄暗い玄関の片隅で、晩夏の惰眠を貪っている。
「そろそろ空気入れようかなって思ったら、いつも数日後には空気圧が元に戻っているから、使う必要ないのよね。チェーンだっていつもテカテカだから、油だって注したこともないし」
「自転車って、そういうものなんですかね」
DAでは、自転車については乗り方と交通法規しか習っていないスギナは、風待の言葉に素直に驚く。
「あと、私たちの自転車って、なぜか自己修復機能も付いているみたいなのよ。去年ガードレールにぶつけて、前輪の泥除けが歪んでしまった事があったんだけど、なぜか一週間後には勝手に直っていたのよ」
「なんですかそれ」
「あとね、毎年ある時期になると、タイヤが新品に付け替えたかのように若返っているのよ」
「スゴイですねそれ」
スギナたちが乗っている黒色の自転車は、普通の
「私たちの自転車、修復機能なんて大それた力があるようには思えませんけど……」
「私もそう思うんだけど、実際に直っているところを目撃してしまっているからね……」
少し不思議に思いながら、スギナは早めの昼食を作る。台所の上に置いてあるゴーヤを洗い、俎板の上で手際よく刻む。
このゴーヤは購入したものではなく、アパート前に生えていたものである。今朝のランニングの後、スギナが一本収穫したゴーヤである。
大家のおばさんが趣味で育てている様々な野菜たち、アパートの空き地を利用して植えられた菜園は、盛夏を過ぎた今もなお勢い良く育っている。いや、育ちすぎている。
特に今年のゴーヤは、暑い夏の日差しと相性が良かったのか、9月になってもなお枯れることなく、濃緑の葉の群れを濃藍の空にかざしながら、尽きることなく長々青々太々とした実を葉下に蓄え続けている。
たくさん作るのは好きだが、たくさん食べることは苦手な大家さんに代わり、無秩序なまでに大量に生えてくるゴーヤを日々消費しているのは、スギナたち二人と、角部屋の少年二人である。
最近はモブリコ寿司での食材としても使用しているゴーヤ。毎日のように調理し、毎回食卓に並べているため、そろそろ飽きる頃合いかもしれないが、それでも毎食ごとに趣向を凝らして調味しているため、二人は今のところはこの苦く青い野菜を日々美味しく頂いている。
刻んだゴーヤと、小分けにして冷凍保存していたブナシメジをオリーブオイルで炒めながら、スギナは隣のコンロでパスタを茹でる。湯の沸く音、油が跳ねる音が、3度と5度の基本和音のように仲良く響く。
沸騰したルクーゼのオレンジ色の鍋にパスタを放り込むとき、ジュゼッペ・シノポリが指揮したマーラー第6交響曲の第2楽章を聴くことがある、とある人が語っていた言葉を、スギナはパスタを茹でるたびに思い出す。鍋の中で踊るお湯の音の奥に響く、未だ聴いたことの無い曲に想いをはせながら、スギナは菜箸を
「先輩は、自転車が勝手に直る理由、わかりますか?」
茹で上がったパスタをフライパンの上に移し、ひとかけらのバターとめんつゆを少量加え、軽く火を通す。フライパンと菜箸を器用に動かしながら、スギナは風待に問いかける。
「うーん、あまり考えたことないわねえ」
肩掛け鞄の中に、替えの下着を詰めながら、風待が首をひねる。
「そういえば、私の最初のバディだった
「ゼリィ先輩って、たしか自称天才少女だったんですよね。寒天色の脳細胞で、何か解答を導き出したんですか?」
冷蔵庫の扉を開け、大きなタッパーを取り出すスギナ。タッパーの中に詰め込まれている白く細かい食材を、スプーンで大胆にすくい、フライパンに大量に投入していく。
タッパーの中身は、釜揚げしらす。この時期、諸咲で大量に水揚げされ茹揚げされる、この地方の名物である。
小さく長細いイワシの稚魚をさっと茹でた柔らかな釜揚げしらすは、小魚の旨味が凝縮された諸咲の絶品である。この味を知らずしてシラスを語ることなかれ、そう主張できるほどの美味であり、スギナたち諸咲リコリスも、代々この味の虜になっているほどである。
下宿の近くにある十与浜漁港の直売所で購入した釜揚げしらす、ただ白いご飯にかけるだけでも美味しいこの小魚たちを、今回スギナは、パスタの具材として活用する。
二杯、三杯と、大きめのスプーンで大量に投入するスギナ。フライパンで熱せられたパスタの上に、シラスたちが山のように盛り上げられる。
ゴーヤの苦みに負けないよう、釜揚げしらすは惜しみなく投入するのが、この料理のポイントである。地元の直売所から、安く気楽に購入できるという地の利を生かした、大胆な調理。調味はバターやめんつゆからではなく、シラスから出る塩気に頼るという、旨味兵力の局所一斉投入、料理の電撃戦である。
しらすはもっと入れてね、と濃い味が好きな風待がスギナに語りかけながら、過去に冠典先輩が語っていた考察を思い出す。
