フクロウとアカザルは、ファンファンクロスで持ち歩いていた車を使って移動しているようだった。
ファンファンクロスはまるで、ドラえもんの四次元ポケットだ。
視界は完全な暗黒だった。それは、自分の未来も同じだ。
手足の感覚はある。だが、いくらオーラを練ろうとしても、外へ放出することができない。強制的な『絶(ぜつ)』の状態。
まるで、莫大なエネルギーを秘めたまま頑丈な殻に閉じ込められたような、圧倒的な無力感。前世ニートだったリーノの心を、じわじわと冷たい恐怖が侵食していく。
クソッ……! 出られない! オーラが外に出せない……!
伝わってくるのは、自分の激しい心臓の音と、不気味な静寂だけだった。いつの間にか、周囲の喧騒や街の騒音は消え失せていた。
車が止まったようだ。
どこか街から遠く離れた、しんと静まり返った場所に移動したのだと、肌に伝わる空気の振動だけで察せられた。
不意に、風呂敷のすぐ外で声が響いた。驚くほど近く、鮮明に聞こえる。
「へえ、コテージまで出せるのかよ。マジで便利すぎるな。おまえのファンファンクロス!」
感心したような声の主は、あの裏路地で野良猫やカラスを使って、俺をハメた赤髪のボウズメガネだ。
「クク……これなら車やクルーザーだって丸ごと持ち運べるからな。駐車場を探す手間も省けるし、密輸にも逃走にも、これ以上の能力はねぇだろ。アカザル」
自慢げに鼻を鳴らしたのは『フクロウ』。
リーノはその名前に心当たりがあった。陰獣のフクロウだ。
原作の知識が脳内で繋がった。
だが、続く二人の会話は、リーノの知る『HUNTER×HUNTER』の常識を容泄なく破壊していく。
「今回はノストラードの占いに救われたな。四行詩に『ハンター試験はすぐにリタイアして船に乗れ』と出た時は冷や汗が出たが」
「あぁ。『ハンター試験にアンノウンが現れる可能性が高い』という、十老頭をあやつる『あの方』からの極秘情報があったからこそ、俺たちも試験に潜り込めた。予言通りに動いたからこそ、こうしてノーリスクで極上の獲物を確保できたわけだ」
風呂敷の中で、リーノは驚愕に目を見開いた。
ノストラードの占い……!? マフィアは予言を使って俺の動向を読んでいたのか!? いや、それより……『あの方』って誰だ!? 十老頭を操るトップ!? 原作にそんな奴はいなかったぞ……! あの方は十老頭じゃないのか!?
混乱が脳内を支配する。さらに、目の前の現実が追い打ちをかける。
「こんな仕事に陰獣を二人も出すなんてな」とフクロウが言った。
……待て。アカザルも陰獣だって言ったか!? アカザル、赤いボウズ頭の陰獣なんて、原作のヨークシン編には影も形もなかったぞ……! 俺が転生した影響で、原作にないキャラが世界のトップに君臨して、俺を狩ろうとしてるのか……!?
「あの方へ無事アンノウンを奪取したことを報告しようか。あと明日朝までここで休憩だ。明日、空港から『あの方』のところへ、こいつを連れていく」
アカザルの冷酷な宣告が響く。リーノは暗黒の中で安堵のため息を漏らした。
明日朝まで休憩……。アイツらはコテージを出して、明日の朝まで何もしてこない。なら、それまでに、この状況を打開する策を考えよう。まだ時間はある。何か手はあるはずだ。
――バサリッ!!
