運動と日焼けで火照った肌を、冷たいシャワーで手際よく冷やすと、私は体を拭き、部屋着に着替える。本当はもう少し長く、冷たい水流を浴びていたかったが、シャワーの音は私のトラウマへのトリガーの一つなので、ひとりの時は早めに切り上げている。特に今朝は、その兆候があった、用心しなければいけない。
白いシャツとハーフパンツ。見た目は運動着と変わらないが、大きめのサイズで風通しの良い普段着。制服や運動服とは違う、ラフな肌触りが心地よい。毎朝の日課であるランニングを終えた開放感を、少しでたらめな曲調のハミングに変えながら、着替えを終えた私は朝食の支度をする。
外出前にスイッチを入れた炊飯器を開け、ご飯の確認をする。普段の半分、一合分しか炊き上がっていないお釜を覗くと、今日は一人なのだなという実感が湧く。
お湯を沸かし、レトルトの味噌汁を作ると、ご飯をお茶碗によそう。
冷蔵庫の中には、おかずになるような品はない。普段ならは、モブリコ寿司で使った食材の余りや、寿司会席を提供するために作ったお料理の余りが、二人暮らしにしては大きめの冷蔵庫の中に、スーパーのお惣菜コーナーの陳列棚のように整然と並べられているのだが、今朝の冷蔵庫の中は特売直後の売り切れ状態の棚のように閑散としている。モブリコ寿司の休業日に合わせて先輩が出張したため、昨日はお客さんに出すお料理も自分たちのためのお料理も、全くしていなかったのだ。
昨日まで冷蔵庫に残っていたおかずたちは、昨日の私が全部平らげてしまった。今日一日は、自分で料理を作るか、粗食で生きるか、どちらかを選択しなければいけない。ひとり暮らしによくある、二択問題。たいていは怠惰へと流れる、選択問題。
私も世間の独り者たちの慣例に倣い、堕落した生活を選択する。冷蔵庫内を死守する残存部隊を一瞥した私は、少し考え、釜揚げシラスの入ったタッパーを取る。
白いお茶碗の中の白いご飯の上に、白い釜揚げシラスをふりかける。ご飯が見えなくなるまでふりかけたら、真ん中に赤い梅干しをひとつ置く。
小さなシラス丼、梅干し添え。手抜きだけど、これも立派なお料理だ。最高の朝ご飯だ。白いシラスに赤い梅干しのコントラストが食欲をそそる、立派な朝ご飯だ。
窓際の近くに置いた座卓に、シラス丼とレトルトのお味噌汁、そして麦茶を注いだガラスコップを並べると、窓からの風景が見える位置に座る。
いつもなら先輩の顔を見ながら食べる毎日のご飯。先輩がいないときは、私はいつも海が見える方向に座ってご飯を食べている。普通の家庭なら、一人の時はテレビでも見ながら食べるのだろうが、メディアからの情報を規制されている私たちリコリスの部屋には、テレビは存在しない。本部附の上級リコリスならば、本部内にある自室に視聴覚教室用のモニターを持ち込んで、テレビゲームを楽しむことが許されているというウワサだが、それでもそのテレビモニターには、外からの情報は一切映らない。
リコリスたちの食卓には、テレビもなく、新聞もなく、ネットと繋がるスマホもない。何もない、一見つまらない食卓、しかし私は、それでいいと思っている、それがいいと思っている。
食事中は、お料理以外何もない方が、より深く食事に向き合える。静かに美味しく、お料理をいただくことができる。
普段よくしゃべる風待先輩は、食事中は物静かだ。清楚な外見に似合う静かなたたずまいで座卓前に座り、丁寧かつ美しい所作でご飯を食べている。折り目正しい食事作法ながらも、堅苦しさはないその姿。赴任して半年たってもなお、いまだ見惚れてしまうその姿。
