「……っ」
重い瞼を押し上げる。
視界に飛び込んできたのは、白く、見覚えのない上質な壁紙が張られた天井だった。
知らない天井。これで、三度目だ。
一度目は、裏ハンター試験。新人潰しのトンパの下剤で激しい脱水症状を起こし、気づけば救護室のベッドの上だった。
二度目はフクロウとアカザルに誘拐された日の天空闘技場1階の初戦。傲慢にイキり散らした挙句、仮面の男『ツバサ』にコンクリートの壁へぶん投げられ、右腕をバキバキに折られて瞬殺KOされた医療室の天井。
そして、三度目が――アカザルの麻痺針によって、この世界の底へ叩き落とされた、今だ。
人生に、ゲームオーバーってないんだな。どんなクソゲーも死ぬまで続く。消化ゲームでも。
アカザルの麻酔の影響か、カラダが……動かない……。
指先一つ動かそうとするだけで、全身の骨と筋肉が鉛を流し込まれたように軋む。それだけではない。自分の内側が、完全に空っぽだった。
かつて肉体を満たしていた、あの黄金に輝く希望のオーラ。世界を光速で駆け抜けるはずだった、特質系能力『伊右衛門)』の気配が、どこを探しても見当たらない。
本当に、奪われたんだ。
陰獣フクロウとアカザルに、俺のチート能力は概念ごと吸い尽くされてしまった。
「あ……あぁ……」
喉の奥から乾いた呻きが漏れる。
その瞬間、ベッドのすぐ脇から、微かな衣擦れの音が聞こえた。
「――気が、つきましたか」
ハッとして視線を巡らせる。
そこに佇んでいたのは、一人の若い女性だった。十代だろうか?
艶のある、長い黒髪を静かに垂らした、物静かで端正な顔立ちの美女。どこかミステリアスな、少し影のある雰囲気を纏っているが、その瞳は澄んでおり、怪しい様子は微塵もない。
誰だ……!? 原作のキャラ……じゃないよな。こんな綺麗な護衛の姉ちゃん、天空闘技場編にいたか?
リーノは必死に原作知識を漁ったが、目の前の「物静かで綺麗な女性」に該当する人物が思い浮かばない。
女性はリーノと目が合うと、何も言わずに懐から携帯電話を取り出し、手早く誰かにかけた。
「ウイングさん……はい。例の男の子、今、目が覚めました。ええ、すぐに」
ウイング!?
短い報告だけを済ませ、彼女はパタンと携帯を閉じる。
しばらくすると、部屋のドアが静かに開いた。
現れたのは、シャツの裾が一部ズボンからはみ出した、だらしない格好のメガネの青年――ウイングだった。
ウイングの顔を見た瞬間、リーノの脳内で、能力を奪われたパニックと悔しさが一表に爆発した。動かない体をベッドから強引に起こし、怒声を浴びせる。
「なんで……っ! なんであの時、アイツらを追いかけなかったんだよ!!」
ギリ、と奥歯を噛み締める。悔し涙が視界を滲ませる。
あの時、荒野で俺を救い出したのはまちがいなく目の前の青年だった。ウイングがここにいるということは、ハンター協会が裏で繋がっているに違いない。プロの伝達速度なら、今からでも追えるはずなのだ。
「あんたたちプロハンターだろ!? あの凄まじいオーラがあれば、あの二人の陰獣くらい、簡単にぶちのめせたはずだ! 追いかけてくれれば、俺の、俺の能力を取り返せたかもしれないのに……! なんで見逃したんだよ!!」
理不尽な八つ当たりだ。それは理解していた。だが、チート能力だけがこの世界でリーノが生きる唯一の拠り所だったのだ。それが消えた恐怖に、精神が耐えきれなかった。
ウイングは怒る風でもなく、ただ眼鏡の奥の瞳を冷徹に光らせ、静かにリーノを見下ろした。
「――それが、キミの戦闘考察力の限界ですか」
「なん……だと……!?」
「いいですか、リーノくん」
ウイングの声が、荒野の夜風のように冷たく室内に響く。
「相手は十老頭直属の陰獣。暗器のフクロウと十鬼のアカザル。すでに能力者が『二人』いることが確定している状況です。それに対し、こちらはキミいう『一歩も動けない重傷者』を抱えていた。キミの命を護りながら、未知の念能力を持つプロ二人を相手に、単身で追撃をかけろと?」
ウイングは静かに首を振る。
「念能力バトルにおいて、相手が複数なら、こちらも複数で当たるのが鉄則です。もし、フクロウの風呂敷の射程内に不用意に踏み込んでいたら? キミも、追撃した者も、まとめて袋詰めにされて終わりでした。さらに言えば、あの場に姿を見せていない『三人目』の潜伏者がいた可能性すらあった。プロの念戦を、舐めないでください」
「あ……」
