そして別れの時間。歌島行きの漁船が待つ十与浜の港で、私は泣いた。
これで終わりなんて嫌だ、もっとみんなで遊びたいと、私は子供のように駄々をこね、泣いた。
このような稚拙な感情が、自らの心の内より湧き上がってくるのは初めての事で、またその感情を自分自身が制御できなくなるのも初めてだった。私は自分でもわけのわからぬまま、ただ込み上げる激情を吐露しながら、ただ泣いた。
涙が止まらない私を、先輩たちは円陣になって抱きしめてくれた。また会えるから泣かないでと、優しく語りかけてくれた。その優しさが、さらに私の涙を引き出した。
ついに大声で号泣してしまった私を、先輩たちは円陣になって胴上げしてくれた。スギナワッショイと、港中に響く声で胴上げをしてくれた。恥ずかしいからやめろと、私が叫びだすまで胴上げをしてくれた。
港の皆さんの視線を浴びたのは恥ずかしかったけど、そのおかげで私は、最後は笑顔でメカブ子さんとモズク子さん、そしてこけしさんを見送ることができた。風待先輩と二人、笑顔で歌島に帰る漁船を見送った。
こうして終わった一泊二日ご近所の旅。楽しかった小旅行。私は今も、伊勢湾の先にある歌島を見るたびに、あの日のことを喜びとともに思い出す。
諸咲に配属された私は、幸せだったのだろう。
風光明媚、海の幸も美味しい静かな港町で、優しい先輩と一緒に暮らすことができた、楽しい仲間と一緒に遊ぶことができた。DAの目が届きにくい田舎の地で、お寿司を握りながら、ゆっくりと暮らすことができた。たまにある殺人任務は辛いけど、同期の本部卒リコリスに比べれば、ゆるく自由な生活を送れているのだろう。
DAや他のリコリスから隔離されたかのようなこの田舎支部。最近の私は、この小さな港町での静かな暮らしに、すっかり馴染んできている。いつまでもこの地にいたい、異動なんかしたくない、心からそう思っている。
自分も先輩もお気に入りの、辺境暮らし。しかし、緩やかで穏やかな日々を楽しむ私に、最近新たな問題が発生している。DAや他のリコリスから隔離されたかのような地で暮らしているからこそ湧き上がる難題に、私は直面している。
本部や名古屋支部で、私に関するウワサが独り歩きしているのだ。
私はもともと、中部圏の分校リコリスたちに誤解されている。
6月の新近城作戦の際、私は分校リコリスたちが集まった名古屋支部本館のロビーで、風待先輩と一緒になって大騒ぎをした挙句、分校連中に中指を立てて去っている。実際は偶然の動作が偶然にもそう見えただけの、偶然に偶然が重なった末の単なる誤解なのだが、気弱な分校どもにとっては、私が彼女たちを威嚇して去っていったように見えたらしい。失礼な話だ。
それだけではない、作戦終了後も、私はある理由で分校どもに重ねて誤解されてしまった。
近城橋前での待機中、降り続く大雨と鳴り続く車両の通過音に、私は電波塔でのトラウマを思い出し、パニックに陥った。
過去と現在が混濁する世界の中で喚き叫んでいた私。任務を完全に放棄して、ただ泣き喚いていた私。まさにリコリス失格の大失態であったが、先輩はそんな私の失敗を隠すため、作戦終了後DA名古屋支部にウソの報告をした。
―スギナは任務を放棄していたのではありません。ヘッドセットマイクから聞こえてきた声は、泣き声ではなくて笑い声です。スギナは今も弱気になることなく、狂気の笑い声をあげながらダブルファックサインを夜空に掲げ、浜辺に棲息するスナガニのような恰好で小刻みに動きながら、呪詛の言葉を元気に吐き続けています。テロリストたちを探しに行かせろ、見つけたら絵本にしてやる、奴らの断末魔の形相を絵本に描いて電波塔の上からばらまいてやる。そんなようなことを、泣いているかのような笑い声で叫んでいる最中です。このように筑詩スギナは、任務終了後も、敵の血を見るまでは帰ろうとしない、立派な諸咲リコリスなのです― と、風待先輩はウソの報告をした。先輩、絶対楽しんでいたと思う。
そしてそんな明らかなウソを、なぜか名古屋支部の職員さんたちは信じてしまった。信じた挙句、作戦が終わり名古屋支部に帰還する分校リコリスたちに、注意喚起のメールまで送信してしまった。