私も先輩に少しでも近づこうと、食事マナーには気を遣っている。先輩を見習い、食事中は、お料理と真剣に向き合っている。先輩の作った料理を食べて多くの長所を学び、自分の作った料理を食べて多くの短所を反省する。港町ならではの旬の食材を味わい、様々な料理を腕だけではなく舌で覚える、楽しくも忙しい食事の時間、テレビやスマホを見ている暇などない。
日々のこのような食事の時間のおかげか、最近は私のお料理の腕も上がっている。プロの料理人ではない素人の私は、どこまでいってもただの素人なのかもしれないが、それでも近頃は、自分で満足できる仕上がりのお料理をモブリコ寿司で提供することができている。
調理技術の上達のためには、日々の食事に真面目に対峙することも大事なのだと、風待先輩はその所作で教えてくれているのだ、本当に感謝しかない。夕食時は、ビールにも真面目に対峙して酔っぱらっているけど、まあ感謝しかない。
今朝の朝食は、正直手抜きだが、それでもお料理はお料理だ、しっかりと味わおう。私は手を合わせて一礼すると、お茶碗を手に取り、シラスとご飯を口にする。
おいしい。釜揚げシラスとご飯は、どうしてここまで合うのだろうか。
朝からのランニングと外掃除で、お腹はすいている。ご飯をどんぶり飯のようにかきこみたくなる衝動を抑え、私は静かに、シラスと白米の妙を少しずつ、味をかみしめながら食べる。
汗をかいたからだろう、梅干しの塩気と酸味も、とても美味しい。レトルトの赤だし、味の濃い赤味噌のお味噌汁も、ちょうどいい塩加減だ。よく汗をかくこの季節、よく身体を動かす私たちリコリス。塩分は多めの方が、体が喜ぶのだろう。
掃き出し窓の奥、ベランダの格子から見える伊勢湾を見ながら、私は静かに朝ご飯を食べる。風の音と波の音、そしてアパート隣の雑木林から聞こえるセミの声を聞きながら、わたしはゆっくりと朝ご飯をいただく。
風の音、波の音はまだ強い。明日は台風が来るのだ、おそらく今日一日このような感じなのだろう。
セミの声は、今朝は頼りない。先月はアパートの壁を突き破って響いていたセミたちの合唱は、ここ最近急激に威勢を弱めている。そろそろ夏も終わりなのだろう。
音に季節を感じながら、私はお茶碗に盛ったシラス丼をたいらげる。
まだお腹はすいている。私は炊飯器に残ったご飯をお茶碗に全部よそうと、また小さなシラス丼を作る。
二杯目のシラス丼は、お湯をかけて湯漬けにして食べる。茶碗に残した梅干しの欠片を箸で砕き、シラスとご飯を混ぜ合わせて少しずつかきこむ。
味噌汁と湯漬けのため、軽く汗をかいてしまった。それでも美味しい食事だった。私は火照った体を、冷たい麦茶で冷ますと、食後の一礼をして食器を片付ける。
食器を洗い、部屋を掃除し、やかんで新しい麦茶を煮出す。ひとりとはいえ、日々のやることはそう変わらないし、朝にやるべきことは多い。しかし、今朝は天気が悪いし洗濯物も少ないから、布団干しと洗濯は今度でいいや、とりあえず今日は楽をしようと、少しだけ自分を甘やかしながら、私は部屋の隅にあるタンスを開け、吊るされた衣類の下に鎮座する大きな金庫の前に座る。
本来ならば、支部長しか開錠が許されない金庫。しかし今の私には、この金庫を開ける資格がある。風待先輩が不在の時は、私が諸咲支部長なのだ。代理の支部長ではあるが、それでもすべての支部長権限が、私に委譲されているのだ。
両手を使い、3つのダイヤルを素早く回す。右回転と左回転、指が覚えた複雑で精密な回転を幾度も繰り返すと、軽い金属音がして金庫が開く。
中に収められているのは、DAから支給された武器や装備の一式。私はその一つ一つを取り出し、一つ一つを確認する。
日に一回の備品確認は、毎朝の大事な業務だ。たとえ誰も金庫を開けていないとわかっていても、定期的な目視確認は必ずしなければならない。DA特製のノートパソコン、拳銃、特殊弾頭付きの弾薬など、たとえ一つでも紛失してはいけない、そして外部に流出させてはいけない極秘の装備ばかりだからだ。
