罪の光はわが身に充ち
姿透くがにかがよいたり
8月のあの日、私は、人を殺した。
夜の闇の中で、絞め殺し、撃ち殺し、蹴り殺した。
私は、人を殺した。初めて、人を殺した。
私が人を殺したその時、私の目の前に、電波塔が現れた。光り輝く電波塔が顕れた。七色の虹光に彩られる電波塔が、閃光の金泥銀糸によって描かれる極彩色絵巻の如き煌びやかさで私の目の前に出現した。
大きな塔だった。大きな塔が海から生えていた。墓標のように、墓石のように生えていた。
電波塔、11年前まではその美しい姿を天空に映し出していた、かつての東京の象徴。今はただ壊れ歪み傾いた姿を天空に晒しているだけの、古い東京の象徴。
私の視界に映し出された電波塔は、壊れる前の颯爽とした姿だった。私の好きな、かつての姿だった。青空に向けてひたすらに伸びる塔の中心軸を覆うように、細く長く伸びる支柱が幾何学的に編み込まれた繊細な造形、細やかな装飾で彩られたチュールレースを纏う貴婦人のような優雅さを感じさせる電波塔の姿は、幼心にも美しく思えたものだ。延空木などという、最近できた武骨なだけの塔とは違う、古いガラス細工のような優美さが電波塔にはあったと思う。
私が好きだった電波塔、家族で遊びに行った電波塔。
美しかった電波塔の姿は、今はもうない。テロリストどもによって、壊されてしまったからだ。
優しかった私の家族も、今はもういない。テロリストどもによって、殺されてしまったからだ。
今の電波塔の歪み傾いた姿は、今の私の姿そのものだ。ただ真っ直ぐに歩んでいくはずだった人生が、無慈悲な暴力によって蹂躙され、傾き歪んでしまった。そして歪んだまま修復されることなく、私はリコリスとなり、歪んだ人生を歩まされることになった。
だから私は、たとえ幻の中とはいえ、電波塔が今の壊れた形ではなく、かつての優美な姿で現れたことに、内心安堵したものだ。大空を突くがごとく直立し、揺るぎない姿で東京を睥睨するかのように聳える都市の女王。数字一つの間違いもない、完璧な力学的計算によって作り出された美の体現。かつての私が好きだった電波塔が、昔の姿のまま現れてくれたことに、私は感謝したものだ。この電波塔の下に帰れば、私はかつての私、リコリスになる前の私、人を殺す前の私に還ることができると、私は考えたものだ。
通常ならば笑ってしまうほどの、何の根拠も理由もない思い込み。しかし侵入症状によって過去と現実の境界線が曖昧になっている状態の時の私は、常にそのような妄想に陥ってしまう。これは結局のところ、リコリスである自分、殺人者である自分から逃げようとする、単なる逃避願望にすぎないのだが、電波塔というリアルな幻に囚われている時の私には、過去の世界に逃げ帰ることができるという思い込みは、現実以上に現実的な選択肢となって、いつも私を誘惑し続けるのだ。
8月のあの夜も、私は電波塔に誘われた。塔から降る光が映し出す過去の光景の中に、私は一歩足を踏み入れていた。
過去に逃げる私を止めたのは、風待先輩だった。
私を抱きしめ、現実に引き戻した。
そして先輩は、電波塔にお別れをしなさいと言った。別れろと言った。
私を逃したくない、先輩の必死な願い。その剥き出しの感情を全身で感じながら、私は先輩の胸に顔を埋めたまま、さようならと電波塔に言った。
別れを告げ、顔を上げた時、電波塔は消えていた。
人を殺した私は、もはや電波塔の下に帰ることはできない。かつてのテロリストと同じ人殺しになってしまった私には、電波塔を見上げる資格はない。
だから、電波塔の幻も消えたのだろう。私は、過去を切り捨てた。私は、先輩のそばにいることを選んだ。だから、もはや電波塔を見ることはないだろう、そう思っていた。
しかし、その後の事をよくよく思い出してみると、その直後からすでに、電波塔の光は復活していたようだ。いや、復活していた。
私がヤクザたちを皆殺しにしたにもかかわらず、なぜか海からやって来た麻薬密売組織の男たち。連絡方法の不徹底から来る勘違いによって、のこのこと浜辺に上陸してきた、10人の男たち。
