私たちを乗せた車は、海沿いに続く247号線を南に走り、諸咲フェリー乗り場に着く。
フェリー乗り場前の有料駐車場に車を停めると、諸咲役場の二人、伊川津さんと立馬崎さんは、私と一緒に諸咲観光ビルへと走る。
観光ビルの周辺は、隣接するフェリー乗り場への通路以外は、すべて駐車場だ。その広々とした駐車場には、すでに諸咲役場の職員さんが、車やバスで訪れた観光客が諸咲観光ビルへと向かわないよう注意するために、多数待機していた。そのうちの一人が、走る私たちと並走しながら、現在までの状況を伊川津さんと立馬崎さんに話す。少し離れて走る私にも聞こえるように、大きな声で話す。
ヤクザたちが観光ビルに乱入してから20分後、諸咲役場の職員32名が到着。男性職員は観光ビル周辺の立ち入り規制を、女性職員は1階正面口から逃げて来た観光客の保護と状況の聞き取りを開始する。
それから私たちが来るまでの10分間、ビルから新たに脱出してきた観光客は無し。非常口からの脱出ルートはあるはずだが、どうやら1階の騒動に怯え、上階の客はその場を動かないらしい。
私たちが到着する数分前に、諸咲商工会と商工会議所の職員、合計50人余が到着。地域の祭りなどで動線規制に慣れている両職員たちは、持参したカラーコーンとロープで、ビルの周囲に
そして警察。現在諸咲駐在所から、駐在警察官一名が到着しているが、たった一人ということもあり、どのように対処したらよいか悩んでいるらしい。伴田警察署に応援を頼んでいるとのことなので、おそらく頭数が揃ってから行動するつもりなのだろう。
今のこの状況は、観光客を人質にした立て籠もり事件のようなものなのだ。警察官一人ではどうにもできないのだろう。それは理解できるし、増援を待つというのも正しいと思う。しかし、それでは時間がないのだ。相手は拳銃を持っている、自らの激昂を制御できなくなったヤクザが、懐に隠した拳銃をいつ取り出すかわからないのだ。
ヤクザやチンピラは、反撃してこない相手には、どこまでも強くなる。弱い相手に踏みにじる快感に身を任せ、その嗜虐心は留まることなく肥大していく。言葉の暴力から素手での暴力、そして武器を使った暴力へと、時間が経つごとにエスカレートしていく。
あの時がそうだった。弐豊町の事件がそうだった。
あの時、猟銃を手にしていたチンピラは、身勝手な怒りを拗らせた末、無抵抗で善良な市民を射殺した。
ヤクザやチンピラの類が銃火器を持つのは、罪なき人々を傷つけるためだ。自衛のためでも、正義を執行するためでもない、ただ効率的に、自分の破壊衝動をぶつけるために武器を持つのだ。それゆえに、悪人が銃器を所持している時は、即座にその牙を奪わなければならない。
弐豊町の悲劇は、繰り返さない。あの日以来、私は常に、そう誓っていた。自分に、誓っていた。
今回の事件、警察には、任せない。
世界一平和なこの国の警察は、緊急出動の経験がほとんどない。伴田から増員が着くまで、まだ半時間以上はかかるだろう。
その前に、私一人でカタをつける。
伴田から警官たちが来る前に、終わらせる。
私と伊川津さんと立馬崎さんの三人は、観光ビル入口より離れた場所に張られた、赤いカラーコーンと黒色黄色のロープで作られた規制線の内側に入る。
規制線の外側には、役場や商工会、商工会議所の職員たちが立っているが、だれも私たちに目を合わせようとしない。職員仲間である伊川津さんと立馬崎さんにすら、声をかけようともしない。
皆、あえて無視してくれているのだ。リコリスである私と、リコリスに接触している仲間を、見て見ぬふりをしてくれているのだ。
この国の人間は、空気が読める。おそらく規制線の近くに立つ彼らは、私がこれからしようとしていることをある程度わかっているのだろう。わかっていて、目を逸らしてくれているのだろう。
目を逸らしているのは、職員さんたちだけはない。
