この地獄のような外周マラソンと腕立て伏せを重ね、リーノの肉体が基礎的な「器」を完成させた頃、ウイングはついに次の段階への移行を告げた。
「リーノくん。君の基礎体力は、私の予想を遥かに超える速度で仕上がりました。……今日から、心源流の『型』を教えます」
ウイングが手配した隠れ家。そこでリーノは、一人の少年を紹介された。
「私のもう一人の弟子、ズシです。キミの年下の兄弟子になりますね」
「ズシっす! よろしくお願いします。押忍ッ!」
俺より4歳、5歳、年下だろうか? 小柄で、キラキラした目で俺をみつめてくる。それはいったいどういう意味の視線だ!? まったくわからん。
リーノは原作知識として彼を知っていたが、実際にその目の前に立つと、自分がいかに遅れを取っているかを痛感させられる。
10万に1人の逸材とか言われていたな。天才じゃねェかよ。
俺はどのくらいの才能なんだろう? 1人に1人か?
ふと思った。
原作では、ズシのファミリーネームは明かされていない。聞いていいんだろうか? これは『HUNTER×HUNTER』の世界に転生したら、やってみたかったことなんだよな。原作では明かされていない秘密の暴露。
聞いちゃっていいんだろうか? なんかドキドキしてきた。
「ズ、ズシ? ズシのファミリーネームって教えてもらえる?」
「リーノくん、そんなことはどうでもいいでしょう!」
ウイングはリーノを止めようとする。
なんかシステムのロックがかかってんのか?
「ファミリーネームを隠しているんですか?」
「べ、べつに、隠していませんが、、、」
なんだかウイングさんの様子がおかしい。やっぱり、システムの何かが発動しているのか?
「ズシ=ワン・シノービっす!」
「変わった名前だね」
ズシ=ワン・シノービってなんか聞いたことあるような、ないような。なんだろう。何かがつながりそうな気がするんだが。
「そうなんだ」
「リーノさんのも教えてほしいっす」
「リーノ=グラス」
リーノは嘘を付いた。
「さて、二人に課す本日のメニューですが――ひたすら虚空に向けて拳を放ちなさい」
ウイングは話題を変えるように、指示を出した。ウイングは何かを隠しているようだが、いずれわかるときがくるだろう。今はそれよりも、必殺技だ。
天空闘技場を攻略するんだ。
ウイングの指示は、驚くほどシンプルだった。手を合わせて、心を研ぎ澄ませて、一歩を踏み出し、腰を落とし、真っ直ぐに拳を突き出す。
それをひたすら繰り返す。
「正拳突きです。感謝の正拳突きなんて言い方をする人もいますが」
それは心源流の最も泥臭い基本。しかしリーノは知っていた。これがかつて、ハンター協会会長アイザック=ネテロが山に籠もり、一日に一万回、何年も繰り返した末に音を置き去りにしたという、心源流究極の奥義の原点であることを。
「お、おすっ……!」
リーノはズシと並び、ひたすら虚空を殴り始めた。一千回、二千回、三千回。己の肉体への感謝、世界への感謝を込めて、ただただ拳を突き出す。
精神の研ぎ澄まし方が足りない! 点が足りない! そんなことをウイングに言われながら、リーノはただひたすらに放ちつづけた。
しかし、数日が経つと、リーノの中に格闘家としての焦りが生じ始めた。
「ウイングさん、もう正拳突きとマラソンはいいだろ! マラソンも1日20周とか、いくらなんでも走らせすぎだろ? 早く次のステップへ、実戦的な技を教えてくれよ!」
外周を走るスピードは日々速くなり、今やゴンズを乗せた腕立て伏せすら物足りなくなっている。雨の日も風の日も、狂ったように正拳突きと過酷な筋トレを続けるリーノの姿は、いつしか天空闘技場の名物となり、見物する観光客やファンが日々増えていた。
これだけやっているのだから、もっと強烈な技が欲しい。
そんなリーノの不満を見透かしたように、ウイングは静かに眼鏡の奥の目を光らせた。
「いいでしょう。ならば、これを防いでみせなさい」
シュッ、と衣服が擦れる微かな音がした。
次の瞬間、リーノの視界からウイングの姿が消えた。
否、下からだ。
ガァンッ!!!
「が、はっ……!?」
強烈な衝撃がリーノの脇腹を打ち抜いた。ウイングの放った、鋭く、極限まで洗練された「蹴り」だった。受け身すら取れず、リーノは床を何回転も転がっていく。
「う……そだろ……ッ」
這いつくばりながら、リーノは己の脇腹を抑えて愕然とした。
そう言えば、『HUNTER×HUNTER』の世界において、念能力者が「蹴り」を主軸に戦う描写はあまり見かけない。ゴンもキルアもヒソカも、大半の強者は強固な「拳」による一撃や、固有の念能力を用いる。
「心源流において、拳は感謝を伝える最も神聖な部位です」
ウイングは静かに脚を下ろし、佇む。
「しかし、人間の肉体において、最も大きな筋肉が集まり、最も強い破壊力を生み出せるのは『脚』です。拳が通用しない頑強な敵、あるいは拳の届かない間合いを打ち破る。そのために、心源流には脚を用いた卓越した体術がありませんでした」
「ないのかよ!! 普通、あるだろ!!」
そういえば、その心源流のネテロ会長の百式観音の技はぜんぶ手だったな。心源流、めちゃくちゃ不完全な武術だな。
「だから、私が作りました」
ウイングさん、有能だなぁ。いや、才能ないから、工夫してんだろうな。才能がありすぎるのも、良し悪しだなぁ。
「……キミには、この蹴りの型も、正拳突きと並行して叩き込みます」
ウイングの放ったあの蹴りの軌道、そして脚が空気を切り裂く凄まじい風圧。 その瞬間、リーノの脳裏に、かつてチートに頼っていた時には決して思い浮かばなかった、全く新しい戦闘のビジョンが閃いた。
これだ……。拳だけじゃない。この世界で誰も見向きもしない『蹴り』を、もし俺が、あの正拳突きと同じ狂気で極めることができたなら……!
「上等だ……! いくらでもやってやるよ!」
リーノはニヤリと好戦的に笑い、再び立ち上がった。
「リーノさん、がんばって……! 今夜も、髪の毛が一本も残らないほど綺麗に洗った食材で、最高のお肉料理を作って待っていますからね……!」
宿舎の窓からパームが激しく身悶えしながら不気味な声援を送る中、リーノはズシと共に、再び感謝の正拳突き、そしてウイングから繰り出される容赦のない蹴りの嵐の中へと身を投じていった。