疲労困憊した私に代わり、彼らの始末に赴いたのは、風待先輩だった。
セカンドリコリスだから、10人くらいあっという間よと、のんきな顔で男たちの前に立った先輩。実際に戦闘が始まれば、本当にあっという間に完勝した先輩だったが、その言葉を信じ切れなかった私は、戦いの最中、先輩を助けるべく夜の浜辺へと駆けだした。
その時の光景を、私は思い出す。
暗がりの浜辺なのに、私は、敵の持つ拳銃がはっきりと見えていた。七色の光が、磨きこまれた拳銃の表面に反射して、きらきらと輝いていた。
夜中の礫浜を走る時に、足元が一直線に照らされていた。先輩のもとまで続く、一本の明るい光の道が映っていた。礫浜を覆う濡れた滑石が、眩い光を反射して、てかてかと輝いていた。
武装した敵との戦いの最中という、初めての事態であったため、その時は深く考えることもなかったが、改めて考えると、その時からすでに、別離を告げたはずの電波塔は舞い戻っていたのだ。いや、もともと別れてはいなかったのか。
日常の風景の中にも、電波塔の姿が割り込んできたのは、それから数日後のことだった。
最初に見たのは、単身巡回の最中。億陀駅周辺の巡回路を一人で歩いていた時の事だ。
億陀にある複合型レジャー施設、南智多シーサイドランド。先輩が遊園地が苦手なため、未だ入場したことはないが、この地区を歩く度に目に触れる大きなテーマパーク。その中でもひときわ目につく大観覧車の隣に、同じ高さの電波塔が並んでいたのだ。
あまりに自然な立ち振る舞い、いや建ち振る舞いだったため、私は最初その違和感に気が付かなかった。ただの風景として視線を外した後に、おもいっきり二度見をしたものだ。
その時の私の驚き、その時の私の絶叫は、かなり酷かったと思う。同じ道を歩いていた通学中の大学生や付属校生が、一斉に私を見つめていたほどだったので、実際酷い叫び声だったのだろう。
この日以来、電波塔は常に私の周囲にいる。私が外出する度に、手を変え品を変え、私の視界内に現れ続けている。
とは言え、あまりウザくはない。電波塔が建っているのは、いつも遠い場所だからだ。
少し難しい間違い探しのように、遠景の片隅にひっそりと立つ姿は、私に気を遣っているかのようにも見える。富嶽三十六景尾州不二見原の富士山のように、大きな円で囲わなければ見落としそうなほどの小さな姿で、私の視野に潜り込んでいる。
だから、昼間に外で見る電波塔には、特に問題はない。問題があるとすれば、夜である。
電波塔が放出する幻の光。私の殺人現場を照らしていた閃光が、毎晩私を照らし続けているのだ。
罪の光はわが身に充ち
姿透くがにかがよいたり
大観覧車の横に鎮座する電波塔を見た日から、私の世界に闇は無くなった。
雨中の夜、荒天の夜。月明星明絶え果てた瀑闇の夜中でも、私には白昼の如き明瞭さで世界が映し出されている。雨戸を閉め、吊り下げ電灯の明かりを消した室内でも、本を読んだり畳の目を数えたりすることができるほどの光が、常に私の周囲に満ち溢れているのだ。
いったいなんなのだ、と私は思う。
いったいなぜなんだ、と私は惑う。
毎晩の如く浴びせられる。電波塔の明かり。人を殺した私に放たれる、電波塔の光。
最初は、電波塔が怒っているのかと思った。電波塔孤児である私が、電波塔の悲劇をもたらしたテロリストどもと同じように人を殺している。そのことへの抗議だと考えていた。
しかし、抗議にしては、手ぬるい。
夜の視界がクリアになったことで、生活や健康に問題はきたしていない。闇色のすべてをかき消すほどの強烈な光ではあるが、所詮は幻なので、目を閉じれば霧消してしまうのだ。薄いまぶたで完全遮断されてしまう光なので、寝る時に邪魔にならず、不眠症に陥ることもない。むしろ、夜中にトイレに行くとき、電気を付けなくていいので便利なくらいだ。