―緊急連絡。現在名古屋市内に、泣き声のような笑い声を上げながら両手の中指を突き立てて、テロリストたちを素手で絵本にしようとしている本部卒のサードリコリスが徘徊しています。非常に危険ですので帰還の際は周辺に注意して、なるべく暗がりの道は歩かないようにしてください。できれば複数のリコリス同士声を掛け合い集団で移動し、人気のない通りを避けて帰ってきてください。そして遠くから笑い声が聞こえてきたら、速やかにその場から逃げてください―
―運悪くそのサードに発見されてしまったら、逃げても無駄です。浜辺に棲息するスナガニのような姿勢で、ものすごい速度で迫ってきますので、その時は大声で周囲に助けを求めてください。もし周りに誰もいないときは、デンパトウと三回唱えてください。運が良ければ、この真言陀羅尼で追い払うことができます―
―繰り返しになりますが、決して明かりのない道は歩かないで下さい。例のサードは、暗がりの中に潜んでいます。闇夜の奥で、あなたたちを狙っています。もし帰還までの道程が不安な場合は、決して無理をしないでください。DA名古屋支部はあなたたちの身の安全を守るため、今回臨時バスによる回収を決定しましたので、停車予定場所の近くで身を隠して待っていてください。
もし恐怖に身がすくんで、臨時バス停車ポイントまでたどり着けなくても、朝まで隠れていれば命は助かります。名古屋の街に清らかな朝の光がさせば、例のサードは消滅します、それまでの辛抱です。まだ夜は長いですが、自暴自棄になることなく、各自が最善と思われる行動をとって身を守って下さい。そうすれば、あなたたちは必ず助かります―
今思い出しても、酷い文面だ。あいつら私のことを何だと思っていたのだ。
人気のない真夜中の名古屋市内、雨の中でひとり名古屋支部本館に向かって歩く分校リコリスたちに、いきなりこんなメールが送られてきたのだ。彼女たちが感じた恐怖は、どれほどのものだったかは容易に想像がつく。だってウワサの張本人である私が読んでも怖いのだから。
新近城作戦が成功裏に終わった高揚感から自然発生した、突拍子もない都市伝説。それが作られていく過程を、私は目撃してしまった。私が話の中心だったからこそ、逆に冷静な目線で、中部圏に突如湧きあがった都市伝説の発生と成長を客観的に眺めることができた。
古くからある組織が故だろう、DAは基本的に冷静冷徹ではあるが、その奥底には巫覡歌舞の性がある。大規模な作戦の後には、妙な風説が生まれやすいのも、その一つだ。リコリスの心理には究竟不可思議の四字を以て答へざる能はざる現象比々として多く候、石神問答だ。
代表的なウワサとしては、伝説のリコリスの存在がある。11年前の電波塔事件の際も、去年の延空木占拠事件も、同じファーストリコリスが現場に訪れ、事件を解決したという内容だ。
普通に考えれば、ありえない話だ。この二つの事件は、10年もの開きがあるからだ。それでもこのウワサを信じているリコリスは多い。リコリスの在職期間はそこまで長くはないと知っているにもかかわらず、彼女たちは何故かそのウワサを受け入れ、流行神の奇瑞であるかのように語り合っているのだ。
大規模作戦があるごとに湧き上がる、民間信仰めいたウワサ話。これは、かつての江戸のはやり神のような現象なのだろう。DAという閉鎖社会で暮らす少女たちの精神構造が生み出した都市伝説。その流行神信仰の中心に、今回私は疫神として担ぎ上げられてしまったのだ。
流行神は時花神だ。興味が尽きれば祀り捨てられる存在だ。ウワサというものが持つ、一種謎めいた熱気さえ奪ってしまえば、この狂乱は簡単に終息するだろう。実際にいるのかわからない伝説のリコリスとは違い、私は実体を持つ存在だ。分校リコリスたちの前に出て、きちんと勘違いだと説明できれば、変なウワサなど簡単に消滅するだろう。
問題は、それができないという点だ。
DAや他のリコリスから隔離されたかのようなこの田舎支部。暮らすには楽だが、隔離され過ぎていて、分校リコリスたちに会う機会がほとんどないのだ。
田舎支部だから、分校リコリスが増援として派遣されてくるような大事件などほとんどないのだ。もし大事件があったとしても、分校リコリスの手を借りるまでもなく、本部卒リコリスである私たちが自らの手で解決してしまうのだ。
モブリコ寿司という交流の場は確かにある。しかし、諸咲観光に訪れるリコリスは本部卒リコリスばかりだ。一泊旅行が許されるだけの評価ポイントが溜まりやすい、本部卒のファーストリコリスやセカンドリコリスばかりなのだ。技能に劣り、また派手な任務のない分校リコリスは、基本的に褒賞とは無関係の世界に生きているのだ。
