新星の原石が新星になった瞬間の輝きに、熱狂する会場。
その中心で、俺は自身の赤く腫れ上がった脚を見つめながら、冷静に、これから起きるであろう未来の悲劇を悟っていた。
チート能力を失ったからこそ、手に入れた冷徹な戦闘IQ。
念能力を失ったからこそ、200階では通用しないという冷酷な現実。
俺の視線の先には、プロハンターとしての圧倒的な格の違いを持つウイングさんが、静かに眼鏡を押し上げて微笑んでくれていた。
ウイングさんが拍手をして、俺を迎えてくれた。パームもウイングさんの横から出てきて、パチパチと二回、手を叩いた。
「素晴らしい試合でした。及第点です」
ウイングさんは俺の頭を撫でた。
「なんの及第点だよ」
ここが、これが俺の限界だ。俺は吐き捨てるように言っていた。
「リーーーーノーーーーーォ!」
ゴンズが車椅子を転がして、凄い勢いでやってきた。
「やっぱり、おまえはすげぇヤツだよ」
ゴンズが俺の頭をワシャワシャとかき混ぜるように撫でる。
「これでリーノは200階クラスか」
「いや、俺は200階クラスには行かないよ」
「なんでだよ!!」
ゴンズが激怒するように、睨みつけてくる。
「リーノくん。気球に乗りませんか?」
ウイングさんのその突拍子もない提案に、俺の思考は完全に停止した。
さっきまで190階クラスのリングの上で、満身創痍になりながらリールベルトを叩き伏せ、歓声の中心にいたはずだった。
赤く腫れ上がった自分の脚を見つめながら、チート能力〈伊右衛門〉も念も失った自分が200階クラスに行けば待っているのは死だけだと、静かに絶望していた、まさにその瞬間だった。
「えっ!? なんで、今、気球!?」
隣で車椅子を転がすゴンズも「おっ、観光か? 今さら?」と首をひねっている。
けれど、ウイングさんの目は笑っていなかった。温厚な師の仮面の裏にある、プロハンターとしての冷徹な光が、眼鏡の奥で不気味にギラリと光ったような気がした。
冨樫の遺伝子なのか、『HUNTER×HUNTER』の世界の住人は時々、こういう突拍子もないことを急に言い出す。
あとから思い返すと、なるほど、そういうことか、となるんだけどね。
それはあのヒソカもきっと同じだろう。ヒソカもまた冨樫の遺伝子を持っている。
この『HUNTER×HUNTER』の世界を自分のカラダで、実際に体験した今だからこそわかる。
ヒソカと戦うことが怖い。
絶対に勝てる戦略と戦術を準備しても、まるで勝てる気がしない。
黄瀬光太だった頃の俺には理解できない感情だろう。
念能力を失った俺がヒソカと戦うことなんて、もうありえない話だが。
ここからの人生はすべて余生だ。消化試合。
「またごちゃごちゃ考えてますね。頭を冷やしに行きましょう。素晴らしい試合の後ですからね」
ウイングさんは俺の頭の中を読んだかのように言った。有無を言わせぬ空気だった。
気づけば俺は、ウイングさんと、いつの間にか横に寄り添っていたパームに挟まれるようにして、天空闘技場のまわりを浮遊する観光用気球のゴンドラへと促されていた。
◆ ◆
夜間飛行。
ライトアップされたカラフルな気球が、いくつも夜空に浮かんでいる。
この天空闘技場の街に初めてやってきたとき、俺が一番最初に感動し、いつか乗ってみたいと憧れていた夢の風景。
地上数百メートルから見下ろす街並みは幻想的で、息をのむほど美しかった。
――だが、その感動は、すぐに冷や汗へと変わった。
ゴンドラを揺らす風の音しか聞こえない。下を見下ろせば、人間がゴミのように見える圧倒的な高度。
ここからは、物理的に絶対に逃げられない、完璧な極限の密室だ。
「……ウイングさん。なんで、俺をここに?」
震える声で尋ねる俺の前で、ウイングさんは静かに微笑みを消した。
その顔から一切の感情が抜け落ち、まるで精密に作られたロボットのような冷たさが溢れ出す。
ウイングさんは懐から、水筒と一つのグラスと、一枚の葉っぱを取り出した。グラスに水を注いでく。
「さあ、リーノくん。ここなら、逃げられませんね。……水見式をやりましょう」
心臓がドクン、と跳ね上がった。全身の血が引いていく。
騙された。
ウイングさんは、俺が逃げ出さないように、この絶対に逃亡不可能な上空の密室へハメるために、気球なんて突拍子もないことを言い出したんだ。
