8月の終わりごろに起きた、隣町での小さな事件。
私の二回目の、単身任務。
その時も、私の目の前には、電波塔がそびえていた。
とても大きな姿で、電波塔がそびえていた。
ターゲットたちに気配を悟られないまま部屋に入ることはできたが、突然見えた電波塔の幻像に、私は大声を上げてしまった。
おかげで今、私はターゲット全員に見つめられている。
まったくもって失態だ。まったく何をやっているのだ私は。
まったく同じだ、半月前とまったく同じ症状だ。
侵入症状、心的外傷の侵入的再体験。
半月前、初めて人を殺した時と、同じ症状。いや、妄想の果てより現れた光景は、前回とは少し違う。前に出てきた電波塔は、遠くから小さいのが3基。今回の電波塔は、近くに巨大なのが1基。
大きさや数に、特に意味はないのだろう。その時々の私の感情によって変わる、ただのブレなのだろう。気にしてはいけない。
電波塔に、気を取られてはいけない。意識を電波塔に向けると、過去の再体験が始まってしまう。家族を失ったあの過去へ、家族が亡くなったあの瞬間へ、心が戻ってしまうのだ。
しかし、心さえ11年前に戻ることが無ければ、問題はない。電波塔の幻覚は、任務に支障を及ぼさない。
現世と妄想の狭間に立つ電波塔。私の目には二重露光の写真のように見えるが、現実の景色の存在感には遠く及ばないため、周囲確認の邪魔にはならない。
意識と無意識の隙間にそびえる電波塔。間近ではあるが、風景の一部として存在しているため、行動の邪魔にはならない。散歩中に空の風景が青色から夕焼け色に変わっても、歩行に支障がないのと同じようなものだ。
私の気持ちさえ乱れなければ、電波塔は任務を妨害しない。むしろ夜間任務時は、私だけが見える光を与えてくれる有難い存在だ。
かつては出現と同時に、私の心を強制的に過去に連れ去ろうとしていた電波塔の幻。一度心の表に出てきてしまうと、全くコントロールができなかったこの幻の塔は、この半月間で、少しだけ変化している。
DA本部を卒業し、片田舎の港町で風待先輩と二人静かに暮らすうちに、心が落ち着いてきたからかもしれない。第二次性徴期も後半を過ぎ、精神的にも変化が出てきたのかもしれない。初めて人を殺したことが、内心に何か影響を与えたからかもしれない。
かつてほど怖くなくなった、電波塔の幻。しかし今、弐豊町の住宅のリビングルームで見た巨大な幻に、私の心は大きく揺さぶられた。
電波塔は、何かを叫んでいる。電波塔は、何かを訴えている。そのように感じたのだ。
目の前に立つ幻影からではなく、なぜか私の背後から感じた、電波塔の大きな感情。それが何だったのかは、その日から半月たった今でもわからない。
あの日、電波塔の感情を浴びた直後に、深く静かに考えてみれば、もしかしたら理解できたのかもしれない。電波塔の叫びを体に感じた瞬間の私は、電波塔の感情と、ほんのわずかな時間だったが一体化していたからだ。
しかし、考えている時間はなかった。考えたかったが、そのような暇などなかった。
あの日、部屋の中には、3人の敵がいたのだ。任務により排除を命じられた、ターゲットたち。武装した、犯罪者たち。抹消すべき、社会のゴミ。
善良な市民の住宅に押し入り、家の主人を猟銃で殺害した、チンピラたち。金目のものを奪い逃走しようとしていた、チンピラども。
いま私の目の前には、猟銃を持ったチンピラが一人。あとの二人は、リビングの横にある収納棚から、金品を物色中。
リビングの床には、撃ち殺されたこの家のご主人の遺体と、その横で泣いていた奥様。先ほどまで呆然をした顔で滂沱の涙を流していた彼女は、今はなぜか、私の姿を見て、まるで化け物に出会ったかのような声で絶叫している。失礼な人だ。
長く続く女性の金切り声。その不快な声が、肺の空気の枯渇と共に消え去ると同時に、猟銃のフォアエンドがスライドされる金属音が響く。銃身の下側にあるチューブラーマガジンを覆うように付けられたフォアエンドを、左手で前後にスライドさせることにより、排莢と装填が行われるポンプアクションショットガン特有の音。
