パームがスープの汚れを拭き取るためにキッチンへ下がった後、ウイングはベッドの脇の椅子に腰掛け、真剣な面持ちでリーノを見つめた。
「リーノくん。キミに、今後の選択肢を提示します」
ウイングの言葉に、リーノはビクリと肩を揺らした。
「一つ目は、このままハンター協会の保護下に入ること。身分証も出生記録もない『ゴースト』であるキミを、協会が管理した施設で一生保護します。危険はありませんが、外の世界に出る自由は二度とありません」
「一生、閉じ込められるってことか……?」
「そうです。そして二つ目は――私の弟子になること。心源流の門下生として、自分で自分の身を守れる力を手に入れる。選ぶのは、キミ自身です」
リーノは自嘲気味に笑った。
「ハハ……自分で自分を守れる力? 笑わせるなよ。俺の念能力はもうないんだぞ! あの能力がなくなった俺に、何ができるっていうんだよ! 念能力もないのに、どうやって、陰獣や世界から身を守れって言うんだよ!」
「念能力がなくなろうとも、自分で自分の身は守れます」
ウイングは断言した。その声には一切の迷いがなかった。
だが、その確信に満ちた態度が、全てを失って自暴自棄になっているリーノの逆鱗に触れた。
「バカにしやがって……ッ!!」
リーノは布団を激しく跳ね除け、ウイングを睨みつけた。
「自分で自分を守れる力とか言ってさ! 選ぶのはおまえだとか言ってさ! そうやって上から目線で綺麗事ばっかり並べやがって! 能力を奪われた俺の気持ちなんて、あんたに分かってたまるかよ!!」
怒りと悔しさ、そして自分の無力さへの情けなさが混ざり合った絶叫が、スイートルームに虚しく響き渡った。
だが、ウイングはただ静かに眼鏡の奥からリーノを見つめているだけだった。その揺るぎないプロの佇まいが、逆にリーノの心をさらに惨めに、そして冷酷な現実へと引き戻していく。
「だけど……ッ、俺にはもう、どうしようもないんだ……!!」
がくり、とベッドの上に膝をつき、リーノはベッドを殴りつけた。涙が次から次へと溢れ出て、シーツにシミを作っていく。
「念能力がない俺に、選択の余地なんてあるわけないだろ……! 協会の施設に一生閉じ込められるなんて絶対に嫌だ。ニートに戻るのも、実験動物にされるのも真っ平ごめんだ……! だったら、俺には……あんたに言われた通りにするしかないんだ……!!」
それは、誇り高き入門の誓いなどではなかった。
世界(システム)に消費されることを拒み、どん底の転生者が吐き出した、ドス黒い消去法の「覚悟」だった。
「弟子に、なるよ」
ウイングは静かに立ち上がり、だらしなくはみ出たシャツの裾を直すこともせず、ベッドの上のリーノを見下ろした。
「その言葉に嘘がないのなら――着替えなさい。今すぐ、訓練を始めます」
◆ ◆
連れてこられたのは、天空闘技場の広大な一階部分の建物をぐるりと取り囲む、屋外の外周道路だった。
世界第四位の超高層タワーである天空闘技場は、その土台となる最下層の直径も並外れて巨大だ。一周するだけで約1000メートル。そこは綺麗に舗装されており、一般の格闘家や地元の市民ランナーたちも行き交うマラソンコースになっていた。
「ここを、まずは全力で走りなさい。今のキミの肉体がどれほど鈍っているか、自分自身で知る必要があります」
ウイングの冷淡な指示に、リーノはガタガタと震える足で一歩を踏み出した。
一昨日浴びた、アカザルの麻痺針の毒はまだ完全には抜けていない。なにより、四肢を噛まれて特質系のオーラを概念ごと剥ぎ取られた肉体は、魂の根幹を削られたように重く、呼吸をするだけでも肺が痛かった。
「はぁ、はぁ、がはっ……っ!!」
走り始めてわずか200メートル。一般の市民ランナーが軽快に自分を追い抜いていく中、リーノは足がもつれ、無様にコンクリートの地面へとへばりついた。
「おいおい! なんだあの無様な走りは!」
「おい、あれって一昨日に1階の初戦で、あのツバサに瞬殺されて、医務室へ運ばれたガキじゃねぇか?」
外周を行き交う格闘家や観客たちが、リーノの無様な姿に気づいて指をさし、ドッと下劣な爆笑を上げた。
「あはは! 1階の『ざんねんちゃん』だ!」
「コブシで語り合うとか何だか知らねぇが、格好つけて負けた挙句、今度は外周で這いつくばってんぞ!」
ざんねんちゃん。
1階のリングで、チート能力に溺れてイキり散らし、一瞬で叩き伏せられた哀れな敗北者に与えられた、不名誉極まりない仇名。
それが、外周中に響き渡る。
「く、そ……っ!」
リーノは泥を舐めるようにして顔を上げ、群衆を睨みつけたが、立ち上がる筋力すら残っていなかった。そのまま這うようにして、這うようにして――ウイングの制止を振り切り、這いつくばったままスイートルームへと逃げ帰ってしまった。
部屋のベッドに潜り込み、毛布を頭から被って震えるリーノ。
◆ ◆
数日が経過する。
この世界はリーノの逃避を許してはくれなかった。
バサリッ!!