支部長代理としての使命を背負った私は、真面目な顔で全ての装備を確認する。装備数、私の分は昨日から変化なし、先月から変化なし、そう呟きながら、指さし確認をする。
いや、先月からなら、ひとつだけ変化はあったなと小さくつぶやく。
私の拳銃、グロック36の銃弾。厚紙のケースの中に整然と並べられた銃弾たち。本部卒リコリス一人あたり50発支給されている特殊弾は、今私の手元の紙箱の中には46発しか入ってない。
この一カ月で、私は銃弾を4発使用した。4人を射殺した。今まで殺した8人のうち、4人はグロック36による射殺だった。
二人のヤクザに一人の密輸組織構成員、そして一人のチンピラ。私が射殺した彼らの顔が、今でも鮮明に思い出せることに私は戦慄する。おそらくこれからも、彼らの顔を忘れることはないのだろう、忘却の彼方に追いやることはできないのだろう。私が死ぬまで、彼らの断末魔の顔は心の中に巣食うのだろう。呪詛のように、怨念のように私の周囲を彷徨うのだろう。
一度思い出したらいつまでも絡みつく、粘液のような妄想を無理やり振りほどきながら、私はグロックに弾を込め、サッシェルバッグにしまう。拘束ワイヤー射出器のガス圧チェックなどの、残りの装備の点検を終えると、最後に支部長用ノートパソコンを取り出し、不要な装備をすべて金庫に戻し施錠する。
座卓の上に新たに注いだ麦茶と、デザート代わりの冷凍ミニトマトを数粒入れた皿を並べ、その横にノートパソコンをおもむろに置き、液晶ディスプレイを開く。キーボードの右上に電源マークの入った起動ボタンがあるが、私はそれを無視し、裏蓋を固定している小ネジの一つに偽装された隠しボタンを長押ししてノートパソコンを起動する。秘密保持の小細工が施されたDAのノートパソコン。あからさまに目立つキーボード上の起動ボタンは、実は秘密保持用の爆破スイッチなので、絶対に押してはいけないのだ。
私はここ最近、毎日のようにこのノートパソコンを使っているが、毎回起動するたびに、この偽の起動ボタンを押したらどうなるのか、どんな感じでノートパソコンが吹っ飛ぶのかが、とても気になっている。本部卒リコリスとして鍛えられた屈強な精神で、このボタンに触れたくなる気持ちを毎回抑え込んでいるが、いつかふと押してしまいそうな気もする。そんな自分が、最近怖い。
私の日々の自制心を知ってか知らずか、今日も静かに起動するノートパソコン。内部ファンの軽い音とともに、無機質で黒い液晶画面に、冷たい電子の生が宿る。
最初に映る画面は、LC3Iシステムの暗証番号入力画面。私はそこに、風待先輩が出張前に教えてくれた30文字のパスワードを入力する。
DAと地方リコリスを結ぶLC3Iシステム。その暗証番号は、週に一回更新される。週末になる度にDAから通知される二つのパスワード、ランダムなアルファベットと数字の組み合わせ30文字を、各支部長は更新のたびに暗記する。
二つのパスワードのうち一つは、本物のLC3Iシステムメインページを開く暗証番号。もう一つは、偽のLC3Iシステムの画面に飛ばされる暗証番号だ。
国内に潜入している他国の諜報機関や特務機関、あるいはかつての真島グループなど、DAという組織の存在を探っている連中にとって、内部ネットワークにアクセスできるLC3Iシステムのパスワードは、どのような手段を使ってでも知っておきたい重要な情報だ。リコリスが諜報関係の敵に捕まった時、まず尋問されるのがこのパスワードだと、私は本部での授業で習ったことがある。