規制線の奥、観光ビルの正面入り口前で、一人うろうろしている中年の警察官。彼もまた、私には目を合わせようとしない。リコリスの制服を着た私が視野に入っているにもかかわらず、顔を向けようとしない。
諸咲駐在所に勤務するこの警察官。私はこの人の顔を知っている。
日々の巡回任務の際、よく出くわすこのお巡りさん。この人もまた、立派な大人だ。地域の安全を日々守る、立派な警察官だ。地域パトロール、防犯活動、事故の対応に住民相談など多くの仕事をこなしながら、迷い猫の捜索といった、警察官の仕事ではない相談をも真面目に対応していた、立派な方だ。冷たい目で市民を監視し、隠れて人を殺す私たちリコリスなどより、よほどこの国の平和を守っている、立派な大人だ。
しかし今、彼の背中は、晩夏の暑さに萎れた向日葵のようにうなだれている。どれだけ探しても迷い猫が見つからず、意気消沈して駐在所に戻っていた時のように、小さくなっている。
おそらくこの人は、どうしたらよいのかわからないのだろう。このような重大事件に、遭遇したことがないのだろう。
世界一平和で安全なこの国に、凶悪犯罪は存在しない。立て籠もり事件や銃乱射事件といった大事件は発生しない。
だから、大事件が発生すると、警察官は困惑する、警察組織は混乱する。警察もまた、一般市民と同じように、この国の安全神話を心から信じているのだ。
警察官は、悩んでいる。諸咲役場、諸咲商工会、諸咲商工会議所の職員たちも悩んでいる。伊川津さんと立馬崎さんも、悩んでいる。
諸咲観光ビルを取り囲む大人たちは、皆悩んでいる。真面目に生き、真摯に働く大人たちは、その善良さ故に悩んでいる。好き勝手に、我がままに生きている人間のクズ、その暴力に対抗できる手段が無いことに、悩んでいる。規制線を張り、ビルから脱出してくる人々をただ待つだけ、その程度しかできない自分を、歯がゆく思っている。
空気を読むのが苦手な私でも、周囲の大人たちの苦悩は感じ取ることができる。そして、私が今やるべきことも、理解している。
こういう時のために、私がいるのだ。私たち、リコリスがいるのだ。
この国の人間は、弱者ばかりだ、どれほど悪いことをしても、誰も殴り返してこない。そのような考えを持つ荒怠暴恣の連中を、思いっきり殴り返してやるのが、私たちの仕事なのだ。
私は規制線を跨ぎ、立ちすくむ警察官の横に立つ。
私の視野の隅に、警察官の疲れたような顔が見える。何をしたらいいのかわからないという絶望、自分一人では何もできないという悔恨、いつも見かける謎の少女に助けを求めるしかないという無念、自分の役目を年端も行かぬ女子に任せなければならないという慙愧。様々な負の感情を顔面の皺に変えた警察官は、今にも倒れそうなほどの弱々しい姿で、それでも目線だけは正面玄関を見据え、警戒態勢を続けている。
あまりのやつれた表情に、ほんの少しの間だけ話しかけるのをためらった私だったが、一度深呼吸をして気持ちを整えると、小さく口を開く。
「巡査長さん。今から言うのは、私の独り言です。よく聞いてください」
警察官に顔を向けず、私は話す。警察官もまた、私に視線を向けないまま、静かにうなずく。
「これから私がビルに乗り込み、暴れている連中を追い出します」
殺さずに、追い払うだけ。これは、現場に向かう車内で私が考えた計画だ。
本来なら、殺す方が楽だ。その方が、後腐れがない。生かして返すと、後日の復讐が面倒だし、そいつらが所属する他のヤクザへの抑止にならない。
しかし、今ヤクザたちが立て籠もるビルには、売り場の係員や逃げ遅れた観光客など、多くの人の目がある。地元の人も多いビル内で、地元リコリスが人を殺す姿を見せるわけにもいかない。ある程度なら見ていないふりをしてくれるこの国の市民でも、現場に転がった死体まで見て見ぬふりはできないだろう。それに、人前での殺人は、DAによって固く禁じられているのだ。