そしてこの光は、電波塔の姿と同じく、どうやら私だけにしか見えていないようだ。私が光る夜にいる間も、風待先輩は、寝る前には常夜灯をともし、夜中はトイレの電気をつけている。
突如私に備わった、暗視の力。風待先輩が、夜中に暗闇の中で私を見つめていたことに気が付いたのは、ひとえにこの能力の賜物だった。
モブのくせに、なんでこんな御大層な能力が生えてきたのだろうか。その力を、夜中のトイレだけに使っていいのだろうかと、私は恐縮しながら、昨夜も明るい闇の中で熟睡していたものだ。
私がどれほど謎に思い、どれほど困惑していても、電波塔はつゆ知らぬ顔をして、今日も私の視界に入ってくるだろう。そして今夜も、私を照らし続けるのだろう。
私には、わからない。
電波塔が、何を訴えているのか。
私には、わからない。
リコリスとなった私に、人殺しとなった私に、電波塔は、一体何を求めているのだろうか。
罪の光はわが身に充ち
姿透くがにかがよいたり
かつては侵入症状の時に見る幻影、かつては現実逃避の象徴だった電波塔。私の過去、私の影であった壮麗な幻は、今は日常の点景となり、常に私に問いを発している。
何を求め、何を問うているのかは、わからない。今の私には、わからない。
わかるのは、この幻は、私の内面と密接につながっているということだけだ。
この一か月の間、常に視界の遠くに佇んでいる電波塔。いつも寂し気に立っている幻の塔が、ただ一度だけ、眼前に迫ったことがある。
それは約半月前のある日のことだった。
その日の昼、弐豊町の駅近くの大きな住宅で、小さな騒動が勃発した。
内容はよくある不倫騒動。旦那様の目を逃れて不義密通にいそしむ若い奥様が起こした、小さな事件だった。
事件の発端は知らされていないが、状況から考えるとこの事件は、優しいご主人と一緒に新築の住宅で優雅に暮らしていた奥方が、外でチンピラの男と恋愛関係になったのが事の始まりのようだ。
ただ騙されていたのか、それともただの世間知らずだったのかは知らないが、彼女の目には、チンピラの男が纏う薄汚い暴力の香りが、男らしい魅力に溢れているように見えたらしい。まあ、知恵と常識の足りない人間によくある、お粗末な勘違いというやつだ。
彼女にとっては情熱的な恋愛ゲームだったようだが、チンピラにとっては、求めるモノは愛ではなく金だったようだ。若くして一軒家を購入するようなご家庭だ、さぞお金は持っていたのだろう。
出会うごとに多額の金銭を要求しはじめる不倫相手に、さすがに世間知らずな御婦人でも、やがては危機感を抱くようになる。いつのころからか彼女の心に燃え盛っていた妄愛の情は冷め、代わりに不安と恐怖が台頭しはじめる。
旦那様に平謝りしてすべてを告白したのか、それともこっそりと弁護士に相談したのか、ある日彼女は、不倫相手のチンピラに、電話越しに拒絶の意思を伝えたようだ。
チンピラは、逆上した。どうやらプライドを傷つけられたらしい。人間の屑でも、プライドとやらはあるらしい。
かつては男らしい魅力だと感じていた暴力性、その矛先は、電話越しでのたった一言で奥様の方を向くことになる。暴力的な人間は、その時々により怒りを向ける矢印が簡単に変化する、それゆえに粗暴な人間とは距離を置かなくてはいけない。彼女は電話先で激怒する不倫相手の罵声を聞きながら、小学生でも理解している人間関係の真実に、ようようたどり着いたようだ。
殺してやる、今からお前の家に向かうぞ、そのような怒鳴り声を聞いていたのは、奥様だけではなかった。日本全国の通話を監視しているDAの巨大コンピューターもまた、二人の会話を拾い上げていた。
全国民の通話やメールの中から不穏な単語を機械的に拾い出し、それが一定数に達すると自動的に個別通信監視に切り替わる、DAの通話監視システム。チンピラの国民管理記録簿と、過去の通信通話記録が数秒でチェックされ、これまでの二人の関係と現在の危機的状況が、DA監視部のモニターに表示される。