「なっ!?」
容赦なく毛布を剥ぎ取ったのは、ウイングだった。その顔には、いつもの温厚な笑みは一切なく、眼鏡の奥の瞳は冷徹そのものだった。
「逃げても、誰もキミの能力を返してはくれませんよ。走りなさい、リーノくん」
「嫌だ! カラダが動かないんだよ! 外を見ろよ、今日は雨だぞ!?」
窓の外は、激しい土砂降りの雨だった。
しかし、ウイングはリーノの胸ぐらを強引につかみ上げると、有無を言わさずにスイートルームから連れ出し、再びあの雨に煙る外周へと放り出した。
「走るんです。キミが生き残るために」
冷たい雨が全身を叩きつける。
パームが天空闘技場から出てきて、その様子をじっと、どこか狂気を孕んだ不気味な視線でみている。なぜか片手に包丁を持っている。
「はぁっ……はぁっ!!」
雨水が靴の中に入り込んでくるも、リーノは走った。いや、走るしかなかった。
一周約1000メートルの地獄。最初は半分も走れず、何度も雨の中の地面に膝をついた。
だが、ウイングは毎日、雨の日も、風の日も、リーノを部屋から引きずり出し、外周を走らせた。
そんな泥臭い地獄の数日目。
バシャバシャと、激しく水溜りを跳ね上げる巨大な足音が、リーノの背後から迫ってきた。
「オラオラオラァ! どきな、一階の『ざんねんちゃん』!!」
「あっ、ゴンズ選手だ!」
まわりから人がゴンズに声援が送られる。
並びかけてきたのは、1階と50階の試合を圧倒的な怪力で勝ち上がり、現在60階クラスに到達しているあの巨漢――リーノがツバサに敗北して「ざんねんさ~~ん」と言ってきた『ゴンズ』だった。
ゴンズは雨をものともせず、筋骨隆々の巨体を揺らしながら、リーノを軽々と追い抜いていく。
「なんだぁ? そんなミミズみたいな走りじゃ、一生60階の俺の背中には追いつけねぇぜ! ざんねんちゃんよォ!」
ゴンズは獰猛に笑い飛ばし、白い歯を覗かせて一瞬でリーノを置き去りにしていった。
ゴンズ……ッ!!
チート能力の『伊右衛門』があったなら、あんな奴、一瞬で超高速の直線移動で置き去りにできたのに。だけど、今の自分には、あの巨漢の背中が、遥か彼方の世界の住人のように遠くに見えた。
「クソッ……なんだよ……これ……なんで、俺は走んなきゃなんねぇんだよ」
雨と涙が混ざり合い、顔中がぐしゃぐしゃになる。一度は絶望しかけた。だが、心源流のウイングの容赦ない指導、そして気味は悪いが毎日身体に良い特製飯を作って「がんばって、リーノ君……!」と窓越しに怪しい視線でエールを送ってくれるパームの存在が、リーノの折れかけた心を辛うじて繋ぎ止めていた。
なにより、あのゴンズの圧倒的な肉体の強さ。自分を笑い飛ばしてきた、ハングリーな格闘家としての魂。
黄金のチートを失い、むき出しの『黄瀬光太』に戻された肉体の奥底で、何かがガチリと噛み合う音がした。
あいつを……あの60階のキン肉ダルマを……俺のこの足で、絶対にぶち抜いてやる……ッ!!
ブーイングの雨の中、一歩、また一歩と、リーノの泥臭い足取りが、確実に力強さを増していった。
◆ ◆
それからさらに十数日が経過した頃。
天空闘技場の外周コースの空気は、明らかに変わりつつあった。
「はぁ……はぁ……はぁ……ッ!!」
地面を蹴るリーノの足取りには、かつての無様なもつれは一切なかった。
毎日、負荷を喰らって、限界を迎えるたびに肉体がバキバキと音を立ててアップデートされる感覚。
いまや、一周1000メートルのコースを、一本の乱れもなく走りきることができる。
「よォ、ざんねんちゃん! 今日も地味に走って――」
「――遅ぇよ、ゴンズ」
「なっ!?」
バシャアッ、と水溜りを跳ね上げて並びかけた60階のゴンズに対し、リーノは不敵に笑い、地面を爆発的な力で踏みしめた。
ウイングの指導によって、進化を遂げた脚力が、コンクリートに強烈な足跡を刻む。
バッ!!