だから今回は、追い返すだけ。ちょこっと傷つけて、ビルから追い出すだけ。
本当はこれも、リコリスの行為としてはグレーゾーンだ。殺さない程度とはいえ、DAはリコリスが人前で犯罪者に暴力を振るう事自体を、一部の例外を除き禁じている。
意外なようだが、巡回中のリコリスは、市民の平和が乱される行為を目撃しても、何もしない。一般的なリコリスは、巡回中に一般人のトラブルを発見しても、一瞥すらせずに立ち去っているのだ。
普段の巡回路で、一般人が路上でヤクザに脅されていても、一般人が物陰でチンピラにカツアゲされていても、一般人が歩行中にひき逃げ事故に巻き込まれていても、リコリスは何もしない。何もせずに通り過ぎる。一般市民との距離感が近い地方支部ではさすがにそこまではしないが、都市部のリコリスは、大事件につながるような状況でさえなければ、市民個人の危機にはほぼ無関心だ。
これは、私たちリコリスが冷たいわけではない。DAから、そう命令されているのだ。
DAが守るのは、個人の真の平和ではなく、国家社会の平和。世界で唯一安全で幸福な国という虚構が維持できてさえいれば、DAは個人の不幸など意に介さないのだ。
だから、DAは命令する。リコリスは、個人の揉め事に関わるなと厳命する。お前たちの任務は日の当たらぬ路地裏で人を殺すことだ、日の当たる路上で人を助けるためではないと暗に言いながら、リコリスが個人の正義感で勝手に動かないよう束縛する。
例外は、正当防衛。私たちリコリスが、犯罪者あるいは犯罪者予備軍である輩に絡まれたり暴力を振るわれた時だ。この状況下ならば、相手を傷つけ追い返す程度の反撃は認められている。
人前での暴力行為は、自衛のためだけ。DAが認めたこの権利を、一部のリコリスは上手に使っている。私も今回、この権利を有効に活用し、ヤクザを追い払おうと考えている。
候補生時代に私をよく指導してくれた、教導官役である本部附ファーストリコリスの先輩は、そのリコリスの自衛権をよく利用し、街中で暴力を振るわれている人たちを数多く助けていたという。
私も、その教導役の先輩リコリスが路地裏で人助けをするところを、去年一回だけだが見たことがある。
当時リコリス候補生だった私は、都市部巡回訓練の一環で、教導役のファーストリコリスと、そのバディのセカンドリコリスの後に付き、三人一緒になって都内を何度か歩いたことがある。そしてある日の巡回訓練の際、私たち三人は、路地裏でヤクザ風の男に絡まれている若者を見かけた。それは去年の今頃、今と同じような、曇り空の日だった。
お前ら、こういう時どうする? と問いを投げかける本部附ファーストリコリスに、バディのセカンドリコリスは、いや普通に見捨てるっすと答えた。私は、迷ってすぐには答えられなかった。助けたい気持ちはあるけど、リコリスは些末な事件に関わり合いを持ってはいけないと教えられた。そんなような答えを、時間をかけ、たどたどしい言葉でファーストの先輩に話した。
普段から怒ったような顔をしている教導役の先輩は、バディのセカンドリコリスと私の顔を交互に見比べた後、私を殴った。
こういう時は、答えはすぐに出せ。スギナ、どうする? 教導役の先輩は、もう一度質問した。私にだけ、質問した。
私は、見捨てますと答えた。DAから教えられたリコリスとしての正答を、そのまま口にした。
また殴られた。
スギナ、自分の頭で考えろ。お前はいつか、一人で立つリコリスになる。大事な答えを、一人で導き出さなければならない日が必ず来る。その日のために、自分にとって何が正しいのかを、常に自問自答しておけ。その先輩は、私の目を睨みつけ、静かな口調でそう語った。
センパイすっごくカッコいいっす! けど、自分も見捨てるって言ったのに、なんでスギナだけ殴るんすか? と自分の顔を指さすバディのセカンドリコリス。どうやらひとりだけ除け者にされて、疎外感を感じたようだ。そんな彼女にその先輩は、いやお前はそれでいいんだよ、お前はそういうヤツだから、と普段と変わらない口調で断言した。