スライドによってエジェクションポートより排出された赤色の空薬莢が、リビングルームの中を高々と舞い飛ぶ。軽いプラスチックでできた空薬莢は、ロンデル部分を軸に回転しながら部屋の壁にぶつかると、ほとんど音を立てずに絨毯の敷かれた床に落ちる。
下手なスライドだ、と私は冷静に猟銃を操作した相手を見る。猟銃を手にしている相手を見る。
私の目に前にいる三人のチンピラのうちの一人、私物の猟銃を抱えて仲間とともにこの家に押し込み、激高した挙句に人一人を撃ち殺した、ゲス極まりない男。この家の奥方を騙していたチンピラの友人という、本来ならば被害者との接点はほとんど無いにもかかわらず、家の主人を撃ち殺した、クズ極まりない男。
私の顔を見て驚いたチンピラたちの内、この男が真っ先に行動に出た。
私が持つ拳銃、グロック36を見て、彼はすぐ反応したのだ。私の銃に対抗するべく、手に持つ猟銃をすぐさま再装填したのは、この国の市民にしては素早い判断だ。
この国の人々は、銃火器への警戒心が恐ろしいほどに欠如している。拳銃など娯楽作品の中でしか見たことの無い一般市民たちは、実際に銃器を見ても、それが本物なのか、それがどれほど怖いものなのか、いまいちピンとこないのだ。人を傷つける道具、人を殺す道具なのだという実感が湧かないのだ。
かつて真島一味が拳銃を手に警察署を襲撃した時、入り口で立番をしていた警官は、彼らが持つ銃を
そのような緩い国民が多い中、目の前のチンピラの反応は見事なものだ。私の持つグロック36、フレームもスライドもプラスチック製である
しかし、手にしている猟銃の扱い方は大したものではない。
どうやらこの男は、猟銃等講習会には参加していないようだ。散弾銃の操作講習と射撃講習で必ずチェックされるはずの装填脱包方法がなっていない、基礎中の基礎ができていないのだ。
ということは、目の前のチンピラは、銃砲所持許可や狩猟免許は持っていないのだろう。いま彼が手にしている猟銃は、おそらくは他人の所持品を勝手に持ち出したもの、もしくは盗品かもしれない。
この男が持っている猟銃は、米国レミントンアームズ社のM870散弾銃。スライドアクション・レピーター・ショットガンの代表ともいえる銃だ。海外では警察や軍隊でも使われ、わが国でも狩猟用として輸入されている有名な銃。私もDA本部候補生時代の射撃訓練の際、この銃は何度も手にしている。戦闘主力である本部卒リコリスは、この世界にある武器すべてを使えるべきであるという理念のもと、私たち本部生はありとあらゆる武器の使用方法を学んでいる。目の前の散弾銃も、正しい据銃姿勢から始まり、射撃方法から分解組立方法に至るまで、使い方と性能のすべてを体に叩き込んでいる。
敵の武器の性能を知っているから、怖くはない。敵の武器の威力を知っているから、対処できる。ましてや、素人の持つ武器など。
薄笑いを浮かべた私が、突きつけたグロックの銃口の先を、猟銃を持つチンピラの顔に向けたのと、引き攣った表情のチンピラが、
てめえら、これ以上近づくんじゃねえ! というチンピラの怒鳴り声。足元に力なく座る女の頭を、手にした猟銃の銃口で小突きながら、私を威嚇する。
それで威嚇のつもりか。人質を取って拮抗状態を作り出したつもりか、私は内心苦笑する。
このチンピラは、判断を誤った。
互いに向き合った状態で人質を取る場合は、自分の体を人質の影に置かなくてはいけない。人質の体を肉の盾にすることによって、相手の射撃を躊躇させることができなければ、人質を取った意味など無いのだ。
今回このチンピラは、銃口を人質ではなく私に向けるべきだった。そうすれば少しは武力の均衡がとれたかもしれない。もっとも、その状態が作り出せたとしても、防弾防刃繊維製の制服を着て、防御用エアバッグ内蔵のサッシェルバッグを背負った私の方が、圧倒的に優位にあるのだが。
この緊迫した状況下で、間違った選択をしたチンピラ。まあ、所詮は素人なのだろう。敵は私一人なのに、てめえらなどと叫んでいた程度の国語力だ。頭も悪いのだろう。
