全身包帯だらけで、痛々しい姿でベッドで寝ているゴンズ。
その病室を訪れた俺は、白目を剥きそうになるほどの悔しさを喉の奥へ無理やり飲み込み、相棒の目を真っ直ぐに見据えた。
「必ず、アイツは俺が倒す」
「ハッ……当たり前だ。俺の仇を討て、リーノ」
二人の間で交わされた、男の約束。
格闘家としてのプライドを捨ててまで俺の未来を守ってくれたゴンズのためにも、リールベルトには絶対に勝たなければならない。
◆ ◆
だが、その決戦を前にしたウイングさんとの組み手で、俺は師から冷徹な現実を突きつけられることになる。
「キミの感謝の正拳突きは、リールベルトには通じないでしょう」
ウイングさんは、いつもと変わらない温厚な、しかしだからこそ酷く冷たい響きをはらんだ声で、あっさりとそう告げた。
絶望的な宣告をされた俺の頭は真っ白になる。だが、ウイングさんは俺の動揺を気にする風でもなく、淡々と道着の紐を結び直した。
「では、今日も感謝の正拳突きをしましょうか」
「……ちょっと待って! どういうことですか?」
ウイングさんはおかしくなってしまったのか!?
「俺の感謝の正拳突きが通じない!? ……なのに、なんで今からまたその練習をするんですか!?」
思わず大声を張り上げていた。
アドバイスを求めようとした俺に対し、具体的な対策を教えるどころか、通じないと分かっている技を繰り返せという。そんな俺の混乱を、ウイングさんは眼鏡の奥の静かな瞳で受け止める。
「感謝の正拳突きは心源流の基本であると同時に、奥義です。練習するのは当然でしょう?」
「それはそうですけど……」
言ってることと、やろうとしていることが、ちぐはぐだ。論理的じゃない。
「――キミの『感謝の正拳突き』は、あまりに美しすぎます。寸分の狂いもなく、完璧な軌道で、全く同じ動きを何度も繰り返すことができる。これは才能です。圧倒的な」
小学校の体育で、フォームが綺麗だって、いつも言われていたな。
懐かしい。
「ですがリーノくん、それは戦闘IQの高いリールベルトのような天才にとっては、最もカウンターを合わせやすい絶好の標的(まと)なんですよ」
心臓が跳ね上がった。
現在の俺には、あの精密な正拳突き以外の攻撃パターンが存在しない。
ウイングさんが事前に『蹴り技』の型を仕込もうとしていたのは、まさにこの致命的な弱点を補うためだったのだ。だが、それを実戦で使えるレベルにまで昇華するには、圧倒的に時間が足りていなかった。
俺は己の明確な弱点をむき出しにしたまま、決戦のリングへと向かうしかないのだ。せめて何か、今からでも使える奇策を教えてくれないか。そう言おうとして、ウイングさんの顔を見て言葉を失った。
あぁ……、この人は、俺がこの試合で負けても構わないと思っているんだ。
ウイングさんの瞳には、俺を助けようという甘さは一切なかった。
天空闘技場の試合はポイント制やKO制であり、洗礼前のリールベルトが相手なら、負けたとしても命まで取られる確率は極めて低い。
ウイングさんはその安全牌を全て見切った上で、俺をあえて崖から突き落としているのだ。
手札が足りないどん底の状況で、自分自身の頭(戦闘考察力)を使い、リアルタイムで問題を解決する。これから先、もっと理不尽で命がけの局面に何度も遭遇することを見据えた、プロハンターとしての冷徹な教育方針。俺の敗北や、それに伴う挫折の痛みなど、成長のための安い必要経費に過ぎないのだ。
「実戦において、自分の手札だけでは勝てないという状況はよくあることです。でも、だからと言って、あきらめるわけにはいきませんよね? キミはリールベルトとの試合の中で、強くならなければならない」
ウイングさんは俺の手を引くことを明確に拒絶し、冷たく突き放すように微笑んだ。
「リールベルト戦は、そういう戦いです」
頼れるチート能力『伊右衛門』はもうない。誰も助けてくれない。自分で考えて、ここで化けるしかないんだ。
俺は腹の底から湧き上がる元ニートの執念を燃え上がらせ、決戦の190階ステージへと向かった。
◆ ◆
190階クラス、勝った方が200階クラスへと昇格する、運命の直接対決のゴングが鳴り響いた。
車椅子のゴンズ、そしてウイングさんやパームが見守る中、KOされるまでのデスマッチが幕を開ける。
リールベルトは狂暴なだけの男ではない。武道家でもある彼は、ウイングさんの危惧通り、俺の正拳突きの『型』を、その寸分の狂いもない精密な軌道を入場直後の数秒で見切ってみせた。
俺が踏み込み、空気を切り裂いて正拳を放った刹那――視界の端で、リールベルトの身体が不気味に沈んだ。
しまっ――!
