「――心源流は『修行によって念を極める』と教えています。……ですがリーノくん、それは表向きの綺麗な建前でしかありません」
地上数百メートル。風の音しか聞こえない気球のゴンドラで、ウイングさんは感情の死んだロボットのような冷たい声で、念の真の本質を語っていた。
「念の真の本質とは、死線の試練、あるいは強大な敵の撃破によって爆発的にレベルアップするものなのです。リーノくんもそうだったでしょう?」
俺は前世のネット知識から、思わずその先を口にしていた。
「……それじゃあ、『制約と誓約』を使えば、もっと早く、爆発的な力を……」
その瞬間、ウイングさんの瞳の奥に凄絶な威圧感が宿った。
「どこでそんなことを学んだんですか? リーノくん。制約と誓約にだけは、絶対に手を出してはいけません。
あれは『持たざる弱き者』が、自らの命や未来を前借りして無理やり引き出す歪な力。
決して『王者の極め方』ではないのです。
……君は、正当な試練を乗り越えて念を覚醒させた。
君には、その歪な力に頼る必要のない『王者になるべき資質』が眠っているのですよ」
その熱い講釈は、確かに俺の魂を震わせた。
チートを失った絶望の試練を乗り越えたからこそ、世界が俺の強化系に反応したのだと理解できた。
――理解できたのだが。
「……ウイングさん」
「何ですか?」
「ウイングさんが熱弁を振るってくれたせいで、今、23時55分です」
「えっ!?」
ウイングさんが懐中時計を見て、漫画みたいに青ざめた。
「リ、リーノくん、ごめんなさい。登録時間の期限まで考えてませんでした」
登録受付終了の24時まで、あとたったの5分。
だが、ここは地上数百メートルの上空だ。
気球を下ろすだけでも時間がかかる。
そこから天空闘技場に入り、受付のある200階まで上がる。
普通に考えれば、どう見積もっても5分では済まない。
十分どころか、一時間かかってもおかしくない距離だった。
絶望的なタイムリミット。
ウイングさんにとっても、俺にとっても、200階の登録なんてどうでもいいはずだった。
だが、念が使えるようになった今なら、話は別だ。
フック船長との約束もある。
大富豪バッテラとの契約もある。
ここでリタイアなんて、絶対にあり得ない。
俺は即座に携帯を取り出し、190階までに築いた人脈を使って、知り合いの闘技場スタッフへ直電した。
「エルマ!? 俺だ、リーノだ! 今から200階の非常扉を、大至急開けておいてくれ!!」
携帯の向こうで、エルマが何かを言っていたが、そんなことに取られている時間はない。携帯をポケットに放り込み、俺はカラフルにライトアップされた気球の手すりに足をかけた。
「ちょっと、リーノくん!?」
「リーノ君!?」
ウイングさんとパームの驚愕の声を背中に浴びながら、俺は不敵に笑う。
「急いで、登録してきます」
気球を下ろして、闘技場に入って、エレベーターで200階まで上がる。
そんな正攻法で間に合うわけがない。
だから、最初から降りる気なんてない。
地上300メートルの極限の密室から、俺は夜空へと飛び降りた。
「リーノくぅーーーんッッッッ!!」
ゴオォォォッ!!! と鼓膜を震わせる夜風が全身を叩く。
凄まじい速度で遠ざかる気球。
眼下から迫ってくる大地。
落ちれば終わりだ。
だが、この無茶そのものが、今の俺に必要な試練だった。
――これだ。この感覚だ。
脳裏に、天空闘技場への旅の始まりが蘇る。
あのどこまでも続く大洋を、自力で泳ぎ渡った時の、全身が砕けそうな感覚。
与えられたチートじゃない。
俺自身の肉体の地力だ。
脳内の戦闘IQが、覚醒したばかりのオーラを逆算する。
放出系のオーラで身体を包み込み、そのベクトルを操る。
体外へ放つんじゃない。
身体に纏ったまま、引力に逆らう向きを与える。
――放出系プログラムへのハッキング。
フワッ、と身体の落下速度が相殺された。
空中で身体がぶれ、次の瞬間、俺は落下ではなく飛行へと姿勢を切り替える。
「よし。舞空術完成だ。このまま天空闘技場200階へ行く」
落下から一転、俺はライトアップされた天空闘技場の200階非常扉へ向かって一直線に飛んだ。
◆ ◆
その頃、天空闘技場200階の登録窓口では、受付スタッフたちが時計を気にしながら落ち着かない様子でいた。
時刻は23時58分。
「……本当にリーノ選手は来ないのかしら」
「190階であれだけの大逆転KOを見せたんだ。今や一番の注目株なのに……登録拒否なんて信じられないな」
「リーノ君、全然電話に出てくれません」と泣きそうなエルマ。しかし、まわりのスタッフは何か余裕そうだ。
リーノは200階での実績はまだゼロ。
だが、チート能力『伊右衛門』を失いながらも、天空闘技場外周での修行やゴンズとの関係、天空闘技場で無様に敗北しながらも這い上がってきたリーノの名は、すでに闘技場全体に知れ渡っていた。
ひたむきに、修行していた姿をみんなが知っている。