語学力の怪しい相手と、これ以上話し相手になる気はない。私は片手で持ったグロック36の引き金を引く。迷いも気負いも躊躇いもなく、引き金を引く。
最先端流体力学の粋を集め、DA研究部が作り上げた特殊弾頭、45口径ハイドロショック弾が、猟銃を構えたチンピラに命中する。狙いは口の中、人質に突きつけた猟銃の引き金を、死ぬ間際に脳から発せられた電気信号によって引かれることが無いように、脳幹と脊髄の境目を正確に破壊する。
この距離ならば、ミリ単位の誤差も出ない。
飛び出た弾丸を追うかのように、チンピラの後頭が大きく花開く。内部から爆発したかのように飛び散る、チンピラの後頭部。赤黒い血と薄紅色の肉、灰色の骨、そのすべての色がかき回され、混雑混色した一つの泥絵具となり、リビング中にまき散らされる。薄い色の絨毯、白い色の壁、淡い色の天井、かつてこの家の主が、自らのセンスによって選び取った柔らかな色彩のリビングに、下品な赤黒い飛沫が汚らしく付着する。
拳一つが入りそうなほどの大穴を後頭部に開けられたチンピラの体が、後ろ方向に大きく傾く。脊髄を破壊され、支える柱が無くなった頭部が、背中に後頭部を付けるかのように大きく転がり落ちる。背後に移動した頭部の重さに釣られるように、チンピラの体は、猟銃を構えた姿のまま、仰向けに倒れる。背筋一つ曲げることなく転倒する男の姿は、私の目には、強風にあおられた立て看板が倒れる様な、無機物めいた感じに映った。
座り込んでいた女性が、再び絶叫を上げる。倒れた時の音で、背後の男が撃たれたこと、背後の男が死んだことを察したのだろう。人質役から解放されたというのに、うるさい人だ。
さらに、その悲鳴によって、今まで呆然としていた残り2名のチンピラたちも我に返ってしまったようだ。リビング内を漁って得た戦利品、この家の財布や通帳やらを投げ捨て、慌ててポケットをまさぐり、小さなナイフを取り出すチンピラたち。護身用か威嚇用か、用途は不明だが、二人とも刃物を用意してきたらしい。
それなりに様になる構えでナイフを片手持ちし、それぞれ威嚇の言葉を述べている二人のチンピラ。しかし、猟銃を手にしていたチンピラよりは脅威度は低い。低い理由は、武器の殺傷力の差からではない、闘争心の差からだ。この二人は今、精神が委縮している。目の前で仲間が殺されたことに、恐怖しているのだ。目の前にいる私が、人を殺せる種類の人間であることを知って、怯えているのだ。
ヤクザもそうだが、チンピラもまた、反撃できる手段を持つ人間、殺人という手札を持つ人間に対しては途端に弱くなる。彼らが自身に有する凶悪な暴力性を発揮できるのは、自分より弱い人間、決して反撃しない善良な人間に対してだけだからだ。
彼らチンピラたちに比べれば、私が来る前に殺されたこの家のご主人の方が、人としては格段に強かった。彼はチンピラたちの恫喝に耐え、猟銃の威嚇に耐え、勝手放題に浴びせられる悪意に耐えきったのだ。チンピラたちの良心を信じ、和解の道を探っていたのだ。銃を持った少女一人に怯え震える、お前たちチンピラとは人としての出来が違う、立派な大人だった、強い心の持ち主だった。
そのような立派なご主人を、お前たちは殺したのだ。だから私は、お前たちを殺す。リコリスは、殺人犯とその仲間を、決して許さない。
まあもっとも、こいつらが人を殺す前から、DAは抹殺処分を決めていたんだけどね、と私は怯える彼らを見ながら、自分でツッコミを入れる。今の私には、それだけの心の余裕はあるようだ。
二人のチンピラは、ナイフの刃先を私に向けたまま動かない。脚が竦み、動けないのだ。
てめえら! かかってきやがれ! と一人のチンピラが叫んでいる。一見威勢のいい言葉だが、自分から襲いかかれないことを暗にばらしているようなものだ。心が委縮している、身体が守りに入っている証左だ。というか、なぜこいつも複数形なのだ。
このような弱気な売り言葉を、すぐに買ってやる必要はない。私はゆっくりとグロックのサイレンサーを外し、拳銃と一緒に背中のサッシェルバッグにしまう。