完全に、読まれている。
「なんだ、その綺麗なだけの突きは。軌道が分かりやすすぎるぜ」
シュッ、と衣服の擦れる音が響いた瞬間、俺の視界が上下にブレた。ガツン、と顎に強烈な衝撃が走り、脳が激しく揺れる。
俺はまだ「受け(ディフェンス)」のやり方を学んでいなかった。リールベルトの圧倒的なスピードから繰り出される連続蹴りに、全く反応ができない。
必殺の正拳突きを放とうとしたまさにその瞬間に、顎へとピンポイントでカウンターの蹴りを合わされ、俺は激しくリングの石板へと叩きつけられた。
「がはっ……、ぶふっ……!」
激しい衝撃とともに血の霧が舞う。なおも立ち上がろうとする俺に容赦なく、リールベルトの重いローキックとミドルキックが、バキバキと音を立てて脇腹に突き刺さる。ミシッ、と肋骨が悲鳴を上げた。
クソッ……、勝てるイメージが、湧かねぇ……!
普通に拳を突き出せば、確実にあの美しいカウンター蹴りで殺される。
打つ手なしのどん底。視界が己の血で赤く染まり、意識が遠のきかける中、観客席の最前列から、喉が砂鉄で擦れるかのような、張り裂けんばかりの絶叫が響いた。
「立てぇぇぇーーー、リーノ!!! おまえ、俺をその拳で倒すんじゃなかったのかよ!!! こんなところで、こんな奴にヘばってんじゃねぇえええ!!!」
車椅子から身を乗り出し、顔の血管を破裂させんばかりに絶叫するゴンズの姿が、ボヤける視界の向こうに、確かに見えた。
「……ハッ。そう、だったな」
俺は血にまみれた顔を上げ、ガタガタと笑うように震える足に無理やり力を込めて立ち上がった。勝てるイメージはない。だが、諦めるという選択肢だけは、最初から持ち合わせていないんだ。
立ち上がった俺の瞳は、自分でも驚くほどに冷徹に冴え渡っていた。叩きのめされ、ダウンしている間、そして立ち上がってからも、俺はただひたすらにリールベルトを「観察」し、その動きを「分析」し続けていた。
リールベルトの間合いは、ここだ。
何度も蹴られ、血を吐きながら、俺は身体に刻まれた鋭い痛みから、リールベルトの正確な『攻撃射程』をミリ単位で測り、逆算していた。
奇しくも、目の前の天才と俺の体格はほぼ同じ。
ということは、リールベルトの蹴りの間合いは、そのまま俺の蹴りの間合いでもある。そして――そこは、俺の唯一の武器である『感謝の正拳突き』が、絶対に届かない距離だった。
リールベルトが傲慢に口元を歪める。
「おやおや、まだやるかい? 次の一撃で終わりだぜ?」
天才が、トントンと軽快なステップを踏みながら、自身の必殺の間合いへと小刻みに踏み込んでくる。
リールベルトの脳内にある計算は、完全にこうだ。『こいつの攻撃パターンは、あの精密な正拳突きだけ。この間合いなら拳は届かない。こいつが無理に踏み込んできた瞬間に、カウンターの蹴りを叩き込んで終わりだ』と考えているはずだ。
それこそが、俺の狙いだった。拳は届かない。相手も、それを分かっている。だからこそ、相手は今、最大の油断をしている。
一瞬だけ……! 俺のほうが、早く放てる……!
リールベルトの右脚が、カウンターではなく『自発的な攻撃』のために始動し、わずかにつま先が浮いた。筋肉の収縮。格闘の天才が見せた、唯一の隙。
その刹那、俺は拳を構えたまま――右の軸足を、爆発的な力で踏み込んだ。放つのは、手ではない。
「――っ!?」
リールベルトの目が、驚愕に激しく見開かれた。ずっと拳の『型』だけを繰り返していたはずの怪物が、その身を深く沈め、人間の肉体で最も大きな筋肉が集まる『脚』を、猛烈な速度で、斜め下から振り抜いてきたのだから。
ウイングさんとの地獄の特訓で、その片鱗だけを掴み、一度も実戦で成功させたことのない、未完成の必殺技。
蹴り技のスペシャリストを、その専門領域である『蹴り技』で仕留める。
俺のむき出しの身体能力が生み出した、荒削りながらも、予測を完全に裏切る爆発的な一撃――!
ドゴォォォォォォンッ!!!!!