酷いっす心外っすと叫ぶバディを無視し、その先輩は私に、こういうときのやり方を教えてやる、よく見ておけと私に言い残し、ヤクザに絡まれている若者を助けに行った。
それからの手際の良さは、今でも覚えている。
その先輩は一人で路地裏にはいると、強引にヤクザと若者の間に割り込み、散歩の邪魔だと一喝。逆上したヤクザにわざと一発殴られる。
自衛成立だなとつぶやいた先輩は、先に若者を逃がした後、ヤクザを蹴り一発で無力化した。
見えたのは、一発だけ。蹴った音も、一回だけ。しかし、倒れ方からすると両膝が砕けていたようだ、両腕で股を押さえて呻いていたので、股間も潰れていたようだ。ということは、サード候補生の私の目にとまらなかっただけで、実際は一瞬のうちに三回蹴ったのだろう。
座り込むようにして身体を痙攣させるヤクザに、その先輩は、もう一撃を入れる。低い位置になったヤクザの側頭部に、右手小指を突き立てたのだ。側頭部の顛経十一門のうちの心丁という景穴を強く突き、脳を揺らすことにより直近の記憶を消去させる荒技。本来ならば、この景穴は銃床か靴先で叩かなければ効果はない。しかしその先輩は、それと同等の衝撃を、小指ひとつでヤクザの脳髄に与えたのだ。
一人の人間をほんの数秒で制圧し昏倒させるファーストリコリスの神技。これならば目撃者も最小限で押さえられるだろう。
待たせたな、と顔色一つ変えずに戻ってきたその先輩に、いや全然待たせていないっすと答えるセカンドリコリスのバディ。本来ならば、私も何かツッコミめいたことを言わなければならなかったのだろうが、その時は、その先輩にあまりに鮮やかな手並みに、ただ茫然とその場に立ちすくんでいた。
いや、茫然としていたのは、その鮮やかさだけではなかった。その先輩がヤクザを倒す前に私に語ってくれた言葉が、いつまでも私の耳に残っていたのだ。繰り返し、繰り返し、なぜかそれが重大な啓示であるかのように、私の未来を指し示す何かであるかのように、いつまでも耳元で響いていたのだ。
―スギナ、自分の頭で考えろ。お前はいつか、一人で立つリコリスになる。大事な答えを、一人で導き出さなければならない日が必ず来る―
それは、今なのだろう。
「中にいる連中を、適当に痛い目に合わせて、ビルから追い出します。その際、私が近所に住んでいることをそれとなく教えれば、今後あいつらはこの近辺には近づかないでしょう。巡査長さんは、あいつらが逃走する際の、周囲の安全確保をお願いします。多分あいつらは、乗って来た車で逃げるでしょうから」
荒々しい運転で、ビルの裏口に乗り付けたヤクザたち。帰りもまた、それ以上に乱れた運転で去っていくことになるだろう。少なくとも、諸咲フェリー乗り場周辺を出るまでは、安全運転を心掛ける余裕もないほどの恐怖を味わわせてやるつもりだ。
これが、私が考えた案です。ご面倒おかけしますが、ご協力お願いします、と私は頭を軽く下げる。無論、お巡りさんに顔を向けずにだ。
わかりました。と小声で答える警察官。わずかに聞こえる程度の小さな声だったが、その声色には、警官としての魂が戻っていた。何をしていいのか分からなかった自分に、まだやるべき仕事があったこと。自分が成すべき役目を、謎の少女に全てを任せてしまったはずが、逆にその少女から助力を求められたこと。その二つが、彼の警察官としての気概を再起させたようだ。
私たちリコリスが専門職の方から仕事を預かる時は、矜持まで受け取ってはならない。
これは6月の名古屋支部本館で、臥観手ルミナ先輩から教えてもらったことだ。
