ツバサ=スカイウォーカー……アイツは一体、何をしたんだ……?
天空闘技場を飛び出し、夜の裏路地を歩きながら、リーノは生まれて初めて脳をフル回転させていた。いつもなら「クソゲーだ」と投げ出すところだが、フック船長の『ハンターになれ!』という言葉が、ニートの怠惰な魂に火をつけていた。
生き残るためには、この壊滅的な戦闘IQ(考察力)を鍛え直すしかない。
ツバサが瞬間移動したように見えたのと、俺のオーラが激減したの……こんな能力が二つもあれば、トップハンターでもなければ、メモリが足りないはずだ。どちらもメインの能力だから。
どっちかがブラフか? ブラフで瞬間移動できるかよ。ブラフで俺のオーラをゴリゴリに削れるかよ。意味わかんねェよ。マジで。
ハンターはいつもこんな戦いをやってんのかよ。ありえねェだろ。
だけど、これをクリアしないと、ツバサは倒せない。
初見の能力って、マジでどう対処していいか分かんねェ……!
未知の念能力に対する根源的な恐怖。ただ突っ込んで、必殺技を放っても勝てないという冷厳な事実。
異能力バトル漫画だと、知的なキャラがよく様子見しながら戦っている。さっさと必殺技を使えよっていっつも思ってた。実際、当事者になると、様子見したくなる。
これが異能力バトル。
遠距離攻撃が必要だな。放出系の。もしくは中距離の変化系か。
だとしたら、もしかして、強化系がもっともバランスがいい系統なのか? そうだ! 原作でも、そう説明してたっけ。クラピカも強化系がよかったと言っていたし。
俺は特質系だ。ヒソカ特効の念能力。
相性が悪かったら、それだけで詰む。戦闘IQを高めないと詰む。
リーノがそんな「戦術の壁」にぶち当たっていた、その時だった。
「よう。奇遇だな、お坊ちゃん」
正面から、低く濁った声が響く。
ハッと顔を上げると、夜の街灯の下、見覚えのあるアゴヒゲにサングラスの男が立っていた。フック船長の船に新人として乗り合わせていた、リーノが心の中で『アゴヒゲグラサン』と呼んでいた男だ。
なんで……!? なんでアイツがここにいる!?
驚愕したリーノが反射的に後ろを振り返ると、そこには同じく船に乗っていた『ボウズメガネ』の男が路地の出口を塞ぐように立っていた。
前後の挟み撃ち。
退路を断つつもりだ。
偶然なわけがない……! じゃあ、あの船に乗り合わせていたのも、あの怪魚が襲ってきたのも、全部最初から俺を狙っていたのか? 仕込みだったのか!?
背筋に冷たい汗が伝う。目の前の二人は、間違いなくプロの念能力者だ。どんな能力を使うかも分からない。
クソッ! 能力不明の相手が2人も……! ここで正面から戦うのは悪手だ。ツバサとの戦いの二の舞になる。まずはアイツらを避けて、横の細い路地から『周』と超高速直線移動でタワーへ逃げ帰る!
リーノはツバサ戦の教訓から、無謀に突っ込まず「撤退して仕切り直す」という、一歩進んだ冷静な判断を下した。
「……ッ!?」
横の路地へ飛び込もうとしたリーノの視界に、異常な光景が飛び込んできた。
ボウズメガネが短く口笛を吹いた瞬間、建物の屋根や壁の隙間から、大量の野良猫やカラス、さらには黒スーツを着たマフィアらしき兵隊たちがゾロゾロと現れ、銃口を向けながら路地を完全に埋め尽くしたのだ。
カラスに猫、それにマフィアの集団……!? 囲まれた……クソ、これじゃあ横には抜けられない……!
前世ニートのリーノにとって、現実の銃を持った集団と、異様な動きをする動物たちに囲まれる恐怖は凄まじかった。せっかく芽生えかけた冷静さはパニックに塗りつぶされ、視界の端に見えた「誰もいない、一本道の暗い直線路地」へと、吸い込まれるように走り出してしまう。
あそこなら誰もいない! 一気に直線移動で駆け抜けて振り切る――!
『周』を発動し、空気抵抗を激減させた突進。
風を切り裂いて、リーノがその無人の路地へ侵入した、その瞬間だった。
足元の地面――アスファルト一面に、夜の闇と完全に同化して敷き詰められていた「黒い布」が、リーノを覆うように、ぐわんと生き物のように跳ね上がった。
え――誰もいないはずなのに、地面が、跳ね上がっ――!?