「たしか冠典先輩も、結論は出せなかったわね。この自転車をとりまく時間の流れが異なるのかもしれないって言いながら、一般相対性理論とか超ひも理論とかと関連付けていろいろ考察していたけど、最後は全然わからないってふてくされて、考えること自体を諦めていたわね」
「天才キャラなのに、そんなに簡単に諦めていいものなんですかね」
「まあ流石に謎が解明できなかったことが恥ずかしかったのか、その日の夜は呪詛の言葉を吐きながら部屋の柱で爪を研いだり、畳の目を数えたりして無知への怒りを表していたけど、翌朝にはぴたりと収まっていたわね。よく考えてみたら、謎は謎のままでいた方が、世の中は面白いよな、って勝手に納得しながら、笑顔でどんぶり飯を食べていたわよ」
「ほんとに天才だったんですか、ゼリーさんって」
「天才過ぎて両親に捨てられたことと、天才過ぎてアラン機関に解剖されそうになったところをDAに助けられたことは本当らしいから、まあウソではないと思うわ。けど天才って言ってもピンキリだからねぇ」
かつての先輩、かつての支部長の横顔を追憶しながら、いかがわしい山師の経歴を語るような口調で話す風待。風待にとっては一年を一緒に過ごし、多くの事柄を学んできた立派な先輩のはずなのだが、リコリスとしては少し珍妙な性格と、リコリスとしては少し珍奇な言動のせいで、素直に尊敬することは難しいようだ。
「まあ、そんなことはどうでもいいわ。身支度も終わったし、お昼ごはんにしましょうね、スギナ」
自転車の謎も先輩の思い出もあっさり切り捨て、風待は二日分の生活用具や着替えを詰め込んだ鞄のファスナーを閉じる。
「もう旅支度終えたんですか。早いですね先輩」
フライパンを振り、パスタとしらすを絡めながらスギナが感心したように言う。
「泊りがけの出張任務は慣れているからね。もっとも、今回は任務じゃなくてただの定期健診だけどね」
すべてのリコリスは、年二回、健康診断と体力測定を受けなければならない。スギナのようなサードリコリスや分校リコリスは、近くの大都市支部でこれらの検査を受けるだけでよいのだが、セカンドリコリスとファーストリコリスは、より精密な検査を受けるため、必ずDA本部に出向かなくてはならない。
本部での検査にかかる時間は、丸一日。関東近辺のリコリスならば、ぎりぎり日帰りで受けることができるが、地方から交通機関を乗り継ぎながら訪れるリコリスにとっては、この検査は前後に宿泊が必要な、二泊三日の小旅行となる。
宿泊場所は、無論DA本部内である。本部の敷地内には、本部附の精鋭リコリスたちの居住空間と、育成中の本部リコリス候補生たちの生活空間とは別に、地方から来るリコリス専用の宿泊棟が設置され、検査に訪れる彼女たち地方リコリスを受け入れている。
宿泊棟といっても、完全個室の客室はない。彼女たちが泊まる部屋は、一般の本部附リコリスと同じ、数名のリコリスが詰め込まれる、狭い相部屋である。風待の話によると、宿泊棟の部屋は、二段ベッドが左右の壁に並ぶ、4人部屋らしい。全国津々浦々から訪れる少女たちは、到着順に割り振られたこの部屋で、二夜を共に過ごすという。
監獄のように狭く暗い部屋ではあるが、年頃の少女が集まれば会話に花が咲き、部屋の暗さも吹き飛んでしまうという。出張任務のような重苦しさもなく、同じ本部リコリスという気安さで話に興じる少女たち。それぞれが暮らす地方のネタが話題の中心になるため、話は尽きず、夜通し楽しく語り明かすという。
「お土産のエビせんべいは、鞄に入れないでビニール袋に入れて持って行って下さいね。そうしないと、割れてしまいますから」
「わかっているわよ、面倒だけど、ここの名物だからね」
美濱にあるエビせんべい直売所から昨日購入した、エビせんべいバラエティーパックの大袋を入れたビニール袋を手元に引き寄せる風待。
二泊三日の旅程を考慮したのか、DAは地方リコリスが本部に来る際、おやつの購入を許可している。事前に甘味を購入して持ち込んでもよいというこの制度を、地方リコリスたちは、いつのころからか独自の交流文化の一環に仕立て上げている。
誰がいつ始めたのかは不明だが、地方に住むリコリスたちは、自分たちの地域の名物菓子を持ち寄って、同室になったリコリスたちと分け合い、共に食べ合うのだ。
尽きない地方の話題に、更に加わるお国の菓子自慢。互いに持ち寄った地方銘菓を分け合い、味わい、行ったことの無い遠い場所に想いをはせる。広い日本の各地から、偶然集まった4人の少女たち。この夜に語った思い出を忘れないように、この夜に聞いた見知らぬ地方への憧憬を忘れないように、味覚として記憶に残す楽しい儀式。彼女たちはこの日のために、地元の菓子を厳選し、地元の代表として持参する。
