俺がリングの上で唸っていると、会場の搬入口のほうから、作業着姿の男たちがぞろぞろ入ってきた。
工具箱を提げた連中がリング脇に脚立を立て、天井の点検口を次々に開けていく。梯子を上ってキャットウォークに出るやつもいれば、リングを囲む放水銃の向きを下から調整している班もいる。地上では制御盤が開けられ、警報系統の確認まで始まっていた。
こんな時間に何やってるんだ。
気がつくと、俺は浮いていた。
そのまま天井近くまで上がって、キャットウォークの上でノズルをいじっていたおっちゃんに声をかける。
「何してるんですか?」
「うおっ!?」
おっちゃんは肩を跳ねさせて振り返った。足場の上で半歩よろけてから、慌てて手すりを掴む。
「び、びっくりした……なんだキミ、って、うわ、リーノ選手!? 本物!? ていうか、浮いてる!?」
「ジャンプです。俺、滞空時間が長いんで」
「いやいやいやいや、滞空時間が長いってレベルじゃねえだろ……どうみても、浮いて……」
そのツッコミに、少しだけ口元が緩んだ。
さっきまでモニターの中で気取ったことを言っていた自分より、こうして呆れられている今のほうが、よっほど楽だ。
「点検っすか」
「ああ。明日の試合が試合だけにな。火ぃ使うだろ、アシュラ選手。設備に不具合があったら洒落にならん。スプリンクラーに放水銃、感知器、警報、制御盤。今日はその総ざらいだ」
へえ、とだけ返したところで、下から鋭い声が飛んできた。
「ちょっと! 何サボってるんですか!」
見下ろすと、リング脇に一人の若い女が立っていた。ヘルメットに作業着。腰には工具ポーチ。胸元には名札が下がっている。
真面目そうな顔でそう言ってから、彼女は俺に気づいたらしく、ぴたりと動きを止めた。
「あ」
一拍遅れて、目が少し見開かれる。
その反応だけで、外の人間なんだとわかった。
闘技場の中にずっといる連中なら、今さら俺を見てこんな顔はしない。あのリーノがようやく200階まで来たか、くらいのものだ。俺は天空闘技場に最初から住み込んでる。スタッフの顔と名前もだいたい知ってる。サインだの握手だのになる空気じゃない。
でも、この人は違う。
俺を見て、一瞬だけ息を呑んだ。
それでもすぐに表情を戻して、仕事の顔を作る。
俺はふわりとリングに降りて、そのまま下へ向かった。
そういえば、リング上は特別な許可がなければ立ち入り禁止だった気がする。
まあ、あとでエルマに怒られるなら怒られるでいい。
「失礼しました。作業責任者のプロハンター。ファイアーハンターのテレサ=メグミです」
ファイアーハンター。
そんなのもあるんだ。
ていうか、プロハンターなんだ。すげェ。
「リーノです」
知ってます、とでも言いたげに、彼女の喉が小さく動いた。
「その……さっきのインタビュー、かっこよかったです」
心臓のあたりが変なふうに縮んだ。
「ごめんなさい。私、仕事中なのに」
そこで急に我に返ったみたいに言われて、余計につらかった。
やめてくれ、と思った。
かっこよかったわけがない。
強い言葉を言わないと立っていられなかっただけだ。中身が空っぽなのは、自分が一番よくわかっている。
「あー……」
礼を言うのも違う気がしたし、否定するのはもっと違う気がした。
だから俺は、逃げた。
「これ、消火設備って何がどうなってるんですか」
自分でもわかるくらい、不自然な話題の変え方だった。
けどテレサはそこを突っ込まず、すぐに仕事の顔に戻った。
「この会場、天井が高いでしょう。通常のヘッドだけだと届き方に限界が出るので、場所によっては放水銃も併用しています。ウォーターキャノンなんて言ったりもします。火災検知と連動して作動する系統と、手動で操作する系統が分かれていて、さっき調整していたのはその確認です」
リングの外周を指し示しながら、彼女はてきぱき説明する。
「上の配管から各ヘッドに送水して、初期対応は自動で走ります。広がり方が早いと判断した場合は、制御盤側で追加の放水に切り替えます。明日のリーノ選手の相手は炎系の念能力者なので、今回はそこを重点的に見ています」
言っていることの半分もわからなかったが、少なくとも適当で話していないことだけは伝わった。
若いのに現場を回しているんだな、と思う。
しかもハンターライセンス持ちだ。
天空闘技場200階の選手とは違う形で、この人もちゃんとプロなんだろう。
こういう種類の人間を、俺はあまり知らない。
念能力者といえば、戦うやつ、殺すやつ、奪うやつ。そういう極端な連中ばかり見てきた気がする。
でも実際には、こういう場所で、こういう設備を動かして、何も起こらないように働いているやつもいる。
世界を支えているのは、たぶんこういう人たちなんだろう。
そのことが、妙に頭に残った。
「ちなみに」
と、テレサが言った。
「リング中央付近で炎が一定以上まで拡大した場合、最悪、ここ一帯にまとめて水を落とします」
「まとめて?」
「はい。かなりの水量です」
おっちゃんが上から大声で口を挟む。
「20トン級だな」
「そんなに!?」
思わず素で聞き返した。って驚きはしたが、量がわかんねェ。
「条件が揃った場合だけですけどね。誤作動したら大惨事ですし」
彼女は淡々と答える。
でも、その淡々とした口調の奥で、自分の仕事に責任を持っているのがわかった。
20トンの水。
俺は天井を見上げた。
さっきまでただ高いだけだった空間が、少し違って見える。
配管が走っている。
ヘッドがある。
放水銃、ウォーターキャノンだっけ? それがリングを囲んでいる。
何かが起きた時、この会場は一気に別の顔になるのかもしれない。
「……なるほど」
そう言って、少し黙った。
別に、今この瞬間に攻略法を思いついたわけじゃない。
そんな都合よくはいかない。
でも、さっきまで堂々巡りだった頭の中に、引っかかるものが一つ落ちた気がした。
まわりが求めるリーノ像から逃げるために振った話題だったのに。
皮肉なもんだ。