6月の新近城作戦から発生した、私に関する怪情報。作戦終了後からすでに独り歩きを始めていた私への怪談めいた流言飛語は、私が訂正する機会を得ることができないまま、遠い名古屋の地で、分校リコリスたちの口伝えによって、静かに広まっている。口伝えで広まるウワサの常として、内容に尾ひれが付きながら広まっていく。
誤解という名の歪んだレンズによって、近寄りがたく恐ろし気な輪郭を形付けられた私の人物像。誇張されたウワサによって、分校リコリスたちに深く植え付けられた畏怖の念が、私の8月の諸咲での任務とその成果を、さらに間違った妄想で彩ってしまうことになる。
8月のあの夜、初めて人を殺した夜。麻薬密輸取引のため、諸咲の海岸に訪れたヤクザたちと密売人たちを殺害したあの夜の任務は、DAや名古屋支部でも話題になっていたらしい。
新人サードリコリスである私が、初めての単独任務で、一夜のうちに4人のヤクザと10人の密輸組織の構成員を皆殺しにした。さらに他組織の協力のもと、逃走した密輸船を分支部の領海内に座礁させ、犯罪に与した船員たちを捕まえ海保に引き渡すという大手柄。海外組織との麻薬取引などという、平和な社会にあってはならない大犯罪に関与した者どもを根こそぎ処分しただけではなく、密輸船も大破させるという派手な結末。DAは存在を隠しながらも裏社会のチャンネルを通じ、この戦果を海外の犯罪集団に向け大いに喧伝したという。曰く、我が国は犯罪者の来訪を歓迎する、夜陰に乗じこの地に足を踏み入れる輩は、死をもって歓待する。我らの平和を乱さんと欲すれば、人も船も、また帰ること無し、と。
この任務で消費した弾丸は、たったの3発。あとは素手や敵の武器を使った殺害。本部卒リコリスに相応しい、多彩な殺戮手段による完全勝利。新人リコリスによる初任務の単独戦果としては、ここ数年でも上位に入るというこの成果を、DAは大いに評価していたようだ。
さらにこの任務の成功は、密輸ルートの壊滅以外にも意義があったらしい。
今回の任務は、DAだけではなく、他の組織も協力している。
かつてDAとは距離を置いていた秘密組織。延空木占拠事件の際、同士討ち寸前になるほど仲の悪かったという別組織。その後、過去のいさかいを反省し、お互いに歩み寄り、協力し合うことになったという、私たちの知らない組織。
対立していた期間が長かったからか、対立していた理由が根深かったからなのか、協力関係になったとはいえ、互いに接触せずに、陰でフォローするという形で作戦に協力していたその組織。中部地方では、6月の新近城作戦に続き二回目だという今回の合同任務は、DAにとってもその組織にとっても、非常に満足のいく結果だったらしい。
夜間の殺害任務という、私たちリコリスに相応しいDA側のお仕事と、密輸船の制圧という、海上装備に優れた謎の組織側に相応しいお仕事。互いに交わることなく、それでいて互いの役目をきちんと果たしながら、作戦を成功に導いた共同体制。秘密組織同士ゆえに接触は避けつつも、共に十分な戦果を出すことができた今回の
プライドの高いDAは、前回の新近城作戦や今回の諸咲での任務に外部の協力があったことを、支部長クラス以外のリコリスたちには秘密にしているようだ。もっとも、DAはリコリスに対して、作戦の全体構成や結果について、ほとんど情報は与えない。私がこうして、この二つの作戦に他の組織が関わっていることを知っているのは、名古屋支部から情報を得やすい立場にいる風待先輩のおかげなのだ。普通のリコリスたち、特に下っ端の分校リコリスたちには、諸咲での作戦内容については、本当にわずかな情報しか入っていないだろう。
その断片的な情報が、分校リコリスたちのウワサ話情報網を巡り廻るうちに、私の戦果はかなり脚色され、かなり歪められていたようだ。
私がそのウワサ話に気が付いたのは、8月に名古屋支部本館に赴いた時。背丈が伸びたため、制服を交換しに行った時のことだ。
採寸を終え、新しい制服ができるまでの手持無沙汰な時間、私は本館ロビーを訪れている分校リコリスたちの視線の色が、これまでと異なっているのに気が付いた。今まではただ怯えたように私を見つめていた視線が、その日は、恐怖と称賛が入り混じっているように感じられたのだ。