諸咲支部の選抜菓子は、地元のエビせんべい。諸咲には、他にも優れた銘菓は多数存在するのだが、かつてモブリコ寿司では、リコリス自らが手焼きをしたエビせんべいをお土産として渡していたという伝統から、代々の諸咲リコリスは、DAへの出張検診の時は必ずエビせんべいを持参している。
時代は変わり、今ではモブリコ寿司に来たお客様には、手作りではなく、事前に直売所で購入したバラエティーパック大袋をお渡ししているが、毎回お客様には好評をいただいているから、自信を持ってDAに持っていけるわ、と風待は言う。
「ほかのリコリスたちは、たいてい甘いお菓子を持参するから、しょっぱいエビせんべいは味が被らないのよ。たとえ煎餅系で被ったとしても、他の支部が持ち寄るのは、だいたいは醤油せんべいだしね」
他の少女たちが持ち寄る銘菓を想定し、自らのチョイスに自信を深める風待。同宿相手の手札を読み合うお菓子勝負、戦いは既に始まっている。
「というわけで、準備は万端、あとはお昼ご飯食べてから電車乗るだけよ。早く食べましょう、スギナ」
座卓を居間の中央に出しながら、スギナを急かす風待。はいはいと返事をしながら、スギナはゴーヤと釜揚げしらすのパスタを皿に盛り付ける。
パスタが隠れるほど具だくさんの昼食。しめじとしらすの香りが、バターの濃い香りに負けずに匂い立ち、食欲をそそる。
二つの皿を両手で持ち、畳部屋に入るスギナ。風待は何気ない動作で、スギナの背後に立つ。
先輩、麦茶でも取りに行くのかな、とその動きを気にせずに、パスタを盛った皿を座卓に置こうとするスギナ。その無防備なスギナの身体を、風待が背後から抱きしめる。皿を持っていいたため、隙間ができた両脇から腕を絡め、スギナの動きを押さえつけるかのような抱擁。スギナの身体を縛り付けるかのような抱擁。
「……先輩?」
両手に持った皿を降ろすことも出来ずに、ただ固まるスギナ。突然の抱擁に、スギナも時間も停止する。
「大きくなったわね、スギナ」
スギナの耳の後ろから、風待の声が響く。
この夏で、スギナの身長は大きく伸びている。4月5月頃は、抱きつかれる度に頭の上から聞こえた風待の声は、今は斜め横から聞こえてくる。抱きしめるたびに、スギナの身長を感じていた風待にとって、かわいい後輩の成長は感慨深いものがあるのだろう。
もっとも、風待が大きくなったと評価している部分は、身長ではないのかもしれない。風待は背後から、スギナの両胸のふくらみを握りしめながら語っているのだ。
「ねえ、スギナは、男の身体と私の身体、どちらが好き?」
少し湿った声で、静かに質問する風待。
「……先輩の、身体です」
少し潤んだ声で、静かに答えるスギナ。
「そうよね、スギナはいくら男に興味があっても、結局は私のカラダが一番好きな、困った子なのよね。スギナには私しかいない、それを忘れないでね」
「はい……」
「私がいない間も、私のこと忘れちゃダメよ。誰もいないからといって、オトコを部屋に連れ込んではダメよ、いいわね」
大丈夫ですよ先輩、そんな怖いことできないですよ、とパスタの皿を両手に持ちながら答えるスギナ。
「まあ、確かにそうね。それじゃあお昼いただきましょうか、スギナ」
安心した声で、絡めた腕を離す風待。スギナは軽くため息をつくと、やっとパスタを座卓の上に置く。
お料理が冷める前に話が終わってよかったな、とスギナは内心安堵する。
独占欲が強い風待先輩。先輩は、出張の度に、こうして注意するのだ。自分がいない間、男も女も猫もこの部屋に入れないようにと、忠告してから出て行くのだ。毎回毎回、儀式のように繰り返し注意してから、やっと出て行くのだ。
きれいな先輩から、強い矢印で向けられる独占欲。大好きな先輩から瀑布の如く浴びせられる重い感情は、スギナにとっては多少の迷惑と、それをはるかに上回る愉悦を内心に巻き起こしている。自分は大切にされている、自分はここにいても良い、本部教育課程では屑葉のように扱われていたスギナにとっては、風待の愛は自らの生に自信を与える、唯一の拠り所であった。
いただきます、と一礼してから、二人は昼食を食べる。
出立前の、静かな昼食。スギナは自分が作ったパスタの味に満足しながら、風待に料理の感想を求める。
美味しくいただいているわよ、と風待が答える。スギナは風待の高評価の声の中に、わずかに潤んだ色を感じ取る。
異性の裸を見て昂っているのだろうか、スギナを抱きしめたことで感情が露わになったのだろうか、情と熱の籠った、風待の声。
おそらく先輩は、昼食を美味しくいただいた後に、私を美味しくいただくつもりなのだな。スギナは多少の面倒くささと、それを上回る喜びが心の内に浮かび上がるのを感じ、わずかに頬を赤らめた。