これだから、冨樫の遺伝子を持つやつらは、、、。
「嫌だ……! やめてくれ! やっても意味ないんだ!」
俺は激しく首を振った。
陰獣の十鬼のアカザルに念能力を盗まれて以来、俺の心には深いトラウマが刻まれている。
オーラを意識しようとするだけで、あの奪われた瞬間の恐怖が脳裏をよぎる。
それに、今の俺は強制的な「絶」の状態のはずだ。発なんてできるわけがない。
「前に、自分でやった水見式は、黄金に輝いて水が量子化したんだ……! 特質系の反応だった! でも、今の俺にはもう何もない! 何もないんだ!!」
叫ぶ俺を、ウイングさんはただ冷たく見つめている。
その時、沈黙を守っていたパームが、氷のように冷たい口を開いた。
「リーノ君。貴方、大きな勘違いをしているわ」
「……え?」
「貴方は今、絶の状態なんかじゃないわ。……目で視れば、一目瞭然よ」
パームの言葉に、俺は自分の身体を見下ろした。
何も感じない。
だが、プロの念能力者である二人の目には、はっきりと視えているのだ。
今の俺の体表からは、念を知らない一般人と全く同じように、微量のオーラがごく自然に、サラサラと漏れ出しているという事実が。
「オーラが出ている以上、何かしらの反応はあるはずです」
ウイングさんがグラスを差し出してくる。
俺にオーラがある!? 念能力が戻ってる!?
パームもまた、俺からどんな系統の反応が出るのかを、鋭い眼光で注視している。
逃げ道はない。
俺はガチガチと歯を鳴らしながら、トラウマに抗い、決死の覚悟でグラスの横に両手をかざした。
体表から漏れる微量のオーラを、必死にグラスへと込める。
頼む……光ってくれ! あの黄金の輝きを……
もう何でもいい、何か起きてくれ……!
しかし――。
水は一滴も増えなかった。
水の色も変わらない。
葉っぱもピクリとも動かない。不純物も現れない。
ただ、水面がごくわずかに、不自然に波打っているだけだった。
「何も起きない……。まさか、味が変わる変化系か……?」
かすかな希望にすがるように、俺はグラスの水を指ですくい、口に含んだ。
――ただの、水だった。
何の味もしない。ただの水。変化系ですらない。
かつて黄金に輝いたあの特質系の面影なんて、微塵も残っていなかった。
「ほら……やっぱり、何も起きないじゃないか……!」
俺はがっくりと肩を落とした。涙が溢れそうだった。
俺にはもう、念能力なんて残っていない。
200階クラスに行けば、なす術もなく殺されるだけだ。その残酷な現実を突きつけられ、完全に絶望した。
その、次の瞬間だった。
「――クク、クククク……アハァ……」
静寂を破ったのは、低く不気味な笑い声だった。
見上げると、ウイングさんが肩を震わせて笑っていた。
いつも冷静で温厚なあのウイングさんが、他人の絶望を前にして、狂喜するように不敵な笑みを浮かべている。
「ウ、ウイングさん……?」
その異常さに、俺は恐怖で身をすくませた。
横にいるパームを見れば、彼女もまた、一切の変化がないグラスと、ウイングさんの異様な笑い声を交互に見つめ、強烈な違和感に目を見開いていた。
「何かがおかしいわ」
パームの顔が、戦慄に染まっていく。
ウイングさんはゆっくりと眼鏡を押し上げた。その瞳からは完全に感情が消え失せ、底知れない狂気だけが宿っていた。
「リーノくん。水見式の『強化系の反応は、水の量が変化する』です。……ですが、これは正確には間違いです」
「え……?」
「これは理論上はありえても、現実的にはあり得ないから、先人たちが便宜上そう表現しただけに過ぎません」
ウイングさんは何を言っているんだ!?
「そうか。水の量が増える、が正解か」
「ちがいます」
「増えるが不正解? えっ!? ……減る? まさか、減るのも強化系の反応なのか?」
ネット上でも、強化系の反応は水の量が増えると書かれることがある。原作では確か、水の量が変化するだったけれど。
「そうです。水の量が変化する。つまり、減るのも強化系の反応なんです。そこでひとつの理論上の仮説が生まれます」
「そんな……まさか……そんなことが……」
「水の量が増えて、同時に同じ量の水が減る。これも強化系の反応のひとつです」
ウイングさんのセリフが、俺の脳内に電撃となって突き刺さる。
増えて、同時に、減る――?