DAの眼が自分を見つめていることなど露知らず、逆上し我を忘れたチンピラは、仲間のチンピラ数人に架電する。そのうち二人が襲撃に同意し、彼と一緒に主婦の自宅に向かうこと、その中の一人が、猟銃を所持していることを確認したDA監視部は、すべての情報を本部に転送する。
今後状況が殺人事件になる確率は91パーセント。殺害後に立て籠もり事件になる確率は74パーセント、猟銃所持のまま逃走する確率70パーセント。隠蔽レベル6以上の事件になる可能性有。DA本部の予測システムが弾き出した数値に、DA司令部は現地リコリスの投入を決定する。
……まあ、そんな流れなんだろうな、と私はおぼろげに推測する。モブであり末端サードリコリスの私には、DA本部がどのようにして意思決定しているのかはわからない。だいいち私は、本部のでっかいコンピューターの名前すら知らないのだ。
しかしまあ、こんな感じの事務的な流れで、中継役を兼ねている名古屋支部を通し、弐豊北部を管轄する空港島支部に連絡が行ったのだろう。猟銃一丁付きの男3名の排除、背後からの暗殺を専門とする分校リコリスでは心もとないので、正面戦闘で敵を排除することができる本部卒リコリスの投入を要請したのだろう。
空港島支部。智多中部を管轄する、総員25名の大所帯。たった2名しかいない智多北部の嘉木屋支部、同じく2名しかいない智多南部の諸咲支部に比べ、十倍以上のリコリスがいる空港島支部は、名古屋支部に続く県内2番目の大支部である。この25名のリコリスのうち、本部卒リコリスは6名、さらには分校出ではあるが、4年以上の経験を積んだシーズンドリコリスが6名、計12名の少女が単独任務可能な実力を有している。この12人の中から、たった1人を現場に回すだけでよいのだ。緊急の要請ではあるが、中部圏内のすべてのリコリスの人数を把握している名古屋支部は、軽い気持ちで空港島支部に連絡したんじゃないかなと思う。
しかし、その時の空港島支部は、その一人すらも派遣できない状況だった。自分たちの管轄区域内での事件であるにもかかわらず、である。
空港島支部の管轄区域は、智多中部である。しかしこの支部は、支部名の通り、智多中部に付随する、大きな空港島をも管轄範囲に収めている。
伊勢湾に浮かぶ人工島、
いつも平和な諸咲支部や嘉木屋支部に比べ、いつも忙しそうな空港島支部。名古屋支部と同じく、本部卒リコリスや分校のエリートリコリスが赴任しているこの支部は、常に真面目だった。遠い諸咲から眺めていても、堅苦しさを覚えるほど生真面目な支部だった。
その日も、空港島支部は真面目だった。
央部国際空港は、国際展示場や大会議場などの大型施設や宿泊施設が多数設置されている。日本国の窓口に相応しい巨大会議場では、空港という地理条件を活かし、月に数回、国際的な会議が開催されている。
会議中の警備は、複数の警備会社や警察が担当しているのだが、裏では空港島支部のリコリスが施設や招待客の安全を護っている。警備員や警察官も、空港内ではリコリスの存在を見て見ぬふりをしつつ、テロや暗殺を阻止する最終防衛線として、彼女たちの力を頼りにしている。海外から来る凶悪犯罪者やテロリストと対峙するには、無警告での発砲と射殺ができるリコリスの存在は必須であることを、空港警備関係者たちは身に染みて理解しているのだ。
弐豊町の大きな住宅に、激怒したチンピラが仲間を引き連れて訪れようとしていたその時、空港島では、小さな国際会議が開かれていた。
央部国際空港のホームページにも載っていなかったほどの、小さな学術会議。もしかするとDA本部も見落としていたかもしれない、小さな会議。もし気が付いていたとしても、特に問題はないと思っていただろう。支部から精鋭一名を現地に急行させる程度の引き抜きに、何の問題もないと思っていただろう。
問題は、あった。
本来ならば、昼勤のリコリス数名が護衛するだけで済んだはずのこの会議、国際会議とは名ばかりのささやかな海外交流会に、なぜか空港島支部のリコリス全員が、皆そろって護衛についていたのだ。