ウイングの冷徹な正論が、リーノの胸に突き刺さる。
知識だけで『HUNTER×HUNTER』の世界を知った気になり、実戦の、本物のプロの戦術を何一つ理解していなかった己の甘さ。
「今のキミは、能力もない、身分証もない、ただの無力な子供です。厳しく聞こえるでしょうが、それが現実です。……しばらく、頭を冷やしなさい」
ウイングはそう言い残し、部屋を出て行った。
一人残されたリーノは、布団に顔を埋め、声も上げずに号泣した。
黄金の光はもうない。前世の、あの薄暗い天井に引き摺り下ろされたかのような圧倒的な無力感に、ただ打ちのめされるしかなかった。
それから数日が経った。
リーノはバッテラのカードで借りてるスイートルームのベッドに移動し、引きこもり、絶望の底にいた。ウイングはリーノに付きっきりというわけではないようだった。その代わり、この黒髪の女性が常時監視兼護衛として、部屋の片隅に静かに佇んでいる。
天空闘技場のホテルの豪華なルームサービスがワゴンで運ばれてくるが、リーノは一切手をつけなかった。生きる気力すら湧かなかった。丸三日、水すらほとんど喉を通らない。
「きょうも……食べないのですか?」
不意に、女性が声をかけてきた。
彼女は運ばれてきた高級料理のワゴンを脇に押しやると、部屋のキッチンへ向かい、自ら包丁を握り始めた。しばらくして、トントンと小気味よい音が響き、運ばれてきたのは、いかいにも体に良さそうな滋養強壮のスープと、素朴だが丁寧に作られた手料理だった。
「これを。カラダが弱っています」
「……あ、ありがと……」
目の前で作られた手料理。促されるまま、リーノは力なくスプーンを取り、スープを口に運んだ。
その瞬間、じんわりとした温かさと、驚くほど深い旨味が口いっぱいに広がった。五臓六腑にしみ渡るような、信じられないほど美味い家庭の味。空っぽの胃袋に、確かな熱が灯っていく。
「っ!? ……う、うまい。何これ……ホテルの、どんな高級料理よりも、ずっとおいしい……!」
絶望のどん底で、数日ぶりに口にした他人の温かさに、リーノは偽らざる本音を漏らした。そして、黒髪の女性の優しさに、涙が出てくる。
だが、その瞬間。
「――っ」
女性の頬が、カァッと一瞬で真っ赤に染まった。
それまでの物静かな雰囲気が嘘のように、彼女は両手を頬に当て、狂おしいほどに瞳を潤ませて身悶えを始めたのだ。
えっ!? なに、急にどうしたんだこの人……!?
「ホテルの料理よりも、私の、私の料理がいいだなんて……。これって、つまり……愛の告白……!?」
愛の告白ではないけど。
「護衛対象からの、熱烈な生涯のパートナーへのアプローチ……!!」
アプローチでもないけど。
「ああ、どうしましょう、私には心に決めた方がいるのに! でも、ここまでストレートに私を求められるなんて……! これも私の魅力が溢れ出ているせいなのね……!」
ぶつぶつと、恐ろしいほどの早口で妄想を爆発させる黒髪の女性。
そのあまりの豹変振りと、どこかで見覚えのある「ヤンデレの片鱗」に、リーノは背筋が凍りついていく。
俺はこの黒髪の女性を知っているような気がする。
そこへ、ガチャリとドアが開き、ウイングが部屋に戻ってきた。彼は室内の妙な空気に気付き、眼鏡を押し上げる。
「おや、パームさん。リーノくんに何か料理でも!?」
「――ゲホッ!!! ブフゥッ!!!」
リーノは口に含んでいたスープを、盛大に床へと吹き出した。
パ……パパ……パーム!?
ウイングは今、確かにそう呼んだ。
パーム……!? パーム・シベリア!? あのキメラアント編でゴンを恐怖に陥れた、あのヤンデレ人魚!?
言われてみれば、あの長い黒髪。入念に化粧をし、髪を整えていれば、原作のあの凄まじいホラー描写とは似ても似つかない「超絶美女」になるという設定があったはずだ。しかも、料理がめちゃくちゃ上手いという特徴も完全に一致している。
嘘だろ……! まだ原作の1年前だから、19歳か!? 髪がボサボサじゃないと、こんな普通の美人なのかよ……っ!!
激しく咳き込むリーノを、パームは熱い、あまりにも熱すぎる勘違いの視線で見つめていた。
「大丈夫ですか、リーノ君……。私の愛が、少し刺激が強すぎましたか……? 衣服が汚れてしまいましたね。今すぐ私が、脱がせて、綺麗に、綺麗に洗って差し上げますからね……!」
「いや、大丈夫です! 自分でするから近寄らないでええええ!!」