死ぬこともできないまま敵に捕らえられた私たちが、素っ裸にされてから気絶すらできないほどの痛い目を長時間味わった末に、ようやく自白することが許される情報が、偽のLC3Iシステムに誘導する偽のパスワードだ。この偽パスワードによって入ったページは、本物と全く同じ画面で、情報も八割以上は本物、しかし重要な情報は巧妙に偽造されているという。真実と虚実を巧みに配置したこのダミーページ、その精巧さは、DA関係者が見ても気が付かないほどらしい。らしい、というのは、私たちリコリスは、赴任してこの方、一度もこのダミーページを開いたことがないからだ。
偽のパスワード入力は、本部への緊急事態通報も兼ねているので、この番号を入力してしまったが最後、本部附の最精鋭リコリスや名古屋の王須鉛撃隊のような各管区の戦闘専門部隊が、一時間もしないうちに、リコリスを拉致した不埒な敵組織を壊滅せんと、ノートパソコンの位置情報を頼りになだれ込んでくるのだ。そのため、どれほど好奇心豊かなリコリスでも、このダミーページのパスワードは、絶対に入力することはない。万が一好奇心に負け、ダミーページを開いてしまった場合、どれほど謝っても無駄だという。間違って入力してしまったんです、出来心でつい試してしまったんです、と電話やメールで本部へ必死に説明しても、敵による欺瞞、あるいは電話口で無理やり言わされているだけと判断されてしまうからだ。年に一人はいるという、偽パスワードをつい入力してしまったお馬鹿なリコリス。彼女にできることは、急行した数十人の精鋭リコリスの冷ややかな目線と冷たい銃口に囲まれながら、土下座して謝ることだけだという。
サードとはいえ、本部卒のかしこい私は、もちろんそのようなことはしない。間違って偽のパスワードを入力しかけたことは何回かあるが、最後の数文字あたりで気が付き、あわてて指を止めている。いつも寸前で気が付いている私は、本当にかしこい、たぶん。
しかしこの偽パスワードの存在は、最近は裏組織の連中にかなりバレているというウワサも聞く。もしそうなら、あまり意味ないんじゃないかな、捕まった時の酷い尋問が、ただ長くなるだけなんじゃないかな、と私は考えながら、正しい方のパスワードを一文字ずつ、ゆっくりと入力する。面倒くさい。
パスワードを入力し終えると、パソコンの不愛想な画面は、しばしの時間を置いて明るく輝き、やがて中央にDAのマークが現れる。逆三角形型のDと三角形型のAを組み合わせ、ひとつの長方形にしたような、シンプルでわかりやすいDAのロゴ、私たちの組織のマーク。訓練生時代は、本部棟のいたるところで見た、諸咲赴任後は、モニターからしか見ることがなくなった、DAのロゴ。私はこのマークを見るたびに、自分がどの組織に所属し、どの組織によって生かされているかを否応なく痛感する。幼少時から私たちを見つめ、今も私たちを管理監視している、鉄の組織の冷たいロゴ。
マークの下には、一行の文。VT.MVNDVS.ITA.SIT。DAのマークを支える土台であるかのような位置に、DAのマークの注釈であるかのような場所に書かれた、そっけない一文。
白い背景に映る大きなロゴマークと小さな一文は、しばらくの間画面に滞在し、私の網膜にDAの存在を焼き付ける。その後画面が移り変わり、LC3Iシステムメインページになると、私は小さくため息をつく。厳しい教育によって育てられた本部卒リコリスは皆、DAのロゴを見ると反射的に緊張してしまうのだ。風待先輩も毎日、このノートパソコンを開くたびに小さなため息をついていた。支部長は大変だ。
しかし、リコリス専用ページ、LC3Iシステムのスタートページはそのような緊張感とは無縁である。私は気を取り直し、ノートパソコンの横に置いたガラス皿から、凍らせたミニトマトをひとつ摘まみ、口に入れる。固く冷たい塊が、口の中を転がる爽やかな涼感が嬉しい。
