ウイングから「190階までは好きにしていい」と、ついに天空闘技場参戦許可が下りた。それを聞いたリーノは「190階まではって、どういう意味だよ」と舌打ちした。
200階以上は、念能力者の領域。念能力を失ったリーノにはもはや踏み入れない領域だった。あきらめた領域。
200階での3勝は達成不可能なクエストだった。
バッテラになんて言おうか。
リーノの再挑戦が決まったその日の前夜、リーノのスイートルームにぶっきらぼうな顔をしたゴンズがやってきた。バッテラのブラックカードで借り切った、一般人には一生縁のない部屋だ。
「リーノ、おまえ、すっげェ部屋に住んでんな。どうなってんだよ!? うぉっ、てか、女!? 誰だよ。この美女は?」
「俺の護衛」
「護衛!? えっ!?」
「彼女は俺たちよりも、ずっと強いぜ」
ゴンズは混乱している。そこにいたのは、19歳のパームだった。
夜の光を浴びて艶やかに輝く黒髪、まだ少女のあどけなさを残しながらも、大人の色香を漂わせる圧倒的な美貌。パームは美しい所作で、ゴンズにお茶を出す。
「――どうぞ、お召し上がりになって」
ただお茶を出されただけなのに、パームの涼やかな瞳に見つめられた瞬間、ゴンズの顔が耳まで真っ赤に染まった。急に呼吸の仕方を忘れたように胸を上下させ、大きな身体をこれでもかと小さく縮める。
「ど、ど、どもっ……!」
普段の闘技場での荒々しさはどこへやら、ゴンズは借りてきた猫のようにペコペコと頭を下げた。彼のごつい手が震えながら持つと、最高級のコーヒーカップがまるでミニチュアの玩具のように小さく見える。
パームがフッと妖艶に微笑むと、ゴンズはさらにドギマギして視線を泳がせ、限界を迎えたようにリーノに向き直った。
「おい、リーノ。これ、やるよ」
照れ隠しに大声を出しながら、ゴンズが指先で差し出してきたのは、明日行われる彼自身の試合のプラチナチケット2枚だった。
今や、ゴンズはこの天空闘技場の200階未満クラスでトップを争う人気の闘士だった。ほしいと思っても、なかなか手に入らない本物のプラチナチケットだ。
これ売ったら。いくらになるんだろ。
「行かねぇよ。俺も明日は試合なんだ。他人の戦いを見てる暇なんてねェよ」
リーノはツンとそっぽを向いて悪態をついたが、ゴンズが帰った後、そのチケットを大事そうにポケットへと仕舞い込んだ。行くに決まっていた。
もちろん、ゴンズを倒すためだ。研究のためだ。
「パームさん。明日、時間あいてる?」
◆ ◆
翌日、午前。天空闘技場一階のリング。
そこには、これまでとは見違えるような、圧倒的な威風を纏ったリーノが立っていた。
『さぁ、1階のリングに、あの『ざんねんちゃん』こと自称・海王殺しのリーノ選手が帰ってきました! 対戦相手はあのクシャ流のハイボ選手です! 実力者相手に、リーノ選手は勝てるのでしょうか!?』
実況の声、そして観客席からの冷やかし混じりのブーイング。
通常、1階に実況はない。今、1階はこのリング以外、試合が行われていない。
「海王殺しか。懐かしい称号だぜ。今はそんなものより、狩りたいものがある」
ゴンズ……。
リーノは静かに目を閉じ、胸の前で手を合わせた。
己の五体に感謝を捧げ、目を開ける。
――静謐。
『始め!』
ハイボが仕掛けてくるよりも早く、リーノの身体が動いた。外周マラソンで培った脚力が爆発し、ウイングとの組み手で磨いた教科書通りの踏み込み。そして、虚空を何万回と殴り続けた、目にも留まらぬ一発の『感謝の正拳突き』が放たれた。
ドゴォォォンッ!!!
「ぶ、はっ……!?」
直撃。ハイボの巨体が、まるで大砲で撃ち抜かれたようにリングの外へと消し飛び、コンクリートの壁にメリ込んで白目を剥いた。
一撃KO。
一瞬の静寂の後、会場に凄まじい地鳴りのような「リーノコール」が響き渡った。
かつてフック船長の船で怪魚を倒した時の、あのハングリーな興奮が脳髄を駆け巡る。海王殺しの時の。あのときのほうが今よりも遥かに強かったはずなのに。
念能力を失って、弱くなって、初めて、強くなれたような気がする。
それにしても、今日はカラダが動く。まるで、バフがかかったかのような感じだ。てか、異常だろ。このパワーは。
どうなってる?