早速私は、ロビーを歩いている分校リコリスをひとり捕まえ、人気のない場所に連れ込んでお話を聞いた。最初は言葉も出ないほどに怖がっていた分校リコリスだったけど、私が浜辺に棲息するスナガニのような姿勢で彼女の周囲を何度か回ったら、進んでお話ししてくれた。命だけは助けてと言いながら、分校たちに広まっている私に関するウワサの内容を、詳しくお話ししてくれた。
やはり、諸咲での私の任務結果は、かなり脚色されていた。あの日の戦果は、実は風待先輩や他組織の協力もあってのことなのだが、それを知らない分校リコリスは、そのすべてを私一人が成し遂げたかのようにウワサしていたのだ。
まあそれは仕方ない、情報不足から来る誤解だから仕方ない。風待先輩の手を借りたことは、私もDAに黙っていたから仕方ない。問題は、その成果の上げ方だった。
カニのように凶暴な筑詩スギナは、8月の夜、諸咲支部内にヤクザたちをおびき寄せ、皆殺しにした。
さらに殺したヤクザたちの死体を諸咲の海岸に放置し、遺体を引き取りに来た密輸組織の構成員たちを皆殺しにした。
さらに殺した組織構成員たちの死体を歌島に放置し、遺体を引き取りに来た密輸船の船員たちを皆殺しにした。
さらに殺した船員たちの死体を七条油小路に晒し、遺体を引き取りに来た御陵衛士たちを皆殺しにした。
死体をエサに敵を討つ、天魔の所業、鬼畜の宴。ヤクザ組織や密輸組織、そして伊東一派を絶対に許さない、恐るべき伊勢湾のカニ、筑詩スギナ。私が初めて人を殺して落ち込んでいた時に、分校連中はそんなウワサを立てて勝手に恐れおののいていたのだ。
おのれ分校どもおおぉ! と両手中指を立て悲憤慷慨する私。殺さないでと泣き崩れる分校リコリス。今思えば、あの分校リコリスには悪いことをした。ただ優しくお話を聞いただけなのに、最後は泣かせてしまった。本当に悪いことをした、いや私は悪くない、絶対に悪くない。
その日から私は、名古屋支部に行く用事があるごとに、このウワサを消すために走り回った。支部本館での用事は早めに済ませ、時間のある限り、本館周辺を走り回り、同じく所用で名古屋支部を訪れる中部圏の分校リコリスを見つけては、背後から暗がりに引きずり込み、壁際に抑え込んで説得したのだ。
私はカニではなく人間だ、それだけは信じてくれ。信じてくれるよね、信じてくれなければフナムシ食わせるよと血走った目で必死に訴える私に、分校リコリスたちも納得してくれたようだ。私は基本的に話下手なので、もっと話すべき大事な内容があったような気もするが、分校たちは皆、私が話している途中で泣き出してしまうため、説得はいつも中途半端に終わってしまっている。なんだかもどかしいが、まあ大意は通じているだろうから、これでよしとしよう。
問題は、分校リコリスは数が多いということだ。
中部圏内だけでも数百人はいるはずの分校リコリス。名古屋支部に行くごとに、一人ずつ路地裏に連れ込んで誤解を解く今のやり方では、到底追いつかない。
かといって、現状ではこれ以外の方法は思いつかない。地道に続けるしかないのだろうか。
とりあえず次回からは、路地裏に引きずり込む人数を増やすか。夜遅くまで、頑張ってみるか。
ウワサというものは、なかなか消えないものだ。どれほど頑張っても成果のでない道のりに、私の心は暗くなる。まだ朝だというのに、部屋が暗く感じる。
しかし、いつまでも気に病んでいても仕方ないのかもしれない。しょせんは分校連中の、たわいもない話題の一つに過ぎないのだ。
私は無理にそのように結論を出すと、ぼんやりと眺めていただけのノートパソコンを閉じる。
ついだらだらとしてしまったようだ、過去に思いを巡らせすぎたようだ。時間は9時前、そろそろ午前の巡回に出なければいけない時間だ。
お皿の上に一粒だけ残っていた冷凍ミニトマトを食べ、結露した水滴を纏ったコップに残る麦茶を全て飲み干す。電源を落としたノートパソコンを金庫にしまい、リコリスの制服に袖を通す。
食器を洗い、座卓をしまう。サッシェルバッグの中身を再確認し、背中に背負う。
制服を身に纏うと、背筋が伸び気持ちが引き締まる。先ほどまでの弛緩した気持ちが消えたのが、自分でもわかる。
朝の時間を無駄に費やしてしまった。歌島リコリスのこと、分校リコリスのこと、それらをぼんやりと思い出し、無駄な時間を過ごしてしまった。
けど、まあそこそこ楽しかった。忙中閑あり、常に忙しいリコリスにも、誰もが生き急ぐリコリスにも、こういう時間はあってもいいのかもしれない。外に出た私は、扉の鍵を閉める前に、薄暗い居間を覗きながら、ふとそんなことを考えた。