DAから送られてくる情報が満載の、ポータルページ。見たい情報は多々あるが、私はまず諸咲支部の本日の行動日程を確認する。連絡欄をクリックし、DAから送られてきた指示メールを見る。
面倒な指示が来ていませんようにと祈りながら、メールを開く。この瞬間は、いつも緊張する。今日一日がどのような日になるか、この一本のメールで八割がた決まってしまうからだ。
メールに書かれた指示内容を読みながら、私は片手でガッツポーズをする。今日の任務は、午前と午後に各一回、支部内を巡回するだけ。それも下宿近くの十与浜を巡るコースと、自転車で行ける大亥周辺のコースだ。
諸咲支部の巡回コースは、全部で11のルートがあるが、その中でも楽なコース。おそらく明日台風が上陸する地域なので、DAも手心を加えてくれたのだろう。
更にメールを読む私は、両手でガッツポーズをする。明日の定期巡回任務は、台風のため中止、早朝のランニングやトレーニングも免除だそうだ。うれしい。
明日はモブリコ寿司も定休日、つまり一日中だらだらできるのだ。朝から畳部屋に寝転がって、昼寝しながら図鑑でも眺めていればいいのだ。
台風に備えて、食料品は今日買いに行った方がいいかなとか、電車停まる前に風待先輩返ってこれるかなとか、私の意識は、すでに明日の方向に飛んでいる。任務免除ではあるが、気を緩めることなく過ごすようにとか、メールの末尾にはDAからの訓示が長々と書かれているが、そんな文章は読む気にもなれない。
9月の台風の日に乾杯をしながら、私はハブページ内の気象情報欄を見る。
台風の進路は、昨夜見た時と変わりない。明日の昼頃、紀伊半島から伊勢湾を通り智多南部に上陸。そのころには勢力は衰えているようだが、私の住まいは海沿いの町の丘の上に立つアパートだ、雨風の直撃はすごいだろう。
半年前まで本部棟の頑丈な建物の中で暮らしていた私は、台風への備えなどしたことも考えたこともない。何をすればいいのだろうかと、ふと心配になる。
そして風待先輩も、明日は帰ってこられないかもしれない。先輩は、本部での診断と検査が終わったら、台風が来る前になるべく早めに帰るわねとは言ってはいた。言ってはいたが、諸咲の下宿に帰る際に使う最後の路線である智多新線は、単線であるため雨風の影響を受けやすいらしい。森林竹林を縫って走るこの路線は、台風通過による倒木折枝によって不通になりやすいという。あるいは風は無くても、大雨による春川駅の雨量規制によって運転見合わせになったこともあるという。私はまだ、智多新線が止まるような状況に遭遇したことはないが、諸咲暮らし三年目の風待先輩は、この路線の脆弱性はよく知っているのだろう。早めに帰るけど、無理な場合は名古屋支部本館で一泊するわね、とも言っていた。
ゲストルームもあり、諸咲の大先輩である臥観手ルミナ先輩もいる名古屋支部本館。無理を押して電車に乗り、伴田や弐豊辺りで立ち往生するより、名古屋支部に泊まって大先輩に甘えていたほうが確かに楽で安全だ。しかし、私はできれば、先輩には明日帰ってきてほしい。明日は二人で、だらだらと部屋で過ごしたい。だらだらと昼寝をしながら、だらだらと抱き合いたい。台風で荒れた世界を尻目に、先輩と二人で怠惰な世界を築き上げたい。
帰ってきてほしいな、けど安全を考えたら、無理は言えないな。まあどのみち、選ぶのは先輩だ。通信制限のあるリコリスは、たとえバディでも、支部外にいるリコリスとは連絡は取れない。取れない以上、私は先輩の連絡を待つしかない。そう思い直した私は、メインページの気象情報欄を閉じ、分支部連絡欄を開く。