勝利のアナウンスと共に、審判が冷や汗をかきつつ、100階クラスへの昇格を宣言した。
だが、リーノの快進撃はそこで終わらなかった。
同日の午後、100階クラスで行われた試合。リーノは再び圧倒的な身体性能から繰り出される感謝の正拳突きで圧勝。
『勝者! リーノ選手! 190階クラス!』
『なんと海王殺し! 2試合連続ワンパン勝利ーーっ!! さらに、190階クラスへの前代未聞の驚異の超特急昇格ぅーーっ!!」
たったの2勝で、190階クラスへの昇格を果たす。
昨日まで遥か先を走っていたはずのゴンズを一気に追い抜いてみせたのだ。立場は完全に逆転した。
勝利を告げるレフェリーの声の中、リーノは熱狂する観客席の片隅に、腕を組んで、こちらを嬉しそうに睨みつけるゴンズの姿を見つけた。
「嬉しいのか? 苦々しいのか? どっちだよ?」
リーノはフッと笑い、ゴンズに向けて真っ直ぐに右の拳を突き出した。そして、人差し指で指す。
次はおまえだ、ゴンズ!
歓声があがる。リーノコールとゴンズコール。
無言の、だが格闘家としての最高の宣戦布告。ゴンズもまた、獰猛に歯を剥き出しにして笑い返し、自身の拳を突き出してきた。
ゴンズも次の試合に勝てば、190階クラスへと上がってくる。二人の約束の対決は、もう完全に目の前まで迫っていた。
そして、リーノは知っていた。この190階クラスの戦いがリーノにとって、最後になるだろうことを。
リーノが最後の戦いに選んだのはゴンズだった。
◆ ◆
超満員の熱気で揺れる190階クラスの特設会場へと続く回廊を歩きながら、リーノは手元にある1枚のプラチナチケットの半券を見つめていた。
そこに印刷された対戦カードの文字。
『キン肉ダルマ・ゴンズ VS 神脚の天才格闘家・リールベルト』
「……ゴンズのやつ、気に入ってたのかよ。キン肉ダルマを……勝手に使いやがって」
思わず、苦笑混じりの毒づきが口から漏れた。
天空闘技場のデビュー戦の控室で、俺がゴンズを呼んだ「キン肉ダルマ」という蔑称。まさかそれを、本人が天空闘技場での公式の二つ名(リングネーム)として誇らしげに掲げているなんて思いもしなかった。
馬鹿にしていたはずの俺の言葉を大切にされている気恥ずかしさと、ライバルとしての奇妙な愛着。リーノの胸の奥で、嬉しさと気恥ずかしさが混ざり合った、もやもやとした温かい感情がじわりと広がっていく。
「リーノ君、なんだか嬉しそうですわね」
不意に、すぐ隣を歩くパームが、長い黒髪の隙間から覗く涼やかな瞳でリーノの顔をじっと覗き込んできた。成り行きで、パームにプレゼントすることになったバッテラお抱えの最高級ブランドの服に身を包んだ彼女は、すれ違う観客たちが思わず振り返るほどの美女だが、その視線にはどこか品定めするような鋭さがある。
「べ、べつに、何もうれしくねェよ。……それより、相手選手はリールベルト? 誰だ、そいつ」
リーノは慌ててそっぽを向き、チケットに書かれたもう一つの名前に視線を落とした。
神脚のリールベルト。
前世の記憶を持つ転生者として、ハンター世界の知識はあるはずだった。どこかで聞いたことがあるような、ないような……そんな奇妙な引っかかりを覚える名前だ。しかし、奇妙なことに、いくら記憶の引き出しを探っても、決定的なイメージが湧いてこない。
「足技が大変得意な選手ですわ……強いですよ、彼は」
パームは、お茶を淹れる時と同じような静かで落ち着いたトーンで、淡々と告げた。ウイングと共に護衛を任されるほどの使い手である彼女が「強い」と評するのだ。並の格闘家ではないことは確かだった。
足技の、天才……?
リーノは眉をひそめる。
原作の天空闘技場編に出てくる強敵といえば、ヒソカは別格として、200階クラスの「新人狩り三人衆」が有名だ。
いや、違うな。あいつらは格闘家って器じゃない。姑息な念のギミックに頼ったイカサマ師たちだ。
目の前のチケットに踊る『神脚の天才格闘家』という、武の香りが漂う誇り高き二つ名とはかけ離れている。
「ふん、どんな天才だろうが、今のゴンズの野生のパワーなら押し潰せるさ。……行こう、パームさん。あいつの晴れ舞台を特等席で見てやろう」
「ええ、お供いたしますわ、リーノ君」
パームを伴い、リーノはプラチナ席へと足を踏み入れる。
地鳴りのような歓声が響き渡るリングの向こうで、獰猛な笑みを浮かべて入場してくるゴンズの姿が見えた。
「来たな」
――そして同時に、対角線のコーナーから、誰もが憧れるような美しい二本の脚を持った天才リールベルトが静かにリングへと上がってきた。
「あの逆立った髪……思い出した! リールベルトって、あのリールベルトか? 気づかなかったわけだ」
原作とは似ても似つかないその姿。
リールベルトは『二本足』で、リングに上がった。
歓声が上がる。