その言葉を理解した瞬間、俺の脳が凄まじい速度で逆算を始めた。
普通の人間には、何も起きていない無変化に見えるこのグラス。
だが違う。
ウイングさんの目には視えているのだ。グラスの中で、爆発的な「水の増加(強化)」と、それを一瞬で相殺するレベルの「水の減少(弱体化・収縮)」が、同時に発生し続け、完全にパワーが拮抗しているという、狂気的な【静の極み】が。
「自分を強化し、同時に、環境を弱体化させる……。強化だけでも、弱体化するだけでも至難の業だというのに、それを同時に行うなんて……右をみながら、同時に、左をみるような行為。リーノくん、キミはそれを自然に行っている」
ウイングさんの震える声を聞きながら、俺はすべてを悟った。
「具現化系や操作系能力者が後天的に特質系になることがあります。しかし、後天的に、特質系が強化系になった事例は前例がありません。しかも、今、キミは念能力を盗まれている状態」
これがゴーストの真実。
「2枚の六性図。双竜図」
ウイングさんが呟く。
そうか……そういうことだったのか!
世界の管理者〈ステイシア〉は、元の日本人「黄瀬光太」の六性図〈本物の肉体・強化系〉を完全に消去していなかった。ただその上から、チート枠である「リーノ〈特質系・伊右衛門〉」の六性図を雑に上乗せしていたんだ。
そして今、外側の殻〈伊右衛門〉が剥ぎ取られたことで、内側に眠っていた俺の本物の肉体が、浮かび上がるように目覚めたんだ!
誰かから与えられたチート〈ギフテッド〉じゃない。
前世の「黄瀬光太」という自分が、今の俺を支えてくれている。
ずっと探していた力は、最初から俺自身の中にあったんだ。
「あ、あぁ……!!」
熱い感情が胸から突き上げ、俺は声を上げて号泣した。
失ってなんかいなかった。
俺は、俺自身の力で、また戦える。
ボロボロと溢れ出た大粒の右目の涙が、ぽつりと、水見式のグラスの中に落ちた。
その瞬間、完璧だった強化と弱体化の均衡が崩れた。
ボコボコと沸騰するように、グラスの水が湧き上がってくる。弱体化が解けたわけじゃない。この沸騰はあくまでも俺のプラスとマイナスの差分。
リーノがグラスから手を離す。
その刹那、グラスの中に渦巻いていた爆発的なオーラの負荷に、物質としてのガラスが耐えられるはずもなかった。
――パキィィィンッ!!!
鼓膜を突き刺すような轟音と共に、グラスが粉々に粉砕され、夜のゴンドラに飛び散った。
プラスとマイナスの発を意識したとき、相殺され続けていたオーラが解放された。右にプラス。左にマイナス。
強烈なオーラの波動が気球を揺らす。俺の身体の奥底から、かつてないほど濃密で、凶暴なエネルギーが噴き出してくるのが分かった。
「なんだ、これ!?」
「オーラの力とは霊位差で決まります。プラスとマイナスを足した霊位差がリーノくんのオーラの力です」
ウイングさんが狂喜の笑みを浮かべている。
脳内に刻まれた前世の知識と、目覚めた肉体が、完璧に同期〈ハッキング〉していく。
「つまり、リーノ君は強化系に関して、常時200%の力を引き出せることになります。ノーリスクで」
◆ ◆
シャワーを浴びて、リビングに戻って来た男は髪を拭きながら、ハダカで、カーテンを開け放った。
夜空にはライトアップされた気球が浮かんでいる。
男はその中の気球のひとつを、じっと、眺めた。
「♥」
◆ ◆
「――『纏』」
漏れ出すオーラが、一瞬で強固な鎧となって、リーノくんの身体を包む。
「『練』! 『凝』! 『周』! 『円』!」
ウイングに教わってもいない念の高等技術が、言葉を紡ぐたびに、淀みなく、完璧な精度で次々と繰り出されていく。
パームは尻餅をついている。
リーノくんの周囲数百メートルに展開された『円』が、気球の上の空気をピリピリと支配した。
念能力の天才という枠すらも超越した圧倒的な怪物の覚醒。
その光景を目の当たりにしたウイングさんの顔からは、ボタボタと冷や汗が流れ落ちていた。
温厚な師としての顔は完全に消え去り、ハンターとしての本能が、目の前の「世界のバグ〈ゴースト〉」に対して恐怖で激しく震えていた。
……師範。私は、とんでもない怪物を目覚めさせてしまったのかもしれません……
ウイングの心の中の戦慄を乗せたまま、気球は幻想的な夜空の闇へと、静かに溶けていった。