空港島支部は、真面目だった。
任務終了後に聞いた話によると、その日空港島支部は、来年1月にある大きな会議の予行演習代わりに、この会議を利用して支部全員の配置訓練をしていたらしい。
4カ月後に央部国際空港で開催される、子ども育成庁主催の国際会議。DA本部がすでに不穏な兆候を察知しているこの大規模な国際会議を平和裏に終わらせることができるよう、空港島支部のリコリスは、先月から月に数回、小さな国際会議を利用して、総員が空港島に集まって模擬訓練に励んでいたらしい。
空港島支部は、真面目だった。
この夏の最中に、照り返しの強い空港の外や、人混みの多い空港の中で、自主的に訓練に勤しむのは立派ではあるが、自分の管轄内に空白ができるのは、あまり褒められたことではない。この状況を折り返し伝えられたDA本部も、困り果てたことだろうなと思う。
同じ支部内とはいえ、今から空港内にいるリコリスを弐豊町に向かわせるには、交通の便が悪いという大問題があった。基本的にリコリスの足は公共交通機関だが、空港から伸びる私鉄を使うと、一度名古屋行きの電車に乗った後、嘉木屋支部内の大歌川駅で乗り換えて伴田方面に向かうという大回りなルートを取らなければならない。そこまでして空港島支部リコリスを向かわせるのであれば、交通の便がよい嘉木屋支部か、距離的に近い諸咲支部からリコリスを向かわせた方が早い。
悩んだDAは、人員選択を名古屋支部に丸投げする。もっと悩んだ名古屋支部は、人員選択を名古屋支部長の臥観手ルミナに丸投げする。普段はこのような選択権などない、ただのお飾りであり名前だけの支部長である臥観手ルミナは、もっともっと悩んだ末に、後輩である諸咲支部リコリスにチンピラの始末を要請する。
風待先輩と私のスマホに、グループ通話でルミナ支部長から直接任務依頼が来たのはお昼と夕方のちょうど中間、そろそろおやつでも食べたいなと思う頃だった。先輩と二人で、今日のお夕食兼明日のモブリコ寿司のメニューの一つである、イワシの生姜煮を作っていた頃だった。
これこれこういう事でこうなった。ターゲットのチンピラは既に伴田の自宅を出て、猟銃を持った仲間たちと合流中だ。今回の任務は、チンピラたち3名の処分。襲われる夫婦の生死はどちらでも構わないが、清掃班を向かわせる時間はないので、任務後はリコリスの介入の痕跡を消し去り、DAが報道操作できる状態にしておくこと。この任務はとにかく時間がない、今すぐ智多新線に乗って現地に向かってくれ。地図と人物データはこの後転送するので移動中に確認するように。あと音から察すると、今煮魚を作っている最中のようだが、諸咲の下宿のコンロは左右で火力に差がある、煮物は右側のコンロを使うといいぞ。と、かつての諸咲支部リコリスであるルミナ先輩の低くよく通る声が、旬のイワシの煮える音と共に聞こえてきたものだ。
要請人数は一名。ウメノスケとスギノスケ、どちらが出動する? というルミナ支部長の問いに、風待先輩は少し考え、スギノスケが行きますとしっかりした声で答えた。
諸咲の大先輩であるルミナ支部長に、私が立派なリコリスになったことを伝えたかったのだろう。猟銃を所持しているとはいえ、ヤクザ以下のチンピラなど、一人で殺せる立派なリコリスになったと、名古屋支部に伝えたかったのだろう。
ルミナ支部長も、風待先輩の心がわかったようだ。わかった、スギノスケ、頼んだぞと信頼した声で私に語りかけてくれた。
ルミナ先輩も、風待先輩も、私を信頼してくれている。一人前の諸咲リコリスだと思ってくれている。
DA本部での教育により植え付けられた、国の平和を守るリコリスであるということへの自負心。そこから発する責任感と高揚感に駆られた私は、先輩イワシ頼みますと一声かけると、完全装備に着替えて部屋から走り出した。
自転車に乗り、内箕駅に続く晩夏の道を走る私。左手に見える海岸線の先には、小さな電波塔が何本も生えていた。