新近城作戦前、百名もの分校リコリス全員に、作戦内容を説明するのに時間がかかっていた名古屋支部職員たち。このままでは作戦自体に支障をきたしかねないと判断した名古屋支部長であるルミナ先輩は、支部職員から作戦説明の仕事を引継ぎ、直属のリコリスたちである王須鉛撃隊に代行させた。
その判断も手際も見事だったが、感心したことはそれだけではなかった。ルミナ先輩は名古屋支部の職員たちが分校リコリスたちの前で手持ち無沙汰になった姿を見せないように、あえて皆の前で頭を下げ、説明の際の補助作業をお願いしていたのだ。
作戦説明の任務を支部長やリコリスたちに全部任せたままだと、何もしなかったという思いが残ってしまうのよ。たとえ納得の上での交代だとしても、自分たちより年下のリコリスに助けられてしまったという感情はいつまでも残ってしまうわ。仕事を奪われたとまでは思わないでしょうけど、このままロビーの壁際に立ったままでは、何かしらの忸怩たる気持ちが芽生えてしまう。けど、たとえわずかでも自分にできる仕事があって、それを協力という形でお願いされれば、職員さんたちの矜持も保てるし、共に働くことで連帯感も湧くものなのよと、しばらく後に風待先輩が説明してくれた。
その話を聞いた時の私は、多くの人に指示を出すトップって大変なんだな、と半ば他人事のように思っていた。当時は赴任2カ月目の新人だった私、そんな私が他人に指示を出す日など、まだまだ遠い先の話だと思っていた。その日が来るのは、早くて来年頃かな、そうぼんやりと考えていた。
気がつけば、その日はもう来ていた。
その日は、今日だった。今が、その日だった。
観光ビル周辺の駐車場に待機している諸咲役場や諸咲商工会、商工会議所の職員さんたち。私の背後に立つ伊川津さんと立馬崎さん、横に立つお巡りさん。皆私に視線こそ向けていないが、皆私を中心に動こうとしている。私の独り言を聞き取り、私の一挙手一投足を読み取り、最善な行動を取ろうと待ち構えている。
図らずも、多くの人を従える状況になった私。その重圧が、両肩にかかる。物理的に重く感じるほどの、強いストレス。
諸咲支部長として新人の私を従える風待先輩は、日々このようなストレスを背負っていたのだろう。
名古屋支部リコリスと直属の王須鉛撃隊を従える臥観手ルミナ先輩は、それよりももっと多くのストレスを背負っているのだろう。
本部附最精鋭リコリスのチームリーダーとして、多数の精鋭リコリスと面倒なバディを従えてきた、私の指導官役だったファーストリコリスの先輩は、それよりももっともっと多くのストレスを背負ってきたのだろう。
皆、立派な先輩だ。今思えば私はその先輩たちの背中から、多くのことを学んでいた。
今が、学んだことを、活かす時だ。
がんばろう。
「伊川津さん。近くにいる役場職員を3名ほど集めて、一緒に巡査長さんの補助に回って下さい。立馬崎さんは、私がビルからヤクザを追い出すことを、駐車場で待機している職員さんたちに伝えてください。そして暴走して立ち去る車に注意して、自身と観光客の身の安全を守るように指導してください」
背後に立っていた伊川津さんと立馬崎さんが、踵を返して走る。
その姿を見た他の職員さんたちの間に、緊張が走るのがわかる。停滞していた状況は今破られる、これから流れは事件解決に向け急激に動き出す、そのことに皆が気付いたのだろう。
大丈夫、上手くやれる。
指示を受けずに動くことも、自分が指示を出すのも初めてだけど、上手くやれる。
「あの……ひとつ、よろしいですか?」
私の横に立つ警官から、小さな声が上がる。
「今回の件ですが、あの、できればお願いがありまして」
「何でしょうか?」
背後に立つ諸咲職員の二人が走り去ってからの会話、なにか聞かれたくない事なのだろうか。
「いえ……その、できましたら、ビルに居座る連中を追い出す時に、必要以上に大怪我をさせるのは、なるべくさけていただければ……と」
私はそっと、顔を警察官の方に向ける。