次の瞬間、予想を完全に裏切り、ファンファンクロスが乱暴に開かれた。
差し込んできたのは、コテージの明かりではない。月光に照らされた、見渡す限りの荒涼とした「荒野」の景色だった。
「えっ!?」
あまりの想定外の光景に、リーノはただただ驚愕するしかなかった。脳の処理が追いつかない。
カウンターの準備など、何一つできていなかった。ただ突っ立ち、目を丸くして硬直する。その致命的な隙を、プロが逃すはずがなかった。
『明日』という言葉。コテージを出すという会話。すべては、風呂敷の中のリーノに「今夜は安全だ」と思い込ませ、警戒を解かせるための冷徹なブラフ。
それこそが、プロの放った最悪の罠だった。
チクリ。
「ウッソ、ぴょ~~~~ん」
あざけるようなアカザルの陽気な声とともに、首筋に鋭い痛みが走った。
視界が激しく揺らぐ。地面へと崩れ落ちるリーノの体に、チクリ、チクリ、チクリと、容赦なく麻痺の針が追加で突き刺されていく。
「アカザル、あんまり刺すなよ。死ぬぞ」
「あぁ。でも、これで一週間は指一本、動かせないはずだぜ」
リーノは荒野の冷たい岩肌の上に転がされた。
完全な「詰み」だった。
一瞬でも、油断しなければ。アイツらの嘘を信じなければ。こんな状況にはならなかった。
心理戦で、完全に負けたんだ。
これが、プロとの戦闘IQの差。
身動きの取れないリーノの四肢に、アカザルが禍々しい『神字(しんじ)』の文字を、オーラを込めて書き殴っていく。肌を焼くような不快な熱が走る。
「フクロウ、頼む」
フクロウが四つのファンファンクロスを解除する。
風呂敷の中から、獰猛なうなり声を上げる四匹の巨大な犬が姿を現した。それは念によって作られた獣ではない。本物の、生身の犬だった。
だが、その犬たちの全身から、異様なほど密度の高い念オーラが立ち上っている。
「こいつらは本物の犬だが、俺と力を合わせることで『念を盗む』ことができる。それが念を盗むための制約だ」
アカザルが冷酷に笑う。
四匹の犬が、神字が刻まれたリーノの両手両足にガチリと牙を剥いて噛みついた。
「が、あ、あ、ああああああ……ッ!?」
声にならない悲鳴が喉を焼く。痛みのせいではない。
刻まれた神字を経由して、リーノの魂の奥底、特質系能力『伊右衛門』の概念そのものが、ズズズと音を立てて犬どもへと強制的に吸い上げられていく。
魂が直接むしり取られるような、おぞましい感覚。
リーノの視界を埋め尽くしていた、あの黄金に輝く希望のオーラが、光の粒子となって瞬く間に薄れていく。世界を超高速で駆け抜けるはずだった眩い輝きが、完全に、消えていく。
ああ……消える。消えてしまう……
俺の、俺のチート能力が……!
光が途絶えた暗黒の脳裏に、突如として別の景色がフラッシュバックした。
――それは、前世の記憶。
何一つ誇れるものがなく、社会からも親からも見放されていたニート、黄瀬光太(きせこうた)としての記憶だった。
昼夜が逆転した、万年床。
カーテンを閉め切った、あの薄暗い自室の天井。
そして、現実から逃避するように、ベッドの上で何度も何度も擦り切れるほど読み返した、大好きな『HUNTER×HUNTER』のコミックス。
キルア、かっこいいな……。
クラピカ、すげえな……。
もし俺がこの世界に行けたら。念能力なんてチートを手に入れられたら、こんな惨めな部屋から抜け出して、絶対に無双してやるのに……!
ゴンと友達になりたい!
あの時、薄暗い部屋の片隅で、光太は確かにその輝かしい世界に、狂おしいほどの憧れを抱いていた。
幸運にもその世界に生まれ変わり、最強の能力を手に入れ、自分はついに「物語の主人公」になれたのだと確信していた。
だが、現実は違った。
憧れ続けたはずの『HUNTER×HUNTER』の世界。
その世界のシステム(十老頭、ハンター協会)は、身分証も出生記録もない異世界転生者(ゴースト)を、人間としてすら認めない。ただの異分子として回収し、解体し、自分たちのエネルギーに取り込むための「パーツ」としか見ていなかった。
大好きだった世界から、お前は主人公などではないと、その存在すらも完全に否定される。
前世でニートだった黄瀬光太は、この世界でも結局、世界(システム)に消費されるだけの、ただの「実験動物」に過ぎなかった。
居場所が変わっても、チートを手に入れても、名前が変わっても、結局、黄瀬光太は黄瀬光太のままだった。黄瀬光太から逃げられない。
逃げられない。
「いやだ……いやだあ……ッ!! いやだよおおお……ッ!!」
魂のアイデンティティを根底から叩き割られたような、圧倒的な絶望感。
「おねがいだから、やめてよ……」
リーノの、いや、黄瀬光太の目から、泥のような大粒の涙がぼろぼろとこぼれ落ちた。リーノの叫びは二人には聞こえていないかのようだった。
「ふぅ、完了だ。いいぜ、もう戻せ」
アカザルが満足げに息を吐いたその時だった。
――ドォオオオオオオオオオオオオオンッ!!