あえて隙を見せている動作なのに、誰でもわかる武装解除の所作なのに、二人のチンピラは全く動かない。喧嘩の心得があるチンピラならば、ここで左右から二人同時に刺しに来るのだが、そのような気配すら見せない。つまらない輩だ。
襲いかかる気がないのならばそれでいい。ずっとそこで突っ立っていろ。私は静かに前に出ると、射殺したチンピラの死体から、猟銃を奪い取る。
M870散弾銃、スライドアクションショットガンを手にするのは久しぶりだが、基本性能は頭が覚えている、分解整備方法は指が覚えている、射撃方法は体が覚えている。私は銃身に片耳を付けながら下にある先台を軽く叩き、チューブラーマガジンに収められているショットシェルの装填数を確認する。
残弾はマガジン内に1発、薬室内に1発の計2発。まあ予想通りだ。
かつてDA候補生時代に、射撃訓練で使用したM870の
半月前、私は敵の所持している拳銃の装弾数を間違え、風待先輩の前で大恥をかいたことがある。遠方からとは言え、
この二つの拳銃の装弾数の差は、1発。しかし戦いの場では、1発の差は大きい。風待先輩は笑って見逃してくれたが、自分にとっては、許せない失態だった。私が見逃した残り1発の弾丸が、愚かな私の脳天にめり込むのはまだいい。しかしその1発が、バディである風待先輩に命中したらどうするのだ、守るべき一般市民に当たったらどうするつもりだ。
あの日以来、私は敵の銃の装弾数や残弾数には細心の注意を払おうと心に決めている。同じ間違いは繰り返さない。だから今私が死体から奪ったこの散弾銃も、ターゲットに銃口を向ける前に、まずは残弾数を確認したのだ。まあ今回の敵は、ヤクザ以下の素人チンピラ達だ、確認できる時間があるから確認した、ただそれだけの話でもあるのだが。
私のグロックによって頭を吹き飛ばされた男は、弾倉2発、薬室1発のフル装填でこの家に上がり込んできたらしい。さらに彼は念を入れ、予備の装弾まで持参したようだ。脳幹を破壊されているため、痙攣一つ起こしていない死体のズボンからは、数発の装弾が転び出ている。赤色と金色の、派手な色をした散弾装弾。今床に横たわっているこの男は、これだけの装弾を持参して、一体何を仕出かそうとしていたのだろうか。逃走中に、あたりかまわず乱射しようとしていたのか、追いかける警官に発砲しようとしていたのか。
その予備弾の数を見るだけでも、この男を排除して良かったと思う。殺して正解だったと思う。私は気を引き締めなおすと、残り二人のチンピラに、奪った散弾銃の銃口を向ける。DAで覚え込まされた、正しい据銃姿勢。何千何万回と反復練習した、正しい肩付け、正しい頬付け。
二人の内どちらを先に撃ってもよかったが、とりあえず奥にいるチンピラに狙いを定める。乗り込んできた3人のリーダー格、この家のご婦人を騙していたチンピラだ。こいつを先に殺せば、亡くなったご主人があの世で喝采の声をあげるかもしれない。ただそれだけの理由だ。
狙われたチンピラのまだ若い顔が、醜く歪む。死への恐怖が生み出した、絶望の顔だ。私はその醜怪極まりない顔面目掛け、引き金を引く。
甲高く乾いた発射音とともに、12番径の銃口から発射焰とともに16発の散弾が射出される。直径7mm、重量1.96gのチルド散弾が、散開しないほどの至近距離でチンピラの顔面に全弾命中する。猪や鹿を狙うためのSSG散弾、アンチモンによって硬化処理された鉛玉が、理性と知性の足りないチンピラの顔面に着弾する。
元々は狩猟用の
浅い水溜まりに、勢いよく足を踏み落としたかのような飛沫をあげ、チンピラの顔面が消滅する。飛沫の正体は赤黒い肉片。歯や眼球、舌や骨の破片を伴った、汚濁の飛沫だ。
16発の散弾は、顔面の肉を衝撃によって周囲に吹き飛ばしながら、頭蓋骨の奥に侵入する。頭部内すべてをかき回し、かき乱し、液状の飛沫に変換しながら破壊する鉛玉たち。もしこの散弾の一つ一つに意思があったとしたら、野生動物の骨に比べ、人間の頭骨とはなんと脆いことよと嘲笑ったに違いない。