諸咲支部の分支部、歌島支部。その島に常駐する二人の分校リコリス、メカブ子さんとモズク子さん。私や風待先輩は、日に一回、この二人と連絡を取り合っている。
連絡と言っても、内容のほとんどは、いや内容のすべては、ただの無駄話だ。なにも事件のない小さな島、歌島、そこでのんびりと暮らす二人のサードリコリスには、緊急性のある連絡などないし、重要性のある報告などもない。ただダラダラと、今日は何をしてヒマつぶしをしたとか、明日は何をしてヒマつぶしをしようかなどと、とりとめもない平和な無駄話を、連絡という体をとってグダグダと語っていた。そう、先月のあの日までは。
連絡欄に届いている、歌島からのメールを開く。発信時間は昨夜、発信者はモズク子さんとなっている。
メカブ子さんとモズク子さんは、ほぼ同じ作りのモブ顔だが、よく見ると細かいところで個体差がある。それと同じように、性格もほぼ同じだが、細かいとことで個人差がある。メールの文章もまた、二人それぞれ細かな違いがある。
メカブ子さんに比べて、モズク子さんの文章の出だしは、メカブ子さんに比べると少しだけおとなしい。事実を脚色せず、淡々と語るかのような報告文。夏の双関杯でモズク子さんが見せた、地味だが堅実なプレーと同じような感じの、生真面目な書き方。
とはいえ、基本は騒がしくものんびりとした歌島リコリスである。真面目なのは出だしだけで、書き進めていくうちに文に感情がこもり、やがては祭りのように賑やかに乱雑に、そして楽し気な会話調に文章は変化していく。読んでいて微笑ましい歌島からのメール、しかし文章がひらがなばかりなので、読み辛いのが難点だ。どうしてこの二人は、会話も文章もひらがななんだろう。
仮名文字だけで構成された古文書を解読するかのような気持ちで、長々と続くモズク子さんのメールを読み進めていく私。普段ならば、書き始めはおとなしいモズク子さんの文章、しかしここ一カ月の間は、出だしから興奮気味だ。
昨日もまた新しい発見があったのだろう。メカブ子さんとモズク子さんは、この一カ月、忙しい毎日を過ごしている。彼女たち二人は今もなお、歌島史に残る騒動に巻き込まれているのだ、興奮冷めやらぬ状態なのも仕方ない。
一カ月前、麻薬密輸を企む外国組織の人員を乗せ、諸咲の海岸に現れた貨物船。麻薬組織によって船員全員が買収されていたこのバラ積み貨物の不定期船は、私たちが取引要員たちを射殺している最中に、いきなり不可解な逃走をはじめ、夜の三河湾に消えていった。
夜間航海に必須な、舷灯やマスト灯などの灯火を全て消し、泥酔者が全力疾走しているかのような蛇行を繰り返しながら去っていった密輸船。気にはなったが任務外のことであったし、想定外の大仕事に疲れ果て、疑問に思い続けるほどの気力も残っていなかった私たちは、下宿に戻った時はすでに、逃げた貨物船のことなど頭になかった。
シャワーで返り血を洗い流し、這う這うの体で布団に倒れ込んだ私たち。諸咲の静かな夜の底に包まれながら身を横たえたまさにその時、歌島は夜の底が割れんばかりの大騒動に見舞われていた。
サイレンが鳴り、半鐘が鳴り、汽笛が鳴り響く歌島。夜空を震わせる人々の大声、甲高い防災無線の声、状況確認の声、出航合図の声、猫たちの鳴き声。この夜、周囲一里に充たないこの小島は、様々な声によって大きく揺れていた。
この夜、歌島で寝ていた人はいなかっただろう。歌島に暮らすものすべて、人も猫もリコリスも、皆がねぐらの外に出ていた。皆が夜の海を見つめていた。
視線の先には、一隻の船。動きを止め、船体を大きく傾けた、大きな船。
その船は、座礁していた。
その船、迷走状態で逃走を続けていた密輸船は、無灯火のまま伊良湖水道航路を抜け出ようとした挙句、歌島近くの暗礁に乗り上げてしまったのだ。