「捕獲完了(チェックメイト)だ、バグ・ガキ」
アゴヒゲグラサン、冷徹な声で勝利を宣言した。
次の瞬間、リーノの視界は全方位から包み込まれ、完全な暗黒へと叩き落とされる。それと同時に、リーノの身体、そして世界そのものがシュルシュルと、恐ろしい速度で手のひらサイズへと縮んでいく感覚が襲った。
自慢の世界最高クラスのオーラも、その布の力によって完全に抑え込まれる。
完全な敗北だった。
暗黒に包まれた袋の内部。
身動きの取れないリーノの耳に、外からこもった二人の話し声が聞こえてきた。
「ふぅ……。あのクソ田舎の漁船で取り逃がしてから、わざわざこのパドキア共和国まで追ってくる羽目になるとはな。随分と手間取らせやがって」
アゴヒゲグラサンの、忌々しげな声だ。それにボウズメガネが感心したように応じる。
「まあそう言うな、フクロウ。いつもなら猪突猛進してくるのに。正面から突っ込んできたら、カウンターで捕まえる手筈だったんだがな。まさかあの状況で、交戦を避けて横の路地へ逃げようとするなんて、意外な冷静さだったよ」
「……フン。昼間、1階の試合を見ていただろう。コイツは仮面野郎に叩きのめされた。そのせいで、未知の念能力の怖さを知っちまったんだ。だからこそ、正面突破を避けて誰もいない無人の路地(ここ)へ逃げると踏んだ。だからあらかじめお前の部下(動物)で誘導し、俺の風呂敷を敷いておいたのさ。作戦通りだ」
「なるほどね。恐怖による行動心理の誘導か。相変わらず、おまえの『不思議で便利な大風呂敷(ファンファンクロス)』の盤面構築には恐れ入るよ」
風呂敷の底で、リーノの全身に、骨折以上の戦慄が走った。
フクロウ……!? ファンファンクロスって……あの、陰獣のフクロウ……!? じゃあ、俺は今、あの原作の風呂敷の中に閉じ込められてるのか……!?
鳥肌が止まらない。それと同時に、リーノは涙が出るほどの敗北感に打ちのめされていた。
これがプロの思考……。俺がツバサに負けて、ちょっと頭を使って『逃げよう』としたその心理すら、最初から全部読まれて、手のひらの上で踊らされてただけだったのかよ……。勝てるわけねェだろ、こんな化け物どもに……! プロに。
だが、絶望はそれだけでは終わらなかった。外の会話は、さらに最悪の核心へと進む。
「これで十老頭の命令通り、傷一つつけずにアンノウンを捕獲完了だ。こいつの持つ『念能力』を、あのお方に捧げれば、俺たちの地位も安泰だな」
「ああ。能力を奪い取ってしまえば、この出生不明のバグ(アンノウン)もただの肉塊だ。さっさと空港へ運ぶぞ。移送の手筈を整えよう」
能力を、奪う!?
クロロみたいな奴が、マフィア側にもいるのか……!?
リーノの脳裏に、最悪の未来がよぎる。前世のアニメや漫画で、よくあるシチュエーションがあった。
特別な超能力を持った主人公が、政府や秘密組織に存在を察知され、研究所の奥深くに監禁されて生きたまま解剖されるやつ。
アレだ。
今、俺の身に起きてるのは、まさにアレなんだ。
俺は選ばれた転生者なんかじゃない。ただ檻から脱走した実験動物が、ちょっとお外で暴れて、プロの飼育員(陰獣)にあっさりと網で捕まっただけだ。
……そうか。この物語は、転生者がハンター世界で無双するストーリーなんかじゃない。この世界(システム)が、俺たちみたいな転生者(ゴースト)を異分子として回収し、解体して、自分たちの力として美味しく吸収するための物語なんだ……!
人間の本能。人間の闇。
ハンター協会も、十老頭も、俺を「人間」として扱ってなどいない。
戸籍もIDもない、都合のいい「莫大なオーラの塊(バグ)」として、既存のシステムに都合よくエネルギー回収しようとしているだけなのだ。その最悪な結論に至った瞬間、船長の言葉が、さらに深い、冷徹な真意を持って脳裏にフラッシュバックした。
――『ハンターになれ!』――
船長はだから言ったんだ……! 『ゴースト』のままでいたら、いつか世界に見つかって解剖される。だから『ハンター(この世界の正規の住人)』という絶対的なIDを手に入れて、人間の社会の側に潜り込めってことだったんだ……!
ただの根性論ではなかった。
あれは、ゴーストがこの世界で解剖されずに生き残るための、唯一の生存戦略だったのだ。だが、気づくのが遅すぎた。能力を奪われれば、自分の内側(肉体)は、ただの貧弱な引きこもりニートだ。
用済みになれば、その瞬間にゴミのように消される。パスポートもない。
助けを呼べる味方もいない。自慢のオーラも封じられ、袋を内側から破ることもできない。
完全に、詰んだ……。俺、能力を取られて、ここで殺されるんだ……
終わりの見えない暗黒の袋の中で、リーノはただガタガタと震えながら、音もなく絶望の涙を流すことしかできなかった。