いかにも申し訳なさそうな、恐縮しきった表情。まだ子供である私を現場に突入させる、自身の不甲斐なさを詫びる様な顔で、警察官は私に身体を向け頭を下げる。
周囲に人がいるにも関わらず、深く下げたその頭。警察官としての威厳よりも、なお大事な願いがあるというかのような、丁寧な平頭。
「そちらの身に危険が及びかねない、無理なお願いとはわかっております。しかし、どのような悪者でも、更生の余地はあると私は考えております。どうか、彼らの未来のためにも、過度に相手を痛めつける様な行為は、なにとぞ……」
甘いことは言わないで下さい、という言葉が口から出かかったが、彼の真摯な態度が私を無言にさせた。
自分が勤務している地域で、重傷者がでるような大きな揉め事を起こしたくない。自分の出世に関わるような、大きな騒動を起こしたくない。そういう意味で言ったわけではないことを、私は知っている。
私は、この人を知っている。自分の巡回の最中、彼が務める駐在所の前はよく通るし、彼が見回りに精を出している姿を、何度か見たこともある。
真面目な人だ。馬鹿正直なほど真面目なお巡りさんだ。
迷い猫の捜索といった、警察の任務に関係ない相談も、真面目に対応していた。彼が4月に受け取った迷子猫のチラシは、9月の今でも交番の窓ガラスに貼られている。すでに色褪せたチラシが目に入るたび、私は風待先輩と、ネコ見つかるといいですねと語り合ったものだ。
雨の日に、このお巡りさんがパトロール中に家々の隙間や軒下を確認している姿を、私は何回か目撃している。迷い猫が民家の隅で雨に濡れて縮こまっていないか、探しながら巡回していたのだ。自分の身体を雨に濡らしながら、この人は猫一匹を心配していたのだ。
これほど真面目な人なのだ。善性の人なのだ。だからこそ、他人の良心も信じたいのだろう。警官としての職業柄、人を信じて傷ついた夜も数多くあったことだろうが、それでも人を信じていたいのだろう。
だからこそ、今ビルの中で暴れているヤクザにも、反省と更生の機会を与えたいのだろう。
偽りの平和社会の中でしか吐けない、甘ったるいセリフ。しかし私には、この人の言葉を、ただのお目出たい綺麗事として投げ捨てることはできなかった。むしろ自分にとって大切な意味を、そして人間にとって大切な価値を持った、重い言葉のように聞こえた。
DAは、悪人に価値はないと教えてくれた。悪人は最後まで悪人だ、ゆえにすべからく消去すべし、と教えてくれた。
しかしこの人は、どのような悪人にも更生の余地はあると語った。
どちらが正しいのか、今の自分にはわからない。今までにそのようなことを考えたこともなかったから、わからない。
しかし今、わかったことが一つだけある。
今私の横に立つお巡りさん。背後で走り回っている伊川津さんと立馬崎さん。ビル周辺で警戒にあたっている役場や商工会、商工会議所の皆さん。
皆、良い人だ。
日々諸咲の平和を守り、今も事件解決のために身を粉にして動く、大勢の大人たち、立派な大人たち。
私は、この人たちのために戦う。
悪い人を排除するために戦うのではない。良い人たちの力になるために戦うのだ。
―スギナ、自分の頭で考えろ。お前はいつか、一人で立つリコリスになる。大事な答えを、一人で導き出さなければならない日が必ず来る。その日のために、自分にとって何が正しいのかを、常に自問自答しておけ― かつて、本部附の先輩が言ってくれたその言葉。
私は今日、その答えのひとつを見つけた。
私がなぜ銃を持つのか、私はなぜ戦うのか。その答えは、たぶん他にもあるのだろう。これからも、自問自答し続けるのだろう。
しかし今は、答えはひとつだけでいい。
私は、諸咲に暮らす善き人たちのために戦おう。ビルの外で懸命に働く人々、ビルの中で助けを待つ人々。これらの人々のために戦おう。
私は頭を下げ続ける警察官に、善処しますと一言だけ答え、ビルの正面玄関へと歩き出した。