かつて顔面を構成していたパーツを部屋中にまき散らし即死したチンピラ。少し前まで恐怖に歪んでいた顔は、今は大きく抉り取られ、深く広い大穴を私の前に晒している。赤色の穴の奥からは、水鉄砲のような血の筋が間隔を置いて噴き上がる。心臓はまだ生きているのだ。
最後に残ったチンピラが、手に持っていたナイフを落とす。助けてという小さな声が、銃声の消えた室内に小さく響く。
この状況下で、助けてもらえると思うのか、私は返答の代わりに、
DAで教わった、正しい射撃姿勢、正しい射殺のための正しい体勢で、私は最後の一人の顔面を狙う。涙を流して哀願するチンピラの顔面に、散弾を放つ。
部屋を震わせる猟銃の発射音。顔面を流れていたチンピラの涙は、散弾の着弾によって顔面ごと消滅した。死の恐怖からなのだろうか、後悔の念からなのだろうか、彼が流していた涙は、霧状に飛び散った血と肉の砕片に混ざり、リビングの天井や壁を汚すシミの一部となった。
銃声の残響とともに、散弾で撃ち殺されたチンピラ二人の体が崩れ落ちる。最初に撃たれたチンピラは座り込むように、後に撃たれたチンピラは壁にもたれかかるように、それぞれ異なる姿勢で倒れる。それはまるで、共に顔面を失い無個性となった死体が、せめて倒れ方で個性を出そうとしているかのようだった。
二人の死体が倒れる音を最後に、静まり返る室内。夏の午後の日差しが、窓から柔らかく差し込んでいる。
電波塔の幻も、いつしか消えていた。チンピラたちの命が消えるのと同時に、消えていた。地がどよめくが如きに悶え響く強い激情と、天が張り裂けるが如きに光り迸る強い閃光を伴って私の前に現れていた電波塔は、私の心に微かな波紋を残したまま、いつの間にか去っていた。
静かなリビング、静かな世界。騒乱の元はすべて消え失せた、平和な世界。私が作り上げた地獄絵図の世界に、私はしばしたたずむ。
床に座り込んでいる女性、かつてこの部屋で幸せな日々を過ごしていた奥様は、今は蒼白になった顔の上に虚ろな目を貼りつけ、身動き一つせず私を見つめている。
いや、視線の先に私がいるというだけで、実際は何も見つめていないのだろう。見つめているのは、かつての幸せな日々なのだろう。
広く明るいこの部屋で、優しい旦那様と過ごした日々。たった一人のチンピラの悪知恵によって奪われた、かけがえのない日々。かつての暖かな日々の幻影が、彼女の瞼に浮かんでいるのだろう。
私は猟銃を手にしたまま、ゆっくりと部屋を一望する。
床、壁、天井、家具に満遍なく付着した、血痕と肉片。流れ出る血で染められた床と、その上に横たわる4人の死体。今この惨状を見た人間は、かつてここであった幸せな生活を想起することなど全くできないであろうほどの、惨劇の跡。
その時私は、自分がしでかしたことへの強い後悔の念が、心の奥底から襲ってくるのを感じた。それはチンピラ達を殺したことへの後悔ではなく、ひとつの家族の幸せの象徴であるこの部屋を、血で汚してしまったことへの後悔だった。
三人の人間を殺した虚脱感からか、寸刻のあいだ呆然と立ちすくんでいた私は、ふとある匂いを感じ取る。
いままで気がつかなかった、いや気にも留めていなかったが、拳銃や猟銃の発射薬の臭い、死体から溢れる血の臭いに混ざり、コーヒーの匂いが、リビングの中に漂っていたのだ。
私は目線を、居間の中央に置かれた来客用机に向ける。
この家のご主人が淹れたのだろう、5つのコーヒーカップ。だれも口にしなかったであろうコーヒーたちは、せめて匂いだけでも主張しようと、その芳醇な香りを部屋中に躍らせていた。すでに冷めかけ、湯気も尽きかけているが、それでも非日常的な異端者である銃や血の臭いに抗い、平和な日々の匂いを守ろうと、必死の抵抗を続けている。
コーヒーの匂いを嗅いでしまった自分、血の臭いの中から、コーヒーの香りを嗅ぎ分けてしまった自分に対して、私は重いため息をつく。
ああ、これから私は思い出すのだろう。一生、思い出すのだろう。
これから私は、コーヒーの匂いを嗅ぐたびに、この日のことを思い出すのだろう。この部屋の惨状を、思い出してしまうのだろう。