リング上に、これまでで最も重い破壊音が炸裂した。俺の繰り出した『感謝の一蹴』が、ガードすら間に合わなかったリールベルトの顔面を、真横から完璧にブチ抜いたのだ。
「ぶ、はっ……あがっ……!?」
しかし、不完全な技。それがギリギリで、リールベルトを完全にKOするまでには至らなかった。
リールベルトは並外れたフィジカルの耐久力で、かろうじて意識を繋ぎ止めていたのだ。だが、その顔から余裕は完全に消え失せていた。
俺はすかさず、追撃の感謝の正拳突きをリールベルトに放つ。
リールベルトは顔面を血に染めながらも、本能的な執念でそれにカウンターを合わせにくる。俺の感謝の正拳突きが美しいように、リールベルトのカウンターもまた、狂おしいほどに美しかった。だが、今の俺はすでにその軌道すらハッキングしている。
俺はリールベルトのカウンターに、さらに逆カウンターを合わせた。感謝の正拳突きがギリギリで、リールベルトの頬をかすめて、リールベルトのカウンターも、ギリギリで、俺の髪をかすめる。
そのまま、俺は流れるように身体を独楽(こま)のように回転させ、遠心力を乗せた『感謝の一蹴』の逆カウンターをリールベルトの腹部に叩き食らわせた。
「がはっぁ!?」
天才の美しい身体が、木の葉のように激しく回転しながら吹き飛び、リングの石板をごろごろと何度もバウンドして、転がる。
俺は転がるリールベルトを瞬時に追いかける。上から、リールベルトに向けて感謝の正拳突きで狙いを定めた。しかし、空中に浮いた姿勢からの突きでは、ウイングさんの言っていた「大地を踏みしめる力」が乗らない。
反力のない生ぬるい攻撃は、あの化け物じみた肉体耐久力を持つリールベルトには通じない。
その瞬間の隙を見逃さず、体勢を立て直すんじゃなく、リールベルトはらしくなく、床を獰猛に蹴って、跳ね起き、カウンターの姿勢をとった。
俺が空中。リールベルトが石板からの反力を取れるポジション。
リールベルトの目が「勝った」と語り、勝利の笑みを浮かべる。
ほんのわずか。
苛立ちと焦りを含んだ綻び。
このときを待ってたよ!
カウンターを狙って、無理な姿勢で蹴りの構えを取ろうとしたリールベルトの道着を、俺は両手で掴み取った。
リールベルトの目が見開かれた。予備動作のある攻撃ではなく、ただ掴むという地味な最速の行為。リールベルトにとって、これ以上ない想定外な行動だろう。
俺は、そんでもって、カラダを反転させて、自らの背筋の力を爆発させ、彼を空中へと高くぶん投げた。
高らかと放り投げられたリールベルト。
「空中に飛ばされたおまえに、次の攻撃を避ける術はない」
俺は心源流奥義の構えを取る。
「石板に落ちた瞬間、おまえは着地の姿勢をとらざるを得ないのだから。その自慢の神脚で」
俺はしっかりと両足でリングの石板を踏みしめた。大地の力を体幹へ、そして拳へと100%伝える、心源流の真髄。
上空で足場を完全に失い、ネテロ会長の百式観音を彷彿とさせる、精密すぎる絶望の壁(拳)を見下ろしたリールベルトは、格闘家としてのプライドを完全にへし折られ、涙と鼻水に顔を歪めて悲鳴を上げた。
「リィーーーーーノォーーーーーーッ!!」
リールベルトは怒りに任せて叫んだ。
俺は落ちてくるリールベルトの着地の瞬間の無防備な身体に、逃げ場のない、完璧な軌道の感謝の正拳突きを合わせる。
リールベルトが着地した瞬間。
大地の力を限界まで宿した拳がリールベルトの胸板に炸裂し、彼は壁まで吹き飛ばされて、完全に失神した。
会場に静寂がおとずれる。
転生者の物語としては取るに足らない物語だろう。
たかが、新人潰しのリールベルト戦。
たかが、天空闘技場190階での1勝。
たかが、一試合。
でも、俺にとっては、
ゴンズ!!
「しゃああああああああああああああああああっ!」
車椅子のゴンズが「っしゃあぁぁぁーーー!」と拳を突き上げて咆哮した。
『勝者! 海王殺しリィーーーーノ!! 200階へ!!』
レフェリーはリーノの勝利を宣言した。
◆ ◆
レフェリーの叫び声。
レフェリーに静寂が破られて、天空闘技場を揺るがすほどの凄まじい「リーノコール」が沸き起こった。
「リーノくんの正拳突きの圧倒的なスピードとパワー。この試合中、それを何度もみせられていたことで、リールベルトの精神は少しずつ削り取られていました。そこに来てのリーノくんの完全に予想外のコンビネーション攻撃。それがリールベルトの技に、わずかな綻びを生じさせた」
ウイングはリールベルトの心理を解説する。
「リーノ君はあんな技をいつ修得したんでしょう?」とパーム。
「わかりません。おそらくアドリブ。リーノくんは戦闘の中で、リアルタイムに進化していくタイプ。底知れない進化のスピードです。これで準備は整いました」
「準備!?」
「水見式の準備です」
車椅子のゴンズが隣で喜びを爆発させていた。