「な、にぃいっ!?」
ゴンズの驚愕の叫びを置き去りにし、リーノは泥を跳ね上げながら、巨漢の身体を外側から鮮やかに、そして力強く追い抜いてみせた。
いつもリーノを嘲笑っていた外周の観客や格闘家たちが、一斉に目を見開いて立ち上がった。
「いけぇ……っ! ざんねんちゃん!」
「いや、違うだろ! あいつの名前は――」
「リーノ! リーノ!!」
外周コースに、地響きのような「リーノコール」が巻き起こる。
走りながら、リーノは胸の奥から湧き上がるハングリーな興奮に、狂ったように笑った。
チート能力で得た偽物の無双じゃない。自分の足で、世界のブーイングをひっくり返した本物の快感だった。
マラソンを終え、外周の片隅で、息を整える間もなく地面に両手をついて腕立て伏せのメニューに移るリーノ。
そこへ、走りで負けて顔を真っ赤に膨らませたゴンズが、ドスドスと地響きを立てて近づいてきた。
「おい、リーノ! 走りで一本取れたからって調子に乗るなよ! 格闘家に本当に必要なのは『力(パワー)』だ!」
悔しそうに歯を剥き出しにしながらも、ゴンズの口から出たのは、あの不名誉な仇名ではなく、初めて真っ直ぐに紡がれた「リーノ」という名前だった。
「筋トレが足りねぇようだからな、俺が特別に手伝ってやるよォ!」
ドスン!!!
「ぶふっ……!?」
ゴンズは嫌がらせと意地を込めて、腕立て伏せをしているリーノの背中の上に、その筋骨隆々の巨体で容赦なくドカ座りした。普通の人間なら背骨がへし折れて地面に潰れる重量だ。
だが、リーノの肉体(内側)が、その圧倒的な負荷に歓喜するように爆発的な熱を帯びた。
肉体を負荷に呼応し、アップデートしていく。
「ぬ、おおおおおおおおっ……!!」
リーノは歯を食いしばり、顔の血管を浮き上がらせながら、ゴンズのその巨体を背中に乗せたまま、ぐぐぐ、と力いっぱいに腕を伸ばして身体を押し上げてみせたのだ。
「なっ、マジかよ……!? てめぇ、どんな馬鹿力してやがる……!」
背中の上でゴンズが本気で驚愕する。
腕立て伏せを終え、背中から降りたゴンズの胸ぐらを、リーノは乱暴に掴み取った。お互いに泥と汗と雨でぐしゃぐしゃの顔。だが、リーノはゴンズの獰猛な瞳を、真っ直ぐに正面から見据えて言い放った。
「ゴンズ。おまえは――俺が倒す」
それは、陰獣に向けたような憎しみや怨念の籠った声ではなかった。
前世のニート時代、薄暗い部屋で画面の向こう側の『HUNTER×HUNTER』のキャラクターたちに、ゴンやキルアに「友達になりたい」と切望していた黄瀬光太が、この世界で初めて見つけた、対等にぶつかり合える『他者』への、魂の宣戦布告だった。
まわりの人たちがざわつく。
「ゴンズvsリーノか」
「おもしれェじゃん」
「190階以下はランダムだろ」
「おまえ、あれがランダムなんて信じてたのかよ?」
「おおおおおっ」
「やれやれ!!」
ゴンズは一瞬だけ呆気に取られたが、すぐにその言葉の重みを理解し、狂おしいほどに獰猛な笑みを浮かべた。リーノの肩をバチンと殴りつける。
「ハッ! ほざけ、リーノ! 悪ぃが俺はさらに勝ち進んで、もう100階クラスだぜ? てめぇが俺と本気で戦いたいなら、まずは死に物狂いで上がってこい。150階以上じゃなきゃ、俺の相手は務まらねぇぞ!」
「上等だ、すぐにぶち抜いてやるよ!」
二人はお互いに牙を剥き出しにして、格闘家としての不敵な笑みを交わし合った。言葉は乱暴だが、そこには確かな絆(ライバル関係)の熱が通っていた。
そんな二人の様子を、コースの傍らから、だらしないシャツ姿のウイングが微笑ましそうに眺めながら近づいてきた。
「おや? おやおや。どうやら、良いお友達ができたみたいですね。本当に良かったですね」
ウイングのそのおっとりとした言葉に、リーノとゴンズは同時にパッと顔を見合わせ、心底嫌そうな顔をして、息を完璧に合わせながら大音量でハモった。
「「ちげェよ!!!!」」
荒野で全てを失い、世界の底に落とされた少年の傍らには、今、泥臭くも共に高みを目指す最高のライバルがいた。