みんながリーノを知っている。お調子者で、バカで、でも、どこか憎めない。そんな男の子だった。
スタッフたちは、彼がこのまま姿を現さずリタイア扱いになることを、自分のことのように惜しんでいた。
「大丈夫。彼はこれまでも何度も立ち上がってきた。それに何よりゴンズ選手が200階での彼の活躍を望んでいる。それを裏切るなんてことは彼は絶対にしない」
広報担当が言った。
「じゃないと、私が困る」
ガッ、と大きな音を立てて、廊下の突き当たりにある『非常扉』が強引に内側から押し開けられた。
時刻は、23時59分ジャスト。
「間に合っ……た……!」
夜風を全身にまとったリーノが、息を切らせながら長い廊下へと滑り込んでくる。
スタッフたちが「あッ!」「リーノ君!」「リーノ選手!?」と歓声を上げる中、リーノは窓口へと全力でダッシュしてきた。
◆ ◆
非常扉の前で肩を上下させている俺に、受付スタッフのエルマが呆れたように、それでいて少し笑いをこらえるような顔で言った。
「……リーノ君。こんな無茶しなくても、電話一本くれればよかったのに」
「……え?」
一瞬、意味がわからなかった。
俺は荒い息のまま、エルマの顔を見る。
スタッフたちは窓口の奥で肩をすくめた。
「事情さえわかれば、登録の段取りくらいこっちで調整できたのよ。リーノ
君は、リーノ選手はもう190階どころか、天空闘技場のどこでも顔が利くんだから」
その言葉が胸に刺さった。
――しまった。
気球から飛び降りることしか頭になかった。
受付に間に合わせることばかり考えて、もっと簡単で、もっと安全な方法があるかもしれないなんて、そこまで頭が回っていなかった。
夜風で冷えたはずなのに、別の意味で顔が熱くなる。
「……いや、その、思いつかなくて」
俺が目をそらしながらそう答えると、スタッフはとうとう吹き出した。
「まあ、リーノ選手らしいですけどね」
「おいっ!! 俺のイメージ、どんなんだよ!」
その一言に、周囲のスタッフたちまでつられたように笑う。
命がけで滑り込んだはずなのに、最後に待っていたのは拍子抜けするほど人間くさい一言だった。
俺は額を押さえ、小さく天井を仰いだ。
「マジかよ……」
思えば、天空闘技場に来て、もうかなりの時間が経っていた。天空闘技場のスタッフのほとんどは顔見知りだ。名前までほとんど知っている。
最初は陰口を叩かれて「顔と名前を覚えたからな」なんて言っていたっけ。懐かしい。そんな言い合いした人たちに、俺は今、助けられている。
「あとは試合予定日だけです。いつにします?」
「いつでもいいよ」
そういえば200階以上はゲストルーム以外は初めてだな。
長い廊下の壁に貼られた一枚の巨大な興行ポスターが、俺の視界に飛び込んできた。
奇術師ヒソカ。カストロ。
「まぁ、いるよな」
気配
一本道の廊下の真ん中に、腕を組んで静かに佇む一人の闘士が立ちはだかっていた。
俺より3つくらい上の年齢か?
左目に眼帯。右手には包帯。
「アシュラ選手です。リーノ君を待っていてくれたんですよ」
名前はアシュラときた。
どう見ても、中二病だ。
この世界の空気を知らないまま、変に力だけ持ってしまった痛いガキ。
第一印象だけなら、そう切り捨ててもおかしくない。
だが、俺は反射的に目へオーラを集めていた。
――凝。
見えた瞬間、背筋がひやりとした。
持っている。
ただ立っているだけのくせに、こいつの周囲だけ妙に重い。
練られたオーラの密度が違う。
隠しているのか、漏れているのか、それすらうまく判別できない。
俺はまだ、凝を使いこなせていない。
見えるだけだ。
見えたものの意味を読み取るところまでは届いていない。
だからこそ、わかることもある。
――こいつは、たぶんただの雑魚じゃない。
突如、数百億の金を持った高校生みたいな、根拠のある万能感。
このハンター世界のプロたちの能力を、まだ本気では恐れていない者の目。
自信に満ちた目。だけど、どこか隙があるような。
そして、その匂いは少しだけ懐かしかった。
かつての俺自身を見ているようだったからだ。
何も失わず、何も壊されず、それでも自分だけは勝てると信じていた頃の。
だけど今の俺には、それがどれだけ危ういものか分かる。
試練を越えていない自信は、折れた時にもろい。
それでもなお、目の前のアシュラには、ハッタリだけでは済まない何かがあった。
底が見えない。
嫌な感じだ。
アシュラは俺を見て、ほんの少しだけ口元を歪めた。
「……滑り込みか?」
アシュラは、時計の針が24時を指す直前の静寂の中で、獲物を値踏みするような冷徹な視線を俺へと投げかけていた。
軽く言っただけなのに、その場の空気がわずかに冷えた。
200階クラスの洗礼として、そしてバッテラとの『3勝』の契約を満たすために必ず超えなければならない、最初の壁になるのか?
24時まで、あと数秒。
まだ見ぬライバルたちの影。
アシュラの視線。
――俺の本当の『天空闘技場200階編』が、ここから始まる。
24時の鐘が鳴る。