荒野の静寂を切り裂き、凄まじい衝撃波が轟いた。
衝撃の正体は、圧倒的な風圧を伴う、底知れないほど巨大な念のオーラ。
「そこまでです! 陰獣フクロウ! アカザル!」
立ち上る土煙の向こうから現れたのは、ズボンからシャツが一部はみ出しただらしない姿のメガネをかけた青年だった。
そして、青年は構えた。
あの構えは、ズシの……心源流の構え……ッ!?
殺気すら孕んだ青年のオーラが荒野を支配する。
「チッ、ナニモンだ? こいつに仲間はいなかったはずだ」
「それよりも、なぜここが……!?」
「そいつのほかに、感知タイプの能力者もいるな。警戒を怠るな。アカザル」
フクロウが顔をしかめる。
リッポーは俺が異分子であることを認識していた。俺がハンター協会の監視下に入っていたとしても、ふしぎじゃない。
二人は青年を警戒しているというより、増援を警戒しているようだ。
フクロウは、すぐさま噛みついていた犬たちをファンファンクロスに戻す。
「潮時だな。目的は達した。フクロウ、ずらかるぞ!」
二人は動けないリーノを荒野に高らかと放り投げた。おとり(人質)にするようにして。
二人は猛スピードで近くの車へと飛び乗った。
ウイングは一瞬、逃げる二人に視線を向けたが、地面に落ちるリーノの元へ駆け寄って抱きとめて、地面におろす。
フクロウとアカザルは車のエンジンがかかる。
逃がすかよ!
「ガチガチガチガチ……ッ!」
一週間は動けないはずの強力な麻痺の針。黄金のチート能力を完全に剥奪されたという、底無しの絶望。
そのすべてを、這いつくばったニートの部屋へ逆戻りすることを拒む、凄まじい「怨念」のような執念が凌駕した。
リーノのガタガタと震える足が、荒野の地面を激しく踏みしめた。
膝が笑い、筋肉が悲鳴を上げる。
それでも、リーノは床に這いつくばることを拒み、その足で、ガタガタと震えながらも真っ直ぐに立ち上がってみせたのだ。
ここで、これを取り戻さなければ、俺はまたあの薄暗い天井を見上げるだけの、無価値な黄瀬光太に戻ってしまう。それだけは、それだけは絶対に耐えられない――!
「返せよ……!」
その顔は、涙と泥と鼻水でぐしゃぐしゃだった。だが、その瞳にはドス黒い覚悟の炎が狂気のように燃え盛っていた。
「返せよ! 俺の能力なんだ。返せよ!!」
魂を切り裂くような、心からの絶叫が荒野に響き渡る。
麻痺毒を完全に無視し、能力を奪われた絶望のどん底から、信じられない力で真っ直ぐに仁王立ちしてみせた怪物の姿。
「なん……だとっ!? なぜ立ち上がれる? こんなの、ありえねェって……一週間は指一本動かせないはずの麻痺針だぞ……!? どんな精神力をしていやがる!」
立ち上がり、咆哮するリーノを見たアカザルの顔から、余裕の笑みが消え失せた。
アカザルの顔が、驚愕と戦慄に歪む。
這いつくばるどころか、こちらを睨みつけて吼えるリーノの凄まじい執念の眼光に、プロであるはずの彼が戦慄しているようだった。
「出すぜ! アカザル!」
「あぁ」
フクロウはアクセルを踏み込む。
「じゃあな。アンノウン」
車が走り出す。
「逃げるな! 逃げるなあああああっ!!」
猛スピードで遠ざかる車のバックミラー越しに、アカザルはじっとリーノをみつめていた。
闇の中へと消えていく宿敵の姿を最後に、リーノの視界は急激に暗転し、そのまま意識の底へと沈んでいった。
そして、リーノは、いや、黄瀬光太は『HUNTER×HUNTER』の世界で、すべてを失った。
リーノの唯一のプライドだった、黄金のチート能力すらも。
――牙をもがれ、ただの「人間」に引き摺り下ろされた黄瀬光太。
――黄瀬光太の本当の物語は、ここから始まる。